2020/9/17

「深刻なことにまともに向かい合えない頭脳の話」〜ドコモ口座とコロナ感染  言葉


 深刻な問題なのに頭に浮かんでくるのはオチャラけた話、
 誰が考えたってそれをやったら怒られることを平気でする、
 どこかに共通点はあるのだろうか?
 それにしても頭のタガが緩んでいいないかい? 気をつけよう。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(写真:フォトAC

【ドコモ口座とコロナ感染】
 昨日はドコモ口座の話から始めましたが、この「ドコモ口座」という言葉、気持ちにしっくり馴染んでいます? 私は文字を何度見ても、ネット上の銀行口座というより田舎の素人劇団のイメージが浮かんでくるのです。だって、
「ドコモ口(どこもろ)座(ざ)」ですよ。
どう見たって田舎劇団か劇場の名前でしょ?
 しかも劇場だったらステージ上でやっているのはフラダンス。頭の隅でハワイ料理の「ロコモコ丼」がちらついているのです。

 先日、テレビでニュースをつけながら別の仕事に気を取られていたら、こんな言葉が聞こえてきて思わず顔を上げました。
「皆様が安心して感染できるように・・・」

 新型コロナ関連のニュースであることは頭の隅にあったので感染に関わる話だとは分かっていたのですが、まさか「安心して感染」など――と思ったら、画面には野球場の風景が流されていました。
 10月から観客を増やすために、「皆様が安心して観戦できるように、さまざまな対策を考えていきます」という話でした。
 そりゃそうだな。

 こうしたダジャレ思考についてはつい2か月ばかり前に書いたばかりです。
2020/7/13「横滑りする思考」〜ダジャレ頭がサビついて困っている

 そのとき例に挙げたのは、
「川が雑炊(増水)している」
「容疑者が避妊(否認)している」
「PCR検査で新たに妖精(陽性)になった」
の三つで、考えてみると「どこもろ座」にしても「安心して感染」にしても、茶化して遊んでいいような場面ではありません。真面目に、深刻に扱わなくてはいけない話です。
 それがなぜ、こんなことになるのか――。

 そう言えば私以外にも、緊張感の高いところでふざけたことしか思いつかない頭脳というのに、再三、会ってきました。


【深刻な場面で場違いなことをしたがる子たち】
 中学校の生徒指導の現場で、何を訊いてもまったく答えない生徒に対して、イラついた私が怒鳴り声を上げて、
「黙っていたら何もわからんじゃないか! ウンとかスンとか何か言ったらどうだ!」
と怒ったら、ほんとうに、
「ス
と答えた子がいました。
 火に油を注ぐというのはこのことで、そのあとこの子は私から、血反吐が出るまで怒鳴られました(もちろん誇張表現)。今から考えると見かけ以上に緊張していて、おもわず恐怖からそう答えたのかもしれません。

 小学校の子どもたちはさらに単純な世界に住んでいます。学校農園に草取りにいったらふざけて学級表示の看板を抜いたヤツがいて、
「何してんだ! オマエは!」と怒鳴ったら、
「く・・・草と間違えました」
 そう答えた小学校1年生。そこそこ大きな看板を持って震えながら「草と間違えました」と答える姿には、私の方が茫然としました。

 さらに(これは小学校5年生ですが)、空き教室で1対1で怒鳴っていたら、私を見る目が空洞みたいになって、次第に体が小刻みに震え出し、私が、
(これはヤバイかもしれない・・・)
と思い始めたとたんにいきなりバンザイの仕草で両手を挙げて、そのまま両方の親指を耳の穴に突っ込んで、
「ベーロベロ、バー」
とやった子がいました。
 あとで聞くと、あまりにも緊張感の高くなった場を和ませようと、咄嗟に思いついたのだそうです。“そんなことやったら絶対だめだろう”という考えはまったく浮かばなかったみたいです。


【それとは違うと思うけど・・・】
 いくら何でもこの歳で、災害や新型コロナに怯えてダジャレで気を紛らわしているとは思えないのですが、もしかしたら文脈から無意識のうちに単語の意味をつかむという選択装置が緩んでいるのかもしれません。

