2020/4/14

「リンカーン、高杉晋作、タイタニック」〜4月14日はそんな日です。  歴史・歳時・記念日


 書くことが思い浮かばないと頼りにするのが「今日は何の日」
 一年365日、毎日が何かの記念日で誰かの誕生日、そして命日。
 人類史がたった365個の箱に収まるわけだから、
 きっと面白いことがあるはずだ。
というお話。
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(「1912年4月11日に撮影されたタイタニック号」 パブリックドメインQより)

【今日、4月14日のできごと】
 今日、4月14日はリンカーンが劇場で銃撃され(1865:翌朝死去)、高杉晋作が結核のために弱冠27歳の若さで亡くなり(1867)、タイタニック号が氷山にぶつかった日です(1912:翌15日午前2時20分過ぎに沈没)。
 それぞれ何のつながりもありませんが、三つまとめて覚えておいて、何かの折にウンチク話とし披露すれば案外モテるかもしれません。

 そのうえでさらに勉強して、高杉晋作は現在でいう山口県随一の美人を嫁さんにしていたとか、晋作を含む松下村塾四天王(他は久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一)は誰一人生きて明治維新を迎えることなく、生き残ったのは二線級ばかりだったとか、あるいはリンカーンについては、西暦の下1けたが0年である年の選挙で当選した大統領は任期を全うしないという「テカムセの呪い」にまんまとはまっていたとか、そのテカムセの呪いを打ち破ったのは元俳優で死んだふりの上手かったレーガン大統領だったとか、さらにあるいは百年を置いて1960年に当選して暗殺されたジョン・F・ケネディと比べると、二人はともに黒人解放のために戦った政治家だったということ以外に、背後から銃で頭を撃たれた、犯人は裁判を待たずに殺された、大統領の死去で繰り上がった元副大統領は二人ともにジョンソンという名だった、とかいった共通点がある一方、リンカーンの犯人は劇場で暗殺を謀り倉庫で逮捕されたのに対し、ケネディの犯人は倉庫で暗殺を決行して劇場(正しくは映画館)で逮捕されたという逆の関係にあるとか・・・。

 昔の教師はこうした話を始めると止まらず、中には3日〜4日に分けて講談のように語る人もいて、生徒の方も本来の授業内容よりも「雑談」と言われたそちらの方をよく覚えていたり、そちらの方が人生の役に立ったりといったことも少なくありませんでした。

 ちなみに当時の「雑談」は教師にのみ与えられた権利で、児童生徒には許されていませんでした。それがいつの間にか子どもたちの方が「雑談」をするようになり、今は両方とも厳しく禁じられています。

 最近は「と言ってももう20年来ですが)カリキュラム管理が厳しくなって3日はおろか15分の雑談も難しくなり、先生方はきちんとした授業をしておられます。
 しかしそれでも1授業時間(45分または50分)を緊張しっぱなしというわけにも行きませんから、うまく強弱を計っているのです。

 ちょっと思いついたのですが、新型コロナ事態でオンライン授業などが始まったら保護者も近くでモニターを見ている可能性がありますから、教師は「雑談」はおろか少しも気を抜くこともできず、児童生徒は背後の親から「ボーっと学んでるんじゃあねぇよ!」と叱られないよう頑張るしかなく、保護者は保護者で参観日と違って、ウチの子が正面から別の保護者の目に晒されていると思うと落ち着かずという――なにか凄まじい45分間(50分間)になりそうな気がしてきました。
 それが毎日6時間も続くようだったら、私なら生徒であっても教師の側でも、はたまた保護者でも、気が狂ってしまいそうです(どうかそんなふうになりませんように)。


【タイタニックとダイヤモンド・プリンセス】
 さてタイタニックですが、私は1997年のジェームス・キャメロン監督の映画「タイタニック」以上のことは何も知りません。
 ただ、乗員乗客2208人中、生存者はわずか695人という大海難事故で、何度も映画になって有名なのに、実は死者の数においてワースト5にも入っていないという話を、昔、聞いてびっくりしたことを覚えています。
 今回、調べたら第8位。最も人命を失った海難事故は1987年にフィリピンで起こったドニャ・パス号事故で死者は4341名だそうです。この事故自体は私の記憶にもありました。


