そういえば先日、仕事で訪ねた神保町の小学館本社の受付にこういう映画祭のチラシが置いてあった(上映会場の神保町シアターは集英社の土地に小学館が建てたビルにある)のを見つけて「へえ!」と思ったんですよ。ただしその後すっかり忘れていたんだけど(^_^;
ところで、その「斉藤由貴映画祭」のチラシをもらった後でしばらく何気に眺めていたところ、いきなり「ぼこっ」という感じで、既に30年近く前になる大昔の光景を思い出した。
実はそれは私にとって、今にして思えばその後の人生を左右する一つの大きな分かれ道になった瞬間の記憶だった。そう、私が今こうして東京に暮らしているのは、そもそも「斉藤由貴の映画を観た」ことがきっかけだったんじゃないか、と……。
……と書くと「なんだよお前アイドルのおっかけだったのかよ」とか「てめーストーカーだったのかーっ!」などと誤解を受けそうなので、以下に説明(にならない説明になるが)をしてみることにする。たぶんまた長くなりそうな、昔話だ(読みたくない人は、どうぞここらからスルーしてくださいませ ^_^;)。
時は1987年の、確か3月の初めだったと思う。当然、時代はまだ「昭和」で、しかも20世紀。場所は岩手県盛岡市の繁華街に当時まだあった老舗映画館「盛岡東宝」。
早春とはいえ、北緯40度に近いみちのく街にはまだ冷たい風に雪が舞う季節だったが、古色蒼然とした映画館の館内にはスチーム暖房が心地よく利いていた。平日の午後だった(と思う)せいかガラガラの客席で、いかにも年季の入った赤いモケット貼りの座席に深く身をうずめたら思わず微睡んでしまいそう。そんな中で、ちょうど期末試験も終わった後で何もやることのなかった私は、斉藤由貴が主演する『恋する女たち』という映画を一人で観ていた。
その時の私は岩手大学に通う22歳の大学四年生だったが、翌4月には23歳になり、そして大学五年生になろうとしていた(苦笑)。いや、別に試験でミスって卒業し損なってしまったというのではない。確かに怠惰な学生生活ではあったけれども、その一年前の時点では何とか普通に四年で卒業できる目途がつき、しかも正月明けの時点で卒論も書き終え提出してしまったいた。ようするにワザと留年したのだ。
もっとも、その一年前の段階では、周りにいた他の同級生たちがそうするように私も四年で「普通に卒業する」つもりでいた。そして卒業後は――実家のある静岡県に戻って「普通に新卒で就職してサラリーマンになる」つもりだった。事実、四年生になってほどなくの頃には静岡県内企業の就職案内パンフレットを請求して取り寄せたりもしていた。
その3年前、大学進学と同時に18歳で初めて親元を離れて、それまで縁もゆかりもなかった岩手県までやってきた時には「もうこれからは静岡の外のいろんな世界で生きていくんだ!」と子供心に息巻いていたものだったが、異郷での20歳を挟んだ数年間の学生生活は、そんな子供をも少しは現実的な青年にさせた、ということだろうか。正直に言って不完全燃焼がありまくりの大学時代だったが、それが「大人になる」ということなのかな、と……。
……と思っていたのが一転留年を決意してしまったのは、四年生の6月に静岡市内の母校の中学校で2週間「教育実習」を受けたことがきっかけだった。今これを話すと「お前が学校の先生になろうとしたの!?」と、友人・知人からエラく驚かれるのだが(笑)、当時私が通っていた学部には教職課程もあり、住んでいた学生寮には同じ大学の教育学部の学生たちが多かったことから、これも自然な成り行きというか、ようするに流されるようにいい加減に受けたのだ。「まあ静岡に帰ってからの勤め先が、会社員か学校の先生かはわからないけど、とりあえず様子見で受けておくのもいいかな」ぐらいの感じだった。
