お盆にはまだ間があるし、平日でもあったのだが、一昨日・昨日と静岡・藤枝の実家へと帰省していた。初めて利用した「バスタ新宿」から、15時25分発の高速バス「駿府ライナー」静岡駅行きに乗り込み、JRと市内バスを乗り継いで19時半には実家に帰着。すぐに夕食。
実家は母の一人暮らしになって久しく、平日ゆえ弟も妹も来ていない。なので二人で膳を囲み(挟み)つつ、すぐ脇のテレビで流れるNHKの番組を見ながら「出版業界も今マジで大変なんだよ」みたいな話をするうち、話題は朝ドラの「とと姉ちゃん」に行き着く。
「そういえば、こないだ久々に引っ張り出して見たんだっけ」と、食べ終わる頃にいったん奥の部屋に行った母が手にしながら戻ってきたのは『暮しの手帖』の古いバックナンバーだった。
母は昔から雑誌というものを普段まったく買わない(というか仕事と家事と育児にひたすら専念して、趣味はもとより思想にも宗教にも政治にもまるで関心というものがない)人だが、唯一『暮しの手帖』だけはかつて毎号買って読んでいた。おかげで私も花森安治がまだ健在だった頃、彼が誌上に「ぼくは、もう、投票しない」と、投票用紙に×印を書いた図案のイラストを添えた手記を寄稿していたのをリアルタイムで読んだのを覚えている。もちろん、当時まだ小学生だった私はその意味するところはわからなかったが、手に取った誌面から紙と手を通じて伝わってくるかのようなやるせなき絶望感を、「何でこの人はこんなことを言っているんだろう?」と素朴に不思議に感じた記憶とともに思い出す。
「毎朝(「とと姉ちゃん」を)見てるだけん、『暮しの手帖』は今これしか手元に残ってないのよ。久しぶりに今の『暮しの手帖』も買ってみようかって思ったっけね〜」と呑気に言う母が持ってきたバックナンバーは1977年初夏(5‐6月)号。花森安治が亡くなる前年、王貞治が756号を打って国民栄誉賞を得た年だ。テレビのニュースや新聞の一面トップはロッキードだ田中角栄だって言葉があれば成り立ってた(と、まだ子供だった私には思えた)時代。
で、その王選手と同年生まれの母は当時36〜37歳だったが、3年前に夫に先立たれて子供4人を抱える未亡人となっており、二度の引っ越しを経て移り住んだ静岡市内の老朽住宅から、長男である私(東京オリンピックが開かれた1964=昭和39年生まれ)にようやく制服を着せて中学校に送り出せたという時期だった。一方で私が進級した中学や高校には、軍隊に行って帰ってきた戦中世代と、当時30歳に差し掛かろうとしていた団塊の世代の教師が混在しながら手ぐすね引いて待っていたという時代でもあったのだが(^ ^;)、いま思えばあれから10年後には狂乱のバブル期が待ち構えていたのだから、つくづく日本社会が怒涛の勢いで移り変わる時節に遭遇したんだなとも思う。
んで、40年近くの歳月を経てすっかり変色した当時の『暮しの手帖』を、今も手に取って眺めながらこれを書いているのだが、またしても紙と腕づたいに頭へ伝わってくる、この熱気は何だろう? 巻頭近くのカラーのファッションページは「フィンランドのもめんの服」と題して「直線裁ち」の紹介。らっきょうの漬物の作り方を解説した見開き記事には、その頃に母が記事を読みながら材料の目方をメモした紙片が挟まれたままになっていた(^ ^;)。モノクロページの「ある日本人の暮し 東京の駐在さん」では品川区に当時勤務していた警視庁巡査部長・牧原三郎氏が制服を着たまま朝4時に飛び起きて勤務についてから深夜に帰宅するまでの密着ルポが描かれている。表4(もちろん同誌は他からの広告は入れない)は沢村貞子の『私の浅草』の自社広告。加藤登紀子さんも見開き2ページで誌面いっぱいぎっちりにエッセイを書いておられる、等々。
そんな時代を通り過ぎてきたんだ……と、先に母が奥の部屋の寝床へと戻っていった深夜の実家の居間で、思わず一人でため息をつく。同時に、40年前「ぼくは、もう、投票しない」と書いた花森安治が心中に抱えていた絶望を、今なら少しは理解できるかな、などととも思う。もっとも、明日には帰る街でこれから待ち受けている選挙(都知事選)で投票用紙に「×」と書き込んでもあんまり意味はないだろう。けれども、だとしたら、その40年前に花森安治が言っていたことの意味を反芻しつつ、その先へと超えていけるようなことを、年齢的にもそろそろ私はやっていかなきゃいけないのかもしれない。

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