前日のお通夜に続いて昨日(30日)には正午から告別式。やはり今井さん御夫妻が門前で参列者への案内役を務めていた。前日の日記の件でFB上で御小言をいただいていたので「すみませんでした!」と御詫びすると「バカ、いいんだよ!」ということで斎場に入れと促がされる。
やっぱり私にとって一番怖かった「社長」の葬儀で、二番目に怖かった今井さんには今でも頭が上がらないのである。
「ヤクザみたいだ」と言われるかもしれないけれども、そうした親分・子分みたいな世界で私は物書きとして育ってきたし、そのことに対する恩義は忘れない。なおかつ、そういう時代を経験してきたからこそ、私は今でも本名(よく「ペンネームでしょ?」と聞かれるけど、岩本太郎はれっきとした親から授かった名前である)のもと、相手が誰であろうが筆を曲げずに自分の思うところを書ける。もっとも、そのせいか全然カネにならず生活苦につながる状態が延々と続いているのだけれども。
ともあれ、この日も往年にお世話になった方々と久々にお会いし、ご挨拶したり、温かい言葉をかけていただいた。もとより、どなたもお年を召されていたけど、こういう場に来れば(来年には50歳になる)私もやっぱり今でも“若造”なのだ。この時代にマスメディアの業界を目指す若い人たちには信じられないかもしれないけど、でもそうやってこの業界というか世界は伸びてきたんだよ? もとより、激変した今のメディア環境の中で闊達に生きる若い世代には理解不能な世界かもしれないけど……結局、私などが「そういう時代」を知る最後の「旧世代」になるのだろうか。
「お前が言う通り、そういった義理や礼節に拘るのは……俺が最後だと思っているよ」
20年前に会社をやめる際、社長は私の目を見据えながら噛み締めるように語ってくれた。
その社長と、昨日は永遠の別れをした。棺には生前のお気に入りだったスーツ(私も在職中に何度か目にしていた)が、前回も書いたような仏顔の社長の身体にかけられているのを見るに、何とも言いようのない思いがこみ上げてきた。
出棺の際には遺影を抱いた息子さん(現・取締役)と目が合い、「頑張って」と声をかけた。本当なら私は他人に対して「頑張れ」とか「頑張って」などと言うのが、どこか偽善的に思えて好きではない。でも、会社の決して優良ではないOBである私には、そう声を掛けることしかできなかった。かつて在職中にアルバイトとして会社に来ていた学生時代の彼のことはよく覚えている。それだけに「ごめんね。何もできなくて」との思いが残る
出棺が終わった後、今井さんと、私が入社する以前の「会社」OBの方と三人で近くのお店に行き、昼間からワインのボトルを空けながら語り合う。その中で、私が退社後にフリーの物書きとしてやってきた仕事への辛辣な批評をいただく。私自身も「社長や今井さんがこれ読んでどう思うかな……」との思いが絶えず頭の片隅にあり続けた20年間だったから、真摯に聴く。
ただ、本題は今井さん自身のことだったんだけど……これはおそらく近日中に
ご自身のブログで公表されることだろう。
玄関前に塩を撒いてから帰宅し、一風呂浴びて衣類を全部着替えたら、いきなり全身に悪寒が走るようになった。使い捨てカイロ(なんせ金曜官邸前取材とかにほぼ毎週行っているので買い置き分がたくさんある)を全身に身につけ、厳重防寒装備をしたうえで、今度は19時から新宿の紀伊国屋書店新宿南口店で開かれた「リック・タナカさん&糸長浩司さんライブトーク」を観にいく。5年前の「G8メディアネットワーク」以来、懇意にしている須藤晶子さんが紆余曲折を経ながら8年がかりで翻訳に関わってきた『
パーマカルチャー』(デビッド・ホルムグレン著)の出版記念イベントで、メイン翻訳者(でいいのかな?)の
リック・タナカさんや、
糸長浩司さん(日本大学生物資源科学部教授、
NPO法人エコロジー・アーキスケープ)、版元の
コモンズ代表・大江正章さん、そして客席からいきなり突っ込み質問を入れてきた、あの
加藤登紀子さんによるトークを聴く。
何せ上記の著書自体をまだ読んでいないので何とも言えないのだが、話を聞きながら、この間ずっと気になっている
坂口恭平氏の「0円ハウス」や「新政府」との相似性が気になっていた。リックさんや糸長さん、大江さんともそんな話題をまじえながらしばし懇談。やっぱり何か新しい(というか既存社会のメインストリームに対しては明らかに異質な)胎動が生まれ始めているようだ。
リックさんは数日後にオーストラリアだかニュージーランドに「帰る」そうで、次回の「来日」は「わからない」とのこと。「でもスカイプでやりとりできますよね」と言われたんで、私もスカイプを使いこなせるようにしないと(^_^;
終了後は須藤さんと一緒に御飯。やはり「フリーランスの置かれた現状」についての話になる。須藤さんは翻訳者でありライター。私はライターしか能がない人間だけど、やっぱり「翻訳とか文章を書けるというスキルに対する業務的にまっとうな評価がまるでない!」という話題になる。もう出版業界の産業としての衰退に伴なう現場(特に編集者)の質的劣化は明らかなんだけれども、一方で私たちのように「オルタナティブ・メディア」や「メディア・アクティビズム」みたいな存在に関わってしまった者たちにとっては「もはやそんな出版業界とかマスメディア業界なんて相手にしてもしょうがないんじゃない?」との諦念が広まりつつある。とはいえ、私のような単なる雑文書きはともかく、須藤さんのような「翻訳」といった仕事(それも上記のような書籍を8年がかりで翻訳して世に出してきたのだ)をプロフェッションとしてきちんと評価し、生活できるような対価をきちんと支払える状況に、いったいどうやって持っていったらいいのだろう? まあ、ぼちぼち出版業界の先行世代は引退しつつあるので我々が既存のスキームに拘らずに自由に考えて実行していけばよい話なのだろうが(なんて、他人事のように言っちゃいけないな。また怒られる)。
などなど、そんなことを考えさせられた昨日。たぶん、今日はこれを書いた後は終日へばって寝てますf(^_^; ではでは。

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