開業(3月14日)からもう1か月半も経ってるし、今さら私が乗車記を書くまでもないんだけど、ともあれ「
上野東京ライン」についてのお散歩ルポです。既に鉄道路線網が網の目のごとくに整備されつくしてしまった東京の都心だけに、こういう「開業」の話題ってのは逆にもはや滅多にあることではないからね。
上の写真2枚はいずれも東京駅で撮ったもの。下は東京駅10番線に停車中の、常磐線から乗り入れてきた品川行き快速電車だが、そのすぐ隣りの新幹線ホームには、同じ3月14日に開業した北陸新幹線「はくたか」金沢ゆきが停車中。
どちらもこれまで東京駅では見られなかった車両および案内表示で、この二つが同時に開業した今回の春のダイヤ改正を機に、東京モンが言うところの「山手線の東側」、特に上野を北端として東京・新橋と南下して品川に至るまでの区間の駅や沿線の風景はかなり変貌。というか、さらにこれから物凄い勢いで変わっていくんじゃないかとの予感を強く覚えさせるものになった。
もっとも、上で「開通」ではなく「開業」と書いた通り、上野東京ラインはいわゆる全く新しい「路線」の開通にはあたらない。確かに名前の通り、上野駅と東京駅の間を南北に結ぶ真新しい高架の複線がオープンしたわけだが、ご存知の通り両駅の間は従来からも山手線と京浜東北線の電車が頻繁に走っており、東京の鉄道路線図においても、この二駅間は90年前から既に太い線でつながっていた。だから今回の「開業」においても路線図のうえでは別に何ら変化が生じるものではない。
ただ「路線」ではなく、新たな「運行系統」が開業したとの意味において、上野東京ラインの開業は鉄道史的にも、また、日常的に電車で首都圏内を移動する人の流動に与える影響の面でも大きな意味を持つ。
というのは――これも「鉄」に限らず東京都心の鉄道を日常的に利用している方なら御承知の通り――上野駅と東京駅の間にはこれまで見えない「ベルリンの壁」(?)のようなものがあったのだ。
つまり東京駅はあくまで南西方向に伸びていく東海道本線や東海道新幹線の、上野駅は北に伸びていく東北本線(宇都宮線)・高崎線や常磐線の、という具合に、東京都心における鉄道ターミナル駅の役割が行先方面別に両駅へと、国鉄時代から今日まで長年に渡り分担されていたのである。かつて新幹線がなかった時代でも、関西や九州に行く特急・急行は東京駅から乗り、東北や北海道、上信越や北陸に行く特急・急行は上野駅から乗るというのが、東京の人間にとっては半ば常識になっていた。今でこそ東京からは羽田発の飛行機で行くのが当たり前になっている北海道にしても、石川さゆりが今も紅白歌合戦に出てきて熱唱する「津軽海峡冬景色」(1977年)の中で「上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中」「私も一人 連絡船に乗り」と歌っているように、1970年代後半の時点でも「上野発の夜行列車」を利用するのが日常風景だった。
何故そうなったかというと、ようするに日本が、とりわけ明治維新以降に東京を首都とする中央集権国家として近代化を図っていった歴史とも絡み合ってくる。
日本の鉄道は明治5(1872)年に新橋・品川―横浜間を官営(つまり国営)鉄道として開業したのが嚆矢であり、この路線を西へ西へと延伸して神戸駅まで開通させたのが、今の「東海道本線」のルーツである。ちなみに神戸から先は「山陽鉄道」という私鉄が下関まで開業した路線を明治末期の1906(明治39年)に施行された鉄道国有化法によって国鉄の傘下に組み入れたという経緯がある(今も「東海道本線」と「山陽本線」の境界が神戸駅で、同駅の線路脇にそれを示す表示が建っているのはその名残である)。
立ち上がったばかりの明治政府は自力で鉄道網を整備しようとばかりに明治初期に東京と横浜の間の鉄道を開業させたりしていたものの、なおも西南戦争をやったりしたこともあって財政的に苦しい状況にあった。そこで民間資本による鉄道建設が進んだ。
1987年の国鉄分割民営化→JR発足の際に「国民の税金で作られた線路を勝手に民営化していいのか」といった異議が上がっていたのを記憶するが、明治末期に帝国議会で「国有化」が決定されるまでに整備されていた旧「国鉄」路線の大半は、実は民間業者が「私鉄」として建設したものだった。
