慈悲尾(しいのお)という、市街から安倍川を車で30分ほど遡ったその場所の近辺まで来たのは――いや、地名を耳にしたのも――静岡市に住んでいた二十数年前以来のことかもな、と斎場行きのバスの中でふと思った。
午前10時過ぎに市内の御実家を出棺し、斎場にて荼毘にふした後、再びご実家にほど近いお寺で午後1時から本葬というのが、市内に住む妹の夫(つまり私の義弟)の御母様の葬儀の日程だった。前夜に藤枝市(静岡市の西隣)の実家に戻っていた私は、出棺前に先方の御実家に出向き、そのまま本葬・初七日まで参列。
静岡市はこの時期としては典型的に、快晴のもと北側の山間部から寒風が吹きすさぶ快晴。参列された方々は60名ほど。「嫁方」にあたる岩本家からは、当の妹のほかは私一人が参列(前日の通夜には母ともう一人の妹と妹が参列したが、母は風をひいたのか発熱して欠席。もう一人の妹は仕事もあって本葬には参列できず)。
妹の旦那――私にこういうブログの作り方を教えてくれたU助くん――とはほとんど実の兄弟のような身内付き合いをいただいているが、先方の御実家とは、なにぶん私が東京くんだりでフラフラしていることもあって、私は普段からほとんど御挨拶もできていなかった。亡くなられた御母様にお会いしたのも、二人の結婚式を含めてこれまでの約十年間で二度ほど。それも、一昨年の夏に御実家まで挨拶に伺ったのが最後になってしまった。以前より御病床にあり療養されていることは無論存じ上げていたのだが。
先方の御家族・御親族に揃ってお会いするのも約十年ぶり。先方の御家族・御親族は静岡市西部の御実家近辺にまとまりながら暮らしている。高校を出るや家を飛び出していった不肖の長男坊を筆頭にバランバランな岩本家とは対照的なのである。その諸悪の元凶ともいうべき長男が、おずおずと参列した次第。
山の斜面にある古びたお寺でつつがなく本葬は営まれた。最後に御父様からの御挨拶で、初めてうかがうお話もあった。湯河原が御出身と聞いていた御母様だが、お生まれは北海道の夕張だったこと。幼少期に御両親を失い、しかも父親はシベリアで抑留中に亡くなったと伝えられるということ。
間もなく3歳になる姪っ子も、母親(妹)に抱きかかえながら葬儀の席にいた。事情も分からず周囲をきょろきょろする幼い顔を見ながら「ああ、この子もそういった来歴の道程の上にいるんだな」と。
葬儀が終わった後、待ってましたとばかりに畳の上を走り回り始めた姪っ子を「ようよう」と言いながら抱きかかえ、正面の御母様の遺影の前まで連れて行くと、幼心にも打たれたのか喜色満面の表情が一転、遺影を指差しながら「ばば、いない、ばば、いない」と何やら悲痛な声で言う。
抱きかかえた伯父さん(私)がしんみりしながら佇んでいたら、ほどなく彼女の従兄姉たちが集まってきた。母方(=岩本家、つまり私の兄弟妹)では唯一の“次世代”にあたる彼女にも、父方には既に上に4人の従兄姉がいて、とても愛されているようだ。幸せで何よりだ――と伯父さんは喜ぶ。
そんな席を後にして新幹線に乗り込み東京へ帰還し、夕方7時半には歌舞伎町の外れの新宿職安前へ。もちろん、そんな時間に職探しのわけもなく、ライター仲間のタミヲさんやりえぞうさんから「新年会をやりませう」と先週からその時刻に招集がかかっていたのだ。おじさんこと
ロフト席亭・平野悠さんのお招きによる大久保の韓国料理店で、元『SPA!』編集者で現A新聞の河井さんもご一緒した5人で深夜までわいわい。
「なあ、おい、生活保護っていくらもらえるんだよ! がははははははははは!」と、私と同様(?)鬱状態にあるという平野さんの話を「鬱病っていろいろあるんだなあ」と思いつつ聞きながら(なおかつ先刻までの静岡での葬儀の場との雰囲気的に著しいギャップに戸惑いながら)楽しく過ごす。
平野さんは20代でライブハウスの新宿ロフトを創設し、30代で海外放浪に出て、40代で大阪花博のドミニカ館長として日本にカムバック。50歳で
ロフトプラスワンを開店、60代の今も都内銭湯めぐりしたりデモに行ったり、はてはピースボートに乗って世界一周の旅に出たりしている(この前帰ってきたばかりだけど「また行く!」と言ってる)。
タミヲさんはそんな平野さんと深夜に卵かけ御飯をがっつきながらディープな方面の取材に奔走しまくっているし、りえぞうさんは“造反有理”ノリをイイ齢こいてやってるオッサンたちにさんざんブーたれながら付き合い続けている。“新右翼”の論客担当だった河井さんは反対側(?)の新聞に転職しながら、この日は全員解散場所の新宿駅まで仲良く腕を組みながら(笑)歩いていた。
そうしたいとおしい人たちに囲まれながら過ごしたという、疲れたけどとてもとても満たされた一日でした。

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