というわけで「
くびき野メディフェス2012」終了後は、橋爪明日香(はっしー 現「
FMとうみ」=写真左)と共に、上越市内の荒川毅さん(
上越ケーブルビジョン/JCV)の御自宅まで押し掛けてしまったのであった。
「え〜と、俺もあちこちふらふらしてるけど6時には身体が開くから」と電話で語っていた荒川さんにわざわざ高田駅前まで車で出迎えてもらって、御自宅に向かう。
「え、今日はお仕事だったんですか?」と、車に乗り込むなり聞いたら「いや〜、独りで山に行って焚き火やってた」という。何だかジャック・ロンドンの『焚き火』か村上春樹の『アイロンのある風景』みたいだ。
荒川さんと初めてお会いしたのは、思えば既に10年以上前のことになる。2001年の8月末だったか9月上旬、「民衆のメディア連絡会」(現在の「
ビデオアクト」や「
レイバーネットTV」へとつながる動きだった)が東京・飯田橋で開いた会合に、荒川さんが新潟から来ていたのだ。
ちなみにこの日の会合終了後に「MXTV内紛の記事を『GALAC』に書いてませんでしたか?」と声を掛けてきたのが、当時そのMXTVを辞めて「インターネットによる独立放送局」、つまり今の「
OurPlanet-TV(アワプラ)」を立ち上げようとしていた白石草さんだった――って話は、そういえば以前にもう書いてたっけ?
まあいいや。いずれにしても思い出深い記憶だ。当時、私は以前として『創』や『GALAC』でマスメディア業界批評の記事を書く一方で、その少し前に九州・熊本の山江村で
岸本晃さんが開いた「住民ディレクター」のワークショップに初めて参加した直後で、“市民メディア”という存在が気になりだしていた(逆に言えばテレビだの新聞だの雑誌だのの「旧型マスメディア」の動向レポートや批判記事に飽き始めていた)頃だったのだ。
思えば、それはまだ当然ながら「YouTube」も「USTREAM」も「twitter」も「facebook」も「スマートフォン」もないどころか、インターネットもブロードバンド環境が未だ整わず、「動画配信」ましてや「生中継」を一般市民が手軽に出来るなんてことが夢想だにできない時代だった。信じられないけど今からたった10年ほど前の話で、そんな時に私たちは互いに初めて出会った。
荒川さんはもともと新潟市の出身で、地元の民放放送局の社員だった。報道記者として活躍し、例えば1995年の阪神・淡路大震災の際にも在京キー局系列による動員を受けて、それはそれは獅子奮迅というか殺気立つほどの取材活動に取り組んだらしい(と、当時を知る娘さん=後述=から聞かされた)。とにかく、バリバリのテレビ報道マンだったのだ。
そんな荒川さんが後に転勤により県内西部の上越支局に転任――したところが、上越市の独得の風土に惚れ込んでしまい、地元のCATV局であるJCVに転職する。東京での「民衆のメディア連絡会」の席で私と初めてお会いしたのは、確かその頃のことだ。
二度目にお会いしたのは、確か2004年の10月に前述の岸本さんが、千葉県の幕張メッセで毎年この時期に開催される国内最大のIT産業見本市「CEATEC」に、熊本県の山江村で養成してきた住民ディレクターらを中心に会場内のブースから発信したインターネット放送「ユビキタス村」でのことだった。その期間中のある日に、私が司会者として受け持ったレギュラーの公開生放送(その日のゲストは千葉県庁の高橋輝子さん)を終えた後に、JCVからの取材クルーとして「いや〜、不完全燃焼だったんじゃない?」と声を掛けてきたのが荒川さんだった。
ちなみにその前日のゲストは
下村健一さん(元TBS報道記者で、最近は内閣府勤務を経て再び自由の身?になったらしい)で、以前の地上波民放局時代から昵懇の付き合いのあった下村さんから「あれ、つまんねーぞ」と聞かされたうえで来たらしい(笑)。ともあれ、中継終了後にステージ脇でしばらくあれこれお話を交わした次第だったのだけど、ところがその翌日のほぼ同じ頃、引き続き幕張メッセにいた私の携帯に荒川さんから電話が入り「上越でも市民メディアを立ち上げて12月に『交流会』を開くので、そこで全国の市民メディアの活動について講演してくれませんか」と依頼されたのだ。
それが、個人的にそれまでほとんど縁のなかった上越市および「
くびき野みんなのテレビ局」(みんテレ)との御縁の始まりだった。だから荒川さんがいなければ、私が上越という町や「みんテレ」メンバーなど地元のみなさんとお会いする機会もなかったのだ。
その際、荒川さんに車で上越市内の寺町や、上杉謙信ゆかりの春日山などを案内されながら、やがて雪の季節を迎えようとする「頸城野(くびきの)」の街や平野を案内されたことも印象深い。夕方からJR高田駅前のホテルで開催された「交流会」の檀上に立った私は、会場を埋めた180人ほどの参加者の中に、屈強な体格を誇る若者の一団(なぜか結婚式でもないのに黒スーツに白ネクタイの人も数名)を見て正直檀上からびびった(汗)。地元に歴史的に伝わる青年組織の「おたや」と呼ばれる人たちだったが、終演後に挨拶に伺ったら、えらく礼儀正しい人たちだったので却って私が恐縮したほどだ。
実はその少し前「みんテレ」の発足以来過去半年間の作品を審査委員(汗)として表彰するという大任も仰せつかっていたのだが、その中に『ドキュメント・ザ・おたや祭』というウルトラ地域密着番組が出展されており、拝見した私は「面白いけど『おたや祭』がどういう祭なのか、部外者には分からない」という感想を述べた。
それに対して荒川さんは「土地の人なら『おたや祭』がどんな祭かは知ってるし、その舞台裏を描いたのが面白いんですよ」という。なるほど、正直私はその意見に目から鱗が落ちた。全国放送ならともかく地域に根を張った、地元市民による「みんなのテレビ局」なら、そっちのほうが絶対正しいのかもしれない、と。
まあ、あとの講演で客席の「おたや軍団」を見ながら「この人たちを敵に回さなくて良かったと安堵した(?)私だったが、一方で地元の若い理髪店店主さんに会場で「まあ、ああいう悪い奴らはほっといて飲みに行きましょうね〜」と肩を抱かれ、この街に独得の「雁木」が連なる飲み屋街でみなさんと深夜まで飲み明かした。
と思ったら、翌日の朝に宿まで私を迎えに来た荒川さんは「今朝も(地元の町内会長さんから)『7時から近くの公園で掃除する様子を撮影したいのでガンマイクを貸してくれませんか?』って電話が掛かってきたんですよ〜」と、むしろ楽しそうに言いながら、私を市内のご自宅まで招いてくれた。内装にも木材をふんだんに採り入れた御自宅で、お食事まで振舞っていただきながら楽しそうに、自分のこれまでの経歴や「みんテレ」の面白さを語ってくれる荒川さんを通してではあるが、よそ者である私はこの上越という街が大好きになった。それが2004年の12月――気がつけばもう8年前のことで、以来、私は2009年までほぼ毎年連続でこの街を訪れることになったのだ。
などなど、やっぱり書き出すとキリがないので一旦ここまでにして、この次は「はっしー」篇ということにしようか。はっしー自身はまだ今回が2回目か3回目の訪問らしいが、実は微妙に上越市や荒川家と関わっている(?)のだ。その話を、できれば楽しみにお待ちくださればと。ではでは。

3