さらに遅まきながら、1月8日に福島県楢葉町の「福島第一原発警戒区域」直前の検問所付近で取材した記録(2月22日「
とりあえず“警戒区域”の前まで行こうとA(楢葉町・警戒区域前)」の続きです。
前回は映像つきでしたが、今回は取材終盤でスマホの電源がとぼしくなってたという事情から(^_^;)、写真とテキストのみにて以下、続きの御報告です。
東京から約240q、楢葉町の警戒区域前検問所を離れたのは15時過ぎのことだった。ここから一番最寄り(というか原発事故のおかげで目下東京方面からのJR常磐線の北限になっている)の広野駅までは約10km。で、広野駅発の上り電車いわき行きは16時51分。その次が18時40分だった。何しろ生活保護受給者ながら「青春18きっぷ」(1日あたり2300円)で東京まで鈍行での往復を画策しながら、広野駅からここまでタクシー代で3650円も使ってしまった私としてはこれ以上の出費は避けたい。なので
「歩く!」
と決意して、国道6号線をとぼとぼと徒歩で南下することに。「1時間半もありゃ何とか着くだろう」と考えた次第だが……(結果的に甘かった)。
不謹慎だと言われるかもしれないけど、“汚染”された楢葉町の、ススキが揺れる田園風景は私の目には美しく見えてしまった。かつて
本橋成一さんがチェルノブイリ事故後のベラルーシ(原発周辺地域)を描いたドキュメンタリー『
ナージャの村』や『
アレクセイの泉』を観た時と同じように。
しかし歩き出せば即座に美しくない光景に出くわす。まずは検問所に一番近いところにあった閉店中のファミマや「除染作業中」の掲示、伸び放題の草に隠されそうになったJヴィレッジの看板。
そして電光式の道路標示は「牛などの飛び出しに注意!」「許可車両以外立ち入り禁止」と訴える。畜産されていた牛が野牛化して、この先はどんづまりで車両が行き来できないはずの国道6号線。しかし行き交う車の交通量の何と多いこと。いずれも「警戒区域」内に用事のある東電の関係者たちなのだろう。青や白の防護服を着込んだ作業員で満員のバスとも頻繁に擦れ違った。
まあ、今さらそれに文句を言ってもしょうがないけど、この帰り道で歩いてみた国道6号線の歩道の荒れ具合はどうだ。もともと歩行者などはそんなに多くない幹線道路ではあろうが、あの震災・事故からつい最近まで立入禁止(今も実質的に人が住めない)になっていたせいか「ここまでになるかね」と言うくらいに雑草は伸び放題。時に掻き分けながら歩かなければならないほどのところもあって、身につけていた手袋や靴がトゲだらけに。
一方で沿道を眺めると、田畑に黒いビニール袋が並んでいる。「除染」された土を詰めたものだ。黙々と作業をしている人に話を聞きに行こうと思ったが、時計を見たらもう16時10分を回っている。だんだん陽が落ちて暗くなってきているし、何より帰路の電車に間に合わなくて今日中に東京まで帰り着けなくなるのだ(「青春18きっぷ」の1回分は有効期限が一日限りである)。この辺が貧乏ライターの辛いところだ。
それにしても、ああやって田畑の除染作業はやってるけど、この俺が掻き分けながら進んできた路上の雑草の除染はいったいどうなってるんだろう。はたして俺はこの日、何マイクロシーベルトだか何ベクレルを浴びたのかな。
そうこうするうち、楢葉町役場前を通りかかる。「エネルギー福祉都市 自然と科学が創造する豊かな郷土」と書かれた役場前の立派なモニュメント、これからどうするつもりだろ?
