目的地・大槌町で最初にバスから下ろされたのは、川原沿いにあるJAの元シイタケ加工場だか元ワサビ加工場のあった場所だった。ここに大槌町社会福祉協議会の災害ボランティアセンターがある。
30人ほどの我々ボランティア参加者はここで5〜6人ずつ数班に分けられ、いよいよ活動開始……かと思われたが、しばらくしてバスガイドのHさんに「すみません。ここから少し離れた別のボランティアセンターまで移動していただきます」と、ひたすら低身低頭の調子で言われ、再びバスに乗り込む。
先にも書いた通り大槌町は今回の震災で町役場も流され、住民の約1割が死亡または行方不明、約8割が避難生活を強いられているという状態だ。もとより地元のボランティア受け入れ態勢もあっぷあっぷの状況なのだろうし、実質的に今回が初めてのボランティアツアーだという岩手県北バスにしても慣れない対応で大変なのだろう。本業が観光貸切バスなどのお客様対応だというHさんもなかなか大変なのだろうな……と思いながら一旦バスに戻る。
それにしても、やはりこのあたりも相当なやられっぷりだった。海岸線からは2〜3km離れている一帯だが、町内を流れる川(小槌川)を遡って津波が押し寄せてきたのだ。川原にはなおも瓦礫やゴミが散乱し、国道沿いのショッピングセンターが足元からやられた無残な姿で佇んでいる。かと思えば、そのすぐ隣にはまさにできたばかりでピカピカのローソンが眩いばかりに営業中。震災後に急遽建てられたものらしいが、凄いコントラストというか人間の生命力を感じるというか、こういうのを見ると何だか複雑な気分になる。何にしても、これが地震から2か月を経ての状況なのだ。
再び走り出したバスが5分ほど、川沿いを遡ってたどり着いたのが「桜木町」という集落だった。小槌川の左岸(北側)、背後の山まで300mほどの平野に開けた住宅街。ここが今回の我々のボランティア活動地域となるようだった。集落の一番北(山)側にあって、かろうじて水害を免れたらしい桜木町保健福祉会館に、拠点のボランティアセンターが開設されていた。
ここで再び班分け等の割り振りを受け、ようやくボランティア活動がスタートした頃には既に朝10時半を過ぎていた。まず最初に私たち10人ほどが向かったお宅で行なったのは、床下になだれ込んだ汚泥の除去作業だった。跳ね上げた床下からドス黒い汚泥を書き出し、土嚢袋に詰め込んで運び出す。家屋一軒につき5〜10人ががりでの手作業ということで何とももどかしいが、とはいえこうするしか他にやりようがない。
この「桜木町」地区はもともと釜石市内にある新日鉄釜石製作所の従業員の方々が住み着いて開けたという住宅街で、そのせいか街路は広々とした通りが格子状に交差する、どこかニュータウン的な風情を持っていた。もっとも、住民の大半は今や高齢者であり、ようやく建てたマイホームが一発で津波にやられてしまった今回の事態についてはもはやお手上げの状態で、自宅からのゴミや泥の掻き出しには、それこそ他所から集まってくるボランティアの手を借りるしかないということのようだった。町内の各所にも、書き出されたゴミや泥を詰め込んだ土嚢がうず高く積まれていた。これって一体これからどうするの? と言いたくなる酷い状況だ。
ともあれ、午後2時過ぎまでの間に2軒のお宅での作業を終えてボラセンに戻る。宿泊地の遠野まで帰るバスの発車時刻は15時半頃と聞かされていたので「今日はこれで終わりかな〜」とかのんびり構えていたら、次の仕事が。川沿いにあるお宅から荷物を運び出す作業を割り当てられる。
んで、これが凄かった。桜木町の中でも一番川沿いの、土手に面した場所でモロに津波の直撃を受けたお宅から、荷物を運び出しては土手の斜面にとりあえず積み上げる作業。
当然このお宅自体は「全壊」と認定され、あとは取り壊すしかないのだが、その前に屋内に残った荷物をとにかく除去しなければならない。というわけで我々が出向いたわけであるが、屋内の床は既に泥だらけで腐食し、奥の押入れに入っていた衣装ケースの中にはヘドロと塩水で2か月間浸かったままになっていた衣類が残っていて、引っ張り出すや防塵マスク越しにも耐え難いような悪臭が漂ってきた。また、畳も水をたっぷり吸い込んだ状態で、運び出すには3〜4人が、腐食した床材を踏み抜かないように気をつけながらヒイヒイ言いつつ運び出さなければならない有様だった。
こんな状態の家屋が、まだこのあたりにはわんさか残っているのか……と、やりながら暗澹とした思いに駆られたものだった。とりあえず街角や土手に運び出したものを集めたものの、それは一体誰が回収のうえ最終的に処分するのか? 正直言って、ここに到着した初日の段階で、既に挫けそうになるものを内心覚えてしまった。
(つづく)

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