「鉄」に走るf(^_^;
東京から各方面へ放射状につながるJR線の中で、北関東方面への主要幹線となっているのが、西から順に言えば高崎線(群馬方面)、宇都宮線(栃木方面)、常磐線(茨城方面)の3線だ。いずれも北関東に住みつつ東京都心まで毎日仕事で通う人たちが主に利用する通勤路線で、10〜15両編成の電車が日中頻繁に行き交うという交通の大動脈だ。
ただ、その3線のうち「高崎線」と「常磐線」は共に国鉄時代から定められている正式な路線名に基づく呼称だが、「宇都宮線」だけは違う。国鉄が分割民営化されてJRになった後の1990(平成2)年春に、上野から宇都宮をへて、栃木県北部の黒磯まで至る区間の呼称として採用されたものだ。ちなみに、それ以前にこの区間の呼称として用いられていたのは、本来の正式名称である「東北本線」ないしは「東北線」。今でも駅の案内表にはカッコつきで元の名前が表記されている。
つまり、この路線はもともと東京と東北地方を結ぶことを目的として、実に19世紀の末までに青森までの約700kmの区間が建設されていた。また、実際に1980年代初頭に「東北新幹線」が開通するまでは、上野駅をターミナルとして東京から福島・山形・仙台・盛岡、そして青森など東北の各主要都市まで直通する長距離の特急や急行が頻繁に行き交う、まさに「東北地方への本線」だったのだ。
(ちなみに「東北本線」ではなく「東北線」と言った場合には「本線」以外の「支線」も含まれ、その「支線」すなわち「本線から枝分かれする路線」の中には高崎線や常磐線も含まれる。高崎本線とか常磐本線という呼び方を聞かないのはこのためである)
さらに言えば、首都圏から北海道への旅客輸送のメインラインが実質的に鉄道から飛行機にシフトした1970年代までは、当時の北の終着駅・青森から津軽海峡を渡る青函連絡船に接続することで、北海道と本州の間を行き来する人々にとっての主要ルートにもなっていた。
今でこそ「東京から北海道まで列車で行く」なんて言ったら「そりゃまた大変だねえ」と呆れたような目で見られるか「『カシオペア』(豪華寝台特急)ですか!? 優雅ですねえ」と羨ましがられるかというところだろう。しかし今でもカラオケで盛んに歌われたり、歌い手の石川さゆりが紅白歌合戦に出てきて「上野発の夜行列車おりた時から青森駅は雪の中」「私も独り連絡船に乗り」なんて歌ってる『津軽海峡冬景色』が1977年に発売されていることを思えば、そんなに昔のことでもない。ともあれ、その頃までの上野発の「東北本線」は、栃木や埼玉から都心まで毎朝通ってくる通勤客と、東北や北海道まで行く長距離客を、同じ線路で一手に引き受けて運んでいたわけだ。
そんな「東北本線」を、90年代にさしかかる頃になって「宇都宮線」に改めようという話が出てきたきっかけは、宇都宮市を県庁所在地とする栃木県サイドからの意向を受けてのものだった。同じ上野駅から北へとつながる電車なのに、高崎(群馬県の主要都市)や前橋(同県庁所在地)までいくのが「高崎線」で、宇都宮までいくのがどうして「東北本線」なの? ということだったみたいだ。
「東北地方」に該当しない宇都宮近辺の人たちがそう思うのは不自然ではないだろう。が、確かその当時、この件が明らかにされた際には新聞などでも東北各県の自治体首長さんのコメントも引き合いに出しながら「どうして『東北』じゃいけないの?」といった報道がなされていたのを私も覚えている。私もそのちょっと前まで岩手県で大学生活を送っていたから正直カチンとくるものがあったし、今だって仮にもし「『東海道本線』をやめて『小田原線』と呼びましょう」なんて話になったとしたら、名古屋生まれで静岡育ちの私としては「なんだと?」と逆撫でされるだろうとは思う。
(もっとも、既に関西でも東から「米原―京都―大阪―神戸」と貫く「東海道本線」を地区ごとに「琵琶湖線」「京都線」「神戸線」などと言い換えた呼称が定着して既に久しい。あと、首都圏でも大宮と大船の間を細かく停まりながら走る電車の呼称「京浜東北線」の「東北」は今でも残ってるんですけど……というのがあるが、まあそこは今さら突っ込んでも詮無い話だ)。
ただ、その1990年頃(平成初頭)には、既に東京から宇都宮や黒磯までの「東北本線」は実質的に「宇都宮線」と呼んだほうが良さそうな実態へと変わりつつあったことも確かだった。
