またこういう話が出た。
「
『主戦場』上映見送りについて」
(「KAWASAKIしんゆり映画祭」2019年10月27日)
もちろん、どのようなプロセスを経て上映を決めたか(または中止したか)については詳しく知らない前提で言うのだが、以下、上記エントリから引用しつつ私が思ったところ取り急ぎ。
《
一旦は上映を決定した私たちの判断に不手際があったことは認めざるを得ませんし》
って、これは反省するところが違う。不手際として批判されるべきは「一旦は上映を決定した」ことではなく「一旦は上映を決定した後で撤回した」ことではないのか? もし「上映を決定したこと」が「不手際」だから「中止した」というのであれば、それは主催者が『主戦場』の上映中止を求めてきた側の言い分を認めたということにならないか?
――いや、というか本当に「考えた末に上映しないことが正しいと判断した」から中止した、というのが主催者の考えであれば(私自身はそれに賛成はしないけど)それはそれで胸を張って言えばいいんです。だがこの文章全体からは主催者側にそうした考えがあるようには見えない。それどころか、
《
結果として表現の自由を委縮させることにつながる恐れがある判断を映画祭が決めざるをえなかったことには大変忸怩たる思いがあります》
違うだろ。何なんだその他人事な言い方は。「結果として表現の自由を委縮させることにつながる恐れがある判断を映画祭が決めざるをえなかった」なんて持って回った言い方ではなく
素直に「私たちは委縮した」と言えばいいのだ。
そうやって「結果として仕方がなかった」などとヘタレな言い訳をしながらそうした事例を重ねていくことで「結果として表現の自由を委縮させる」のではなく「私たち自らが主体的に表現の自由を潰しにかかっている」のである。

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