極めて遅まきながらではあるのだけど観てきましたよ、『
この世界の片隅に』。
んで感想は……………………やられたかなってところかな。
上映前、客電が落ちる直前になって通路を挟んだ隣の席にいた女性がポップコーンの容器をひっくり返して凄絶に床にぶちまけたんで「うっせーな〜、集中できないじゃんか!」と苛立ったり、途中で(尾籠な話で申し訳ないのですが)尿意を覚えたのに「始まる前に済ませたはずだぜ〜」とまた苛立ったりしながら「まあ最後まで我慢できるか」と思っていたら……いつの間にか気にならなくなってた。
終わりのほうで目から涙が出て仕方なかった。いや、私はもともと弱視のせいなのかどうか知らないけど、暗い中でずっとスクリーンを見つめ続けていると別に感動しなくても涙が出てくるほうなんだけど、今日は何だか知らないけど、指で拭っても拭っても涙が出てくるのだ。あれ、変だぞ。感動してたっけ?
淡々とした展開の作品で、しかも今日は何やら朝から虫の居所が悪かったことの気分転換も兼ねて観に来たらポップコーンだ小便だで集中できないよなあってぼやいていたら、結局最後まで片時もスクリーンから目が離せなかったし、客電が灯ってからも、席から立ち上がれるようになるまで少し時間がかかった。ちょっと、こういう経験って私には滅多にないことだ。
それにしてもあの絵柄で、あの抑制の利いた展開が、72年前の8月まで2年弱の、それも私自身はまだ訪ねたことのない呉という町の手触り肌触りへの想像をこんなにリアルにかき立ててくれるとは……。
まだ観てない人もいるだろうからネタバレにつながりそうなことはあんまり書かないほうがいいかもしれないのでストーリーに触れるのは一部だけにしておこう。
まず、最後のほうで玉音放送を聴いた直後にすずさんが怒る場面。あれはそれまでの作中の経過の中での彼女のキャラクターからすると普段通りぼけっとやり過ごすところだったんじゃないかと意外に感じた人もいたかもしれないけど(私も一瞬そう思ったけど)あれはあのほうが自然だったんじゃないかな。
たぶん彼女は、戦争が終わってしまったことに怒ったのだ。
無論、すずさん自身はあの戦争の目的とか意味とかには無頓着だったろうし、自分が住む世界の片隅以外でどんな事態が進んでいたのかも(彼女なりに関心や想像はしていたようだけど)まるで知らない。ただ、彼女なりに戦争という日常に真摯に向き合っていたし、身内の子を自分の片腕と共に失うまでして生きていた周囲の世界を愛していた。腕を失ったすぐ後、家に飛び込んできた焼夷弾の炎を最初は生気のない目でしばらく見つめてから、俄かに獰猛とも言えるような勢いで消しにかかる場面があったけど、そこにはあまり悲壮感が漂わない。
その戦争が勝手に「終わらされた」ことに対しては、むしろ「もっと続いてほしかったのに」に近いぐらいの思いを彼女は抱いたのではなかろうか――まあ、こういうことを書くと戦争被害者を愚弄するのかみたいなお叱りの声をいただいてしまうのかもしれないけどね。
帰宅してからパンフレットを開いたところ、原作者のこうの史代さんがインタビューに応えて、こんなふうに語っている下りがいきなり目に入ってきた。
《連載当時の2007〜2008年に比べると今は、世の中が「風化しそうなものを語り継がねば」という気分よりも、むしろ新たな戦争に近づいている気がします。ともすれば戦争もやむなしと考えてしまう時、想像を巡らせるきっかけぐらいにはなるかもしれないです》
そう、私も観ながらこの映画は「過去についての作品」というより、どこか「近づいているかもしれない新たな戦争」を暗示しているのかもしれないという印象を持った。そしておそらく「戦争もやむなしと考えてしまう」萌芽は、この作品に出てくるすずさんたち登場人物にも見て取れるだろうし、私自身にもあるのだと想像をめぐらせてみたりもする。

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