このGWは東京から静岡・藤枝の実家まで2往復。合計6泊7日も滞在する格好になった。こんなに長い帰省は異例だったけど、コロナ禍で過去2年はGWに帰省できなかったし、まあいいのかな。
それに、これからは帰省の頻度を増やさなければならなくなるかもしれない。
「お帰り。早かったね」
昨年(2021年)10月、1年7か月ぶりに帰省した私を玄関前で出迎えた母は、特に気負った様子もなくそう言った。1年7か月前はもちろん、29年前にバックパッカーとしてユーラシアの向こう側まで旅した後に半年ぶりに帰って来た時も、34年前の東京での勤め人時代に月1で帰省していた頃も、39年前の盛岡での大学時代の夏冬春休みに帰省していた頃、さらには一緒に住んでいた40年以上前に高校の授業や部活から帰宅していた頃にも、たぶん私は同じ言葉で出迎えられていたような気がする。「お帰り。早かったね」と。
でも生まれてこの方、この人とこれだけ長い期間、リアルに顔を合せなかったのは、考えてみればこれが初めてだったんだけどなとも思った。無論、コロナ禍の最中でも週に1度は電話で「こっちは相変わらずだよ」「大変だね」といったやり取りはしていた。とはいえ、海外に出ていた時でさえ、半年後には帰省していたのだ。俺が高校を出て岩手大学に行くと決まった時には、台所仕事をしながら涙ぐんでたくせに。1年半以上じかに会えなかった息子の顔を見て、もうちょっと他の反応はないのかとも思ったが、もはや達観の境地に入ったということなのか。
実際、藤枝の街は1年半ぶりに帰省した私には、ほとんど以前と時が止まっているように見えた。静かで平和で豊かで、200q先の都会の泥にまみれながら帰ってくる私を、若葉と潮風が織り交じった薫風のもとに常に変わらず「おかえり」と受け止めてくれる旧東海道の田舎町と、そこで余生を過ごす母も。
しかしーー当たり前だがーー1年半の間に、時計の針はそれなりに先へと刻み続けて、状況は確実に変化していた。
まず、母は私が留守をしている間に80歳の大台を超え、既に81歳になった。ちなみに父は48年前に37歳で病没している。以後、当時33歳だった母は4人の子どもーー私(当時9歳)、弟(当時6歳)、妹2人(双子=当時2歳)ーーを育て上げるのに、ほとんど人生の壮年期を使い切ってしまった。定年間際に現在の藤枝市内のマンションを購入し、ついの住処として移り住んでからでも、既に四半世紀になる。
変わったことのその2。妹が母と同居するようになったことだ。妹2人のうち、東京に住んでいた1人が2年前、勤め先の某大手企業に転勤を申し入れ、コロナ禍の最中に苦心惨憺しながら引っ越してきたのだ。
理由は「母」だった。80歳を前に既に老いが、具体的に言えば「物忘れ」が目立ち始めていた母と一緒に暮らすためだ。
ご記憶の方もいるかもしれないが、私は4年前に一度、ブログやFacebookなどのSNSで「今年、静岡に帰ります」と宣言したことがある。実はその主な理由はーー今ではもう言ってしまってもいいと思うがーー母のことだった。
6年前、静岡市内に暮らすもう一人の妹から「お母さんがだんだん物忘れが激しくなっている。要介護にならないうちに、誰か一緒に住んでもらえないか」との相談を受けた。静岡に住む妹はもとより、弟も、当時東京にいたもう一人の妹も当時は転居が難しい状況だった。
そこで私が「俺が帰ろう」と言った。当時、私は50代の初めになっていた。40代後半に激しい鬱状態で生活保護を受給するほどに追い込まれていた状況からは何とか回復していたものの、依然将来の見通しはたたず、たまさか自身初の著書を上梓する機会に恵まれた直後のタイミングで「このへんでいいかな」という心境にもなっていたのだ。フリーライターとして、また、出版業界内の業界誌で仕事をしていた身として、もはや日本の出版業界には成長が見込めないどころか今後の回復の兆しもなく、さりとて新興のネットメディアには最早ついていけない年齢になっていた自分は、このあたりで身を引いて、むしろ親のことに気持ちを傾注できる環境へと転身したほうがいいんじゃないかと思ったのだ。
実際、それで4年前には東京・新中野のアパートを引き払い、35年ぶりに静岡県民となって藤枝に移住するつもりでいた。ところが、その話はーーこれもはっきり言って説明するのもめんどくさいから説明する気に今なおなれない経緯の末にーードタキャンとなり、結果的に私は現在『週刊金曜日』の巻頭ニュース欄の進行を担当する編集部員(契約社員)となっている。
一方で、当時まだ東京にいた妹は、前記の通りその後に静岡に転勤し、現在は実家にいる。つまり、この期に及んで公表すれば、私の「静岡帰郷」計画は事実上キャンセルされた格好だ。
ただ、妹は転勤後も相変わらず多忙で、土日もほとんど家にいない。だとすれば連休の日中も、一人実家の居間でぽつんと暮らす81歳の老女の相手は、もはやアラカンに達した長男である私が帰省中のひと時に務めることとなる。
「あんた今日の予定は?」「ないよ」
この合計6泊7日の間に母と何度、そんなやりとりをしたことだろう。幸い、母はまだ身体は丈夫で近隣に出歩けるし、私たちとも会話のやりとは普通にできるし、見た目にはまったく昔と同じ。ただし物忘れが激しく、数十分置きに何度も同じことを聞いてくる。「あんた今日帰るの?」「って、明日の朝に帰るってさっき言ったじゃない」と。30〜40年前の、俺らが子供だった日々の思い出話はやたら克明に今でも語ってくれるのだけどね。
藤枝の街の風景は今も変わらない。でも、時計の針は着実に今も、刻々と前に進んでいる。

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