昨日は朝から横浜の妙蓮寺で営まれたお葬式に参列してきた。
先週の木曜日(13日)に亡くなられた飯田進さんのお葬式だ。
新聞などで伝えられた訃報では「元BC級戦犯」とある傍ら「障害児福祉に取り組んだ」といった記述もあり、読みながら「どういう人なんだろう?」と戸惑った方も多いかもしれない。
飯田進さん――1923(大正12)年2月生まれだから、享年93歳。つまりその人生は、続いていれば今年で「昭和91年」になる昭和時代の始まりとほぼ重なる。そして、そうした世代の男性の方々が少なからずそうであったように、10代の頃の飯田さんはアジア民族解放の思想に共鳴し、大東亜共栄圏の理想に燃えた、いわゆる“興亜青年”の一人だった。
旧帝国海軍に入った飯田さんは1943(昭和18)年、若干20歳で海軍ニューギニア民政府の資源調査隊員として西部ニューギニア(現在のインドネシア領)に赴任。そのことが後の人生を決定づけてしまう。なぜなら西部ニューギニアは第二次世界大戦末期における連合軍との戦闘で旧日本軍が壊滅的な敗北を喫した地であり、飯田さんもここで餓死寸前の極限状況にまで追い込まれた。
しかも、その極限状況下で現地の人を殺めた行為を戦後に連合国側が開いた戦争裁判において問われた結果、BC級戦犯として裁かれ、帰国後は直ちにスガモ・プリズン(現在の東京・東池袋の「サンシャイン60」などが建っているあたりにあった刑務所)に収監された。
スガモ・プリズンというと、東条英機などのA級戦犯が戦後に絞首刑になった場所として知られる。だが実際にはBC級も含め、旧日本軍がアジア各地に展開していった過程での行いを罪に問われ戦犯とされた人々(その中には当然、朝鮮半島や台湾出身で日本軍族だった人々もいた)が年齢も軍属時代の身分の別もなく一カ所に集められた場所でもあった。
まだ若かった飯田さんは服役中にそうした人たちからの話を聞きながら、あの戦争で日本がいったい海外の各地で何をやってきたのかを生の証言を通じて知るようになった。一方で、朝鮮戦争からサンフランシスコ講和条約へと目まぐるしく移り変わる塀の外での状況を、周囲の戦犯たちと共に見つめつつ議論もしながら、刑務所内で発行されていた「スガモ新聞」の編集にも携わっていた。
仮釈放されたのは1954(昭和29)年。既に30の大代に入っていた飯田さんだったが、スガモ時代に得た人脈も活かしつつ職を得て、最終的には晩年まで住むことになった横浜市内の公営アパートで家庭も設けるなど、ごく普通の市民生活に復帰した……はずだった。
ところが、ここでも後の人生を決定づける二度目の大きな出来事が起こる。1960(昭和35)年に二人目の子供として生まれた息子さんが両腕に障害を持っていたのだ。
飯田さんの奥さんは長崎で被爆体験を持っていた。それが原因だと考えた飯田さんは、その苦悩を朝日新聞に投書し、それが紙面でも報じられた。ところが紙面でその投書を読んだ、長崎での被爆体験を持たない方々からの「私のところにも同様の……」といった反響が相次いだことがきっかけで表面化したのが――サリドマイド問題だった。
やがてサリドマイド被害の子供を抱える親御さんたちが集団訴訟を起こすことになった際、飯田さんは取りまとめ役の原告団長を引き受けた。当時(60〜70年代)のことゆえ被害者を抱える親たちの多くはまだ20代も多く、それより年かさで交渉力もある飯田さんが原告のまとめ役を担うことになった。
しかし飯田さん自身は「原告」に名を連ねていなかった。自分の投書がきっかけでサリドマイド問題が表面化したものの、その過程で生じた混乱についての責任を負う自分は原告に加わらず、あくまで事務方に徹する道を選んだのだ。
一方で飯田さんは、障害を抱えた幼子を抱えた若い親たちが困惑する様子を踏まえつつ、国側の担当部署だった当時の厚生省の役人たちとの間で、喫緊に取り組まなければならない課題を解決するための交渉事を進めるようになった。そして、それが後に飯田さんに生涯を通じて障害児を含めた福祉活動に取り組ませることになるきっかけだった。
しかし飯田さんはそこでさらに苦悩を背負い込むことになった。裁判の原告団長として国を相手に戦う一方、その国側の相手方である厚生省と当座の具体策を相談し合うことに対しては、当然原告側の内部からの批判が出た。なおかつ、サリドマイド被害を法廷の場において実証しようと焦るあまり、自分の妻にサリドマイドを服用させて流産させる人も原告側には出てきたというのだ。
飯田さん自身も深い傷を負う。そもそも彼をそうした裁判や運動・活動に駆り立てるきっかけになった息子さんが、やがて悲劇的な形で(飯田さんは「緩慢な自死」と言っていた)亡くなるのだ。このあたりは飯田さん自身も『
青い鳥はいなかった 薬害をめぐる一人の親のモノローグ』という自著の中で当時のプロセスを詳細に書いているが、読みながら正直私は頭を抱えた。泣きたくなった。何でそうなっちゃうんだろう? 人間ってやつは、時も場所も超えていつもいつも。