 航空機の事故はいったん起きると乗員乗客の全員が死ぬ場合が多く、それだけに記憶にも残りやすいのですが、人数においては海難事故に敵いません。
 そう言えば今回の新型コロナ禍でも、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」では乗員乗客3711人の全員が感染してしまうのではないかといった恐怖にさらされました(実際の感染者は昨日までの段階で712名、死者は12名)。

 ダイヤモンド・プリンセスに関しては当初から、感染拡大を防止する義務が、船籍のあるイギリスにあるのか、運航会社「プリンセス・クルーズ」が本社を置くアメリカなのか、寄港国である日本なのかが問題となりました。結局、乗客の割合が特に多く、実際の寄港地である日本が入管の問題として扱うことになり、手際の悪さが世界から非難されました。しかしイギリス人船長は一度も顔を見せず、詫びることもなく、3月28日に横浜港を離れて行きました。
 私にはこれが納得できない。

 納得できないと言えば日本で「ダイヤモンド・プリンセス」が苦しんでいる真っ最中の2月11日、「ダイヤモンド」とおなじプリンセス・クルーズ社が運航する「グランド・プリンセス」がサンフランシスコ港を離れ、20名を越える新型コロナウイルス感染者を出してあちこちの港から入港拒否にあうという事件が起こりました。船は二十日以上に渡って漂流するように移動を重ねましたが、最後はオークランドが引き受けてくれ、乗員乗客はアメリカ軍の施設で2週間を過ごすことになりました。

 さらに絶望的に驚くのは、3月に入って8日にオーストラリアのシドニーを出発した「ダイヤモンド」の姉妹船「ルビー・プリンセス」でもコロナ感染が起こり、19日にシドニーに帰港。到着時点で4人が陽性。31日までに162名の発症者と5名の死者を出しています。
 責任の所在が曖昧だとこういうことになるのかと、茫然として自失し、怒りもわいてきません。

 3月28日に横浜港を離れた「ダイヤモンド・プリンセス」も、今度は5月16日に神戸港を出発し中国・四国・韓国などをめぐるツアーを行うそうです。
 もうこうなると「すごい」としか言いようがありません。
 やりたいことをやって、ツケを誰かに払ってもらう――そういうことのできる人は、確かに世の中にいます。

 ひとりひとりが責任をもって、新型コロナと戦おうという掛け声が、むなしく聞こえるのはこういうときです。


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2020/2/28

「明日はうるう年のうるう日」〜ちょっとしたウンチク  歴史・歳時・記念日


 明日は2月29日、うるう年のうるう日です。
 どうして4年にいっぺん2月が29日間になるのか、
 この日生まれた有名人にはどんな人がいるのか、
 その人たちは年齢をどう数えるのか、
 トリビア!
という話。
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(「2020年の2月」フォトACより)

【うるう年・うるう日】
 明日はうるう日、4年にいっぺんの2月29日です。
 なぜそういうことになるのかというと、地球が太陽の周囲を一周する日数が365日ではなく365.2422日だからです。端数である0.2422日を4回繰り返すと0.9688日でほぼ1日になるため、4年に1回、1年を366日とするわけです。

 ただし正確には“0.9688日”なのに“1日”増やしてしまうため、いずれ誤差がたまって日が余ってしまいます。そこで100年に1回ずつ、うるう年を端折るようにします。しかしうまくいかないもので、400年もたつとまた日が余ってしまい、仕方ないので400年目はうるう年を端折らないことにします。
 これは現在ルール化されていて、次のように説明されます。
「西暦の年が100で割りきれ、かつ400では割りきれない年はうるう日を入れない」

 具体的に言えば、西暦2100年、2200年、2300年にはうるう年がなく、2400年にはある、ということです。もう過ぎてしまいましたが、近いところでは西暦2000年は100でも400でも割り切れるため、うるう年は普通にあったのです。

 しかしそうした暦のずれは、なぜ2月に修正されるのでしょう?
 それは古代ローマ暦で、現在、英語でMarchと表記される月が1年の最初の月だったからです。したがってFebruaryが最終月。だからここで帳尻合わせをするのです。
 この部分は私の最も得意なトリビアなのですが、「昔は3月が1月だった」ではしっくりこないので、英語嫌いの私もしかたなく英語で説明しています。


【うるう日が誕生日】
 うるう日が誕生日の有名人には次のような人がいます。

 ジョアキーノ・ロッシーニ、作曲家(1792年−1868年)
 ルイス・スウィフト、天文学者(1820年−1913年)
 マキノ雅弘、映画監督(1908年−1993年)
 バルテュス、画家 (1908年−2001年)
 ダイナ・ショア、歌手(1916年−1994年)
 兼高かおる、ジャーナリスト(1928年−2019年)
 原田芳雄、俳優(1940年−2011年)
 赤川次郎、推理作家(1948年−)
 峰竜太、タレント、俳優(1952年−)
 飯島直子、女優(1968年−)
 吉岡聖恵、ミュージシャン(いきものがかり)(1984年−)

「いきものがかり」の吉岡さんはよく「私は誕生日を8回しかやってないからまだ8歳だァ(今年は9歳)」とか言っていましたが、この人たちの年齢はどうなっているのでしょう?

