そんなわけで報告するのがえらく遅くなったけど、13日(日)は夕方5時から都内・一ツ橋の
如水会館へ。
今井照容さんの著書『
三角寛「サンカ小説」の誕生』の出版記念会に出席。
なぜ私がそうした会に出席できたのかというと、今井さんが私のかつての上司だったからだ。今からもう23年前の春、大学卒業と同時に東京に移り住んだばかりの私が、たまたま見た新聞の求人広告をきっかけにアポ無しで(しかもアルバイトと勘違いして)面接を受けに行き、その場でいきなり「今週末から見習い社員として出社せよ」と採用されたのが、今も今井さんが勤めているA社(出版・広告専門誌の版元)なのであった(そのあたりのより詳しい話は以前に
こことかにも書いたので、関心があればご覧ください)。ちなみに、その面接の場で最初に面接官を務めてくれたのが当時まだ確か30歳だった今井さんで、一方の私も間もなくようやく24歳になろうとしていた時期だった。今にして思えば本当にみんなまだ若かったんだなあ……と、しみじみ思う。
私はそのA社に以後5年間勤務し、5年後に「海外へ長い旅に出たい」という極めて自分勝手な理由により退職した。で、そんな自分勝手な理由での退職だった故、その後は互いに袂を分かつ格好となり、直接的な連絡はほとんどとってこなかったのだ。とはいえ私も「そういえばA社、今はどうなっているんだろう?」と以後も絶えず気になっていたし、A社や今井さんのほうでも、その後に海外から帰ってフリーライターになった私の近況を「そういやアイツどうしてるんだ?」と気にしてくださったらしい。
そんなわけで今回はお招きいただいたほか、会場では今井さんから「こいつは昔のオレの部下で、今はフリーライターやりながら生活保護もらってんの」などといったミもフタもないご紹介もしていただいたのであった。まあ事実だから仕方がないんですけど(苦笑)。
今井さんはとにかく博学・博識の人だ。何しろ確か中学生か高校生だった頃にマル・エン全集を読破したほか、とにかくありとあらゆる書物を精読。それも自分の好みだけではなく、時に「こいつの作品は大嫌いだ!」と思いながらもきちんと読み込んだうえで批判するという人だった。さらに、映画は年に数百本を観るという人だったが、一方で仕事に関しても決して手抜きをすることなく、独身時代にはラブホテルでも原稿を書いていた(本人談)というほど。いったい何時寝てるんだろう? という気がしてくるが、これもご本人によれば「睡眠なんて一日に3時間ぐらいあればいいんだよ」とのこと。
また、今井さんは公私共に実に顔の広い人でもある。私が最初に出会った30代前半のその頃にして、専門誌記者として既に出版・広告の世界に幅広い人的ネットワークを築き上げていたほか、プライベートでも数々のアウトロー的ジャーナリストや編集者と交流。とりわけ昨年亡くなられた朝倉喬司さんとの親交は厚く、数年前には『いま、三角寛サンカ小説を読む』という共著も出していた。今回の著作もそうした活動の延長線上にあるものだ。
一方で、そうした人の部下になった私は大学生活の5年間、ひたすら寮で惰眠をむさぼりつつ、暇があればバイクで峠道まで走りに行き、高原の原っぱに寝っ転がりながらひたすら「ぼ〜〜〜っ」としてきた人間だった。そんな男がいきなり東京にやってきて、そんな今井さんと一緒に仕事をすることになったのだから、そもそもノッケから上手く行くはずもなかった。
「こいつもオレみたいな上司の下で大変だったと思いますよ」と、終宴後の二次会の席で今井さんは参加者のみなさんに言った。「よく殴られたりもしたもんなあ、おい?」
「殴られはしませんでしたよ」と私は言った。「蹴られたことはありますけど」
実際、あの頃は毎朝8時半に出勤しては、まず社長(このかたも超がつくワンマン経営者だった)に1時間半ぐらい延々と説教をくらったあげく、その後にまた今井さんから1時間ぐらい説教されるという感じで、いったい俺はこの会社に仕事しに来てるのか怒られるために来てるのかと思うほどだった。退社後はきまって近くの赤提灯まで連れて行かれ、それこそ普通の飲み会では3時間ぐらい掛けて飲み食いするであろうという分量の酒と肴を30分間で全部平らげるように言われ、ようやく解放されたと思ったら、家に帰ってふらふらの頭を支えながら明け方まで原稿を書くという日常(締切間近だろうが何だろうが飲み会は常時あるのだった)。んで、徹夜して書いてきた原稿を提出するなり、一瞥した上司の今井さんが「こんなの全然ダメ!」と言って目の前で破り捨てる……そんな日々が入社してから3年ぐらいは毎日続いたという感じだったろうか。
とはいえ、その後に私が良し悪しはともかく、主にメディア業界の動向を追いかけるフリーライターとして曲がりなりにもやっていくことができたのは、やっぱりA社でそんな社長や今井さんに揉まれた日々があったからこそだったと思う。うん、あの会社にこそ、物書きとしての私の原点はあったんだなと、今では素直に認めることができる。
「お前真面目だからな」と、3次会でようやく隣り合うことができた今井さんは言った。「もっと明るくならなきゃだめだよ。暗いんだよお前」と今井さんは言った。
「そうですねえ、懐具合も寂しいですし」と私は言った。
「バカ、そういうことじゃない。お前はフリーライターなんだから、オレなんかよりもっと現場でいろいろできるはずなんだよ。オウムのことや貧乏ネタとか、お前にしかできないことがあるんだから、それを書け! 本で出せ!」
などなど。でも本当に、こうやって飲み屋で差し向かいで離していると、あたかも20年前の上司―部下の関係へと戻ってしまうかのようだ。
実は先述した「旅に出るから会社を辞めます」という話を最初に伝えたのが、その約20年前に今井さんと出張校正帰りの文京区の飲み屋で一杯やっていた時のことだった。おそるおそるその件を切り出した私に、今井さんは「うん、それは良いことだ。是非やるべきだ」と言ったのだ。
「でも、それには会社を辞めなければなりません」と私は言った。
「いいか岩本」と今井さんは即座に言った。「本当にそういうことで辞めるんだったら、オレが止める前に辞めろ? あと何年かしたらオレだって『お前、ちょっと待て。それはないだろ!』って言うかもしれないんだぞ?」
この今井さんの言葉に背中を押されるように、その半年後、私は会社を辞め、ユーラシア大陸横断の旅に出た。帰国後は一旦別の広告専門誌にしばし身をおいた後、フリーライターとして独立した。一方の今井さんは、今もA社にあって要職を勤めている。
そんな今井さんだが今年に入って、というか3月11日以降に突然『
新大陸vs旧大陸』(イーストプレス)、『
報道と隠蔽』(無双舎)、そして今回の本という具合に、次々と著作を発表し続けている。もとより、今のA社の内情について今の私はわからないのだけど、書店の店頭で手に取りながら、20年の歳月を噛み締めていたところだった。
「岩本、闘え! お前はオレの部下だぞ!」
別れ際に今井さんはそう言い、私も「はい!」と、往年の部下時代のままに身を正して言った。そう、会社を辞めてから20年近く経った今でも、私は今井さんの部下なんだな……と、素直に思える私なのであった。

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