敢えて「僕」のさみしさを言う 雪の日にどこかへ向かうレントゲンバス 兵庫ユカ
前半の心情、「敢えて「僕」のさみしさを言う」は、「「僕」」が「」つきなことや「敢えて」が強調するものなど、かなり微妙なことを言おうとしているフレーズで、ここだけいくら読んでもその微妙さには届かない気がする。なので、先に後半の情景からその響き合いをみる。大きい会社だと健康診断で回診にくるかもしれないが、「レントゲンバス」といわれると学校の定期検診のイメージが強い。言われるままに肌着一枚になり、冷たく四角いなにかをかかえて、息をとめた記憶。あの所在のない心細さ。そんなことを思い出させる「レントゲンバス」が、「雪の日」で色彩を消され、「どこかへ向かう」ことで、さらに寄る辺のない感じになっている。ここまでくると、「」つきの「「僕」」がなんとなくみえてくる。「「僕」」とは、たんなる私の言い換えではなくて、私のなかにいるもっと未分化な私の一人称なのかなと思う。私のなかの少年とかにしたほうがシンプルかもしれないが、なんとなくこの「「僕」」は性別がない気がする。女性はそういうものかかえて大人になっていく気がするが、でも僕は女の子だったことはないので間違いかもしれない(そして、男性一人称の「「僕」」から未分化な存在を思えてしまうことの非対称性なんかもちょっと考えてしまう)。でも、もしそうならば、「「僕」のさみしさ」は生そのものに付随するさみしさで、言ってどうにかなるものではないだろう。それがわかっているからこそ「敢えて」言うのだ。
(兵庫ユカ『七月の心臓』BookPark、2006年)

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