 実は日本の法律では、人は生まれた時間に関わらず、前日の午後12時に年齢をひとつ重ねることになっているため、うるう年であろうとなかろうと、2月29日生まれの人は2月28日の午後12時をもってひとつ年を取ってしまうのです。したがって吉岡さんも、順調に年を重ねて、今夜12時をもって36歳になられます。

 また、さまざまな資格や手続きの中で、例えば誕生日を基準として有効期間や更新期間が定められている場合は2月28日を仮の誕生日として考えることになっています。これを“みなし誕生日”と言います。
 法律上はそういうことになっていますが、“みなし誕生日”は一般用語であって、「私は3月1日をみなし誕生日として誕生会を開いています」という言い方も正しいといえます。

 いろいろ面倒くさいようですが、本当の誕生日が4年に1回しか来ないというのも、ちょっとカッコウいいような気もします。


【うるう年・うるう日の行事】
 4年に1回の近代オリンピック(夏季)、アメリカ大統領選挙はうるう年に行われますが、さしたる意味はないようです。ただ、「今年はうるう年だ」と思った瞬間にオリンピックと大統領選挙が思い浮かぶのはけっこう便利なので、覚えておくといいでしょう。

 うるう日は特別な1日なので、何か素晴らしい行事でもあるのではないかと思って調べたのですが、これが意外とない。
 ニンニクの日・・・「にん(2)に(2)く(9)」の語呂合せ。
 富士急の日・・・「ふ(2)じ(2)きゅう(9)」の語呂合せ。富士急行が2003年に制定。
 たったこれだけです。4年にいっぺんの記念日というのも悪くはありませんが――。

「かつてイギリスでは、4年間のうちでこの日にだけ、女性から男性へのプロポーズが伝統的に公認され、男性はそれを断ることはできないとされていた」
という記事がありました。
 何かさまざまな悲喜劇が思い浮かびそうです。
 (モテ男は大変だな)

 もっともその時代に私が独身で生きていたとしても、平穏な一日が送れたのはまず間違いありません。
 

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2020/2/14

「仏は、殺人者も救う」〜父が子に語る仏教概論E最終  歴史・歳時・記念日


 武士の時代とは結局、
 殺人集団・殺人予備軍が大手を振って闊歩した時代だとも言える。
 武士たちは、だから皆、地獄に落ちる運命にあった。
 そのあとをついて走り回る農民も同じようなものだ。
 さて、この人たちを、仏教はどう救うことができたのか。

という話。
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(「永源寺(もみじ寺)の紅葉」PhotoACより)

 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
 個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。


【普通の人が、日常の努力で、覚醒者(仏陀)に生まれ変わる方法――浄土教の教え】
 お釈迦様のように宇宙や世界の真理を会得して覚醒者(仏陀・仏・如来)になる、というのは仏教の基本的な願望です。
 奈良仏教はそのための研究に余念がありませんでしたし、平安密教では“即身成仏(行を通してその肉身のまま仏になる)”を目指して厳しい修行を積んだり、実際に即身仏(土中に入って瞑想をしながら絶命しミイラ化する)になる僧もいたりしました。
 しかし一般人はそういうわけにはいきません。
 難しい学問や厳しい修行など夢のまた夢。第一、生活がありますし、庶民がきちんと生計を立てて布施をしなければ教団や寺院を維持することもできません。

 学問や修行をしなくても、阿弥陀如来(阿弥陀仏)という偉大な仏の慈悲にすがれば、普通の人間でも死後、阿弥陀如来の主催する世界「極楽西方浄土」に生まれ変わり、そこで覚醒者(仏)になれる――そう教える浄土教は、だから多くの人々の心をつかんだのです。
 
