中川六平さん(編集者・ライター、本名:中川文男)が去る9月5日、食道がんにより63歳で亡くなられました。
通夜は8日(日)午後6時から、葬儀は9日(月)午前11時から、東京都小金井市東町3-18-6の「
太陽寺」斎場。喪主は奥様の文子さん――。
上の写真は大木晴子さんの
「明日も晴れ」2010年2月20日より何のお断りもせずコピーのうえ貼り付けております。大木さん、本当にすみません。ただ、私の中にある中川さんのイメージを良く伝えてくださっている、とてもいい写真だと思い、勝手に引用してしまったのでした。
といっても私自身、中川さんと直接ご厚誼をいただいたのは、実は本当に短い期間だった。
なにしろぺーぺーの私(と、キャリアはともかく年齢的には言えなくなってきているけど)からすれば、本当に凄いかただったのだ。あのベ平連に加わり、山口県の岩国市で米軍基地の脇にある反戦喫茶「ほびっと」の初代マスターを務めるなどした後「東京タイムズ」(今の若い人は知らないだろうが、終戦翌年から1992年まで発行されていた東京の地方紙だ)に入社。
80年代半ばに同社を退職後はフリーランスの編集者として、これも今では伝説的な月刊誌『マージナル』の編集委員を務めた後、晶文社に入社。編集者としての御仕事の一方、御自身も『ほびっと 戦争をとめた喫茶店――ベ平連 1970-1975 in イワクニ』(講談社)、『歩く学問の達人』(晶文社)などを上梓され、退社後のつい先日までも晶文社に嘱託だったかで出入りしながら編集者として凄く元気に活躍されていたのだ。そう、つい先日まで。
そんな中川さんと、短い期間ではあったが御厚誼・御指導をいただけたのは、私が大卒後に最初に務めた会社の上司で、現在は神保町で「出版人」という出版・広告業界誌(私の目下一番の仕事先)の代表を務める今井照容さんの“兄貴分”が中川さんだったからだ。
詳しくは今井さんが今年1月28日に自分のブログに書いた記事
「『社長』が急逝したので昔話をしてみよう」の中で、
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私にとって救いだったのは「東京タイムズ」の現場を覗けることであった。当時、編集委員長をつとめていた人物はべ平連出身で岩国あたりで反戦喫茶のマスターもつとめていたという経験を持っていたこともあり、多くのことを学ばせてもらった。ロクちゃんこと中川六平である。このロクちゃんを通じて朝倉喬司とも知り合う。不思議なもので社長が「東京タイムズ」を去る頃には業界誌記者として一人前にはなっていたように思う。
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と書いていたあたりをお読みいただければと思う。上の記事を書いた直後に今井さんは31年務めた会社を辞め、ほどなく神田神保町の古びたビルの狭い一室を借りて「鰹o版人」を設立し、そこが発行する新たな出版・広告業界誌のライターの一人として、生活苦にあえぐ私に声をかけてきた――というのが半年前のことだ。
「出版人」の応接テーブルの横にはチェ・ゲバラの大きな肖像画が掲げられ、その脇には電通の「
鬼十則」と、開高健による「
出版人マグナ・カルタ九章」、そして亡くなった社長が死の直前の正月、最後に今井さんに送った年賀状が貼られている。
「戦う月刊業界誌を目指して…」「タブーに挑戦! 時代をぶっとばせ!!」を標榜する業界誌の現場に、そんなわけで私は今年2月以降、週に3〜4回は出入りするようになった。ただ先日には取材で物凄いミスをやらかして(幸い校了前にみなさんのおかげでフォローできたが)「お前のおかげで半年で会社潰すとこだったぞ!」と上司、もとい編集代表の今井さんに怒られたが、こういう関係は20年ぶりに一緒に仕事をするようになった今も基本的に変わっていない。
そんな職場に、中川さんは午後になるとひょいっと現れた。相変わらず編集者としてゲラの束などを抱えながら、写真のような人懐っこい笑顔で。今井さんとは一見キャラクター的にずいぶん違うように見えたけど、仕事中の今井さんと軽口を叩いたり、私などにはついていけないような濃い議論をしながら、事務所に用意された焼酎を引っ張り出してクイッと仰いで、やがて「んじゃ、これからまた打ち合わせがあるんで。じゃあな」と言いながら軽やかに去っていく。
