昨日(15日)夕刻、りえぞうさんのmixi日記で知った。一度しかお会いしたことがない方とはいえ、感慨なしとはしない。
「
訃報:石井慎二氏(洋泉社社長・別冊宝島創刊時編集者)」(SankeiBiz 2月14日16:21)
一度だけお会いしたというのは、かれこれ16年前。私がまだ『宣伝会議』で編集者をやっていた頃のことだ。当時、私は「出版マーケットの開拓者たち」という有力編集者への連載インタビュー企画を手掛けており、その第2回目(同誌1994年11月号掲載)で、当時まだ宝島社の取締役として『別冊宝島』(1976年創刊)に関わっていた石井さんに、都内・麹町の本社までインタビューしに行ったのだ。
『別冊宝島』は今では版型もB5版の雑誌に近いスタイルとなっているが、当時はまだA5版・200ページほどの、まさに雑誌(Magazine)と書籍(book)の中間にあるムック(Mook)の代表格ともいえる存在。『おたくの本』『80年代の正体!』『ニッポンと戦争』等々、1990年代初頭のその時期に、まだ30歳の若造編集者&記者だった私にとって見逃せないシリーズだった。
そんなわけで自ら企画のうえ、取材相手選定からインタビュー、記事の執筆まで全部自分でやるという連載の2回目で石井さんに1対1でのインタビューをお願いしたわけであったが、これがまた実にスリリングな内容になった。
早稲田大学政経学部を1966年に卒業した石井さんは、なぜか都庁の交通局に1年ほど勤めた後、フリーの編集者や記者を経て宝島社(当時はJICC)に入社。月刊『宝島』の編集長を経て、1976年に『別冊宝島』を立ち上げる。
ちなみに、なんで都庁に就職したのかというと「労働運動をやりたくて、当時かなり戦闘的な労働運動をやっていた東京都交通労働組合(東交労)がいいんじゃないかと思って入った」そうだが「実際には肌が合わなくて1年で辞めた」とのこと。その後『噂の真相』との確執を「中核vs革マル」の代理戦争とか書かれたのは、ご本人もおそらく苦々しく見ておられたんではないか(苦笑)。
ともあれ、以下は当時のインタビューからの一部転載(聞き手は私です)。
謹んで御冥福をお祈り致します。
----------------------------------------------
――しかし『宝島』を引き受けたのが75年で、その翌年にはもう別冊を出されましたでしょう。
「『宝島』でずっと赤字をタレ垂れ流していても仕方がないので、じゃあ好評だった特集を膨らませる形で別冊を作ろうということになったんです。それで第1号の『全都市カタログ』を出したところが本体より売れちゃいまして(笑)」<中略>
――刊行ペースが増えるに従って編集の手法、あるいは内容的な面で変わってきた部分というのはありますか。
「<中略>もともとマーケティングなどをほとんどやらず、苦しまぎれに出したら当たったという経緯がありますので、あえて固まった編集の手法とかいうようなものはないんですね。そんなもので作ったら駄目なんですよ。成功した後から、あれが編集の手法だったといえるだけであって」
――普通は編集会議をやって、そこでみんなが持ち寄ってきた企画を全員で検討して全体の構成をするというやり方が一般的ですよね。そういうやり方というのは……。
「やらないです。そもそもウチは編集会議というものをやらない。制作進行会議というのはあって、最近アイツは遊んでるからこっちにつけようといった調整はやりますが、基本的には誰かがアイデアを思いついたらその都度僕のところへ持ってくる。そこでイエスかノーか保留かを決めるという形でやってきました」<中略>
――タイトルを見ていますと<中略>思いつきを思い入れで強引に形にしてしまったようなものが結構ありますよね。こういうのはそれこそ編集会議なんか開いていたら即座にボツになるのでしょうが。
「タイトルは最後に付けているんです。これは本づくりをよく知らない人たちが誤解していると思うんだけど、彼らはまず第一に企画書があって、それに沿った形で原稿を依頼し、返ってきたものをまとめれば本になると考えている。でも僕らは企画というものが最初にあるとは思っていないんですよ。あくまで最初は“思いつき”なんです。ごく簡単な斬り口とか方向性しかない。
例えば原発問題が起こった時に、どうやったらこれが本になるかを考えてみる。そういえば賛成派と反対派が議論したことがないじゃないか。だったら論点を整理したうえで、両者に議論させる本を作ろうじゃないかというのが最初の思いつきなんです。それいいね、じゃあ要するに原発論争だなというくらいの大まかなところからスタートして、資料を集めたり人の意見を聞いたりしていくうちに大雑把な論点が見えてくる。で、次の段階として誰に何を書かせるかを考えて、実際に書いてもらうということになるんだけど、そうやって書いてもらった原稿が、最初に編集者が考えていた通りのものになっていたら駄目なんです」
――え、なっていたら駄目、なんですか?
「つまり編集者というのはその問題については素人だし知識もない。そういう人間が最初に考えていたような原稿が上がってきたらロクなもんじゃない。編集者が考えている以上のものが集まらなければ駄目なわけでしょ。思惑と違うものが集まってきた段階で全体の構成を考える。ですから台割だっていつも一番最後に作っています。決まっているのは原稿の枚数だけです。そうやって最後にタイトルを決める。そこまでが企画の作業なんであって、最終的に出来上がった段階で“俺はこういうものを作りたかったのか”あるいは“こんなハズじゃなかったのに”というふうに企画自体を発見する。つまり本作りというのは目的指向的ではなく、目的追求的なものなんです」
----------------------------------------------
(以上、『宣伝会議』1994年11月号より転載)
1994年当時から2010年現在までの出版を取り巻く環境の変化はあるにせよ、いま読み返しても、何かハッと目を見開かされるものがあるなあ。

3