 すでに飛鳥奈良時代から阿弥陀如来像は作られていましたが、平安時代に入ると空也、源信といった名僧が現れ、浄土信仰(浄土教)は庶民の津々浦々まで広がっていきました。
 朝廷の中にも、斜陽の貴族の長、藤原頼道のように熱心に阿弥陀仏を崇拝する人も現れ、宇治平等院のような美しい寺院も建てられます。
 ただし飛鳥・奈良・平安を通して、浄土教は宗派として独立することはなく、天台宗の中に取り込まれたり庶民の宗教として流布していたりするだけでした。
 それが宗派として独立するには、鎌倉時代の法然まで待たなくてはならなかったのです。


【“地獄に仏”の仏には名前がある:武士と禅宗】
 鎌倉時代は言わずと知れた武士の時代です。ただ、この「武士」という新たな権力層は、宗教的にとても厄介な運命を背負っていました。彼らはどうみても殺人集団なのです。

 不殺生は仏教の在家信者が守るべき五戒の第一です。ところが武士はすでに何人も殺しているか、いずれは人を殺すかもしれない運命にありました。いかに包容力ある仏さまであろうと、大量殺人者を救ってくれるほど甘くはないでしょう。
 したがって武士たち自らが救われることを諦め、ひたすら心の平安を求めました。死後のことも心配でしたが日常的に死と隣り合わせですから、常に安定を取り戻す工夫が必要だったのです。人殺しは、勝っても負けても楽な仕事ではありません。

 座禅を組み、茶を嗜む。枯山水を愉しみ、水墨画を愛でる――当時輸入されたばかりの禅宗はその質素さで武士たちの生活にぴったりでした。
 こうして臨済・曹洞の二つの禅宗は、武士の生活の支えとなっていったのです。

 もっとも、彼らは仏からまったく見放されていたわけでもありません。殺人のために地獄に落ちたとしても、そこへ救済にやってくる存在がひとつだけあったからです。
 仏(仏陀・如来)ではありませんがその候補生の中に、自らが仏となることを諦め、人間が死んでから向かうとされている六つの世界(天道・畜生道・人間道・餓鬼道・阿修羅道・地獄道)へ、六つに分身してそれぞれ駆け付ける菩薩がいたのです。
 彼はまだ修行の身だったので頭も丸めたままです。粗末な法衣を着て、6人ひと組で私たちを見守っています。
 そうです。地蔵菩薩です。
 地蔵だけが地獄に入り込んで人々を救おうとできる、鎌倉に行くとあちこちで六地蔵を見かけるのはそのためです。


【庶民の味方=浄土系四宗と日蓮宗】
 人を殺せば地獄に行くしかない――その悩みは農民にもありました。
 彼らの多くは農閑期には領主にやとわれて戦地に向かう半農半士の地侍でしたから、武士と同じく“死んだら地獄に行くしかない”と感じていました。一般人ですから上級武士のように、“いざとなったら従容として死地に赴く”というわけにはいかないのです。

 そうした庶民の願いを救ったのが、長く阿弥陀信仰として広がっていた浄土教です。
 鎌倉時代に入って法然が浄土教を立て、親鸞が引き継いで浄土真宗を興します。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
 善人だって往生(極楽浄土に往って仏として生きること)ができるというのに、悪人が往生できないわけがないじゃないか。お前たちは自分が悪人(人を殺した者)だと知っているから阿弥陀仏への祈りも半端じゃない。
 善人たちが心の隅で、“自分は善行を積んだから極楽に行けるんじゃないか”とどこか甘えた考えを持っているのと違って、お前たちには祈りしか残っていない。だからお前たちの祈りこそ本物で、阿弥陀仏はその名を真剣に唱えれば、きっと救ってくれるに違いない。(悪人正機説)

 
 そう教える親鸞の言葉は、庶民たちにとってどれほど励みとなったか容易に想像できるところです。

 鎌倉時代には浄土宗・浄土真宗以外にも時宗・融通念仏宗といった浄土教系の仏教が次々と立てられました。それはこの時代がいかに殺伐としていたかの裏返しだったとも言えます。

 なお、同じ時期、日蓮は「妙法蓮華経(法華経)」を中心とする日蓮宗を開きます。
 この宗派の際立った特徴は「現在」と「この国(日本)」にこだわることです。浄土教のように理想の国(極楽浄土)に生れなおすことを本願とするのではなく、あくまでも「この場」「この時」にこだわり、世直しとか国の安泰とか、私たちの生きる現実の世界を具体的によくしていこうと考える側面が、かなり強いのです。

