2019/11/28

20周年  歴史・歳時・記念日

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 メインサイト「ああ言えばこう言う辞典」が本日で20周年です。
 
 長い間ありがとうございました。

 そして、

 今後ともよろしくお願いいたします。




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2019/9/26

「義経と、金売り吉次と、マルコ・ポーロ」〜中尊寺で思い出したこと  歴史・歳時・記念日


 中尊寺へ行ってきた
 私にとっては小学生のころから ずっと気になっていた場所だ
 耳に笛と琵琶の曲が流れる
 金銀螺鈿(らでん)で飾られた数百の塔楼が見える
 野に武者たちの死体が累々と重なりながら広がる
 そういう幻想を見た

というお話。
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【NHK大河ドラマの思い出】
 1966年(昭和41年)に放送されたNHKの大河ドラマの第4作目は「源義経」でした。
 私は当時小学校6年生から中学1年生になる年齢でしたが、その二年前の「赤穂浪士」からの大河ファンで、翌年の「太閤記」、そして「源義経」と夢中になって観た時期でした。ある意味、それがのちに社会科教師となる原点だったのかもしれません。

 「源義経」で主人公を演じたのは当時の四代目尾上菊之助(現在の菊五郎)、静御前を演じたのが藤純子(現在は富司純子)でした。二人はこのドラマをきっかけにつき合い始め、結婚して寺島しのぶと五代目菊五郎が生まれます。
 武蔵坊弁慶を演じたのは名優緒形拳、藤原秀衡は大御所滝沢修など、錚々たる面々が出演していました。音楽担当はなんと武満徹です。

 いまでもオープニングテーマ曲の物悲しい笛と琵琶の音を聞くと、何か厳かな、凛とした気持ちになります。
 私にとって奥州平泉は「源義経」のテーマ曲が聞こえる場所です。


【金売吉次という男】
  このドラマで加藤大介さんの演じた金売り吉次(かねうり きちじ)という男は「平家物語」や「源平盛衰記」にも出てくる伝説的人物で、奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされています。源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けした人です。人物像は書物によって少しずつ異なり、実在も疑われる商人ですが、吉次という名前はともかく、そういった人物がいても不思議はないと思わせる歴史的背景があります。

 それは当時の奥州がおそらく世界一の金産出国で、京の商人たちが激しく行き来していたことは間違いないからです。そこで買い取られた金は京から九州を経て日宋貿易の主力輸出品として南宋に渡ります。それと引き換えに南宋からは宋銭や医薬品が輸入されてきますが、その量たるや尋常なものではなく、銅銭の払底した南宋は経済が混乱し、滅びかけたとさえ言われます。

 それほどの莫大な金が奥州から運び出されたのですが、儲けの多くは京都を通過する際に通行税として平氏に吸い上げられてしまいます。それが吉次たちには面白くない。
 そこで密かに鞍馬山から義経を連れ出し、来るべき平氏打倒の日に向けて平泉で育てた――それが私の信じている歴史の一解釈です。吉次は長い目で将来を見据え、源氏に恩を売って財力で支えた政商のハシリなのです。私はそうしたしたたかな男が好きです。



【黄金の国】
 ほとんど無尽蔵と思われるほどの金の産出国でしたから、奥州藤原館や中尊寺を始めとする神社仏閣は贅を極め、金色堂のような金銀螺鈿(らでん)で飾られた塔楼はおよそ600余りもあったといわれます。
 実際には行きませんでしたが、私が毛越寺の庭園に立つとしたら、目の前に見る風景はそうした絢爛とした建物群だったはずです。今はコンピュータ・グラフィックスで何でも映像化できる時代ですから、いつかは在りし日の600基の塔楼を見ることもできるかもしれません。
 藤原氏が四代をかけて造り上げ、義経や吉次が目にして、頼朝の軍勢が滅ぼした風景です。さぞや壮観なことでしょう。光り輝く黄金の都なのですから。


 ところで、その盛隆のさまは噂となって、吉次が運んだ金とともに日本列島を南に下り、宋に渡ったようです。当時、留学生の持参金が金だったり日宋貿易の日本側の支払いが金だったりしたことから、金の採掘される国だということは知られていましたから、「黄金の都」の噂は真実味をもってすぐに広がりました。それをイタリア人商人のマルコ・ポーロが聞きます。