 真面目な場面で奇妙なダジャレにとらわれる私の頭は仕方ないとしても、それを口に出さないよう、人様と話すときは場をわきまえようと思います。

にほんブログ村
人気ブログランキング
5

2020/7/13

「横滑りする思考」〜ダジャレ頭がサビついて困っている  言葉


 もともと思考が深まる性格ではなく、
 連想に囚われたり気移りしたりすることも多かった。
 しかし連想したことがいつまでも離れないというのは最近のことだ。
 いよいよ頭がサビついてきた。

というお話。
クリックすると元のサイズで表示します
(「森の妖精」フォトACより)

【横滑りする思考】
 若いころからものを考えるとき、深く考えるよりは連想に足を取られることが多かったように思います。
 もちろん思春期には深く思い詰めることもありましたが、それは感情が沈潜することであって思考の深まりとはちょっと違いました。
 それは例えば数学の応用問題で、あと一歩、あと一分、集中力を途切らせず頑張れば解けるといったところで乗り越えられない根性のなさ、あるいは移り気、そんな感じのものです。

 ひとの話を聞くときも同じで、もちろん相手の話の進む先を漠然と予想したり楽しみにしたり内容を吟味したりしながら聞いているのですが、同時に頭の隅で関連する別の何かに気を取られたりしていることが少なくありません。その「気を取られたりしていること」に完全に心奪われるということはないので、「うわの空で聞いている」と非難されたりトンチンカンなやり取りになって恥をかいたりということもありませんでした。しかし余計なことを考えている分、会話が深まって行かないことはあったのかもしれません。

 この“ものごとを考えている最中に関連する何かに心奪われること”――を、私は「思考の横滑り」と呼んでいます。私自身に関して使うだけで一般化する気もなく、他人の思考についてとやかく言う気もありません。
 使い方は、
「ああ、ダメだ。思考が横滑りし始めた」
とか、
「横滑りでほとんど前に進まない」
といったふうです。


【誉めるなら笑え】
 日常生活では、「思考の横滑り」はしばしばダジャレを生み出します。言葉の本来の意味だけでものごとを考えていればいいのに、同音異義語に足を取られるのです。それを口にするとダジャレになります。
 それでも若いころはそこそこウケることもあって会話に弾みをつける上で便利だったのですが、本質は変わっていないのに歳を食っただけで「オヤジギャグ」と言われるようになり、家族からは迷惑がられ、家庭内では基本的に「いたずらに反応しないのが正しい反応」というようになっています。

 稀に娘のシーナだけが二コリともせずに、
「お父さん、今の、良かった」
と誉めてくれるのですが、“誉めるくらいなら笑え”というのが私の本音です。

 その「オヤジギャグ」に最近サビが出てきて困っているのです。本来の意味とダジャレの間で、行き来がスムースにできなくなっているのです。同音異義が混乱する――。


【オヤジギャグがサビつく】
 たとえばどんなことかというと、ほんとうに不謹慎で情けないのですが、今のこの時期、
「河川が増水する恐れがありますので・・・」
というニュースを聞くと「雑炊」が浮かんでしまうのです。荒れた川を雑炊の入ったお椀が流れていくといったところまではいきません。「ゾウスイ」は頭の中で8割くらいまで「増水」なのですが2割くらい「雑炊」という言葉が入り込んで、事態の深刻さにしっかり向かい合えないといった感じなのです。

「〇〇容疑者はいまのところ避妊しているとのことです」
・・・よほど特殊な犯罪でない限り、容疑者が「避妊」しているかどうかは問題になりません。したがってここは「否認している」が正しく、もちろんそんなことは分かっているのですが「避妊」がちらつく。

 さらに不謹慎な話で最近やたらとちらついているのが、新型コロナ関連の話です。
「昨日のPCR検査で新たに陽性になった人は○○名でした」
 このニュースで聞き間違えをする人など絶対にいないと思うのですが、私の頭の隅では「新たに妖精になった人」が飛び回っています。