 日蓮宗が他の宗派には見られない積極的な政治への姿勢を見せるのはそのためで、宮沢賢治や石原莞爾、二・二六事件の思想的指導者・北一輝や一部青年将校の心をとらえて離さなかったのもそのためです。
 日蓮正宗の講として始まった創価学会が、日本初の宗教政党「公明党」をつくって政治に参加しようとするのも、同じ思想の流れに沿ったものです。

(この稿、終了)

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2020/2/13

「人々を魅了する呪術の世界−密教」〜父が子に語る仏教概論D  歴史・歳時・記念日


 庶民は苦しんだが高級貴族がこの世の春を楽しんだ平安前期、
 さっぱり分からないが見かけが派手で何かおどろおどろしい、
 そんな仏教が流行する。
 偉大な指導者に恵まれた密教は、人々を魅了した。
という話。
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(「京都御所」PhotoACより)

 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。


【平安の遊び人一族と教育ママ】
 子どものころ、自分の家の祖先は貴族だと教えられて何か誇り高く、気分が高揚したものです。しかし大人になってきちんと勉強したら、貴族というのは碌でもなく、いちおう政治家ではありますが“朝廷”の名の通り、政治なんて朝のうちに済ませて後は遊んでいるだけの暇人たちでした。その“朝だけの政治”も民衆をいかに収奪するかが主要な課題で、聖武天皇や光明皇后のような気高さの欠けらも感じられません。
 もっともそのころには私の祖先が貴族だなんていうのはまったくの嘘っぱちで、貴族というよりは山賊の類だと知っていましたから、貴族が碌でもないことはどうでもいいことになっていました。

 平安時代の上級貴族の多くは、荘園から上がってくる富にものを言わせ、和歌だの音曲だの舞だのにうつつを抜かし、儀式を限りなく複雑にして楽しんでいました。源氏物語や女官たちの日記がやたら細部にこだわって、着物の柄だの人の立ち振る舞いだのの記述に詳しいのも、きちんと記録しておかないと翌年の儀式に差しつかえると考えたからなのかもしれません。その記録をもって我が子にきちんと教えておかないと、子の出世、ひいては自分の老後に関わると感じていたからです。
 その意味では、平安の教育ママたちは今よりも大変でした。母子の生活そのものがかかっていたわけですから。
 目指す目標は摂政・関白、あの「この世はまるですべて私のもののようだ。満月がほんの僅かもかけていないように」と詠んだ藤原道長のような人物です。


【密教は分からないところがいい】
 貴族たちは生粋の遊び人でしたから、多くは難しい学問などまっぴらでした。聖徳太子や聖武天皇は一面で真面目な仏教学徒でしたが、平安貴族はそうではありません。僧侶の難しい話を聞いたり、光明皇后のような無料奉仕に熱心になれたりするはずもない。
 もちろんだからといって宗教を疎かにできるほどの近代人であったわけでもなく、無病息災や地位保全、一族の繁栄を願わないわけでもありません。
 するとよくしたもので、彼らの要望に応える仏教が現れてきます。真面目な勉強や厳しい修行を強いることなく、金の力だけで救いをもたらしてくれる宗教――それが密教です。

 密教というのは教団の内部だけで、秘密の教義と儀礼を師から弟子へと口述で伝えていく仏教のことで、神秘主義的、象徴主義的な教義が中心になっています。神秘体験を重視し、瞑想を重んじ、曼荼羅や法具類、多種多様な仏像といったきらびやかな装飾で人々を幻惑する側面を持ちます。
 釈迦は、
「自分の悟った真理を説いても人々は理解できないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだ」
と考えましたが、密教はそうした部分を色濃く反映したと言えます。

 日本では空海の真言宗と最澄の天台宗が代表的な密教で、現在も空海に由来する京都の東寺に行くとそのきらびやかな世界、ある種おどろおどろしい雰囲気が体験できます。

 私も密教を知りたくてしばらく勉強してみましたが、とてもではないが歯の立つものではありません。しかしその難解さ、神秘性は少し触れただけでもピリピリと伝わってきてそれ自体が魅力として感じられます。おそらく平安貴族の心をとらえたのも、同じものだったのでしょう。