そして今で言う「宇都宮線」「高崎線」も、元を辿れば「私鉄」だったのだ。「日本鉄道」という「日本で初めての私鉄」と呼ばれる会社が明治16(1883)年に上野ー熊谷間に開業した路線がルーツで、その後も東京より北方向への現JR路線をもっぱら同社が整備していく。そうした背景には、やはり維新政府における薩長の影響力と、東北方面が戊辰戦争以来「朝敵」のエリアと目されたこともあったのだろう。
そんなわけで東京の「北」ゆきのターミナルは上野になった。今でも上野駅には東京駅方面に直通可能な高架ホームのすぐ下に、中央改札から入ったところで行き止まりになっているホームが残っているが、あれはそうした時代の名残である。
一方で、東京から大阪・九州方面に向かう列車の始発駅も当初は「行き止まり」式だった。それは現在の東京駅ではなく、鉄道唱歌で「♪汽笛一声新橋を〜」と歌われた新橋駅だったが、その歌詞にある新橋駅は現在の新橋駅ではなく、今では「汐留シオサイト」と呼ばれて高層ビル街が林立しているところにあった(その一角に往時の旧新橋駅の駅舎とホームが復元されて今でも存置されている)。
それを大正末期になって「東京を中心に各方面に行く列車がみんな発着する『中央駅』があったほうがいい」みたいな声も受けつつ1914(明治3)年に開設されたのが、今の赤レンガの「東京駅」。ただ、この駅は真正面に皇居があるというロケーションからも察せられる通り「皇族用の駅」という意味合いも強かった(後に「血のメーデー事件」を起こした群衆も東京駅からではなく一つ南隣りの有楽町駅を利用していたという話も何かで読んだことがある)。
んで、東京駅と上野駅を結ぶ線路がようやくつながったのは前述の通り90年前の1925(大正14年)、つまり大正の実質的に最後の年であり、明治初期の鉄道開業から半世紀以上経った年でもあり、なおかつ「中央駅」のはずの東京駅が開業してからも10年以上も経った年のことだった。もとより、江戸時代から市街地として開発が進んでいた地域を往くために用地買収の問題もあったのだろうが、現在に日中ひたすらぐるぐる運転している山手線の中でもこの区間が一番最後に開通し、そこで初めて現在のような環状運転が実現したというのだから興味深い。
(ちなみに、それ以前は山手線と中央線が一体となって「上野―田端―池袋―新宿―渋谷―品川―東京―御茶ノ水―新宿―中野」というルートでの「の」の字運転が行われていたそうだ。今のなっては想像もできないというか「どういうふうにやってたんだ?」と当時の情景を想像したくなってしまうところではある)。
ただ、山手線などの国電区間はそれ以降「上野―東京」間を何てことなくスルーする運行形態が定着したものの、「東海道本線は東京駅が始発」「東北本線・高崎線は上野駅が始発」という運行形態は、昭和を通り越して平成に至るまで変わることがなかった。もちろん東海道本線と東北本線・高崎線の列車を直接つなぐ線路も(山手線や京浜東北線とは別に)設けられていて、ごく一部の普通列車は直通したり、それまで上野発だった東北・上越方面の特急の一部が東京駅まで乗り入れてくるといったケースはあったものの、それらはあくまで例外的なケースにとどまっていた。
さらに、その「上野―東京」間を結んでいた中・長距離列車用の線路も「東北・上越新幹線用に転用するから」との理由で1983(昭和58年)に廃止されてしまう。
その前年には東北・上越新幹線が「大宮始発」で北へ向かう形で開業していた。「新幹線開業後では初の新入生」として83年春に岩手大学(盛岡市)に入学した私は、静岡の実家との帰省の際に東京駅・上野駅・大宮駅と3回もの乗り換えを何度もくりかえしていたので当時のことを(田舎者ゆえ都心の駅のあまりの混雑ぶりに頭が真っ白になったことも含めて)よく覚えている。その後、東北・上越新幹線は1985(昭和60)年に上野駅まで到達するが、今のように東京駅まで線路がつながったのは、私が大学生活を終えて東京に出てきて、時代が「平成」に変わった後の1991年のことだ。ちなみに、それ以降は東京駅で東北・上越、東海道の両新幹線が接続することになったが、両者は同じJRでも所属会社が違うこともあってか、今に至るも双方を直通する新幹線列車は運行されていないどころか、東京駅構内での線路もつながっていない(国鉄時代には「富士宮に行く創価学会員の輸送のために直通させては」とのプランもあったと聞くが、1991年に学会が大石寺から破門されたこともあってか沙汰やみになったらしい)。
