東京都心で今年初の真夏日になったという一昨日(21日)は午後にM大学へ。学生さんによるインタビューを受けるためだ。
テーマは例の「
出版フリーランス・デモ」。ひょんな経緯から私のブログでこのデモのことを知り、ゼミの課題か何かで「フリーライターという生き方」についてのドキュメンタリーを、このデモを素材に作りたいとの申し出を受けたのである。そんなわけで先日来の本郷におけるデモ打ち合わせ(相談会)の模様なども取材しにきてくれたりしていたのだが、一度単独で私にインタビューしたいとの話があり、だったら私のほうからキャンパスまで出向きますよ、と応じた次第。
演習室らしき部屋の中で4〜5人の取材チームとビデオカメラを前に、総計で40〜50分ほど、あれこれと質問を受ける。というと何だか採用面接を受けに来た就職活動の学生さんみたいだけど、ここでは逆に20代前半の学生さんたちが、40半ばの私を相手に密室内で質問を浴びせてくる格好に。
聞かれるままあれこれ答えながら、今から約20年前、大学を出て広告業界誌の記者になったばかりの頃を思い出す。当時は私もまだ20代半ば。1人で企業へ取材に行ったら重厚な応接室やら会議室やらに通され、齢が1〜2回り上(3〜4回り上も珍しくなかったかな)のオッサンたちに取り囲まれ、「ようするに何が聞きたいの?」「こっちの言うことがわかってんのか、コイツ?」みたいなプレッシャーにひしひしとさらされながらインタビューしていたのを思い出す。時には途中でしどろもどろになってしまい、ロクに相手にしてもらえないまま取材を終え、どん底に落ち込んだ状態で戻ってきた会社で上司から「ばかやろう!」とさらに追い討ちするような説教を食らっていた時代……。
まあでも、この日の私は自分から先方の大学まで、しかも、いたってラフなジーパンとTシャツという格好で出かけていったことだし、別に学生さんに対してそんな無用なプレッシャーは与えなかったんじゃないか……と思うのだけど、とはいえ「取材する」側に立つと誰しも緊張するんだろう。学生さんたちなりに一生懸命考え込みながら質問したり、こっちの返答を(内心どう思って聞いていたかはわからないけど)受け止めている様子は伺えた。
終わった後、帰路の車中で「あれでよかったんだろうか」と思う。といってもそれは別に(M大学の学生さんたちの名誉のために言っておくと)今回のインタビューが内容的にどうこうだったということ以前に「俺は今回のインタビューにおける役目をきちんと果たせたのか?」と、半ば本能的に感じてしまうからだ。
その役目が「取材する」側(インタビュアー)か「取材される側」(インタビュイー)かという真逆の立ち位置だったにしても、同じ「インタビュー」という行為を成立させる行為に共同で携わった者として、やはり責任を感じてしまう。かつて私に取材を受けた人たちも、終わった後に似たような感興を抱いたんだろうか。
そんなことを感じるのも、私自身がここ数年、本業の「取材する側」とは全く逆に、「取材される」側に回ることが増えているからだ。もとより、そこで別に「俺はエラいんだ」とか勘違いしているわけではなくて、昨年までのメディフェスやらG8MNやら共謀罪TV、ひいては今回のデモのように「こちらから発信する」活動に足を突っ込んでいるケースが増えていることもあると思う。
取材「する」側も「される」側も、ある意味どちらも「一発勝負」だ。
取材「する」側にすれば相手が「きちんとこっちの質問に答えてくれるか?」(あるいは「何を言い出すか?」)が事前から気になって仕方がないだろう。
取材「される」側にとっても「きちんとこっちの言いたいことを伝えてくれるか?」(あるいはどんなふうに伝えられるか?)が事後まで気になるのだろうな、と。
同じ取材とかインタビューという行為でも、時折こうして全く逆の立場に立たされてみると、あれこれいろいろ想像を掻き立てられ、それはそれで面白いものだと思いつつ帰路の車中で振り返った次第。

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