 即身成仏(生きたままで仏《覚醒者》になれる)を標榜していますから僧には千日回峰行のような超人的な修行を求め、護摩を焚いたり、後の忍者のような複雑な印を結んだり、大きな声で呪文(マントラ)を唱えたりと、異様な光景が繰り広げれられますから、もうそれだけで大きなご利益が得られそうな気がしてきます。

 貴族たちは進んで土地を寄進し、財力に任せて巨大寺院を造営したりしました。
 こうして平安時代前期は、真言宗・天台宗という二大密教によって導かれて始まるわけです。


【ちょっと切羽詰まってきた】
 西洋で最初の千年紀を終えるころ、日本では平安時代も後期に入ってくると、少し事情が変わってきます。全盛を極めた藤原摂関家の勢いが止まり、貴族社会の足元がぐらつき始めたのです。

 道長の子の頼道は父に倣って次々と娘を宮中に入れますが男子に恵まれず、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など次々と戦乱が起こると、ついに頼通と縁の薄い後三条天皇が即位し、藤原氏の権勢は急速に衰えていくのです。

 おりしも仏教が予告するこの世の終わりの始まり――末法入年(1052年)は目の前に迫ってきました。もう密教僧侶の呪術を見ているだけでは済まなくなり、自らも仏に働き掛けなくては気が済まなくなる時代が来たのです。
 そうした要望に応えたのが浄土教でした。

(この稿、続く)




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2020/2/12

「奈良の寺院は単科大学。権力は宗教を救う」〜父が子に語る仏教概論C  歴史・歳時・記念日


 日本に仏教の入ってきた初期、それはずいぶん学問的なものだった。
 南都(奈良)の6宗派はむしろ6学派と呼ぶべき中身で、
 僧は6つの学部を忙しく走り回る学生みたいなものだった。
 それを国家が強力に後押しする。

という話。
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(「東大寺」PhotoACより)

 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
 個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。



【仏教受容問題の決着――篤く三宝を敬へ】
 仏教伝来について高校時代に「仏教、ここに(552)、ござは(538)った」とかいって、552年説と538年説のあることを覚えました。最近では538年説の方が有力みたいですが、実際にはどうでもいいことで、それよりはるか以前のいずれかの時代から、渡来人によって持ち込まれていたのは間違いありません。

 ただし仏教を公式に受け入れるかどうかはけっこう厄介な問題で、なかなかうまく進展しませんでした。それは仏教の受容問題が豪族たちの権力闘争と結びついていたからです。
 古くからの有力豪族である物部氏や中臣氏はいわば保守派で仏教拒否、日本の神優先。それに対する新興曽我氏は渡来人との関係も深いため仏教派で、両者がっぷり四つに組んで互いに譲りません。

 西暦585年、蘇我馬子が疫病に罹ると、物部守屋は同じ疫病のために気の弱った敏達天皇を動かして仏教禁止令を出させ、仏像と寺院を破壊します。
 ところが仏に祈り続けた蘇我馬子はほどなく回復し、神に祈った敏達天皇は崩御してしまうというとんでもない事件が起こります。どうやら白木一本の日本の神様より、光り輝く金ピカの仏様の方が神通力がありそうなのです。

 翌年、焦って攻勢に出た物部守屋を蘇我馬子が逆転で撃破。とりあえず“神か仏”かの問題に決着はつきますが、その後も燻り続け、701年に聖徳太子が「この国は仏教でいく」と宣言して終了します。
「17条憲法」の二がそれです。
「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」


【奈良の寺院は単科大学】
 こうして仏教は日本の国教になったわけですが、当初の日本の仏教導入はかなりまじめなものでした。
 これも大学入試のときに必死に暗記したものですが、「南都六宗(なんとりくしゅう)」と呼ばれる奈良の6仏教宗派は、現在の仏教とはずいぶん趣を異にし、宗派というより学派という印象の強いものでした。

 例えば律宗は、読んで字のごとく「律(仏教団の規則)」を中心とした宗派で、戒律の研究と実践を旨としています。日本では渡来僧・鑑真和上の唐招提寺がその頂点にいました。
 同じく三論宗は「三論」という仏典を中心に仏教概論を研究する宗派で、成実宗は成実論を研究し、法相宗は唯識論の研究、倶舎宗は「倶舎論」、華厳宗は「華厳経」を研究する立場にありました。
 華厳宗の総本山・奈良東大寺は、だから華厳経の世界を体現する毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ=奈良の大仏)を造らなければならなかったのです。

