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伝説のベストセラー作家・五島勉の告白『私がノストラダムスを書いた理由』作家・五島勉インタビュー」(文春オンライン)
あの本が出たのは私が小学校の3〜4年生の頃。ちょうど第1次オイルショック後の暗い世相、私自身も父親の急死をきっかけに転居が続いた時期だったから、何やら得体のしれない不安を覚えながら本屋などで立ち読み(もちろん買わなかった)した覚えがある。
そして、後のオウム信者たちの多くはまさに私の前後の世代(まったく同じ1964年生まれは案外少ないみたいだけど)だった。
現実にやってきた「1999年7の月」を私自身はどんなふうに迎えたか。というと、駆け出しのフリーライター(当時35歳)として、まさにそのオウム信者たちが各地に転入しては地元の自治体や住民による反対運動が沸き起こったケースを訪ね歩いて取材していた、まさにその最中だった。
確かあの時、やはり住民との間でトラブルになっていた長野の転入先で地面を掘って「核シェルター」らしき施設を作っていた信者がいた。それについて当時取材した教団幹部に「これだけ住民と大騒ぎになってるのに今そんなことやってる場合ですか」と尋ねたところ、「彼は(ノストラダムスの)予言への備えのほうが重要だと考えたようです」と言われたのを覚えている。
ようするに予言されたスケジュールに備えておくことが先決で、それさえあれば目の前で自治体や地域住民なんぞ「世界滅亡」への対応にひっくるめてどうにでもなる。「今は近隣社会との話し合いよりも核シェルターが先決だ」というのが、信仰者である彼らにとってのリアリティだったらしい。
そこに横たわる絶望的な乖離に「それでも俺って、何だかどっちの気持ちもわかるような気がするんだけどな……」と溜息をつきつつ、教団移転先に向かう田圃の中の細道を汗を拭き拭き、周囲につんざく蝉の声と、頭上につんざく報道ヘリの声も浴びながらとぼとぼ歩いていた――。
それが私の1999年の夏休み、にはならなかった7月。

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