またいつかはるかかなたですれちがうだれかの歌を僕が歌った 枡野浩一
「また」とあるので「だれか」とは、一度どこかですれちがっているのだろう。でも、それってつまりは他人だ。出会ってはいないし、「すれちがう」のみでこの先出会う予感もない。その「だれかの歌を僕が歌った」という。「僕は歌った」ではなく「僕が歌った」。ここに込められたニュアンスは「だれかの歌を(だれかではなく)僕が歌った」である(「は」は述部を強調し、「が」は主部を強調する)。「僕が歌」うことを「だれか」が望んでいるかどうかわからないし、もしかしたら、よけいなお世話かもしれない。ただの他人が自分の歌を歌っているとは「だれか」は気づきもしない可能性も高い。そう、「だれかの歌」とは不特定多数の歌ではなく「だれか」にとっての私の歌ということだ。「僕が歌った」「だれかの歌」は本当に「だれかの歌」なのか、それを確かめる術はない。前半の「またいつかはるかかなたですれちがう」という予感も実は勝手な思い込みでしかない。この歌に書かれていることに確かなことは何一つなく、そうでない可能性のほうが高いだろう。「僕が歌った」という過去形による既成事実化は「だれかの歌」が「だれかの歌」であることに絶対的な自信を持つからではなく、むしろそうあってほしいという強い願いであり、祈りのような歌なのだと思う。
(枡野浩一『君の鳥は歌を歌える』1999、マガジンハウス/2002、角川書店(文庫))

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