昨日は業界誌の仕事で、午後から神保町で対談への立ち合い(後から私が音源を元に記事にまとめる予定)。
ゲストは往年の編集者にして評論家の方。主なテーマは、今から半世紀以上前に起こったテロ事件。
例の『シャルリー・エブド』事件みたいなことが1960年代の日本でも起きていたのだ――って書いちゃったら、わかる人にはわかるよね(黙っててね ^ ^;)
そのゲストの方自身はその事件の直接的な関係者ではなく、事件の現場に居合わせていたわけでもない。しかし当時は、そのテロ事件のきっかけとなった出版物を出していた会社の社員であり、事件当夜はたまたま凶行の現場からも近い印刷所にいた。そのため、その夜に自分が見ていた周囲の光景を手始めとして、その会社の社内における事件後の様子を生々しく語ってくれた。
(……って、やっぱり「あの会社だ」ってわかっちゃうよな。しかしここまでの文章で「その」が6個も出てるぞ。しかし書きにくい。なら止めればいいのに -_-;)
もちろん私も昨日今日に出版業界に入ってきた人間ではないから、この業界で過去にそうした歴史的大事件があったということは昔から知っていた。とはいえ、やはりこうして当時の状況を近くで見ていた方の口から生の体験談として語られるエピソードには、何だか説明不能な迫力を感じてしまった次第だ。しかも、その事件(7個目にて失礼)では不法侵入した犯人のナイフによって人命が失われている。一方で今の私たちは、その事件(8個目)とは全くケースは異なるものの、先日の相模原市での事件のニュースを頭から拭い去れないでいる。普段から同業者たちと「刺されても書けますか?」みたいな課題について頭の中でそそっとシミュレーションしながら話し合ったりしている身ではあるけれど、こうして日本で過去に出版表現をめぐって実際に起こった凶行の事例をリアルに語られると、さすがに慄然としたものを覚えてしまう。
ただ、こうした言論や表現をきっかけにした事件というのは、これまで得てしてメディア関係者が「言論・表現の自由」の大切さを世間に向かって主張する文脈の中でのテキストとして使われてきたような気がする。けれども実際には、この半世紀以上前の事件、そして『シャルリー・エブド』事件にしても、きっかけとなったその「表現」は必ずしも世間の多くの人々から支持を集めるようなものではない、むしろ「そんなものを出すから、そんな目に遭うんだよ」と指弾されかねないものだった(ただし上記の2つの事件については、事件後の社会からの反応は互いにやたら対照的に違っていたのであるが)。
表現というのは個々人の間のコミュニケーションを仲立ちし、ひいてはコミュニティや社会全体を織りなす大事なものではあるけれど、同時にコミュニティを維持するための通念や価値基準を破壊しかねない毒素ともなりうる。
いや、むしろ共同体を破壊しかねないほどの破壊力を持った表現のほうが、明らかに表現としては先鋭的な力を持ってしまう。それは「交通信号を守りましょう」などという当たり前の表現と並べて比較したら、既に古典となった30〜40年前の「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のほうが今でもまだしも面白くみえてしまうことからも明らかだ。これはあんまり書きたくないけど「差別を止めよう」といった至極正しい表現が昨今これだけ語られてきたのに、それでも韓国・朝鮮人は殺せみたいなことを喚いてた男が先の都知事選に立候補して10万票ぐらいは獲得する程度の起爆力はあるのだ(ただまあ、あの男の限界もあの程度だということも見えた。退場した閣下の4分の1程度だという現状から対処の仕方を考えれば、そんなに難しくはないんじゃないかなという気もする)。
「あの事件が起こるまでは『言論・表現の自由』ってのは予め当たり前に与えられているものだ思ってたけど、実は違ったんだね」
と、対談のゲストの方はおっしゃっていた。
そうなんだ。実は「言論・表現の自由」ってのは、もしかしたら世の中全部を敵に回すぐらいの覚悟を持った奴が確信犯みたいな感じで世の中に戦いを挑まなければ強奪できないものなんじゃないか? って気がしてくる。周囲が100%天動説を信じてる公開のステージの上でボコボコにされるのを覚悟で「それでも地球は動いている」と主張するのにも似た?(違うか)
まあでも、何にしろ身体を張らないと「言論・表現の自由」って世の中に説得力を持って主張できないのかな。前にも書いたけど、昨年ある差別問題をテーマにした集まりで「言論・表現の自由」も大事ですよ的な観点から話をしたら「そんな自分たちの権利ばかりを主張して」みたいな反応が周りから漏れてきたのを聞いたのが今でも印象に残っている。別に「俺の言論・表現の自由を守れ」と主張したつもりはなかったんだけど、今はそう言うとそう思われるのかな。だったら世界中を敵に回して公開処刑みたいにブチ殺されるのを覚悟で言論・表現の自由を行使して見せるしかないのかな……なんてことも思ったりした。けれどもそこで「ブチ殺されるのも覚悟で」なんて言ったりしたら、また「お前は言論・表現に対するテロを容認するのか!?」なんて反応も返ってくるかもしれないし面倒くさそうだなあともツラツラ考えた、2016年8月2日でした。ではでは。

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