なぜなら80年代前半に東北新幹線が開通して以降、かつては宇都宮や黒磯経由で東北の各地まで直通していた特急や急行は、その役割を新幹線に譲って次々に消えていったからだ。80年代末に青函トンネルが開通してからは、先にも挙げた『カシオペア』や『北斗星』のように上野と札幌を結ぶ豪華客船みたいな寝台特急も生まれたが、それも来たる3月の北海道新幹線の開業と共に廃止される予定だ。その結果、首都圏と宇都宮・黒磯間を走るのは全てこの区間限定の快速や各駅停車のみとなり、まさしく「東北まで行かない宇都宮線」という形態へと完全に移行を果たすことになる。
と、前置きが長くなったが、先日の午後、ふと思い立って、この「宇都宮線」の一番北の区間を久々に訪ねてみようと考えた。
新宿駅から乗り込んだ湘南新宿ラインの宇都宮ゆき快速電車は15両編成。休日の午後ということもあって車内は小山あたりまで立ち客も大勢出るほどの混み具合だったが、小山の先の小金井で5両を切り離し、10両編成で宇都宮に到着した頃の車内は1両に10人ぐらいの閑散とした状態になっていた。
宇都宮からは北へは4両編成の黒磯ゆき各駅停車に乗り換えた。車両はかつて京葉線を走っていた205系。ディズニーランドや幕張メッセにいくお客を10両編成で運んでいた電車だが、数年前に京葉線に新型車が導入されたのに伴い、関東北郊のこの区間の普通列車専用にコンバートされた。今では日中もっぱら宇都宮と黒磯の間を往復している。京葉線を走っていた頃は10両編成だったのを4両まで短くし、車体に巻く帯の色も変え、さらには「このあたりでは必要だろう」ということからか京葉線時代にはなかったトイレを車内の端に設けている。下の二枚目の写真の、いかにも後から窓を塞いだと外観からわかる位置にトイレがある。
「宇都宮線」と呼ばれる区間は東京から宇都宮を越えて栃木県北部の黒磯まで続くが、現在では東京駅や新宿駅からの電車は大半が宇都宮どまりで、そこから北は基本的に運行系統が別に分けられている(一日に数本「黒磯発熱海行き(またはその逆)」なんて物凄い列車もあるが)。
宇都宮駅から北になると、大宮や東京との間の利用は距離的にももっぱら新幹線が中心だろうし、普段の利用客数も考えると、先に述べたように電車の編成の長さや運行系統も別立てにしたほうが効率的だとの考えによるものだろう。そういう意味でもここから先は「東北本線」というよりも、今や実質的に「宇都宮線の北の外れの支線」と化している。
ただし「支線化」したとはいえ線路は立派だ。かつて遠方へ向かう長距離特急が頻繁に走っていた「本線」時代のインフラそのままの線路を、関東平野北部の冬枯れの大地を車窓に見晴るかしつつ4両編成の電車がわずかな乗客を乗せて快走する。ただ、そんな路線でも道すがら反対方向からやってくる、後ろに長大なコンテナの群れをを引き連れた貨物列車とやたら頻繁にすれ違う。
旅客輸送の面では既に栃木県北部の地域内交通を担う「宇都宮線の支線」になってしまったものの、貨物輸送においてはこの区間が数十年前と同様、今なお首都圏と東北・北海道とを結ぶ日本の物流の大動脈をなす「東北本線」と機能していることが、このあたりに乗っているとよくわかる。
実際、まもなく函館まで青函トンネルを経由して開通する北海道新幹線の開通当初からの運行本数が「少なすぎる」と言われるようになったのは、線路を共有する青函トンネルを往く貨物列車の運行本数が極めて多いことも要因になっている。
陸路で北海道と本州を結ぶ唯一のルートである青函トンネルは鉄道専用。自動車用の地下トンネルも橋もない津軽海峡を、今でもトラックやバスは自力で越えることはできない。だから北海道から首都圏まで貨物列車がそのまま直通してくる「東北本線」は、今も日本の物流の生命線なのだ。
そんな「貨物では物流の大動脈『東北本線』なのに、旅客では『宇都宮線』のローカル支線」という実態を観察しつつ、宇都宮から約50分を掛けて栃木県北部の黒磯駅に着く。ここで「宇都宮線」は完全に終わり、ここから先は名実ともに「東北本線」になる。実際、ここからすぐ北は古来「白河の関」と呼ばれ、今でも栃木県と福島県の県境、つまり首都圏と「みちのく」と呼ばれた東北地方との境目に、この駅は位置する。
そして、この駅を境にもう一つ「電気」も変わる。首都圏より南西方向のJRの電化路線は本州西端の下関までが「直流」で電化されている(日本海側の北陸三県は除く)のに対し、黒磯駅から先の東北から北海道にかけては大半が「交流」で電化されているのだ。