 彼はその国を中国人の口から「ジパング」だと教えられます。最後の「グ」は「Shanghai(シャンハイ)」や「Hongkong(ホンコン)」で使われる「g」と一緒で、ほとんど発音されない音ですので元は「ジパン」。漢字で書くと「日(ジッ)」「本(パン)」つまり「日本」のことです。
――これは社会科教師としての私の十八番のひとつでした。



【栄枯盛衰】
 そんな奥州も藤原氏が義経とともに滅ぼされ、金の産出が止まると一方的に寂れていき、芭蕉が訪れたころには金色堂も朽ち果てた覆堂の中でかろうじて光を放っているだけだったようです。

五月雨の 降り残してや 光堂

 しかしやはり私は、義経の終焉の地である衣川のほとりで芭蕉が詠んだとされる

夏草や 兵どもが 夢の跡

の方が好きです。

 9月の冷たい風の中を、そんなことを考えながら歩きました。

                             (この稿、続く)




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2019/7/19

「科学の勝利」〜アポロ11号と13号  歴史・歳時・記念日


 明日は人類が初めて月に降り立った記念日
 50年前のことだ
♪ ぼくらの生まれてくるもっともっと前にはもう
  アポロ計画はスタートしていたんだろ?
  本気で月に行こうって考えたんだろうね ♪

 ――そうだよ。

というお話。
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(「月」phtoAC より。赤く示したのはアポロ11号着陸船が降下した”静の海“)

【スプートニク・ショックとガガーリン】
 すでにテレビなどでも繰り返し扱われていますが、明日7月20日はアポロ11号が月面に着陸して50年目の記念日です。人類が初めて地球以外の天体に降り立った最初の日ということになります(1969年)。

 それに先立つ12年前の1957年10月4日、当時のソ連(現在のロシア)は世界初の人工衛星スプートニク1号を成功させます。原水爆を中心とする米ソ軍拡競争の真っただ中、合衆国の上空をソ連製の人工衛星が飛んだということで、アメリカのみならず世界を震撼させることとなります。この地球上のどこにいても、ロシアの核ミサイルは攻撃できることを証明して見せたからです。これをスプートニク・ショックと言います。

 この日からアメリカは一方でNASA(アメリ航空宇宙局)を創設するとともにミサイル開発に多額の予算と人員を配置し、ソ連との「ミサイル・ギャップ」を埋めようと研究開発に邁進し始めるのです。
 ところが成果が出る前に、アメリカはまたしてもソ連に出し抜かれます。 1961年4月12日のユーリイ・ガガーリンによる世界初の有人宇宙飛行です。

 宇宙飛行といっても後に明らかになるようにガガーリンは操縦というものを全くせず、言ってみれば大陸間弾道弾の弾頭に詰め込まれて地球を一周しただけみたいなものですが、それでも宇宙を回ってきたことに間違いありません。

 アメリカもあわてて翌5月5日、負けじとマーキュリー3号でアラン・シェパードを宇宙に送り出すのですが、ガガーリンが大気圏外を1時間50分ほどかかって1周してきたのに対し、シェパードはわずか15分28秒の弾道飛行、つまりボールを真上に投げて落ちてくるのを待っているみたいな感じで、宇宙に“行って帰ってくる”のが精いっぱいだったのです。


【ケネディの約束】
 アラン・シェパードが宇宙に行ったのと同じ1961年の5月の25日、その年の1月に大統領になったばかりのジョン・F・ケネディはアメリカ議会で月に人類を送る「アポロ計画」を発表し、国民の支援を求めます。
「まず私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。この期間のこの宇宙プロジェクト以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。そして、このプロジェクト以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう」

 ケネディという人は1960年の選挙で当選した大統領で、「1の位に0がつく年の選挙で当選した大統領は任期を全うしない」という「テカムセの呪い」(*)よって亡くなった最後の大統領です(1980年のレーガン、2000年のブッシュは任期を全うした)が、その人が1961年に国民と結んだ約束を、合衆国は大真面目に追求し、60年代最後の年の7月、ギリギリのタイミングで果たしたわけです。アメリカの底力を感じるできごとでした。
2009/4/14 テカムセの呪い


【アポロ13号、奇跡の生還】
 しかしアメリカのほんとうの底力を感じさせられたのは11号の成功ではなく、「最も成功した失敗」「栄光ある失敗」と讃えられるアポロ13号の生還です。