【悪い予感があたりつつある】
 いつ頃からこうなのかというと、最も確かで最近の記憶は2年前の「信玄GO!(新元号)」です。

 このブログで「ポケモンGO!」みたいな位置情報ゲームを地域限定でつくって配信したらどうか、例えば上田市の街中をみんなで走り回って城を攻める「真田 de GO!」なんかはどうか、と書いたのが2016年7月(2016/7/29「ポケモンGO!」2〜「真田 de GO!」)。
 それから3年たった2019年の3月に初めて「横滑りする思考」について書いていて、そこで「信玄 GO!」に触れたうえでわざわざ、
 最近、もしかしたら次第に「自分自身も困るレベル」に向かっているのではないかと、心配になる出来事がいくつか続くようになってきたのです
と書いているのです。(2019/3/18「横滑りする頭」〜正の転移、負の転移) 

 それから1年4か月。
 私の悪い予感は当たりつつあるのかもしれません。


にほんブログ村
人気ブログランキング
4

2020/5/20

「真に教養のある人は、人に分かる言葉で語る」〜おい、小池! 英語を使うのやめろよ!  言葉


 やたら発言に外国語をさしはさんでくる小池東京都知事に、
 いまさらのようにイラつく。
 ときどき若者の中にも似たような話し方をする人がいるが、
 ダメです。あんなものの真似をしては。
というお話。
クリックすると元のサイズで表示します
(「子ども ステイホーム」フォトACより)

【都知事、部分英語で語る】
 小池百合子東京都知事がしばしば会見の中で使う英語表現については、ネット上にたびたび非難の声が上がっています。したがって今さら言っても仕方がないのですが、今回のコロナ事態に際して改めてニュース番組等に露出する機会が増え、必然的に付き合わされるようになると、やはり、あれは、ウザイ。

「いわゆるオーバーシュート、感染爆発の可能性がありますので、このままだとロックダウン、都市封鎖も考えなくてはならない事態となってきています。そこで皆さま、ステイホーム、おうちにいましょうということで、ソーシャル・ディスタンス、社会的距離をきちんと守り、すべてのステークホルダー、利害関係者がビジネス・アズ・ユージュアル、いつも通りの仕事につける日まで、頑張ってほしいと思います」
と、ここまで続けて言うことはありませんが、私のような英語音痴からするとなぜ日本語で言いなおすなら英語を使う必要があるのか、理解できないのです。


【外国語使用のルールと明治人】
 通常、私たちが外国語をそのまま使うのは、代わりになる日本語がない場合です。例えば初めて英米人と接した幕末期、日本には立派に「ねこ」がいましたから「キャット」という単語は定着しませんでした。しかし「ライオン」はいませんでしたからそのまま使うしかなかったのです。「獅子」は知っていましたが、あれは伝説の生き物で「ライオン」とは少し違います。

 現代で言えば「コンピュータ」や「インターネット」がそれにあたります。
 「コンピュータ」については、かつて「電子計算機」という訳語があったのですが、もはや計算機ではなくなって廃りました。
*私は中国語の「電脳」がいいと思ったのですが残念ながら日本では定着しませんでした。コンピュータはもちろん「compute(計算・測定)するもの」の意ですから、英語圏の人々にとっては相変わらず「計算機」のはずですが、彼らはどういう感覚で「コンピュータ」を使っているのでしょう? 一度聞いてみたいものです。

 “訳語はないわけではないが少しずれるので仕方なく”といった場合も、外国語がそのまま使われます。例えば「イメージ」には「心象」「印象」といった立派な訳語がありますが、イメージをふくらませる」とは言えても「心象(印象)をふくらませる」とはなかなか言いにくい感じです。そこで「イメージ」をそのまま使うようになります。
 そう考えて改めて小池知事の英語を振り返ると、そのどちらでもないことは明らかです。
 少なくとも「オーバーシュート」よりは「感染爆発」、「ロック・ダウン」よりは「都市封鎖」の方が分かりやすい。「ステークホルダー」や「ビジネス・アズ・ユージュアル」は私にとってなじみのない言葉や言い回しですが、小池知事本人が言い直しているのですから「利害関係者」「いつも通りの仕事」で構わないはずです。

