既に2週間以上前になってしまったが、今月14日(木)夕刻、横浜市青葉区の公益社会館(東急田園都市線たまプラーザ駅最寄り)まで行ってきた。11日(月)に亡くなられた戸崎賢二さん(元NHKディレクター/「放送を語る会」中心メンバー)の亡骸にお別れを言うためだった。享年81。
告別式は翌15日(金)のお昼時だったが、私は仕事の関係でその時間帯では参列できない。そこで前日の夕刻、納骨の儀の後に斎場まで伺ったのだ。葬儀は無宗教、香典も辞退。通夜も行わないが、告別式に参列できない方々のため、納骨後にお別れの時間が用意されると聞き、下の写真の左側にある記事の載った『週刊金曜日』(昨年10月30日号)を片手に斎場に向かい、ご遺族への挨拶と、闘病の跡が残るお顔にお別れを告げてきた。
戸崎さんはその『週刊金曜日』の連載「メディアウオッチ」筆者の1人。私はその担当編集者だった。連載は昨年5月から始まったが、複数の筆者が毎週持ち回りで執筆する形式で、戸崎さんとのお仕事は、その(結果的に最後となった)10月30日号を含めて4回だけで終わった。同号が発売されて1週間ほどたった11月上旬、戸崎さんから電話で「年末に結構大変な腸の手術を受けることになりました。年内の連載は休ませてください」との申し出を拝受。年末に「年明けからの再開でいかがでしょうか」とメールを送ったところ「体調を考えるともう無理」と、連載降板の意向を戴いたのが、結果的に最後になってしまった。
その後、年明けから食事が摂れないなど体調が悪化、1月9日にはご家族が救急車を呼んだものの、3時間ほど入院先を探して見つからないままご自宅に戻り、11日17時頃に亡くなったという。伝え聞く話からでしか推し量れないが、やはりコロナ禍という目下の世情が、最後の最後に影響してしまったんだろうか……。
訃報を知ったのは2日後の朝、永田浩三さんのFacebook投稿を拝見した時だった。その日は午前中に『週刊金曜日』編集会議があり、そこで追悼記事を提案。「放送を語る会」の事務局長として戸崎さんと長年ご一緒だった小滝一志さんにお願いし、1月22日号の巻頭トピック欄「金曜アンテナ」に半ページ記事として掲載させて戴いた(同号の新刊発売は既に終わってしまったが、記事は近々ウェブサイト「週刊金曜日オンライン」に掲載されるはずだ)。担当編集者として短い間ではあったがお世話になってきたわけだし、本来ならばもっといろいろやらなければならないところだが、せめてものたむけに、との思いを込めた。
ただ、仕事の面ではそうした1年にも満たないお付き合いになってしまったが、実は戸崎さんとは最初にお会いしてから既に四半世紀近くのご縁があったりする。というか、仕事を離れたその時代のほうが、むしろ直接お会いしていた機会が多かったくらいだ。
最初はたぶん1996年、TBSを舞台にした「坂本弁護士取材テープ問題」のゴタゴタがあった頃だっただろうか。あの事件をきっかけに私は放送業界についてのレポートを継続的に行うようになり、放送局や番組製作会社などのほか、製作者の方々が集まる集会などにも良く顔を出すようになったのだが、当時は草創期のテレビ業界を支えた古強者のディレクターやOBの方々がまだまだ元気にご健在だった時代。それこそ前期のTBS事件の際に頻繁に開かれた関連のフォーラムやシンポジウムあたりでは、最初から最後まで場内に怒号や罵声が飛び交い、本当に取っ組み合いの喧嘩でもおっ始まりそうな熱いバトルがお約束のように展開されていたものだった。
そうした中に、当時確か50代半ば(つまり今の私くらいの齢だった)で、現役のNHKディレクターだった戸崎さんがいた。決して口数が多い方ではなかったが、絶えず討論の様子を睨むかのように見据えながら、時おり要所で訥々と、しかし極めて的確にポイントを押さえた発言をしてくる方だという印象があった。もとより、当時30歳そこそこの若造で、放送業界のこともまだよくわからなかった私は気後れし、そんな戸崎さんと面と向かって何かを語り合えるわけもなかった。
ただ、戸崎さんは私のことは一応目にとめてくださっていたようだ。その後もメディア批評誌などで放送業界の内幕を書いたり、やがて「市民メディア」と呼ばれるジャンルにも首を突っ込むようになっていたこともあるかもしれない。また(今から思えばだが)その頃から上記のような放送業界コミュニティに出入りする顔触れが次第に高齢化し、戸崎さんとは親子ほどの年齢差のある私がそうした形であっちこっち取材して回っているのが、割かし珍しく見えたりしていたのかもしれない。
ともあれ、そんなこともあったのか昨年の春、ようやく「仕事」という形でご一緒できるようになった時には私も嬉しかったし、戸崎さんも(2ヶ月に1度くらいご執筆戴く形ではあったけど)、喜んでくださったみたいだ。上の写真にある「(続)事実と放送の間で」との小冊子は戸崎さんがご自身の雑誌への寄稿をコピーのうえ収録した私家版で、そこには『しんぶん赤旗』や『マスコミ市民』ほかと一緒に、私が担当した『週刊金曜日』の連載記事も収録されていた。