……なんてあちこち観察しながら歩いているうちに、もはや到底16時51分までに広野駅に到着できないことが明らかに。どうしようかな、6時半過ぎまで広野の駅で帰りの電車を待つか……などと考えながら夕暮れの国道6号線を歩きつつ横断歩道を渡った私は――いきなり車にはねられた!w(゚o゚*)w
いや、目の前の歩道が工事中だったんで反対側に渡ろうと青信号で横断歩道を歩いていたら、後ろから左折してきた車に右ひじをドン! と当てられ、右足のつま先をタイヤで踏んづけられたぐらいで大したことはなかったんだけど(転倒もしなかったし)、さすがに運転手は左折したところで車を止め「大丈夫ですか?」と聞いてきた。
「大丈夫だけど気をつけてください!」と叫んだ私は一瞬後、「まてよ?」と思い立って車に近づき運転手に聞いた。「どこまで行きますか?」
「四ツ倉(いわき市内)です」
「いわき駅まで乗せていってもらえますか」
「……どうぞ」
というわけで事故にかこつけてヒッチハイクしてしまったのである。実は6号線を頻繁に走る車を見ながらずっと「ヒッチハイクしてみようか」と想っていたのだが、おそらく1F(福島第一原発)関係者ばかりだろうと思ったのと、場所が場所だけに気が引けていたのだ。しかし広野駅ではなく、約25km南にある主要都市のいわき駅までたどり着ければ、東京方面への電車の本数が多いし、何とか今日中に帰京できるかもしれないぞ、と。
で、そのどさくさまぎれにヒッチハイクをお願いしてしまった運転手さんも、話を聞いたら東京電力の広野火力発電所の職員だった。もともと広野町在住だったが、震災というか原発事故を受けて避難。近隣の親戚の家などを転々としながら、現在はいわき市四ツ倉の仮設住宅暮らし。広野町の自宅は津波などの被害は受けなかったが、地震で屋内は荒れ、しかも長らく立ち入りできなかったために全体にカビが生えたりするなど、未だ住める状態にないという。
震災前は地元の農協の臨時職員だったが、原発事故で「雇い止め」になってしまい、やむなく東電の火力発電所に仕事を見つけて就職。で、この日はその勤め帰りの夕刻に「ぼ〜っと考えごとをして」運転していたら私をはねちゃったとか。
寡黙かつ真面目そうなかたで「本当にお医者さんに行かなくて大丈夫ですか?」と聞かれたが(確かに車を運転していて対人事故を起こした場合は、ことによったらひどくやっかいなことになるのだ。車を運転しない東京の人にはピンとこないかもしれないけど、私も昔バイクに乗っていたからわかる)、それよりもむしろ私は(大して痛みもなかったし、これを書いている今に至っても後遺症はない)、ここぞとばかりに福島の被災者の人の話をあれこれ聞いてしまおうとする。
「できれば警戒区域からヒッチハイクで帰りたかったんですが」
「ああ、それはやめたほうが良かったです。治安が荒れていますから……」
「荒れている?」
「(空き家に)窃盗に入ったり、喧嘩があちこちで起こっていますから……」
既にあたりは暗くなっていた。国道6号線はこのあたり、海岸べりを走る。途中、道路のガードレールにへばりついたようにもたれかかる船も見かけた。
「あれは津波によるものなんですか?」
「そうかもしれません。いわき市内も沿岸部で相当な津波被害が出ました……」
もとより寡黙な方なのか、あるいは私が(誤解のないよう)先に身分(フリーライター)を名乗ってしまった関係上、東電に務める身としては迂闊なことは言えないと思われたのかもしれない。それにしても、原発事故で職を失い避難生活を余儀なくされながら、それでも生活していくためには東電の施設で働かざるをえないというのだから悩ましい話だ。実のところ例の井戸川町長が「やっぱり再び町長選に出ます」と表明してますます波乱含みの展開になってきた双葉町(福島第一原発所在地。現在は役場が住民ともども埼玉県内に移転中だが今春にはいわき市に再移転の予定。詳しくは舩橋淳監督の
ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』公式サイトや、同じく
ドキュメンタリー映画『原発の町を追われて〜避難民・双葉町の記録』監督・堀切さとみさんのTwitterアカウントを参照)の住民の方々の中でもそうした事例が出てきていると以前に堀切さんから話を聞いたことがあるし、とにかくそうした意味からも地元・福島の人々の苦悩や苦労が偲ばれる。
話を戻して、この運転手さんは私をいわき駅まで送り届けてくれた後、親切にも改札口までお見送りいただき、携帯の電話番号も交換。翌朝には朝イチで「大丈夫ですか?」「もし今度こちらに来られるようでしたら、ぜひ御連絡ください」とのお声までいただいて、却って私のほうが恐縮した。ちなみに帰路の常磐線は途中の踏切事故とかで長時間運転見合わせになり、どうにか都内・中野の自宅まで帰りつけたのはちょうど午前零時だった。もしあそこでああいう事故に遭わなかったら当日中に帰宅できなかったか、あるいは余計な金を払って特急とかに乗らざるをえなかったくらいで、その後のお気遣いといい、私としては(変な話かもしれないけど)逆に感謝の念を覚える次第だ。まもなく震災から2年、原発被災地周辺の方々がいったいどんな実情のもとに生活されているのかも気になるし、春になったら(もう春か)、またこちらからご連絡してみようかと思う。

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