 南都六宗を考えるうえで印象が合うのは、それぞれが「律」を学んだり「三論」を学んだりする単科大学で、学生僧はひとつの大学にこだわるのではなく、同時並行的にあちこちで学ぶことができたというものです。
 奈良仏教は学問的雰囲気の強いのが特徴で、法隆寺も正式には「法隆学問寺」といいます。


【宗教の経済学】
 話は少し寄り道しますが、宗教学者の島田裕巳氏によると、現在の日本は新興宗教にとって氷河期なのだそうです。
 最近で新興宗教が大いに力を持っていたのは昭和バブルの時代。そのころ名を馳せたのは言わずと知れたオウム真理教、白装束のパナウェーブ研究所、法の華三法行、ライフスペースといった人々、海外でもアメリカでブランチ・ダビディアンという宗教組織が立てこもり事件を起こしたりしていました。
 多くのカルト教団が膨大な信者を抱えて急成長し、社会的に注目もされていました。それは今から思えば、物質的には豊かでも心寂しい時代だったからだと説明されます。

 しかし平成不況がやってくるとまもなく、多くの教団が力を失っていきました。お布施に持ち寄る金品が激減し、人々は心寂しさや不安といった抽象的なものから、衣食住といった具体的なものへと“悩み”の対象を替えていったからかもしれません。
 宗教はしばしばその時代の経済状況や支配層の在り方を反映します。

 奈良時代はすべての富が天皇家に向かっていきましたから、天皇が鎮護国家(*1)という理念を掲げて仏教を守護し始めると、巨大古墳を生み出したような在来の宗教はすたれ、南都七大寺と総称される国立寺院(*2)や藤原氏の氏寺である法隆寺のような私立寺院が、大いに栄えるようになります。そして南都(奈良)の僧たちも次第に権力を持ち始めます。
*1・・・鎮護国家(ちんごこっか):仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。
*2・・・東大寺,西大寺,法隆寺,薬師寺,大安寺,元興寺,興福寺


 聖武天皇の天平時代は特に災害や疫病が多く、常に内乱の危機にあった上に、成立間もない律令制度にもほころびが見られ、人々の恐怖は絶頂に達しようとしていました。
 11年の歳月と莫大な国費をつぎ込んで毘盧遮那仏(奈良大仏)を中心とする東大寺を造営したのは、そうした恐れの反映であり、天皇はもちろん、仏教を信仰するすべての人々の期待の上にあの巨大な伽藍はできたのです。

(この稿、続く)


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2020/2/10

「仏教何でもあり、しかしそれぞれ中身は違う」〜父が子に語る仏教概論B  歴史・歳時・記念日


 お釈迦様は自分の会得した真理は誰にも理解できないと思っていたらしい。
 だから世の中に知らせることに不熱心だったし、誤解も恐れなかった。
 やがて仏教はあれもこれも吸収して巨大になり、
 そのぶん複雑でさらに分かりにくいものになった。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
PhotoACより)

 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
 個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。


【初転法輪−初めての講義】
 バラモン教の主神である梵天(ブラフマンまたはバラモン)に熱心に勧められて、釈迦が最初に真理を語ろうとした相手は、自らが苦行を放棄したときに蔑んだ5人の修行者でした。
 彼らはゴータマをバカにしていましたから真面目に聞くつもりもなかったのですが、釈迦がこちらに向かって歩いてくる姿を見ただけでその身にただならぬことが起こったと理解し、話を素直に聞くことにしました。
 釈迦はここで中道、四諦と八正道という仏教の基本概念を語り、最初の講義とします(初転法輪)。5人はすぐさま釈迦の最初の弟子となり、ともに教化と伝道の旅に出るのです。

 旅の途上で彼の神通力を見た人々は次々と帰依し、三迦葉と呼ばれるカッサパ三兄弟のように自ら率いる数百人の教団を丸ごと入信させてしまうこともあったため、釈迦の教団は瞬く間に1000人を越える大集団に成長してしまいます。
 釈迦はこうして80歳で入滅するまで、教団の指導に当たりました。


【誰も真理を理解できない。だから自由に考えなさい】
 おそらく釈迦は最後まで、自分の悟った真理は誰にも理解できないと思っていたのでしょう。教義を厳しく管理し、体系づけようという気持ちもまるでなかったのかもしれません。自らの言葉を文書化することを許さず、その教えは死後200年以上も記憶と口伝だけで保持されます。
 教団は釈迦の死後すぐに大結集(だいけつじゅう)と呼ばれる集会を開いて全国から500人の名僧(五百羅漢)を集め、釈迦の教えを整理統合しようとします。
 しかし釈迦の口から語られた言葉は難解で、しかも丁寧に細かく説明しようともしなかったためか、信徒たちの間に大量の異説が生じます。