 1970年4月、発射からわずか二日後に重大な事故を起こしたアポロ13号は、月面着陸をあきらめて地球に帰ることになります。その後の4日間、いくつもの危機に見舞われ、そのたびに奇跡を起こして無事帰還する様子は、トム・ハンクスの主演した映画『アポロ13』(1995)に詳しいところです。

 もっとも私は映画『アポロ13』より数年前、この物語についてNHKのドキュメンタリー番組で見て詳しく知っていました。アメリカのテレビ局が制作したもので、船内の映像がほとんどないためNASAの指令室が中心だったのですが、飛行管制主任ジーン・クランツという人がとんでもなくカッコウ良くて今も目に焼き付いています。
 このドキュメンタリーについてはその後もずっと気にしているのに、どこにも記録が残っていません。

 ちなみにアポロ13号が出発したのは1970年4月11日米中部時間1313分。事故起こしたのは二日後の4月13日でした。
 13時13分に発射したのは意図的なものでしょう。迷信に打ち勝とうとして迷信にやられたのです。しかしそれでもなお生還できたというのは、やはり科学の勝利なのかもしれません。

 人間の輝かしい記録として、子どもたちにも語り継ぎたい話です。


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2019/4/26

「私の平成10大ニュース」〜いよいよ平成が終わる  歴史・歳時・記念日


 テレビを見ていると10連休をどう過ごすかという話ばかりだけど
 やはりここは行く「平成」を惜しみ 来る「令和」を想うってことじゃないか?
 私の後半生は平成とともにあった 平成は私とともにあった
 だから平成について語ろう

という話。
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(30年前の私と妻)

【私の平成】
 今月就職した息子のアキュラに、最後の仕送りをしました。つい1週間ほど前のことです。初の給料日(今日か?)までタイムラグがあって家賃が払えないのと、年度当初であれこれ物入りなのでと、親としても奮発したわけです。奮発したといっても例月と同額を送っただけですが・・・。

 平成の最後の月に最後の仕送りをして、私の手元から旅立たせるというのも何かの縁です。

 私は「昭和史の学徒」(昭和史を中心に学んできた)という強い自覚があって昭和のうちに前半生にけりをつけたいと思い、昭和63年9月の末に今の妻と入籍しました。
 昭和天皇が危ういということで焦ってしたことなので結婚式自体は翌年に持ち越し、同居を始めたのも妻の転勤が成った翌年の4月のことでした。つまり、

 平成元年の最初の月に式を挙げ、平成元年度の最初の月(4月)に一緒に暮らし始めた。そして平成最後の月に下の子どもを独立させた。

 私の家庭生活は平成とともに始まり、平成とともに大きな一区切りを終えたことになります。あとは余生です。

 このブログも、今日で平成最後の記事となります。
 そこで私の心に残った平成を振り返ってみたいと思います。


【私の平成10大ニュース】

1.【女子高校生コンクリート詰め殺人事件】平成元年3月30日
 少年らのグループが埼玉県三郷市の女子高校生をだまして暴行し、東京 足立区にある16歳の少年の自宅に40日間にわたって監禁したあげく、殴る蹴るの暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れコンクリート詰めにして遺棄していた事件。未成年者の、凶悪で残虐な事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えました。

 改元後の新時代の少年犯罪を予告するような陰惨な出来事でしたが、その際一部で「主犯の男に『高次微細脳障害』」があった」と報道され耳目を引きました。
「高次微細脳障害」はその当時「道徳性のLD」といった説明がなされ、「選択的に道徳性が身につかない、身につきにくい障害」という概念に愕然とさせられたものです。道徳は環境や教育によって、誰でも身に着けることができると考えていたからです。

「高次微細脳障害」はその後ADHD(注意欠陥多動性障害)と名を変え(概念が吸収され)今日に至っていますが、今となればADHDを「道徳性のLD」と説明するのは不適切でしょう。
 しかしこの事件は私にとって「発達障害」と初めて接した機会であり、子どもの非行を考えるうえで常に頭の隅に置き続けた事件だったのです。

《参考》
2013/3/5「発達障害」とのつきあい 

佐瀬 稔著 「うちの子がなぜ!」〜女子高生コンクリート詰め殺人事件〜(草思社 1990)


2.【ベルリンの壁の崩壊】平成元年8月31日
 東西冷戦が一夜にして終わった日。
 平成元年5月に天安門事件があって今日の中国の礎ができます。決して良い意味ではありません。
 そして8月31日に突然ベルリンの壁が崩され、秋には東欧革命と呼ばれる東ヨーロッパの一連の民主化運動があり、年末のマルタ会談で東西冷戦が終結。翌平成2年(1990)ソビエト連邦が崩壊します。ここまで一気呵成と言った感じでした。