もっとも(ここからは故人に少々怒られるかもしれないが)編集者にとって戸崎さんは実に手のかかる存在であった(^ ^; というのは、何しろご自身も文章に対する自分なりのこだわりがあるためか、校正のゲラのやり取りでは本当に毎回、とにかく一字一句(それも本来なら編集部の権限に委ねられることの多い誌面での記事タイトルも含めて)、自分が書いて送った原稿に対して編集者が手を加えたとわかると「どうして変えるんですか!」といったお小言を戴くようになったのだ。
私は私でフリーランスの物書きとして長らくやってきたし、別に自分の文章への好き嫌いや拘りは混じえぬまでも、今度は編集者という立場で他人様の原稿を担当する立場になれば、どうしてもチェックは厳しくなる。『週刊金曜日』も結構その辺は(『日本語の作文技術』などの著者を出していた大手新聞記者の方が過去に編集長を務めておられたし)厳しく、そもそも週刊誌のタイトな進行だと、どうしても編集者の私が元原稿でかなり手を入れ、その状態のゲラを筆者に送る格好になる。
それで昨年の秋にはとうとう大喧嘩になった(^o^;)。
戸崎さんからの「岩本さんと私とは文章に対する考え方が違うようです」との激烈なる抗議調の返信メールに、私が「そのように仰られるのでしたら私は本連載の担当を降ります」と言い返し「それは最後通牒ですか」と戸崎さんがさらに言い返し……という具合に、一時は決裂寸前かとも思わせるところまで行ったのだが、最終的には改めて電話で話すなどして双方納得し、掲載にこぎつけたのが上の写真の左にある『週刊金曜日』10月30日号の寄稿だ。
その後は上記の通り「腸の手術」を理由に休載となり、結果的にこの記事が『週刊金曜日』や私が手掛けた最後の寄稿となってしまった。「この次は今度こそグウの音も言わさねーからな!」と思って心の準備をしていたのがスカされてしまった担当編集者は、だからこそというわけでもないがその記事が載った雑誌を携え斎場に向かったわけだ。ご遺族に雑誌を渡しながらそうした話を伝えた際も、さらには上記の追悼原稿の中でもそうしたエピソードを書かれていた小滝さんにも後日その旨をおつたえしたら「目に浮かぶようです」と言われたけれども(^^;
そうした妥協を許さない姿勢は文章の一字一句への拘り方だけではなかった。「(続)事実と放送の間で」をまとめるに際しても「私家版とはいえ記事の転載を行うにあたっては手続きが必要になるのでしょうか」との長文の問い合わせメールを戴き、こちらも意地になってか結構長い返信メールを送ったこともあった。「ありがとうございます。これ自体読み物として面白い。さすが100円ライターですね」といったお褒めの(?)返信を頂戴した時には嬉しいやら恐縮するやらだったが。
しかし今から振り返れば、そうした形で自分の書く文章や、それをまとめた記録集の編纂に熱心に取り組んでおられた背景には、戸崎さんが既に自分の余命が残り少なくなってきたことを、どこか自覚されていたということもあったんじゃないか、という気がする。
上の写真の右側に置いた『魂に蒔かれた種子は』(あけび書房)は、これまで多数の論考を出しながら単著がなかった戸崎さんにとって最初の、そして結果的に最後の単著となった。発売日は今年の1月8日。その3日後には、発売を見届けたかのように旅立っていってしまった。内容はこれまで数多く手がけてきた放送評論からはやや外れ、ご自身のディレクター人生や、10年前に奥様がくも膜下出血で倒れて以降の闘病記などプライベートな内容が中心となっている。
戸崎さんから一冊ご恵贈をいただいたのは確か年末だった。早くに読み終えてお礼状を送らなければ……と思ううちに訃報を聞くことになってしまった。
今もこうして手元に残された戸崎さんの御本や記事を眺めながら、ついこの間まで、双方が頭に血を上らせながら続けていたやり取りが突然ブツリと遮断、そして永久に失われてしまったことへの戸惑いを脳裏でずっと引きずり続けた1月だった(この記事もここまで書くのにだいぶ時間がかかった)。とりとめもなく湧き起こる思いをまだまだ上手くまとめられそうにないけど、まずはこれまでの御厚誼で戴いた数々の言葉を脳裏で噛みしめながら、引き続き仕事に臨んで行こうと、月並みだけどそう念じるしかない。
戸崎さん、これまで長い間ありがとうございました。こういう生意気な若造の言うことにも真正面からお付き合い戴いたことに心より感謝致します。次回を楽しみにしていた連載原稿でのバトルはいずれあの世で続きができればと。でも、私はようやく、初めてお会いした頃のあなたの年齢に届いたばかりですので、できればもうしばらくお待ちいただければ幸いです。ではまた、いつの日かーー。

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