「 甘えない人が 自立するのではなく、甘えた人が自立する
のです。」
子供が反抗しだしたということは、それまでにじゅうぶん甘え
て、依存して、安心感をもらったからです。
医者としてはむしろ、10代にまったく反抗しない人のほうが
心配です。(例外もあり)
この大事な時期に十分依存して、安心感をもらってないと・・
20歳を超えてから、爆発的な形で、反抗期が来ることがありま
す。
たとえば、家庭内暴力、自殺未遂、リストカット、そういう形
で表れます。
思春期、この肝心なときに、親に拒否されたり、無視されたり
すると、
こどもは、「 親に何を言ってもしかたがない 」と思ってし
まいます。
特に、10代の子どもには、敗者復活戦はありません。
いったん、大きく信用を失ったら、もう子どもは親をあてにし
なくなります。
そうすると、ほんとうに困ったときにも、親に相談してこなく
なります。
(10代からの子育てハッピーアドバイス/明橋大二先生より)
思春期は多感な時期。それぞれの家庭にそれぞれの問題は皆あるもの。
その時期に、特に、問題が表面化せず、何の症状もなく、不登校や暴力と言った現象もなく、そのまま大人になってゆく人。
構えたその先に・・・不安神経症から自傷行為・破壊行動を起こし、周りを凍りつかせる。
同じように、犯人探しを始める家族。
ただただ、起因はあっても、そこには原因はない。
「 因 」は、目に見えないところにあるからだ。
おそらく誰しもが、「不登校」なら「不登校」の「治療」をし
ようとする。
「自傷行為」ならその「対応」を学ぶとこ
ろまでは頑張れる。
わたしが実際お会いした人は、上の治療方法や対応を学ぶ。
しかし、実際よくなっていく人たちは、
「 子育てのやり直し 」をすることが一番だということを知る。
それは 決して、しつけのやりなおしだとか、という馬鹿げた
ことではない。
いくつになっても、親は子供を無条件に愛する、その確信があ
って始めて、
治療や対応の仕方で 効果が出るものだと思い知らされる。
子育てのやり直し。
たくさん甘えさせる。たくさん聞いてやる。共感してやる。
受け止め、受け流し、心を寄り添うこと。
そういう 子育てのやり直しを 母親自身が気づいたときは、
すでに、
スタート地点から随分先に前進していることなのだと思う。
対応や治療という形がよくて、良くなっていくケースもある。
しかし、「根っこ」である、親からの「愛の確信」がこどもに
伝わってないと、いずれまた、どこかで、違う形で、問題が起こることが多いように思う。
日本人論の名著『甘えの構造』(弘文堂選書 昭和46年発行)の中で著者の土居健郎は次のように言われてます。(明橋先生も本の中でこの理論を出されてます。)
『明治以前から日本人の道徳観を形造ってきた義理人情は実は甘えの心理を中核にしたものである』(P18)
『母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにもかかわらず、甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。この意味で甘えの心理は人間存在に本来つきものの、分離の事実を規定し、分離の痛みを止揚しようとすることである、と定義することができるのである。したがって甘えの心理が優勢である場合は逆に、その蔭に分離についての葛藤と不安が隠されていると推理することも可能となるであろう。』
(甘えの構造 土居健郎 弘文堂選書 P82)
『さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には、少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で、甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果たしていることになる。』
(甘えの構造 土居健郎 弘文堂選書 P82)
『甘えは、相手との一体感を求めることである。もっともその場合、相手がこちらの意図を理解し、それを受け入れてくれることが絶対必要である。しかしそのことはいつも可能というわけにはいかないから、甘えを求める者は勢いフラストレーションを経験することが多い。』
(甘えの構造 土居健郎 弘文堂選書 P87
『親子関係の心理』から
精神科医として診療に従事していると、親子関係の重要さを毎日ひしひしと感じられる。どんな精神障害でも、精神病といわれる場合でも神経症といわれる場合でも、親子関係が関係しないということはない。誤解がないようにいっておくが、親子関係が悪いから精神障害が起きるのだと必ずしもいうわけではない。しかし親子関係が陰に陽に関係していることだけは間違いないのである。
私は家庭というものは、社会がどんなになろうと、どうしても守らなければならないものであろうと思う。そうしないと人類は滅亡してしまう。よく社会の変動に対して家庭は調子を合わせなければならないといわれることがあるが、私はそれに反対である。家庭はむしろ社会の変動が行き過ぎないためのブレーキとならなければならない。家庭は社会の変動に押し流されてしまってはいけないのである。家庭には夫婦と親子の関係があるわけだが、私はここで殊に親子関係の重要性を強調したいと思う。(中略)古い人間だと思われるかもしれいが、私はやはり親子の縁が夫婦の縁よりも深いと思っている。夫婦の縁は「異なもの味なもの」かもしれないが、深い方は親子の縁である。親子の縁がうまくいかないまま結婚した人間は夫婦の縁もうまくいかない。『こころ』の中の「先生」は身を以ってそれを証明しているといえる。
日本にも「親の心子知らず」という諺がある。それでこそ子供は親を尊敬し親にしたがう。親の心が容易に見透かされるようでは、子供はつまらなくなって、なにか得体の知れないものに引かれて迷いだすのではなかろうか。そうなると「この心親知らず」という逆の現象が起きてしまう。それこそ現代の親子断絶の実態であると思う。大体、親子は年もちがい、人生経験において格段の差があるのだから、完全に理解し合うということがあろうはずはない。だから「親の心子知らず」であって当然である。しかしこの頃の親はだらしなくなって、「親の心子知らず」では我慢できないらしい。それでわざと「親の心子知らず」などといって、子供にぼやいたりする。
<夫婦の縁は「異なもの味なもの」かもしれないが、深い方は親子の縁である。親子の縁がうまくいかないまま結婚した人間は夫婦の縁もうまくいかない。『こころ』の中の「先生」は身を以ってそれを証明しているといえる。
ここですね。これはそれぞれの心の先生が感じ取ってくださればと
思います。

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