 思えば明治の人々は偉かった。外国語は原則的に日本語に直すもの、日本語になければ作るものだと考えていたからです。
 哲学、真理、芸術、理性、科学、知識、定義、概念、命題、心理、物理、消費、取引、帰納法、演繹法、権利――これらは西周がひとりで作った言葉です。福沢諭吉の作った言葉としては社会、自由、経済、演説、討論、競争、共和、抑圧、健康、楽園、鉄道など。また森有礼も教育、開発、経営、人民、個人、商社、簿記などを残しています。
 彼らは安易に「フィロソフィー」「トゥルース」などとは言わなかったのです。もちろんそれだって英語を中国語に寄せただけではないかという言い方もできますが、漢語は日本に取り入れられて1500年以上の歴史があり、すでに消化しきった言葉です。「哲学」「真理」・・・こうした言葉を生み出している時の明治人の気概と真剣さ、労苦を思うと、気楽に「オーバーシュート」などとしゃべっている人に憎しみさえ覚えます。


【外国語の乱用はマウンティングか】

 外国語を多用する小池都知事の物言いに、傲慢さを感じると言う人も少なくありません。一種のマウンティング(日本語にはない概念なのでそのまま使います)だというのです。私もそう感じます。
 これは英語のできない私のような人間のひがみとも言い切れないでしょう。典型的なのが「アウフヘーベン(止揚)」と「メルクマール(指標・目印)」です。ともにドイツ語ですが、私たちより上の世代にとってはむしろ馴染のある言葉、典型的な全共闘用語です。

 小池都知事は全共闘世代はなく、いわば学生運動に「遅れてきた青年」世代、私と一緒です。「アウフヘーベン」や「メルクマール」は私たちにとってはとてもまぶしい言葉、非常に知的で情熱的で難解な単語でした。これを自由に使いこなせる大学生は、いつの日か自分がそうなるはずの目標でした。
 ところが私たちが大学に入るころには全共闘運動は急速に冷え込んで、呆れるほどあっさりと消えてしまったのです。「アウフヘーベン」も「メルクマール」も日常的な単語としては使う言葉ではなくなっていました。さらに言えば、こうした言葉を使う者こそ「真の知識人」「革新的な人々」として私たちの上にぶら下がったままになってしまったのです。

 私も意味は知っていますし使い方も知っています。しかし敢えて持ち出したりしません。すでに死語となったこれらの難解な単語を使えば、相手が戸惑い困惑するのが分かっているからです。それは人を人として尊重する人間のしてはならないことです。


【真に教養のある人は、人にわかる言葉で語る】
 言葉というのは総合的・有機的なものです。一部をいじって全体に影響を与えないということはありません。分かりにくい言葉、不要な外国語を入れれば全体が分かりにくくなったり、曖昧になったりします。少なくとも、その場で相手は一歩引いてしまうでしょう。
「アウフベーへンってなんですか?」とか「メルクマールってなんですか」なんて、教養がないみたいて聞きにくいじゃないですか。
「オーバーシュート、感染爆発の可能性があります」などと日本語をつけてもらっているだけでも、すでに「あなたには 分からないと思うから日本語もつけてあげるね」という感じで嫌な雰囲気です。
 私も若いころは好んで難しい漢字や表現を使いたがりましたが、歳をとってからはできるだけ簡単な表現を使い、「出来る」とか「更に」といった本来の意味を失った 漢字は使わないよう心がけています。

 昔は漢語や和製漢語を多用することが「賢い」という感じでしたが、今の若者の中には英語をたくさん入れることで教養人に見せかけようとする人たちがいます。しかしそれはいけません。真に教養のある人は、人にわかる言葉で語りかけようとするものです。ましてや政治家は、子どもにも分かるような平易な言葉と表現を選んで、国民や市民に語りかけるべきです。

クリックすると元のサイズで表示します(なおサブ・タイトルの「おい、小池!」は直接、都知事を呼び捨てにしようとしたものではありません。昔の指名手配写真に、そんなのがあったことを思い出しただけです)



にほんブログ村
人気ブログランキング
5

2018/12/4

「追熟トマトと昭和の野菜」〜今どきの野菜、昔の野菜  言葉


クリックすると元のサイズで表示します

 暖冬とはいえ12月に入り、やはり霜が心配にな朝もあります。
 家庭菜園ティスト(2016/6/1「家庭菜園ティストの話」)を自任する私の畑も、収穫して葉だけになったブロッコリをウサギのエサ用に残して、あとはすべて撤去・終了となりました。