ところが、その2週間の母校での教育実習を終えて盛岡に戻ってきた私は「留年」を決意していた。理由は――これも言い出すと長くなっちゃうので短めにするけど(^_^;)――そこでも自分の「現実」を見せつけられると共に、その7年ほど前まで自分が10代初めの生徒として通っていた学校や、そこで学ぶ後輩たちに教壇から接しながら「君はまだまだここに戻って来ちゃいけないんだよ」って言われた気がした、というところだろうか。
だからその後、大学四年生の間は一切就職活動をしなかった。ところが、お盆の帰省で再び静岡の実家に戻ったら、いきなり母から「NTTに就職する気ない?」と言われた(汗)。
私の両親はもともとNTTの前身である電電公社の社員で、親父が早世した後に復職した母は当時も静岡市内のNTT電話局で料金係として勤務していたし、そもそも死んだ親父(東大受験に失敗してふらふらしていたらしい)を電電公社に引き入れたのは、親父の姉の旦那であるおじさんであり、そのおじさんが「太郎君は卒業したらやっぱり静岡に戻ってくるんだろう? NTTにどうかい?」と言い出したのだ。ちなみにそのおじさんの次男(即ち私の従弟)は先にNTTに入社していたし、ほどなく帰省中の私のところにも静岡のNTTの人事課長か何かから電話がかかってきたので、慌ててそのおじさんの自宅まで「すみません!」と断りに行ったくらいだった。
まあしかし、そんなことでもなければ、もしかしたら今ごろごく普通のサラリーマンとして会社だの電話局だの学校の先生だので働きながら、家のローンだ子供の教育費だ親の老後だといったことに思いを巡らしながら静岡で日々の暮らしを送っていたのかなあ……なんて、たまに思ったりもする。
で、話を戻すと、そんなことがあって留年は決意したものの、数か月後の3月のその日の映画館にいたその時まで、私の中には将来に向けての何か明確なビジョンがあったわけでも、具体的に何か新たな動きに出ていたわけでもなかった。けれども、ほどなく周囲にいる同級生たちは卒業式を経て、盛岡を出て社会に飛び立っていく。その後にみんないなくなった盛岡で、俺はいったい何をするんだ? 1年後に学校を卒業した後はどうするんだ?
……そんな答えが見えない状況の中で、その日に盛岡東宝で観ていたのが斉藤由貴主演の『恋する女たち』という映画だった。北陸の金沢を舞台に、高校に通う3人の元気な女の子を中心に展開される物語を『ヒポクラテスたち』などの青春群像劇の名手である大森一樹が監督した好篇。
で、それをガラガラの古びた映画館の客席で観ているうちに、22歳のさえない地方国立大学生だった私の胸の中に、まさに先日のチラシを見た時と同じ感じの「ぼこっ」という唐突な形で、それまで自分でもおよそ考えたことのなかった思いが湧いてきたんだ。それは
「
卒業したら東京に出ていこう」
というものだった。
金沢を舞台にしていた映画を観ていたのに、なぜ「東京に行こう」と思ったのかはわからない。やっぱり「斉藤由貴に会える」と思ったからなんだろうか(笑)。ともあれ、そこで一つの目標(?)が私の胸の中に降りてきた。
とはいえ不思議だった。なぜなら、それまで私は「東京が大嫌い」だったからだ。前述の通りその一年前まで「卒業後は静岡に帰る」と決めていたし、そもそも大学の休みのたびに盛岡から静岡に帰省するたび、途中で経由せざるを得ない「東京」という街のスケールや気ぜわしさに「こんなとこ人の住む街じゃない!」「こんなところに絶対俺は住みたくない!」とつくづく嫌悪の念を覚えていたし、ちょうどバブルに向かおうとしていた1980年代後半の東京発のマスメディアから流される夥しくイケイケな情報を盛岡で横で見ながら「どうせ俺みたいなのとは無縁な世界だよな」と背を向けていたような男だったからだ。
「それが何で東京?」と自分でも不思議に思いながら、そのうちに何となくわかってきたのは「そういえば俺、もともと文章を書いたり『編集』『出版』とか言われる世界に行きたいって何となく思っていたんだよな」という、おそらく一年前に「大人しく四年で卒業して静岡に帰ろう」と考えた時点までに意識の隅からも捨てていた気持ちがまだ自分の中にはある、ということだった。
