タイトルとは裏腹に、私はまだ、大事な人を失った経験はありません。
幸いなことに、現時点で両親も兄弟も健在。友達も元気。猫は何匹か悲しいお別れをしてますが、人とのお別れに限っては、まだそれほど寂しい思いをした経験がありません。
今の私のお仕事は、来るお客様(ほとんどが高齢者)のお話を聞く、という役割も大事だと感じています。ちょっと寄っていただいて、お茶を飲みながらお話をする。何人かそうしてお話していて感じたことがありました。
それは「何かを話したい」…乱暴に言えば、会話としてちゃんと成立しなくても良いのではないか?と。何か言いたいことがあって、それを誰かに聞いてもらいたい。その場があれば、それだけでもいいんじゃないか?と。だから私は、ほとんど相槌を打つだけ。
まぁこれは、前の仕事で高齢者ばかりになってしまった小売店さんを回っていた時から、お金にならないけど大事な事とは薄々感じていましたけど。
今日の方は、奥様を亡くされて、その悲しさの大きさがどれほどのものだったか、というお話をされていました。これは「当事者じゃなきゃ分からないとは思うけど」とご本人も仰るとおり、私は想像することしか出来ません。
今年80歳になるというその方の「この年だから、いつも一緒にいるとかそういうんじゃなかったけど、いざ、いたものがいなくなる寂しさは、本当にこたえる」の言葉が印象的でした。昭和一桁生まれの男が、思わず私のような若造に口にしてしまうほどの悲しさ…どれほどのものでしょうね。
何十年という思い出もまた、残された人間を苦しめてしまうのが残酷です。何を見ても、奥さんとの生活を思い出してしまう辛さと戦わないといけない、と言ってました。私もたまに「記憶が任意に無くせると、どれだけラクに生きられるのか」と思う事もありますが、それはそれで味気ない人生になってしまうのかなぁ。
地震の話じゃないけども、まだ来ないものを恐れてビクビクしても仕方ないわけですが、せめていつ死ぬ、死なれる、その事に対して後悔をするような日々を送ってはいけないのかな?と。
大げさかも知れないし、当たり前の話かも知れませんけど、やっぱり一日一日、一瞬一瞬って、大事なんですねぇ。
そしてもちろん、私も聞くばかりではなくて、たまにガス抜きできる場所があった方がいいのかな?と思うと同時に、「俺、そんなに言いたい事とかねぇや」という結論になったので、これからも出来るだけ、言いたいことのある人のお話は聞いてあげようかと思います。
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