由香里さんからのお誘いで、東京都中小企業同友会の「障害者委員会」が渋谷駅前の商工会館で昨晩に主催した「ミニ学習会」に参加。
由香里さんの本業は医療系出版社の記者だが、一方では障害者の就業やスポーツ活動などの社会参加に深く関心を持ち、例えば現在では神奈川県内の郊外住宅地にある、知的障害者のみなさんがパン製造・販売を行なうベーカリー「ぷかぷか」の様子をビデオで追い続けている(その模様は現在
『「ぷかぷか」の夢を追いかけて』という日記風のブログで読める)。
さらに昨年12月には中国の広州で開かれた「アジアパラゲームス」(わかりやすく言うとパラリンピックのアジア大会だ)にも、年末進行のドタバタをかいくぐりつつ1週間の休暇をとって取材に駆けつけた(この模様もウェブサイト「
Paraphoto」で見ることができる)。
この広州の「パラゲームス」、日本ではマスメディアではほとんど報道されなかったが、アジア全域から42か国・地域(総勢約2500人)が集まる錚々たる規模の大会だったらしい。競技のほうもなかなか白熱していて、例えば全盲者の柔道(健常者の柔道とは異なり、まず互いに組み手をした段階から始まる)や5人制のサッカー(ゴール後ろに「コーラー」がいてボールの位置を示したり、派手なチャージの前に選手どうしで「ボイ」「ボイ」と掛け声で合図しながら戦うため、スタンドは競技中ほぼ沈黙。そのぶん得点シーンは「うおおお!」と沸き返る)など、健常者の大会とはまた別の面白さがあったという。
ところが、こうした白熱した競技の様子を日本のマスメディアはほとんど報じていない。「視聴率がとれない」と言っちゃったらそれまでなんだろうが、障害者スポーツのプロ選手もいるという欧米とは、やはりずいぶんと落差があるようだ。まあ日本ではまだまだ障害者スポーツ大会というとれっきとした「スポーツの一部門」というより「福祉活動」の一環という認識のほうが主流のようだし(確か所轄官庁もオリンピックは文部科学省なのに、パラリンピックは厚生労働省なんだっけ? 違ってたらごめんなさい)。
実際、こうしたパラゲームスやパラリンピックに出てくるような人々は「障害者」である以前に「アスリート」としての意識に満ち溢れているようだ。以前に長野のパラリンピック大会を担当した関係者の人に話を聞いたことがあるが、「いや実際『ゲレンデ周辺に段差が何pあろうが何でもねーよ。スキー板だってイザとなったら口に加えてでも上がってくし』って人ばかりなんですよ。なのに専門家の先生たちがくると『選手村がバリアフリーになっていない』とかいう具合に、話がどんどん福祉の方向に行ってしまうんですよ」
ようするに今でもパラリンピックやパラゲームスになると、話がどうしても「スポーツ」より「福祉」のほうに行ってしまう。しかもそれは一般の企業や官庁が人材を採用するに際しても、えてしてそっちの方向に行ってしまうのだろう。その意味で今回、東京都中小企業同友会というところがこうした「ミニ学習会」を開いたのは慧眼だったと思うし、そうしたことに意欲的に取り組むNPO法人(
STANDというらしい)が出てきているのは喜ばしいと思うが。
ちなみに、もう十数年前になるが長野でパラリンピックが開催されることになった際に、コピーライターの仲畑貴志氏が発案した「
両手があっても、人間です。両手がなくても、人間です。」なるコピーが直前になってお蔵入りになってしまったことがあったが、たまさか私はその件を取材し、フォトジャーナリストの清水一二氏(障害者スポーツをずっと追い続けてきた方)に意見を聞いたことがあった。あのコピーの代わりに何が相応しかった?」との問いに清水氏は即答したものだ。「
両手がなくても超人」。
「実際に彼らを撮ってると『凄えッ』って思うことばかりですからね。あんなこと自分には絶対できない。だから『超人』なんですよ。
『人間』じゃないよ!!」
そう、まずオリンピックにしろパラリンピックとかパラゲームスにしろ、そこに出てくる人たちには人智を超えた人々として敬意を払うべきなのである。足や腕がなかろうが、目が見えなかったり耳が聞こえなかったりしようが、それを乗り越えて優れたパフォーマンスを示してくれた人たちに、我々は「人間」以上の敬意を表してしかるべしなのだ。もちろん、スポーツ以外の分野にあっても。


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