おっと、7日間チャレンジのはずが2日間空いてしまった。また長くなっちゃったせいもあるのだが(汗)
前回に続いての旅行記で、しかも2冊、なおかつ以前にも紹介した本ということで少々気が引けるのだけど、岩本版「7日間ブックカバーチャレンジ」その5は『
鉄道大バザール』(ポール・セルー著、阿川弘之訳)および『ブルートレイン長崎行』(セルー&阿川 共著)。前者は1977年12月、後者は1979年7月に講談社からそれぞれ刊行された。その担当編集者を務められた徳島高義さんに6年前、たまたま取材でお目にかかる機会があり、その時のことを含めてブログの記事「
仕事を通じて若き日の思いに出くわすこともある(村上春樹や『鉄道大バザール』等々)」に書いた。
昔、韓国からギリシャまでユーラシア南岸を辿るバックパッカー旅をしたんですよ……という話をすると「『深夜特急』(沢木耕太郎)に影響されたんですか?」という答えがよく返ってくる。確かに私も旅立つ前年に完結編の「第三便」が出ていた『深夜特急』は読んでいたし、その当時(1993年)の日本人バックパッカーで、あの本の存在を全く知らずに旅立ったという人のほうが、もしかしたら少ないくらいかもしれない。無論、FBでご親交を戴いている蔵前仁一さんや、1980年代末期に刊行された下川裕治さんの『12万円で世界を歩く』などもそれ以前に読みながら凄く刺激を受けていたし、お二人の御本も今なお私の本棚のかなりの部分を占めている(なのにどうしてとりあげないかというと、基本的に面識のある方への身内びいきみたいになっちゃったりするのを避けるためです。蔵前さん、すみません ^ ^;)
しかし実際に私の頭の中にそうした旅への思いが芽生えたのは、『深夜特急』に出会うより約10年前の高校時代、ロンドン在住のアメリカ人作家であるポール・セルー、そしてあの日本の鉄道旅行記の古典である内田百間『阿房列車』の衣鉢を継ぐと自称していた作家の故・阿川弘之による、この2冊に出会った時だった。
(※「内田百間」の「間」は正しくは「門」の下に「月」だが、このブログでは文字化けするため取り敢えずこの表記とした)
これも以前から書いている通り物心ついた頃からの鉄道大好き少年だった私は、幼児向けの鉄道絵本から鉄道雑誌、やがて宮脇俊三さんの鉄道旅行記も読むようになっていたわけだが、そうした中でたぶん『鉄道ジャーナル』あたりで『鉄道大バザール』の書評を読んだのがきっかけだったのだろう。何でもロンドンに住む作家が列車を乗り継いで日本までやってきて、最後はシベリア鉄道で帰っていったらしい。しかも日本の列車についてはかなりコテンパンに貶しているらしいということで、「まあ、海外の鉄道旅行記ってのも一度読んでみるといいかな」ぐらいの感じから、たぶん最初は『ブルートレイン長崎行』を、次に『鉄道大バザール』を読み始めたと思うのだが……後者については正直、その頃に一方で愛読していたSF小説(先に上げた筒井康隆やクラークなど)にもある意味通じる圧倒的なスケール感にすっかり魅惑されることとなった。読み進めるほど、セルーを乗せた列車がヨーロッパを離れて東へ東へ、アジアの奥へと進んでいくほど、そこに何やら得体のしれない、まだ見たこともなかった日本の外の世界のイメージがカレイドスコープ的に脳内に広がっていくような気がして、まあ要するに「すっげー!」って、いかにも10代の少年っぽく感動したのである。
本文353ページ(しかも上下2段組)の分厚い『鉄道大バザール』は、冒頭のこんな一節から始まる。
《
私の生れ故郷はアメリカのマサチューセッツ州で、子供のころ毎日、ボストン・メイン鉄道の汽車の音を聞きながら育った。そのせいか、大人になっても、列車の通る響きを耳にすると虫がおこる。つまり乗ってみたくなる》
“それって、セトデン(名鉄瀬戸線)の踏切脇で育った俺と同じじゃん”と、まず思った。さらにセルーは1ページ目でこうも言う。
《
そもそも汽車の中ではどんなことでも起り得る。豪華な食事、酒宴、カードを手に一と勝負やりませんかと入って来る人もいようし、密かなラブ・アフェアも始まるかもしれない。安らかに眠れる夜もあろうが、見知らぬ客がロシアの短編小説に出て来そうな長い長い独り言を呟くのを聞く夜もあるだろう》
“ふむふむ、そんな汽車旅ってあるのかな”とも思ったが、これは読み進めていくうちにまさにその通りであることがわかった(本当に、「これってドラマか小説じゃないの?」と言いたくなるような奇想天外なエピソードが頻出するのだ)。
そしてセルーは続けてこんな旅立ちの宣言もしていたのだ。
《
ロンドンのヴィクトリア・ステーションから東京駅まで、ありとあらゆる汽車ポッポに私は乗ってみるつもりであった》