そうした態度は私みたいな「弟分の弟分」にも変わることがなかった。あれは7月の初めだったか、「出版人」の事務所に電話をかけたら「はい出版人です!」と、いきなり今井さんでもないオジサンの声が聞こえてきたので一瞬「誰だ?」と思ったら中川さんだった。
「いま誰もいないからさー。俺が留守番してるんだよー!」と陽気に言いつつ「この前あなたがインタビューしてた女性(
OurPlanet-TV代表の白石草さん)、面白いし、俺も会ってみたいから紹介してよー!」
「は、はい、わかりました(汗)」
そう、中川さんは私が「出版人」を舞台に書いた記事にもきっちり目を通してくださっていた。その後、7月の半ばに事務所で会った際には私が書いた別の記事を見ながら、
「お前な、この書き出しが余計なんだよ! これで読者が食いつくと思うか?」「ここの一文は余計なんだよ!」とビシバシ突っ込みをもらって、ひたすらたじたじ(汗)。
さすが海千山千の編集者&ライター……と圧倒されまくったものだ。今井さんにも「お前、六ちゃんの指摘はすごく的確だぞ!」と言われ、何だか20代の駆け出し編集記者の気分に戻りながら訊いた(まあ、ここに来ると常にそうなんだ。来年には50歳になる私がまるで自然に“あの頃”の自分に抵抗感なく戻ってしまう)。
「じゃあ、次の打ち合わせがあるから」と言いながら例によって飄々と出て行きかけた中川さんだったが、ふと振り返り、私に向かって、また爽やかに言った。
「何か『これを書きたい』っていうのがあったら、俺んとこに持ってこいよ。じゃあな!」
「は、はい!(汗)」
それが2か月前の話。まさかそれが中川さんとの最後の会話になってしまうなんて、その時は想像だにしなかった。アワプラの白石さん(どんな思いを胸に秘めつつ「紹介してよ」と言ったのだろう?)の件はもとより、最後のあの時「実はこういうのがあるんですよ!」と持ちかけられる自分だったら……まさしく後悔先に立たずだ。
翌月には検査で、まさかの重い病状が明らかになり、余命いくばくかという話は聞いていたが、さすがに5日の朝に訃報が飛び込み、長年の兄弟分だった今井さんがfacebookに「中川六平が亡くなった。オレ、悲しくて気が狂いそうだ」などと書き込んでいるのを読むに、私もどうしていいかわからなくなった。だいたいオウム真理教でも在特会でも大して恐いと思わない私が心底恐い(もう一人心底恐かった人は年初に亡くなったけど)人が「気が狂いそうだ」などと書いてるところに、何を私が言えるというのか。
と思いつつも夕刻に事務所に電話すると、今井さんの奥さんがいて「いま外出中だけど、かなりショックを受けてるみたい」と、沈痛な声で教えてくれた。
「何しろ今年初めに社長が亡くなって、ついこの前も日名子(暁)さん、そして中川さんでしょう? 本当に兄弟分みたいな人だったし、ついこの前まで元気にここへいらしていたから私も信じられないのよ……」
スマホを握りながら思わず涙が出てきた。本当に人の命って、はかない(泣)。
ともあれ、御通夜は明日の夕方から。私も参列するつもりだが、その前の昼間にまた新大久保で
例のヘイトデモがあるとかで、そっちを取材してからになりそうだ。時間的には間に合うが、トラブルに巻き込まれて逮捕されないようにしないと。
実を言うと、このヘイトデモの話も中川さんに持ち込んでみようか? と頭を掠めていたのも事実だった。まだまだ取材不足だし、お目に適うかもわからなかったけど、今となっては――また言うけど後悔先に立たずだ。ですから明日は、新大久保でとっつかまったりしなければ御通夜に伺います。
よしんばそこで命を失ったら、あの世で真っ先に中川さんまでお話を持っていきます。でも、できたらもう少し生き長らえて、この世で形にできればとも思っていますので、どうかその際にはご勘弁ください。直接ご厚誼をいただいた時間は短かったけど、感謝の思いは生涯忘れません――合掌。

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