前回のつづき。
映画『
コクリコ坂から』には原作があって、1980年に講談社の少女コミック誌『なかよし』に短期間連載された作品だという。もちろん私は読んだことがなかったのだけど、新宿で映画を見た後で立ち寄った紀伊國屋書店に『コクリコ坂』の特集コーナーがあり、そこに並べられた原作の単行本を初めてぱらぱらと立ち読みしてみた次第(あと、Wikipediaの
ここでも誰かが細かい説明をしてくれている)。
ようするに原作は80年代前半によくあったラブコメ風の学園マンガで、その絵柄やストーリーからしても、これがスタジオジブリにより映画化されたというのが俄かにピンと来ない。実際に映画の企画・脚本を担当した宮崎駿自身も「企画のための覚書」(劇場で売っていたプログラムに掲載)の中で原作を「不発に終わった作品」「結果的に失敗作に終わった」などと書いているくらいだ。今回の映画化の話でもなければ、おそらくそうした評価のまま何時しか忘れさられていった作品だったのだろう。
ところが、宮崎駿は企画・脚本化に際して、この原作をかなりアクロバティックに翻案した。
その第一は、やはりストーリーの舞台を原作の1980(昭和55)年から17年も遡った1963(昭和38)年の横浜に設定したこと。言うまでもなく東京オリンピック(1964年)の前年であり、今だ戦争の影を引きずりながらも、一方では社会全体がいよいよ高度成長への上り坂を意気盛んに駆け上がり始めた、そんな青年期の日本。
第二は、原作でも背景として扱われていた「学園紛争」を、いかにも1980年代的な「制服廃止運動」ではなく、学校構内に残る老朽化したサークル棟「カルチェラタン」(文科系学生たちの自治拠点となっている)の取り壊しをめぐる学校当局との攻防へと改めたこと。これにより「学園紛争」が原作の80年代のようなシラケムードでもなければ、「60年安保」と「70年安保」の苦い記憶にも引きずられなければ、オリンピックやビートルズ来日にも遭遇する以前の、ちょうど中間点の時期における若者たちの健全な意思の発露およびハッピー・エンドへと収束していくストーリーとして描かれている。
第三は、原作の登場人物を、そのキャラクターを含めて相当大掛かりに改変・整理をしていること。例えば原作の「コクリコ荘」の下宿人には男性も含まれていた(その中にはヒロインが仄かに憧れる年上の青年もいた)が、映画ではほぼ女性ばかりが住む清貧な女の園として描かれており、一方の“野郎どもの魔窟”であるカルチェラタンとの対比を際立たせている(といってもこういうところが、もしかしたらフェミニストとかジェンダー論の見地より観る人たちが観たら目くじらを立てるんじゃないか……とも思ってしまった私ですが)。
第四は、これまでのジブリ作品では定番だったファンタジックな要素(空中を思いっきり飛翔したり異世界に紛れ込んだり)を一切排して、あくまでも1963年の横浜を舞台に「いたいた! こういう奴」「あったよねー、こういう場所が」と思わせるリアリズムに徹していたこと。あの『となりのトトロ』でさえ、オチはファンタジーでまとめていたことを思えば異例だけど、逆に言えばこれは制作者側の「あの時代をリアルに描くんだったら、なまじの実写よりアニメだよ」といった自負の表れかもしれない。
――といった点に集約されるわけですが、個人的な思いからもう一つ言えば「いまや1963年という時代が、すっかり“時代劇”として描かれる題材になってしまったんだなあ」という感慨も(1964年生まれの私としては)ひとしおに覚えたものでした。
ただ、それはむしろ良い意味でこの映画を支えているような気もする。例えばヒロインと主人公の間で持ち上がる「出生の秘密」については原作からそのまま持ってこられたモチーフで、企画・脚本担当者も「いかにもマンネリな安直なモチーフなので慎重なとりあつかいが必要」(前出「覚書」)と述べているくらいのものなのだが、それが1963年、つまり終戦から20年経っていない時期を舞台とした映画においては「当時、実際にそういうことは割とよくありえたんだろうな」と頷けるものとして上手く回収されている。
もっとも、舞台設定が上手くいったぶん、ヒロイン&主人公の恋愛物語と、カルチェラタン保存を巡る攻防と、「コクリコ荘」の住人たちによる群像劇とが今ひとつ噛み合ってないというか、3つのバラバラの話が単に同時並行的に最後まで進みながら結局互いに噛み合っていなかったんじゃないか? という気はした(このへんは、あるいは原作の設定を完全には整理しきれないまま引きずられたということなんだろうか?)
例えば後半、主人公とヒロインが一緒に、都内の新橋にいるの理事長の会社まで「カルチェラタン」存続を訴えにいったあたりは本来ならストーリー上のクライマックスになるのではないかと思うのだが、そこが割と淡々と進んだまま、横浜市内の市電停留所で別れ際に互いの「好きだ」という告白の場面(いい場面だったけどね)でかろうじて救われている。
とはいえ、最後の「出生の秘密」を知る人のもとに主人公とヒロインが共に駆けつけ、感動を共有しながら街に帰ってくる場面は美しい。このあたりはやはりジブリ作品、というか「宮崎駿作品」ならではのものだった。
というと、「じゃあ“宮崎駿の息子の監督作品”としてはどうだったんだ?」という問題提起が出てくるわけだが、これについては少なくとも今回の作品の段階では、まだ何ともいえない。おそらく、それは未だ当分、先へと持ち越される課題なのだろう。
でも実際、とても良い感じの作品だったな。白状すれば今日の夕方にももう一回(二度目)を新宿まで観にいってしまった。
【追記】『
CUT』9月号にも宮崎駿・鈴木敏夫・岡田准一インタビューが載ってたんですね。今日になって買いました。
あと、同号には庵野秀明×平野勝之インタビューも載っているではありませんか! あの『由美香』を作った平野勝之が、ヒロイン林由美香が亡くなってからの沈黙を破って制作したドキュメンタリーを、しかもあの庵野秀明がプロデュースという問題作(?)。できたらこれも是非観に行ければと思っております。

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