かつて「東北本線」が長距離の旅客輸送を担っていた時代は、この黒磯駅を超えて交流・直流の両区間を直通できる車両が特急や急行用に運行されていた。私もかつて上野発仙台行きの急行電車に乗っていた際、黒磯駅での停車中に電車が屋根上にある菱形のパンタグラフ(架線から電力をとる装置)をいったん畳んで、しばし後に再び元通りに上げるという作業をホームから眺めたことがある。直流と交流との境目である黒磯駅構内の一部の線路は、職員の操作で架線の電気を交流⇔直流の双方に切り替えられるようになっていた。
もっとも、既に述べたように黒磯駅を超えて南北を直通する長距離輸送の特急・急行は激減し、この3月下旬の「カシオペア」廃止で完全に絶滅状態になる。それを見越してか、黒磯駅における前記のような構内での電力切り替えシステムは近々撤廃されるらしい。
とはいえ、この駅を超えて直通する特急・急行はなくなってもなお、当然ながら黒磯駅のさらに北、県境というか「関東」と「東北」の境を超えて走っていく鈍行列車は少数ながら運行されている。
東京や宇都宮から黒磯までやってくる普通電車は、駅の西側に広がる駅前広場や商店街に直結する1番ホームに発着する。県庁所在地や東京に向かう地元のお客さんにとってはそのほうが使いやすいのだろう。一方で、ここから北へゆく「東北本線」の電車に乗るためには、構内の東の外れにあるホームまで跨線橋を渡っていく必要がある。そして跨線橋からホームにつながる階段を降りたところで「東北本線」の表示と、2両編成の「701系」という交流専用電車が待ち構えているのにお目にかかる。この701系という電車は、JR東日本がエリアとするここから北の広大な東北各県の各地でローカル輸送に使われている車両で、一番北は青森県の津軽半島でも走っている。
東京から北上するに従い15両編成→10両編成→4両編成と短くなってきた普通列車は、ここから先は2両編成、なおかつバスと同様のワンマン運転(車掌は乗らず、運転士のみが乗車)に。しかも運転本数も県境を超えた郡山までは1時間に1本程度にまで減少する。広々とした黒磯駅の構内に3面ある長いホームにも、昼間なのにほとんど人影が見えなくなる。昔ここを急行電車で通りかかった時には結構にぎやかだったのにな、と思う。
が、一方で、がらんとした駅構内の一番西側、駅の改札口があるあたりの頭上には東北新幹線の高架が掛かっていて、ここに発着する普通列車よりも全然頻繁に、山形や秋田や青森(もうじき函館も)まで行く新幹線が轟然と駆け抜けていく。
黒磯駅は、かつて皇族が使う「那須御用邸」への最寄り駅で、駅舎の中に貴賓室も設けられていた。長らく栃木県北の主要都市だった旧「黒磯市」の玄関駅でもある。
だから本来なら、改札口のすぐ上をゆく新幹線の線路に面してホームが設置されても全然おかしくなかったはずなのだ。ところが新幹線の停車駅は「宇都宮線(東北本線)」で東京寄りに一つ南隣の「那須塩原」という駅に設けられている。
東北新幹線が建設されることになった時、黒磯の人たちは当然ながら黒磯駅に新幹線が停まるようになるのだと思っていたようだ。ところが「那須塩原」よりさらに一駅南にある西那須野駅を最寄りとする旧「西那須野町」が、観光地である塩原温泉への最寄り駅であることから「新幹線の駅を作るならここに」と訴えかけた。
今もこの区間の在来線に乗っているとわかるけど、西那須野駅と黒磯駅の間の3駅間は、在来線のすぐ脇に新幹線の高架がぴったりと並走していて、たぶん3つの駅のどこにも新幹線停車用のホームを設置できただろうなというロケーションになっている。そんなわけで黒磯と西那須野との綱引きが激化した末、最終的には両駅の中間にあった「東那須野」という、それまで特急も急行も停まらなかった小さな駅に設けられることとなり、駅名も揉めた双方に配慮してか現在の「那須塩原」に改められた。新幹線の新設駅ではこれまでも「岐阜羽島」「水沢江刺」「上越妙高」といった具合に、駅の設置場所や開業後の駅名をめぐって地元で議論が紛糾するケースが多々見られたが、これもその一つだろう。
しかし皮肉なのは、後の「平成の大合併」で西那須野町と黒磯市が合併した採用された市名が、かつて苦肉の策(?)として選ばれた駅名を冠した「那須塩原市」になったということだ。
そんな歴史を振り返りつつ、折り返しの黒磯発宇都宮行きの電車に乗り込むと、駅を出てすぐに車内の電気がほんの数秒だけど一時的に消えた。先述した「交流⇔直流」の切り替え用の設備の関係なのかもしれないが、たぶんこれも近いうちに解消されるらしい。
もっとも、黒磯駅はおそらくこれからも久しく「寂しい境界駅」としての風情を残していくことになるのだろう。

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