水島宏明さん(元日本テレビディレクター)が以下のようなことを書かれている。
「
番犬役を放棄 “誤報”を容認したBPO」
(WEBRONZA 2012年10月16日)
例のマスメディアによる「生活保護バッシング報道」について、水島さんや、生活保護制度やその運用の実態に詳しい研究者や実務家らが「放送倫理違反ではないか」と指摘し、「審議してほしい」と要請していた
BPO(放送倫理・番組向上機構)が「不審議」という結論を出したのことに対する批判だ。なぜ「不審議」になったかというと、ようするにそれは各局の「編集権の範囲」内である、というのがBPOの見解だったという。
実は一昨日(16日)、私は「
日本報道検証機構」という新たに立ち上がる団体の代表の
楊井人文(やない・ひとふみ)さんというかた(産経新聞出身の弁護士さん←さる6月に亡くなった
日隅一雄と同じ経歴だ)にお会いして取材してきた(これについては、そのうち『
週刊金曜日』で近々記事に書く予定)のだが、その席でも必然的に「放送局の番組内容をチェックする“第三者機関”としてのBPOについて話題が及んだ。
「
結局あれは放送局が何か不祥事を起こした時に公権力からの介入を防ぐための防波堤的な意味合いから作られた組織であって、誤報などによって被害や不利益を蒙った市民のためのものではない。つまり『対権力』のものであっても、市民や読者や視聴者のためのものではないんじゃないですか」
といったあたりで話が盛り上がった。
そう、私も1995年にフリーランスライターになった前後から、例えば93年にはテレビ朝日の「椿発言」問題とか96年の「TBS坂本弁護士ビデオ問題」、97年の「ペルー日本大使公邸襲撃事件取材問題」等々あたりより「国民からこんなに批判されているマスメディアを何とか規制できないか」と政治権力側が手ぐすねをひいて圧力を掛けてきた時代に、メディア批評を中心とする取材活動をしていたから、放送業界側が「我々自身で自浄能力を働かせますから」と“言い訳”的な意味合いからBRC(放送と人権等権利に関する委員会)のちにBPOという組織の設立に至ったあたりの空気は、今も肌身で思い出す。
だから――私も思うのだ。結局BPOというのはあくまで放送業界にとっての「政治権力に対する防波堤」としての意味合いが強い組織ではあるものの、「市民」なり「視聴者」のことを考えた存在には、結局なり得ていないんじゃないか? と。
前述したような政治権力がマスメディアに「国民からこんなに批判されている」という、いわば「国民を人質にとった」形での批判をぶつけてきた際、マスメディア側が本来やるべきだったのはそれに対抗すべく、いかに「国民」なり「市民」なり「視聴者」なり「読者」なりを味方につけながら跳ね除けていくか、だったのだ。
ところが、これは私もマスメディア業界を取材してきた感触からつくづく感じたことなのだが、マスメディア(の関係者)ほど「市民」が嫌いな業界って無いのね(苦笑)。
いや、単純に物言わぬ「視聴者」として「視聴率」に、あるいは物言わぬ「読者」として販売部数に直結してくれるだけの存在なら大歓迎なんだけど、自分たちの報道や放送に対して文句を言ってくる「市民」なんてヤツは、それこそ社内の「視聴者(読者)応答室」みたいな“クレーム処理係”に任せておきゃいい存在だというのが、たぶん今でも彼らの多くの本音なんだろう(まあ、確かにそういう部署に集まってくる声の中には「痛い(耳が、じゃなくて頭が)」内容のものがさぞかし多いんだろうなとは推測しますが)。
だからそれこそ「市民メディア」なんて存在に対しては「?」と思うか、のっけから「そんなのつまんないんじゃない?」と実際に見もせずに言う(実際に私に対してそう言ったのが、当時私が仕事をしていた『創』という“メディア批評誌”編集長の篠田博之氏)か、あからさまに嫌悪する態度を示す。
むしろ、そういうところから立ち上がってきた市民メディアとか独立系メディアとかに対しては「不逞の輩」とみなして排除しにかかるというのは、本ブログでもこのところ何度か書いている「国会記者会館」側の対応にも見られる通りだ。なにしろ「我々は明治以来、120年間、国会と信頼関係がある。既得権には、もちろん商売上のものも含まれる」とか言いながら、我々フリーランスのライターたちには「(あなたたちに)取材する権利はない。(あなたたちの取材は)妨害する 」とか平気でのたまう。そのくせBBCみたいな国際的な影響力のあるメディアに会館の屋上からの撮影取材を求められたら応じたという。
ようするに国家とか政治権力だけでなく、本来そこをチェックするはずの存在だった大手マスメディア自体が、今ではずっぽり権威主義にハマっているのだ。本当に虫唾が走る。
で、話を「生活保護バッシング報道」に戻すと、実は私自身が(この日記を以前から御覧いただいているみなさんはご存知の通り)目下ライター業で食い詰めているのに加えて鬱病を患っているということで目下生活保護を受けているので、そうしたスタンスから一体どんなふうに自分の考えを述べていったらいいのか、実はここ数か月間ずっと考えあぐねてきた。別に「
俺は生活保護受けてるぞ。何が悪い!」みたいな開き直りで書いても良かったんだけど、書いたところでたぶんそんなに反響も無かっただろうしな(笑)。
それに、そうしたわけで私自身も敢えてそうした関連報道をなるべく見ないようにしてきた。見れば頭にくるどころか、余計に鬱病が亢進して寝込むことになりかねないと思ったからだ(実際ここ数か月間は『週刊金曜日』での取材および執筆や、官邸前抗議行動のウェブ中継で外出する以外は、ほとんど自宅に引きこもり、布団の中で眠りほうけている)。
結局ここでも大手テレビ局や新聞社などのマスメディアに所属する人たちにとっては「生活保護を受けなければ暮らしていけない人々」という存在が理解できない、というか「社会のゴミ」のように感じられたんだろう。なんだかんだいってマスメディアの人たちも「サラリーマン」であり、しかも(実際にテレビ局の給与体系とかを取材したことがあるからわかるが)かなりの高給取りだ。
もっとも、昨今の経済環境下でテレビ局や新聞社の社員の給与はもちろん、現場での過剰労働も深刻になっていると聞く。そんな人たちから見たら、働かずに生活保護をもらってのうのうと生きている人たちの存在自体が許せん! と思ったのかもしれない。なおかつ、折しも芸能人がらみで制度の問題も絡めつつ「ここは水に落ちた犬を叩けるぞ!」と、うっぷん晴らしで大キャンペーンを張ることもできたのではないか……と、そんな気もするのだけど、どうだろ?
そのうえで、さらに話を戻して「日本報道検証機構」の楊井さんとの話に戻ると、今回こうした組織(といっても目下のところ任意団体で5人ぐらいしかメンバーがいないそうだが)を立ち上げるきっかけになったのは、やはり「3.11」だそうだ。「あれ以来、マスメディアに対しての『本当に正しい情報を伝えているのか?』という疑念が、市民の間に凄く広まっているような気がするんです」。
まあ、そのあたりは近々『週刊金曜日』の記事にも書いたうえで、あらためてこちらでも問題提起してみようと思う。ただ、官邸前デモなどに参加している人たちの様子や話などを聞いていても、政府はもとより「マスコミはきちんとした報道を我々に伝えてくれているのか?」という疑念は相当深い。もとよりそれは、上記のBPOとか新聞の紙面審議会やらにはもはや追いつけないレベルに達しているように思えるのだ。

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