東京駅にはその数年前、15歳の春休みに初めて東京まで遊びに来た際に訪れていたけれど、あの古い赤レンガの駅舎が、遠いイギリスからそんな“終着駅”に見えているんだなあ……と、不思議な感覚に捉われた。
ともあれ、そこで私は生まれて初めて海外、日本の外の世界というものを意識するようになった。とはいえ当時は1980年代初頭、円相場が1ドル=200円以上だった時代であり、静岡の高校で剣道の練習に明け暮れていたような子供にとって、それはまだ遠い遠い手の届かないところにある、せいぜい生きているうちに一度行くことがあるのかな、というぐらいの空間だった。
で、まあそんな前段があってから10年後、『深夜特急』と、後にバブルと呼ばれることになる好景気を受けた若い日本人の海外バックパッカー熱にも押されるような形で、20代の終りに差し掛かっていた私もとうとう『鉄道大バザール』でセルーが辿ったのと逆コースの旅に出ることにしたわけだ。その旅の一端は拙著『
炎上!一〇〇円ライター始末記 マスコミ業界誌裏道渡世』でも書いているのだが、その旅の冒頭で東京駅から博多駅までの夜行列車で旅立つシーンが出てくるのは、言うまでもなく上記のセルーによる一節が念頭にあったからである。もちろん、乗り込んだ列車は「ブルートレイン長崎行」の列車で、当時まだ運行されていた特急「さくら」だった。
そこで次に『ブルートレイン長崎行』の話になる。『鉄道大バザール』の刊行後、著者のセルーと訳者の阿川弘之さんが、セルーの再来日の機会に一緒に旅するなどしてまとめた後日譚的な共著なのだが、この本も私にとって(少々大袈裟だが)メモリアル的な一冊なのだ。
『鉄道大バザール』をどこの書店で買ったのかは今一つよく思い出せないのだけど、『ブルートレイン長崎行』は高校2年生だった1981年の確か夏休み、大和市の親戚宅を訪ねたついでに足を伸ばした東京の「書泉グランデ」で購入している。実はこの日が、現在も私が毎日仕事で通っている本の街・神田神保町と、マニアご用達として知られる書泉グランデ6階の鉄道本コーナーに、生まれて初めて足を踏み入れた日でもあったのだ(^ ^;
確か夕刻に店までやってきて本を買った後、あの靖国通りに面したガラス張りのエレベーターで下へ降りながら神保町交差点付近の夕景を眺めたのを今でもよく覚えている。グランデの鉄道本売り場とエレベーターは40年近くを経た現在もほとんど当時と変わったようには見えず、今でも(というかつい先週末にも昼休み中に寄ったんだけど)あそこに行くたびに、17歳だった自分が、まるで玉手箱を開け放った浦島太郎みたいに突然50代の老人予備軍として全く同じ場所にやってきてしまったかのような気分になったりもする。
で、もう少しマニアな話をすると、そのグランデで『ブルートレイン長崎行』を買った後、東京駅からの帰り道に乗り込んだのが、当時伊豆行きの特急「踊り子」号用の新車としてデビューしたばかりの185系電車による普通列車だった。この185系はその後に改造などは繰り返しながら今も「踊り子」号や「湘南ライナー」として、あの頃と同じ塗装(白い車体に斜めに入った緑の3本線)で使われていて(来年あたり引退するそうだが)、最近でも神保町で終末の夕刻に仕事を終えた後、静岡へと帰省するついでにあの日と同じような時刻に出る「湘南ライナー」で時々乗ったりもするのであった。
……って、ようするに昔とやってることが変わらないのが情けない(- -;;;
まあ「三つ子の魂百までも」あるいは「いつまでも少年の心を」とか言ったら聞こえはいいんだろうが、とどのつまり岩本太郎という男は今も40年前、17歳の時に初めてここの書店で出会った本や作家との思い出、そこからつながった若き日のバックパッカー旅の記憶を胸に秘めながら、今も黄昏の神田神保町で黄昏の出版業界の仕事に追われながら生きているというお話なのであった。
ついでに、あの頃はまだ日本では知られざる作家だったポール・セルーという作家は今では『ワールズ・エンド』や『モスキート・コースト』(後に映画化され、ハリソン・フォードと今は亡きリバー・フェニックスが親子役で共演して話題になった)の作者「ポール・セロー」としてすっかり日本でも有名になり、その翻訳者を務めたのが村上春樹ーーということで、ここでもムラカミさんと何時の間にか読書体験的に繋がったために、個人的に勝手に因縁めいたものを感じている(^ ^;)ということも最後に蛇足で書き添えておくことにしよう。

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