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カノコト」という演劇カンパニーを主宰している戸田裕大(とだ・ひろき)さんから先日、新作公演の御案内をいただいた。直接お会いしたことのない方だったのだが、さる7月に新宿のネイキッドロフトで私が司会した「オウムって何?」を会場で観てくださったほか、何と不肖このブログも読んでいただいているとの由。
そう言われると観に行かないのも何だか申し訳ないような気もしたし、何より面白そうな公演だなと直感的に思ったことから、昨日(8日)の夜の回へと足を運ぶことにした。タイトルは『Electronic Marx/エレクトロニック・マルクス』。スタッフは、
構成・演出 戸田裕大
美術・照明 田上真知子
出演 戸田裕大
ということで、ほぼ戸田さんの独り芝居。公演に先立ってのノートは
ここに掲載。劇中で引用されるテキストは
・カール・マルクス『経済学批判』
・PJ Harvey"Big Exit"
・対談 小浜逸郎×宮崎哲弥「いま、戦争を語ることの意味について」
・ナオミ・クライン『ブランドなんか、いらない』
・Black And Blue"Entertain Me"
そして会場は日暮里駅から西へ徒歩約10分、谷中銀座に突き当たった角から右折して路地をしばし行った脇の、閑静な住宅街に位置する元の町工場を改装した10坪ほどのスタジオだった。ガラスの格子戸を抜けてすぐの打ちっぱなしの床が”舞台”で、その奥の一段高い場所に、都合10人ほどが座れる「客席」があった。
開演時間になると、2階の階段から白Tシャツ&短パン(裸足)にサッカーボールを抱えた戸田さんが降りてきて、しばしうずくまった後、オドオドしながらも真正面を見据え、甲高い良く通る声で台詞を語り始める。もっぱらここではマルクスが中心。
その後、戸田さんは2階へと移動。その途端に舞台(?)奥の格子戸が開き。通りを挟んだ向かいの住宅の塀にプロジェクターで、2階に移った戸田さんの映像が写し出される。2階の床はまるで死刑台の床のように開閉式になっており、戸田さんは胸元からベルトに吊るされ、素足を1階の天井からぶら下げた格好で、今度は「小浜×宮崎」対談を1人2役で痛切な表情で読み上げる。その間、1階の観客は扉の奥の壁に投影されたライブ映像を観るだけだ。通行人がその前を「何これ?」という感じで通り過ぎ、壁の上を近所の猫が走り去っていく。
扉が閉まり、再び1階に戻ってきた戸田さんが、今度はフィリピンにおける、国際大手衣料ブランドによる過酷な若年労働について当事者の目線から描いた情景を語る。ちらりとだが「宮下公園」問題も、その名前は出さずに語られていた。
以上で約40分。終演後は観客たちとのディスカッションとなる。約10人の観客の大半(私以外)は演劇関係の方々らしく、専門的な質問が多くてついていけなかったが(汗)。つまり「格差社会」とか呼ばれる今日の現状を、マルクス経済学の「下部構造(土台)と上部構造」を引き合いにしつつ、私たちが今日の目下の状況を語ろうとする言葉の「身体性の喪失」や実態との乖離という側面から描こうとしていた劇だったんではないかと(えーと、自分でも何を分かったふうな分からんふうなことを書いてんだか -_-;)
ともあれ、私の鳥頭でもっともらしいことを書こうとしても底が割れるのでやめるけど、個人的には観ながら(あるいはパンフレットや上記サイトに載った以下の文章を読みながら)随所でメッセージのようなものをびしびし感じたものだった。
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・「下部構造」(経済活動)への劣等感。
もし「生活のための経済活動」に限定して言うなら、具体的には「それで喰っているのか」という点において、「私」の演劇活動は「下部構造」に属していなく、マルクスを読んだ人々の影響を私が受けてきたからということと関係なく私たちは、「下部」と「上部」とを分けて考えよ、という教育をいくつかの場所で受けてきている(「これは仕事だから」「そこはビジネスライクに」)。ここに劣等感は発生しやすい。
・「上部構造」(「アーティスト」であること)にいることの優越感を欲していること。
自分自身を例に出すと、完全なものであるかは別にして、舞台俳優としての発語の技術をある程度は持っていて、それを駆使していると「「自分はふつうの、市井の人とは違う」という自意識が擡げてくることがある。例えばこれはトラックドライバーの技術、大工の技術、ITの専門家の技術とは異なるものだろうか?
「技術」を持つこと(=アマチュアでなくなること)によって二つの場所における「同一人物」であることが妨げられるというのがこれまでの発想であったのなら、「アーティスト」にとっての「技術」とは何かを考えなくてはならない。トラックドライバーの技術、大工の技術、ITの専門家の技術と「アーティスト」にとっての「技術」が異なるとしたら、「アーティスト」にとっての「技術」が実はその「アーティスト」の「精神」が求めたものであることに集約されるのではないか?
ここにアイロニックといっていいような事態が起こっているのではないか(*)?
「上部構造」(「アーティスト」であること)にいることの優越感がもし自分が特別な「精神」を所持している(という幻想)ことによって生じているとしたら、その優越感を突破できるのも「下部構造」にいようが「上部構造」にいようが一人の人間が共通して持ち続ける「精神」によってでしかないのではないか。
以上のことを考えた結果、私は自分の演劇活動について、次のような結論に至った。
私は「精神」によって抵抗し、復讐したいのだ。「下部構造」と「上部構造」、二つの場所で違う「私」でいろと強制してくる力に対して。
(復讐の相手には、自分自身も含まれる)。
「方法」は考えなければならない。しかし、失敗しそうだからやめましょう、という種類の行動ではない。これは「仇討ち」のようなもの、「復讐」なのだから。そして、「義務」であるわけでもない。他の誰かから受けた使命ではないから。
(*)もし私が何らかの方法で、演劇活動だけで「喰っていける」状況になったとしたら、「少数派」と接する機会はなくなってしまうのだろうか? もちろんそうなってみなければわからないが、これは自分自身が工夫するかどうかの問題と思えるので、ここでは問わない。
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上記の「演劇活動」や「アーティスト」を「フリーライター」や「このブログを書くこと」に置き換えたら、ほとんど私自身にもあてはまりそうな気がする(って、戸田さん、長々とコピペしたあげくに勝手なこと言ってすみません)。確かに私も「書く」という行為を通じて「抵抗」し「復讐」したいのだ、私に強制してくる力に対して――まあ、フリーライターは「上部構造」というよりは明らかに「喰えない下部構造」なんですけどね(苦笑)。
今日は最終日の公演。朝からあいにくの雨だけど、どうか無事に終えられますように。

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