「そんな、できないよ!」
と、だから今から約十年前「飯田さんをインタビューしてくれ」との依頼を受けた際にはそう思った。頼んできたのはテレビ業界で仕事をしている、知り合いの映像カメラマンだった。頼まれたので一応、飯田さんが上記の体験を既に自ら書いていた何冊もの著書を読んでみたのだが、そこで思ったのは「この人は本当に筆が立つ」ということだった。そんな方に自らの体験を書かれたうえで、いったい俺ごときに何ができるんだ? と思ったのだ。
それでも前記のカメラマンからは「自分はあくまで撮影者に徹したいので、インタビュー役をお願いできませんか?」と頼まれ、以後は横浜の飯田さん宅まで何度も取材に通い、時にはかつてご自身が過ごした「スガモ・プリズン」跡までご足労をいただいてインタビューした。その過程で、カメラマンが「オーラが立ってる人なんですよ」と言っていたのを、一対一で向き合って過去のニューギニアでの悲惨な体験(それをまた克明に話してくれる)を聴きながら、圧倒されまくりつつ理解した。
「思い出すのが辛くはありませんか?」と私は聞いた。
「いやあ……もう今日は酒でも飲まないと寝らんないよ」と紅潮した顔を叩く飯田さんだが、次の瞬間にはいつもの柔和な笑顔を取り戻して言った。「さ、飲みにいこうか!」
さらには取材を離れて「やってくれないか?」と飯田さんより直々に頼まれ、彼が運営していた福祉財団の周年記念誌を私が編纂役として手掛けることにもなった。
で、その過程で飯田さんに言われて物凄く胸に残ったのは
「
福祉とは戦争の対極にあるものだ」
という言葉だった。後に私がインタビューのうえ周年記念誌に「所感」として収録された記事の中で、飯田さんは次のように述べている。今からちょうど10年前、83歳の時の発言だ。
《
かつて苛烈な戦場から生きて帰ってきた私にとって「福祉」とは「戦争」の対極にあるものだという気がしてならない。国が人々に対して、国家のために命を投げうつことを要求するのが戦争であるならば、福祉とはまさにその逆で、国や社会がそこに暮らす人々が長く幸せに生きていけるようにする行いだと信じるからだ》
あるいは他にも誰か同じ言葉を言っている人がいるのかもしれない。だが、その時に既に飯田さんからニューギニアでの極限体験を聞かされ、なおかつサリドマイド問題での取り組み(これは直接聞こうとして、なかなか聞けず仕舞いに終わった)を本で読んだ私には、無茶苦茶な説得力をもって響いてきた。
こういう言い方が適切なのかどうかはわからないけど、飯田進と言う人はある意味で「サムライ」だったのかな、という気もしている。自分の中にある、忠義立てすべきもののためには自らを投げ売ってまで全身全霊で取り組める人だったから、サリドマイド裁判では自ら原告となることを放棄したし、自ら設立した福祉財団から報酬を受け取ることもなかったらしい(蛇足ながら飯田さんは剣道もやっていたようで、やはり剣道体験のある私は取材の合間にご自宅の応接の片隅にあった竹刀を手にとって振りながら2人で剣道話をさせていただいたこともあった)。
でも、たぶん「サムライ」だったがゆえに、「福祉」と「戦争」の両極において「地獄」を見てきた人でもあったんじゃないかな、と。
周年記念誌の仕事は何とか形にすることができたものの、肝心のカメラマンから頼まれたインタビューについては、かなり頻繁に取材に通ったものの結局日の目を見ず、実質的にお蔵入りになってしまった。カメラマンはすぐ後に飯田さんを主人公にしたドキュメンタリー映画を、他のスタッフと共に取材のうえ完成・公開したが、私はそこには全く関与していないし、作品自体も観ていないから、ここでは何も言わない。
その後に身心ともに持ち崩して経済的にも追い込まれた私に、飯田さんは「ブログを見たぞ」「体調を崩していると聞いたが、大丈夫なのか?」「袖すり合うも他生の縁だ。何かできることがあったら」と、時折かけてくる電話で言ってくれた。でも、それっきりになってしまった。
「あれっきり、本当に、すみませんでした……」
出棺前の斎場で、花に包まれながら棺に蓋をされていく飯田さんのお顔を見ながら内心つぶやくしかない私だった。かつて70年前にニューギニアの地で自ら果てようとした命が、ここで終焉を迎えたというのに、発する言葉が出てこない。斎場内に掲げられた写真や映像の中の飯田さんは私がかつて会っていた時のままだったけど、棺の中の姿は「あの大いなる方がこんなにちっちゃくなっちゃったのか?」と思わず私をその場で立ちすくませた。
出棺時に流された生前の肉声メッセージで「後悔はしてないよ。前向きに生きて行こう」と昔のままの声でいってくれたあなたと、最後にきちんと会いまみえてお話しできなかったことを、私はこれからの終生、後悔します。ごめんなさい、そしてありがとう、飯田さん。

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