私は何のとりえもない子供だった。特に本も読まず、音楽やスポーツにもからきし音痴で、算数や理科が凄く苦手などんくさいとりえのない子供だった。ところが何故か、特に読書好きでも文学青年でもないくせに国語の成績だけは終始良くて、毎年夏の読書感想文の季節には適当にいい加減に書いたような感想文が何故か(こういうふうに書くと嫌味なようだし気が引けるのだが)毎年学校や静岡市のコンクールで入選だか佳作を受賞してしまったりした。
もっとも、当時は学校に通うたびに毎朝「お前は本当にバカでダメで……」と怒られていた担任の先生から「この作文書き直せ!」と言われて「え、また何か悪いことしたのー」と半べそ書きながら放課後の教室で全然違う内容に書き換えて提出したら「何で違うのにするんだよ!」と怒られ、元のをアレンジした内容にして再提出したら後日「おらよ」という感じで教室でその担任から表彰状を渡されたような記憶がある。
そんな体験があるせいか、今でも私はたまに「文章上手いですね」と褒められても、いったいどこが上手いのか、自分でもよくわからないし、今でも自分の文章力には正直自信がない。
そもそも、私は別に文学青年でもジャーナリスト志望でもなかった。というか、まあ、何だかわからないながらも在学中には、当時筑紫哲也氏が編集長を務めていた『朝日ジャーナル』やマガジンハウスの『ダカーポ』ぐらいは読んでいたけど、そもそも岩手大学や、その前にいた静岡の中学や高校にだって周りに「マスコミ」とか「ジャーナリズム」の存在を匂わすような存在は皆無。もとより岩手大学からも年に数人はマスメディアに就職する卒業生がいないではなかったが、たいていは地元の新聞社やテレビ局、あるいはNHKや朝日新聞などの、東京から見れば盛岡よりもさらに遠い地の支局に配属されるという感じだった。
もちろん、盛岡にも静岡にも地元メディアはあった。しかし、当時まだ20代前半の生意気な若造だった私は「どうせ記事を書くなら地元限定とかじゃなくて、万が一にも全国で見られるところで書きたいな〜」と思った。インターネットが台頭し「雑誌」がもはや「マスメディア」とは見なされなくなるぐらいに退潮した今の状況からは信じられないかもしれないけど、あの1980年代末期の頃には講談社だ小学館だ集英社だマガジンハウスだといった「所詮東京にしか実質的に拠点のないローカル企業だろ?」という会社が東京から毎週・毎月に送り出す雑誌が全国レベルで大きな影響力を誇っていた。
そこで大学五年生になった1987年の春以降、東京に本社にあるいくつかの出版社や編集プロダクションあてに、盛岡の本屋でもかろうじて売っていたマスコミ関連就職本を頼りに履歴書を送ったり何回かは採用試験を受けに行ったりしたもの、やはりもろくも全敗(^0^;)。特に東京近辺のプロダクションあたりは履歴書をそのまま送り返してくるケースばかりで、ようするに「お前みたいな遠くに住んでる奴は相手にしてらんねーんだよ」ということなんだろうな、と私は受け止めた。
「んじゃ、こーなりゃ仕事先を決めるより先に東京に出ていくことだな」と思い、私は上記の映画館でひらめいた思いから1年後の1988年春、結果的に「昭和最後」の3月末に「卒業したけど就職未定」の状況で東京に出てきて「まあ、どっかアルバイトでもいいから仕事を見つけようか」と呑気に思っていたら、数日後にバイトと勘違いして受けに行った出版・広告業界誌の会社に採用され、3月31日からギリギリ「新卒の正社員」として働き始めた――というところから今に至る経歴が始まっているのである。ひでーもんだよな。もし今後、斉藤由貴さんに直接お会いする機会でもあったら「あんたのせいだよ」とでも言ってやろうかね(^ ^; ではでは。

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