ともあれ、そんなわけで「上野―東京」間では去る3月のダイヤ改正で直通電車としての上野東京ラインが開業するまでは、互いにわずか3.6qしか離れていない都心の二大ターミナル駅間であるにも関わらず、中・長距離列車の運行系統がそこで分断されていた。しかも、歴史を振り返れば、この両駅間を結ぶ線路は日本の鉄道開業から50年以上も後、新幹線にしても平成になってようやく開業しているのだ。
その背景には前述の通り「東京から南西方面」と「東京以北」の鉄道が、前者は官営、後者は私鉄として開業したという生い立ちの違いもあっただろう。また列車ダイヤを作成するうえでも、なまじ双方を直通する長距離列車を走らせると事故などでダイヤが乱れた時の対処が難しくなる(現に熊谷あたりでの人身事故の影響で平塚あたりの電車の出発時刻が遅れるといった例は上野東京ラインに先んじて新宿周りで直通を開始した「湘南新宿ライン」でも既に久しく頻繁に生じているようだ)といった現場からの声もたぶんあったのではないかと思われる。
けれども、私のようにかつて静岡と盛岡を帰省で往復していた経験を持つ人間から言わせてもらえば、そこには東京一極集中型の中央集権国家たる日本の国営鉄道をルーツとするJRおよび「首都に在住する我ら」としての東京の人間の選良意識みたいなものがあったのではないかという気がしてしまう。
前述の通り、東北・上越新幹線が東京駅まで到達したのは私が東京に出て就職した後だったが、実はその時も東京在住者の人たちから「別に東京駅までつなげる必要はないんだよ。上野始発でいいんじゃないの?」という声を何度か聞いた覚えがある。
確かに東京の人間からすれば「大阪やそれ以西に行く列車」は東京駅から、「東北や甲信越や北陸に行く列車」は上野駅から、というほうがわかりやすい。実際、他の国の首都でも鉄道のターミナル駅は行先方面別に都心の各駅に分散させているところが多いようだ。東京でも東京駅や上野駅のほか、千葉県内への列車は両国駅(同駅構内に残る行き止まり式ホームはその名残)、山梨・長野方面へは新宿駅という具合にターミナル分散の施策は昔からとられていた。
ただ、そこでは東京以外の地域(私は「地方」という呼称が好きではないので、敢えてこう言う)間のインターローカルな輸送需要に中間にある「東京」が割って入って乗り換えを強いることへの反省はない。学生時代の私などはまさにそうした「インターローカル」な存在だった故に違和感を覚えたし、それに限らず「東京モン」の「我々こそが日本を代表するのだ」的な物言いには正直辟易したものだ。彼らからすれば、静岡の人間が東京をスルーして岩手との間を行き来するなどというのは、およそ「変な奴」だっただろうし、ましてやそんな「変な奴」のための列車を東京都心を素通りする形で設定するなんてことには「何か意味あるの?」という感じだったのかもしれない。
また、かつての国鉄部内でも、東京駅から先の東海道本線を担当する人たちと、上野駅から北側の東北・上信越・北陸方面への列車を担当する人たちの間にはセクショナリズムや、あるいは階層意識による壁があったらしいという話も聞いたことがある。
戦前からも東京から西へ行く特急列車には政府要人が何度も乗車し、それゆえに東京駅構内で原敬が暗殺されたりする事件も起こった。戦後も真っ先に新幹線が大阪に向けて1964(昭和39)年に開業したが、その時点で上野から北の東北方面は新幹線どころか電化もまだ行き渡らずに蒸気機関車が引っ張る長距離列車も走っていたという、明らかな格差があったのだ。誰かが本に書いていたが、東京駅をまたがる直通列車を運行しようにも、東海道線側の乗務員たちのプライドが東北・上越線側との列車との相互乗り入れを拒んだみたいな話もあったやに聞く。
……などと、また長くなってしまったので、ここまでを「前編」とし、以下は「後編」として項を改めようと思います。と言っても、普段の仕事でも「おまえ原稿を長く書き過ぎる!」と注意される私だけに、こういう趣味の世界で書く記事もまた長くなってしまいそうなのですが、そう思ったんで今回も「二回に分けよう」とここにきて思った次第(^ ^;

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