 隣近所の畑にはこれから収穫を迎える白菜やらネギやらがかなり残っているのですが、わが家の菜園は家屋の北側にあってほとんど陽が当たらないため、作物の生育は悪く、土も凍り勝ちなので早めの片付けということになったのです。収穫できるものはすべて収穫してしまいました。
 ところが困ったのがトマトの類です。かなりたくさん実が、赤くならないまま残ってしまったのです。


【青いトマトの遇し方】
 青いトマトはピクルスにするとさっぱりとおいしいという話も聞きましたが、一方でジャガイモの芽に似た毒性があり心配、という話もあって、毎年逡巡して結局廃棄していたのです。もともとピクルスが好きでないという事情もあります。

 ところが今年、「青いトマトはヘタの方を下にして、陽に当てておくと追熟するよ」という話を聞き、段ボールに入れて数日縁側に出してみたところ、一部がどんどん赤くなって完熟トマトみたいになっていったのです。
 それが上の写真です。陽に当てて一週間ほどのちの様子です。

クリックすると元のサイズで表示します  他にも「リンゴと一緒に紙袋に入れておくと、リンゴから発生するガスのために熟してくる」という話もあって、そこでやってみたのが右の写真。下の一個がほぼ完熟状態で、上に一個、あと少しで真っ赤になりそうなのがあります。

 しかし赤くなるのは赤くなりますが、ならないものはまるでなりません。
 もうこれ以上は進まないのかな? と思ってあとは捨てるつもりでいたのですが、その後も赤くなり始めたトマトが出てきます。この分だと待っていればかなりの数が完熟トマトとして食べられるかもしれません。

 ただし、言うまでもなく旬のトマトほどにはおいしくありません。外はぶよぶよでも中は硬く、甘みもかなり少ないのです。
 ですから喜んで食べるというわけにはいかないのですが、サラダなどに赤みがないとやはり寂しいですから目で楽しむことを目的に、料理に加えてもらっています。もうしばらく続けてみましょう。

 しかしそれにしても私がトマトをこんなに大切にいとおしく育てる日が来るとは、子どものころには全く考えられないことでした。農業をしたことがないという意味でも、トマトが大嫌いだったという意味でも――。


【昭和中期の野菜事情】
 思えば私が育った時代と現代を比べると、食卓に並ぶ食材の数が違います。
 私が畑で作っているものだけを考えても、ブロッコリもオクラもモロッコインゲンも、ズッキーニもミニトマトも、そんなものは昔はまったくありませんでした。

 わずかにカリフラワーという新種の野菜が発売され始め、マヨネーズをたっぷりかけるとすごくおいしかった記憶はありますが、当時野菜と言えばキャベツに白菜、キュウリ・ナス・トマト、長ネギ・玉ネギ、インゲン・エンドウ・大豆、長芋・じゃがいも、ダイコン・ニンジン、小松菜・ホウレンソウ・・・だいたいそれで全部という感じでした。
 それも味が違う。

 昔の方がおいしかったということはありません。
 ニンジンは生臭く硬く、ピーマンはひたすら苦くてホウレンソウは灰汁だらけ。トマトにいたってはメチャクチャすっぱくて、噛り付くとそのすっぱい汁がぶちゅーッと飛び出てくるのです。しかも汁にはドロドロの種がいっぱい入っていて、田舎者の私には小さなカエルの卵を飲んでいるような気分でした。

 栄養があるから食べなさいと親に強要され、仕方がないので一番いやな汁の部分を先にズルズルズルと吸い取って、味の薄い果肉の部分をあとから食べたものでした。
 それに比べると、現代のトマトのなんとおいしいいことか。

 ニンジンもかつての生臭さがなくなり、生のスティックでも食べられます。熱を通したピーマンに甘味を感じるなどということは全く想像できませんでした。ましてや生でサラダに入ってくるなんて――。


【いい時代】
「昔の野菜は今の野菜と比べて味も濃かったし、栄養価も高かった」
という話があって、実際に文科省の資料でもその通りらしいのですが、旬にしか収穫できなかった昭和中期以前と違って、今は一年中いろいろな野菜が食べられますし匂いや味も改良されています。栄養は、その気になればいくらでも全体量として増やせます。

 少なくとも出された料理の食材を見てもため息をつかずに済む時代が来たのは、私にとって幸せなことでした。








にほんブログ村 教育論・教育問題
人気ブログランキング
2



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