 それまでの国際政治の見方は東西冷戦が前提でしたから、「これで世界が平和になる」と喜んだものです。まさか米ソ対立という大きな枠の中で中小の対立が抑えられているなどと考えもしませんでした。
 ソ連が崩壊すると世界中で一斉に紛争が噴き出たという感じでした。

《参考》
2012/2/13 予言成就


3.【神戸高塚高校 校門圧死事件】平成2年7月6日
 学校における暴力的な指導が否定され、校則が機械的に削減されました。しかし体罰・校則に代わる指導法の提示が遅れたため、生徒指導は一気に困難になり、深く考えさせられることになります。
 これについてはつい最近も記事にしました。

《参考》
2019/1/23「『神戸高塚高校の校門圧死事件』が残したもの」〜子どもたちは天使じゃない2

2019/3/6「みんなを自由にしようとすれば誰も自由でなくなる」〜子どもたちは、世間が思っている以上に子どもだ1 


4.【バブル崩壊】平成3年3月
 バブル経済は私たち公務員にはあまり面白くない出来事でした。世間が浮かれている時期にも、地道な仕事を続けていたのですから。
 職員の親睦と研修を兼ねて自腹で3万円もかけて国内を一泊旅行しているとき、民間に勤めていた友人は1万円で一週間のハワイ旅行に行っていたりしました。
 毎晩のように高い飲み屋で祝杯を上げ、経費で落としていた・・・後に「やっぱり公務員だよな」「楽をして税金で生きている」と言われるようになってから恨み節のように思い出すのはこの時期のことです。
 バブルが崩壊して公務員の人気が高まると、超がつくような優秀な人材が教員を目指すようになり、その点とても痛快でした。現在の30代〜40代の教員、本当に優秀です。


5.【PKO協力法制定】平成4年6月19日
 国際連合平和維持活動(PKO)に合法的に参加するための法整備ができたということです。
 私自身はPKOにも自衛隊の海外派遣にも反対する者ではありません。しかし戦争に対する痛烈な反省から自衛隊を決して海外に出すことのなかった昭和が終わって、わずか4年で海外派遣できるようになったということに、少なからぬ怯えも感じました。この先どうなっていくのかという恐れです。
 不良がかかった生徒に「自衛隊にでも入って根性を叩き直してもらえばいいんだ」といった言い方ができなくなったのもこの時からです。


6.【大阪 池田小学校事件】
 平成13年6月8日
 日中、刃物を持った暴漢に侵入され、8人もの子供が殺され15名もの児童・教師が重軽傷を負った事件。
 以後、学校開放の流れは停滞し、校地は中途半端に閉鎖される形になりました。
 塀に囲まれた都会の学校はまだしも、塀自体のほとんどない田舎の学校では1階のドアや窓を閉めておくといった極端な安全策が取られ、暴漢が突然襲ってくる「対不審者侵入訓練」が年中行事のように行われるようになりました。
 しかし同様の事件は20年近くも起こっていません。学校でも同じことはおそらく起こらない、起こったら防ぎきれないと感じています。
 しかし訓練はやめることができない――学校にはそういうことがたくさんあります。

《参考》
2010/5/25 子どもを守ること
2010/5/26 池田小事件のこと


7.【ゆとり教育始まる】平成14年
「円周率は3」といった悪意あるフェイク・ニュース(今で言う)が流布され、「先生が楽をするための“ゆとり”か!」などとメチャクチャ叩かれて迷惑な話でした。
 実際には「絶対評価」などという今は誰も覚えていないような特殊な評価法の研究のために死ぬほどの苦労をさせられ、「総合的な学習の時間」と言った何をするのか分からない授業を構成するために膨大な時間を使い、しかも自由に休んでいた夏休みも休めなくなった――教師の多忙化の引き金になったような事件だったのですが、誰もそういった観点から事実を見ませんでした。

 その「ゆとり教育」も平成23年に見直し。
 ただし完全に旧に復せばよかったものを、「総合的な学習の時間」はそのまま担任の授業として残し、夏休みも自由に休めない形で残したのです。
 10年の歳月をかけていったい何をしたかったのか、今も疑問に思っています。