「世尊(釈迦の尊称)はさまざまに語ったが、一番大事なのは輪廻転生だろう」
「いやいや、やはり世尊の言葉そのものに準拠すべきだ」
「世尊の教えをひたすら唱えることが大事だということじゃないか?」
「我々が本当に大切にしなければならないのは教団の規則だ」
「世尊は霊魂の存在を否定したが、ならば輪廻転生するのは何だ?」
「世尊はどう言った?」
といった調子です。

 そのうち「私はこんなふうに聞いたんだ」などと本当は誰が行ったか分からないような話を持ち出す者や、「ここまできたら、とてもではないがお前たちとはやっていけない」と袂を分かつ者まで出てきて、教団は瞬く間に四分五裂し始めます。
 それぞれが自分たちの正当性を訴え、次第に文書に残し始めると、教団はわずかの間に20もの分派に分かれて併存したと言います。そこにさらに大乗仏教と呼ばれるグループがかぶさり、仏教はどんどん巨大に、複雑になっていくのです。


【仏教何でもあり、しかしそれぞれ中身は違う】
 釈迦の言葉をまとめたものを「経蔵」、教団内の規則をまとめたものを「律蔵」と言います。これらはさまざまに解釈され議論となり、そのたびに注釈書や解説書が書かれました。それをまとめたものを「論蔵」と言います。

 西遊記の玄奘三蔵法師を知らない人はいないと思いますが、三蔵法師の「三蔵」はその「経」「律」「論」のことで、三蔵法師とは「三蔵に長けた僧侶」、普通は古代インド語(サンスクリット)で書かれた三蔵を中国語に訳したことで功績のある人を言います。
(ですから三蔵法師と呼ばれる人は玄奘だけではなく、義浄三蔵法師だとか法月三蔵法師とか呼ばれた人もいます)

 玄奘は27歳でインドに密航し(629年)、42歳で経典657部を中国に持ち帰って664年に62歳で亡くなるまで、ひたすら翻訳の仕事をつづけました。しかし結局、持ち帰った経典の三分の一しか訳せなかったといいますから、そもそもがとんでもない量だったのでしょう。
 彼の訳業の一部分である『大般若経』16部600巻は漢字にして約480万字だそうです。400字詰め原稿用紙で1万2000枚ですから気の遠くなるような量と言えます。

 中国における仏典の翻訳は2世紀ごろ始まって11世紀くらいまでに延々と続けられましたが、その間に玄奘のような献身的僧侶によって次々と新しい経典が輸入され、そのたびに翻訳されて中国社会に定着していきます。
 しかしそのうちに「いつ頃書かれたものか」、「だれが書いたものか」といった重要な部分が忘れられ、過去も現在も、真も偽もわからないものがあふれ始めます。そしてその結果、ありとあらゆる要素が入り込んでしまったのです。

 日本の状況に照らし合わせて言えば、比叡山延暦寺の千日回峰行のような異常なまでの苦行を強いる面もあれば、ひたすら祈るがよいとする念仏宗の側面もあり、座禅を組む一派がいて、護摩を焚いたり忍者のような印を結んだりといった呪術の側面を持っていたりするのはそのためです。

 仏像を見ても、そこには釈迦像があって、阿弥陀仏像があって、薬師如来像がある。そこまではいいのですが、梵天や帝釈天といった元はバラモン教(現在のヒンズー教)の神様がいて、阿修羅や迦楼羅(カルラ)といった鬼なのか怪物なのかよくわからないものがいる。そうかと思うと“日本の神様は日本人のために仏さまが姿を変えて現れたもの”(本地垂迹説)といった話まで出てくると、まったく訳が分からなくなってしまいます。

 こうなるともう仏教何でもありで、全部が仏教なのですが、“座禅を組みながら護摩を焚いたりしない”“奈良の大仏の前で南無阿弥陀仏と唱える人はいない”といった意味では別の仏教だとも言えます。

 仏教、何でもあり、けれど中身は違う――それがこの宗教の分かりにくさのひとつの理由です。

(この稿、続く)

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