子供は未来である
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<普段着の小児科医> どの項目もうなづけること書かれてあります。
脳は生涯成長を続ける
『妻を帽子とまちがえた男』はロンドンで生まれニューヨークで活躍する世界的な神経科医、オリバー・サックスが1985年に書いた脳の認知機能に関する名著です。私が初めてこの本を手にしたのは『心のカルテ』が出版されてから何年か経った後で、「世の中には大変な病気の人が居るものだ…」と言うのが正直な印象でした。当時の私の頭の中はすでにアレルギーの原因追及のことで一杯だったのです。今回この連載を始めるにあたり、彼の1989年の著書『手話の世界へ』と共に読み直してみると、英知に満ちた実に素晴らしい名作であることを改めて思い知らされました。今回はこの本の第5話に納められた『マドレーヌの手』という短編に、みなさまをご案内いたしましょう。
マドレーヌは脳性麻痺で生まれつき全く目が見えませんでした。彼女がオリバーに出会ったのは60才の時です。診察するオリバーに向かってマドレーヌはこう訴えました。「私の両手は神に見放された、まるで粘土の固まり同然、全く使い物にならないのです…」彼女は全盲である上に、全く手を使うことができなかったのです。しかしマドレーヌを診察したオリバーは不思議に思いました。手以外の機能はかなり保たれていて、彼女は自由に喋れたし実に流暢で、稀に見る知性と言語能力を持った活発な女性だったのです。脳性麻痺では両足の障害はよく起こりますが、手の障害は比較的軽いのが一般的です。しかも彼女の両手の感覚能力は、各種の神経感覚検査で完璧に保たれているのです。
マドレーヌの診察を終えたオリバーは、彼女は生まれたときからずっと保護されて介護を受け、大切にされてきたから、全てを他人にやって貰ってきたために、彼女の手は正常に発達しなかったと考えました。オリバーが卓越していたのは、60歳になった今からでも訓練すれば、彼女は手の機能を回復させることが出来るだろうと考えたことです。優れた見地からの処方は次のようなものでした。「マドレーヌに食事を運ぶときに、後ちょっとで手が届く場所にそれとなく置くだけにしなさい。決して飢え死にさせてはいけないけれど、初めから介護してもいけない…」そして、遂にある日、奇跡が起こりました。空腹に耐えかねたマドレーヌは自分から片方の腕を伸ばし、手探りでベーグルパンを探しあてて自分の口に運んだのです。60年を生きてきて、初めて彼女は自分の手を使ったのです。いったん目覚めるやマドレーヌは自分の回りの世界に興味を持ちはじめ、働くようになった手で次々に触れては、物体の形のイメージを作り始めました。そしてオリバーをはじめ病院中のみんなに非常に感動的で、奇跡的とも思えたことには、彼女は粘土をほしがり、盲目の彫刻家として造形芸術の道に目覚めたのです。彼女の作品は実際の人間の半分あるいは4分の3ぐらいの大きさで、顔の目鼻立ちは単純だけど、いかにもそれらしく、驚くほど表情に富み、エネルギーが横溢していたのです。マドレーヌの奇跡はその地域一帯で有名になりました。
マドレーヌの症例から私たちは次のことを学ばなければなりません。(1)脳は刺激を必要としている。(2)脳は何歳になっても可塑性を保っている。(1)の脳が刺激を必要としていることは、マドレーヌの手が生まれつき障害がなかったにもかかわらず、60年間も使わずに放置されて、自分自身でも全く役に立たない粘土の固まりのようだと思いこんでいた事から明らかです。(2)の脳の可塑性と言う言葉は少し難しいのでまた後の章でも説明しますが、脳は何歳になっても新しい能力を機能させる可能性を持ち続けていると言う事で、60年間まるで使えなかったマドレーヌの両手が、芸術作品を造る程まで機能回復したことから明らかと言えます。そして私は更に次のことを付け加えなければなりません。(3)脳は年令に応じて機能獲得に最適の感受期と発達開始の限界、臨界期を持って発達する。マドレーヌのような特殊な例を見ると、人間の脳は死ぬまで同じ条件で機能を獲得するように思われますが、実際にはそうではありません。幼少時に何かの理由で人間社会から隔絶された野生児や被虐待幽閉児の記録から、言葉の獲得には7才から10才以前の感受期に、人間言語と十分に接触しなければ言葉を使うことが出来なくなることが分かっています。乳幼児期でないと獲得できない脳の機能も確かにあるのです。
正しく機能するには
子どもが心の病気になった時、それを自分たちで治す能力のある家族と家族全員が病気になってしまう家族のあることを前項でお話いたしましたが、ではどうしてこのような差が生じるのでしょうか。
子どもの心の病気がもとで家族の調和が乱れてしまったのか、それとも家族の関係がうまくいっていなかったために子どもが心の病気になったのか、ということはちょうど鶏と卵の関係のようなものですが、あえて答えを出すならば、後者のほう、すなわち家族の問題のほうが先だと言えます。ほとんどのケースで、不登校児童を抱える家庭では、以前より家族関係にひずみがあったにもかかわらず、家族のだれ一人としてそのことに気がついていなかった。あるいは気がついていたのだけれどもあえて口に出そうとはしなかった、というのが本音のようです。
子どもの心の病気がきっかけで以前からあった問題が表面化したにすぎません。少し酷な言い方をすれば、そのような家庭に生まれた子どもはいずれはそうなる運命にあったとも言えます。責任は病気になった子どもにあるのではなく、長年にわたって家族関係のひずみを放置していた、あるいは気がつかないでいた大人たちのほうにあると考えています。何の問題もない家庭のなかで、子どもが手に負えないぐらいひどい不登校に進展するのはかなりまれなことのように思えます。
しかし、では家族のだれに責任があるのか、というとこれがまたはっきりしません。家族というのは皆でつくるものですから、だれか一人の責任とは言えないのです。客観的に判断してこの一人が悪い、と言える人がいたとしても、その人を悪いまま放置していた他の人たちの責任も追及されるべきです。ですから家族が悪いというばあい、家族のなかのある一人が悪いというのではなく、全体として家族が正しく機能していないということなのです。
では家族が正しく機能しているというのはどのような状態をいうのでしょうか。それは、
@夫婦が精神的にも肉体的にも一致していて円満であること。意見の食い違いがあったばあいはお互いに納得がいくまで話し合って、その結果決まったことをもとに一緒に行動すること。
A夫婦や祖父母は各世代のなかだけで@の問題を解決すること。すなわち互いに過干渉をせぬこと。
B大人たちが自分たちの対立のなかに子どもを巻き込まないこと。
C家族のなかに発言権がなくただ従うだけの人をつくらないこと。
D兄弟のあいだに愛情の偏りをつくらないこと。とくにBCと関連して兄弟のだれかと母親あるいは父親が家族のなかで少数派のグループをつくらないこと。
E家族の皆が自分の役割を正しく実行し、また全体をまとめる指揮官がいること。指揮官は父がいるかぎり父が務めること。
以上の六項目がきちんとおこなわれているばあい、家族は正しく機能するようにできています。

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