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足尾線にはわるいが、最後の一線はもう少し情緒のある線区(略)へ自然に落着するのではないかと思っていた。にもかかわらず、月並みな関東地方の、しかも公害の原点などと言われる足尾になってしまった》
宮脇俊三は紀行作家としてのデビュー作『時刻表2万キロ』のクライマックスである、国鉄全線完乗を果たした地である足尾線(現在のわたらせ渓谷鉄道)探訪記の章をそんな書き出しで始めている。それは1977(昭和52)年5月28日、今から43年前の初夏の昼下がりのことだったという。乗っていたディーゼルカーが一つ隣の足尾駅を出発し、いよいよ「もう乗る線がなくなってしまう」終着・間藤へと至る数分間の車窓を、彼はこんなふうに描写している。
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にわかに沿線の山肌が荒涼としたものに変った。草木がほとんど姿を消し、鋭い岩が突き出ている。その間をディーゼルカーは思いなしか生気なくゆるゆると走り、しかしわずか一・三キロだからすぐ停まった。間藤である。コンクリート版を張った狭いホームに私は下りた。
ホームの前方に駅舎があるが、いまは無人で、待合室には発車時刻の案内と風に吹かれるポスターしかない。駅の前は狭い道路を挟んで精錬所の門があり、背後は傾斜の急な禿山であった。(略)私は精錬所の守衛詰所でタクシー営業所の電話番号を教えてもらい、本山(引用注:少し先まで当時通じていた貨物線終点の足尾本山駅のこと)の近くまで行ってみた。あたりはますます荒涼となり、緑はまったくない》
いま思うと、これは太宰治の私小説(旅行記)『津軽』のハイライト、主人公(太宰)が竜飛岬を訪ねた場面の描写(「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い」のフレーズがよく知られる)へのオマージュだったのではないかという気が私にはしている。宮脇が学生時代に太宰に憧れ、一度は太宰の家まで直接訪ねていき、不在で会えなかったという話を後の著作の中で書いていた。
さらに今回、この間藤に来てみて思ったのは、宮脇は「足尾線にはわるいが……」と言いつつ、実は国鉄完乗の最後の一線として(なおかつ自身の紀行文のクライマックス用に)半ば意図的にこの場所を選んでいたのではないか? ということだ。
当時の宮脇はちょうど50歳。中央公論社の常務取締役という実質社内ナンバー2の立場にあり、それまで『日本の歴史』『世界の歴史』や「中公新書」などのヒット作を生み出す編集者として活躍してきた一方、あの「風流夢譚」事件や『週刊公論』の創刊・廃刊に端を発した熾烈な労働争議に役員として対峙するなど、まさにヘトヘトの日々を過ごしながら(そういったことは自身の著作の中には生涯を通じて一切書かなかったが)、数少ない休日を見つけては今日で言う「乗り鉄」のフロンティア的な旅路を重ね、その記録を一冊の本にまとめて他の出版社(河出書房新社)から上梓するのに合わせてサラリーマン出版人の日々と決別。退職して紀行作家としての新たな人生に乗り出した。
そうした意味でもこの間藤は宮脇にとっての「終着駅」であり「始発駅」でもあった。『時刻表2万キロ』を10代の高校生の時に読みながら、今回ようやく、完乗当時の宮脇の年齢を超えた頃になってここを訪ねることができた私は、待合室に貼られた宮脇へのメッセージを見ながら、そんな思いに駆られていた。
現在の間藤駅周辺は「草木がほとんどない」と宮脇が半世紀近く前に書いた時点から比べると、かなり緑が回復してきている。駅舎と通りを挟んだ向かいには、彼が訪ねたと思しき精錬所が今もあるほか、人気のすっかりなくなった街並みにも鉱業都市として栄えた往時をしのばす家並が今も残る。今回、私は「上の平」と呼ばれる、かつての銅山従業員たちの社宅があったエリアも訪ねてみた。初冬の風にススキが揺れる向こうに古色蒼然とした木造家屋や、今なお朱が艶やかな神社の鳥居、そして遠目の眼下には先刻まで乗ってきたディーゼルカーがなおも停車中の間藤駅の構内や、線路が撤去された貨物線跡の細い道が見えた。
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山に木さえ生えれば足尾はいい所ですよ》
駅から宮脇をタクシーで、タコ部屋労働者の墓などに案内した運転手はそう言ったそうだ。《
細尾峠超えの道路改修工事が完成して日光と二〇分ぐらいで結ばれるようになれば、客がどんどんやって来ますよ》と弾んだ声で話したとも言い、それがある意味正しかったことは今回私自身が日光へのバス路線を利用することで確認できた。
もっとも街としての足尾自体は、はた目にもこれは衰退傾向にあるとしか言いようがないんじゃないかといった風情である。宮脇が「最後の一線」に選んだ足尾線も、第三セクターに経営転換されてから31年が経った。
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魚は棲みませんなあ》《
もし釣っても、そんなの食ったら大変だあ》
渡良瀬川の鉱毒被害を問うた宮脇に、にわかに表情を曇らせ憮然と答えたというタクシー運転手は、その後どうしたのだろうか……古い鉱山職員住宅街の風景に、写真で見た福島原発作業員たちの住居の様子を勝手に重ね合わせつつ、私はそんなことを考えていた。
この日、寝坊した私は出がけに少々慌てていたせいか、持参するつもりだった『時刻表2万キロ』の古い文庫本(河出文庫)を家に置き忘れてしまっていた。和田誠による印象的なカバーは現在でも引き継がれているが、高校時代に買った1980年7月10日発行の第三刷の中のページはすっかり変色が進み、そろそろ老眼の入りかけた私は眼鏡をはずして本をまじかに近づけなければ容易に読めなくなってきた。今度また間藤に来る時には、今度こそこの本も一緒に持ってきてやろうと思う。
そう、また再びここへ。生きているうちに何とか。


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