《参考》
2018/11/14 「ゆとりですが何か?」〜羽生・大谷・藤井・梨花 



8.【奈良 小1女児誘拐殺人事件】平成16年11月17日
 翌年の「広島小1女児殺害事件」(平成17年11月22日)、「栃木小1女児殺害事件」(平成17年12月1日)と三つの誘拐殺人事件が延長線上に考えられて、全国の保護者を恐怖に落し入れました。
 全国の小学校区で「見守り隊」が結成され、集団登下校が始められた学校もありました。こうした「良いこと」は、しかしやめられない――。
 集団登下校がいじめの場になったりその列に自動車が飛び込んだりと、事件の余波も大きいものでした。保護者が子どもに携帯電話を持たせたがるようになったのもこのころからですが、その携帯のためにネットいじめの餌食になる子どもも少なくありません。
 また、人々は忘れてしまっていますが、奈良の事件の被害児童はGPS付きの携帯を持っていたのです。それを使って犯人は、被害児童の遺体写真を母親の携帯に送信したりしました。私が今も子どもにスマホ・ケータイを持たせたくないのはこうした理由からです。
 

9.【東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)】平成23年3月11日
「石巻市立大川小学校では先生の指示に従ったために74人もの児童が亡くなり、釜石市の小中学校では児童生徒が教師の指示を待たずに逃げたために全員助かった」といった俗説が流布して、学校はつらい思いをしました。実際には釜石の子どもたちも第一次避難場所からさらに奥へと移動するなど、教師の的確な判断によって命を拾ったのです。

 その他、避難所の開設や運営、ボランティアのあり方など、学んだことが山ほどあったのですがここでは二つのことを上げておきます。
 
 ひとつは、この不幸な出来事の中にも大きな光明があって、それは日本人が自分たちの実力に気づいて正当に評価するようになったということです。暴動も起こらず略奪もなく、粛々と避難所を運営し助け合う、そういうことのできる日本人は稀有な民族だということです。

 もうひとつは、私自身が教育の在り方を考え直したということです。
 それまでは「教育」を児童生徒個人の自己実現の道具、夢を実現するための実力をつける仕事だと考えていたのですが、これからは人を助けるための道具、いつか他人の役に立つために力を蓄える仕事――そういう側面を強調しようと思うようになったことです。
 教員としての年月はわずかしか残っていませんでしたが、それは私の人生でも最も重要な決心でした。

《参考》
2019/3/11「覚えておかなくてはならないこと、伝えなくてはならないこと」〜8回目の3・11に 


10.【クリミア併合】平成26年3月16日
 ロシアによるクリミア併合、中国による南シナ海埋め立て(平成26年〜)、米大統領選ドナルド・トランプ当選(平成28年11月9日)。この三つをセットにして私の「平成10大事件」の締めくくりとします。
 
 まさか21世紀に大国による領土拡張、自国第一主義が台頭するとは思ってもみないことでした。「地政学」といった言葉は私のような政治学徒が密かに胸にしまっている「死語」だと思っていたのです。

 いまから思えばクリミア併合はわずか5年前のことです。
 その瞬間まで、やがてロシアは広大な土地を持つだけの平凡な国になり、中国もいずれは良識ある民主主義大国となり、合衆国はオバマに代表されるような差別を乗り越えた、すべての人にチャンスのある民主主義国家のお手本であり続けるだろうと思っていたのです。
 アラブの春の混乱もやがて落ち着き、イラン合意で示された平和モデルに従って世界は次第に安定に向かう。北朝鮮は現状のまま生き残ることはできないから金一族の追放・亡命などによってゆっくりとした半島の統一が始まる――。

 それが全くの夢物語だったとは!

 いつ死んでもいいと思っていた私が、長く生きて子や孫や教え子たちの行く末を確認したいと思うようになったの、これらの事件のためです。



【令和の未来がここにある】

 しかしこうして平成の31年間を並べてみると、令和がどんな時代になるか、たくさんのヒントがあるような気がしてきます。

 令和が良き日々でありますよう!



