台風だね。つい3時間前ほど前に帰宅したところ、アパートの自分の部屋(1階)の前には、上から落っこってきた物干し竿がドアをふさぐように横たわっていたので、蹴飛ばしたうえで中に入った次第。
その後も窓の外からは「ぶをお〜おおおおおおおお!」という風音や、缶カラが転がっていく金属音が聞こえてきたりするなど、なかなか壮絶なものがあった。もっとも、今これを書いてる時点(6月20日午前0〜1時)では、東京都内ではとりあえず暴風雨のピークは過ぎたようだ。
(などと書きつつ、さっき外に出てみたら雨はすっかりやんでいた)。
そこで「
何だつまらない」などと書くと不謹慎の誹りを免れないだろうが、実のところ、私は子供の頃から「
台風が大好き」なのだ。というのも、今では台風による停電というのも昔に比べればずいぶん少なくなっているようなのだが、私がまだ子供だった1970年代には、台風による停電とか、台風接近に伴なう休校なんてのが結構ちょくちょくあって、今にして思えばそうした非日常的な情景がやたらエキサイティングに感じられたものだ。
その意味でも「我が意を得たり!」と後年に思ったのが、あの相米慎二監督による映画『台風クラブ』だった。その後にブレイクするバービーボーイズ(当時はまだインディーズだった)が挿入歌をうたい、工藤夕貴や大西結花といった当時の若手のほかに、三浦友和や尾美としのり、鶴見辰吾、寺田農といった個性派の俳優が演じたこの作品。注目を浴びて然るべしだったのに、当時はほとんどお蔵入りされていたところが、第1回目の東京国際映画祭のヤングシネマ部門で受賞したことなどから、にわかに脚光を浴びたのであった。
――と、同作品についての言及はとりあえず先送りするとして、とりあえず再び私がまだ子供だった約40年前の静岡での豪雨の話。
あれは1974年の7月7日、当時、私がまだ10歳のことだった――などと書き出したりすると大仰なんだけれども、静岡県の中部地域は台風がもたらした雨雲による、一晩で500ミリという記録的な大雨に見舞われた。通称「七夕豪雨」として、地元では今なお語り継がれているほか、旧清水市(現在は静岡市清水区)出身で、私と同年代の漫画家・さくらももこさんも確か「ちびまる子ちゃん」の中でこの「七夕豪雨」について描いていたのを見た記憶がある。
私の場合は当時、市街地の北の果てにあったオンボロ長屋に母と弟妹3人で暮らしていたのだが、はっきり言ってそれまで聞いたことがないほど凄まじい雨音(何せ屋根がトタンぶきだったもんで)のほか、当然の如く夜更けからは停電。しかも、すぐ近くに市街地まで通じる川が流れていたということで、朝方まで近所のオジサンが懐中電灯を手に何度か「大丈夫ですか?! 今んとこ、こうなってます!!」などと慌しく報告しにきていたのを記憶する。
ただ、幸いにもすぐ近くの川は決壊を免れた。ただし、市街地で合流する支流を遡った各地では大きな被害が生じたらしい(市内に住んでいた私の伯父も、経営する印刷工場が水浸しになってしまった)
そんな緊張感に満ちた一夜を過ごした後、翌日にその川土手まで行ってみた私は、下流に位置する静岡市の平野部が、まるで大きな池というか湖になってしまったのを目撃するに、正直「感動」してしまったのだ。実際、その眺めは子供心にはとても美しく見えたものだった……。
とはいえ、豪雨がもたらした被害は甚大だった。私が通っていた小学校は校庭が水浸しのまま11月まで使用不能になった(おかげで秋の運動会は3〜4回くらい延期になった)。
ちなみに当時まだ2歳だった妹たち(双子)は、その日の情景については全く記憶がないらしい。停電で真っ暗になった我が家で「きゃっきゃっきゃっきゃっ!」と騒いでたのは私も覚えているけれども。
そんな妹たちも今では二人とも伴侶を見つけて、それぞれの家庭を築いている。
もっとも東京在住の妹とは、数ヶ月前に一緒に食事した際にこんな話を聞いたことがある。我が家族は豪雨から半年後、静岡の市街地にある別の社宅(というか、戦前から建っていた築50年くらいのボロ家を、母親が務めていた会社より家賃なしで貸してもらえた家)に移り住んでいたのだが、そこもちょっとぐらいの台風や大雨で雨漏りするような家だったのだが、
「あたしは雨漏りが楽しかった……」
との回想には正直、笑うやら複雑な気分になるやら……でしたよ(^_^;
――んなバカ話を書いてるうちに、外はすっかり晴れ上がっていました。目が覚めたら快晴の大空に出会えたらいいな、ということで、とりあえずここまで。おやすみなさい。ではでは。

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