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2019/4/22

「シェイクスピアはなぜ偉いのか」〜明日は誕生日・命日  歴史・歳時・記念日


 シェイクスピアが現代の若者にとってどういう存在か
 そのあたりはよくわからないが 絶対に勉強しておくべきだ
 特に英語を学ぶなら シェイクスピアは必須
 なにしろシェイクスピアは偉いのだから


という話。
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ジョン・エヴァレット・ミレー 「オフィーリア」

【生年没年ともに知っている有名人】
 明日、4月23日はウィリアム・シェイクスピアの命日だそうです(1616年)。
 1564年生まれですので「人殺し(1564)に生まれて、いろいろ(1616)やって死んだ」と覚えやすいので、私にとっては生年没年ともに知る唯一の有名人ということで以前お話したことがあります。もっとも命日が4月23日だということは今回、初めて知りました。

 シェイクスピアは誕生日も4月23日だそうですから、これからは私にとって「生年月日、没年月日すべてを知る有名人」ということになります。
ただし誕生日の4月23日はけっこう怪しく、命日に合わせてそう決めたのではないかという説もあるようです。

 シェイクスピアの生きた時代を日本に対照すると、数次によって行われた「川中島の戦い」の最後の回(第5次)が行われた年に生まれ、豊臣家が滅びた「大阪夏の陣」の翌年に亡くなったことになります。そういう言い方をするとなんとなく時代が分かってきます。
 南蛮貿易より後の時代ですから、シェイクスピアにも日本に関する何らかの知識があったのかもしれません。

 父親は成功した皮手袋商人で、市会議員を務めた上で市長にもなった名士だったようです。ただしその祖先は名前からシェイク(Shake:振る)+スピア(spear:やり)+(r)だから「槍を振る人」、つまり「歩兵」だったのではないかという話を聞いたことがあります。しかし一方、これは単なる「棒を振り回す乱暴者」という程度の意味だという話もあれば、その「棒」には卑猥な意味があるという話まであって埒が開きません。

 諸説ありますがNHKの「ニッポン人のお名前」によれば、姓はどんなに不自然に見えても必ず良い意味があるという原則があるそうですから、イギリス人なら誰でもわかる卑猥な姓だったとしたら途中で誰かに変えられていたはずです。やはりここは単純に「歩兵」という説に従っていた方がいいかもしれません。


【シェイクスピアはなぜ偉いのか】クリックすると元のサイズで表示します
 しかしいかに傑出した劇作家だったとは言え、シェイクスピアはなぜここまでもてはやされるのでしょう?
 それには相応の理由があります。

 シェイクスピアの今日的業績というとその最大のものは「現代英語の成立に多大な影響を与えた」ということにつきます。俗に言われるのをそのまま借りると、「現代英語からシェイクスピアと聖書を除くと、その表現は半分以下に減ってしまう」そうです。

 例えば「『恋は盲目』って言うじゃないですか」と言った瞬間、その人はシェイクスピアの「ベニスの商人」を引き合いにしていることになります。
「この世は舞台、人はみな役者だ」と気取って言う人は、知らないうちに『お気に召すまま』の台詞をそのまま使っています。

「『弱き者、汝の名は女』というから、やっぱ女性は大切にしなくちゃ」は「ハムレット」からの引用ですが使い方は違っています。
 母親が、夫の死後間もなく夫の弟と結婚してしまったことを嘆いて言う言葉ですから、「女とはなんと心弱いものか、すぐに心変わりしてしまう」といった意味です。女性を大切にするというよりは、半ば呆れ半ば絶望して使う言葉です。

 他にも「終わり良ければ総て良し」だとか「身の毛もよだつ」とか、あるいは批判的な(critical)という単語も、シェイクスピアの発明だと言われています。

 ハムレットと言えばすぐに出てくる「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」は、英語の苦手な私ですら原語で言えたりします(To be, or not to be: that is the question)。あまりにも有名過ぎて、欧米では誰でもこれをやりたがり、どんなに下手な役者でもそれだけは何とかサマになる――そこから西洋では下手な役者のことを「ハム役者(ham actor)」と呼ぶそうです。

 日本では「(何と食べ合わせても)絶対に当たらない」「すぐに下ろされてしまう」というところから下手な役者を「大根」と言い、西洋では「ハム」という、なかなか面白い取り合わせです。


【日本におけるシェイクスピア】
 シェイクスピアと言えば私が若いころ、東京で「シェイクスピアシアター」という劇団が全37作完全上演という試みに挑戦していて、私も何回か観に行ったことがあります。小田島雄志さんの軽妙な脚本を使って、舞台衣装も大仰な中世のものではなく、ジーパンに私服という挑戦的な演劇でチケットもかなり取りにくかったように覚えています。

 当時は小劇場全盛で若い人は誰も古典劇など観に行かなかったのに、シェイクスピアだけ特別だったのにはそうした事情がありました。

 さらにちょうど同じ時期――というかそれより少し前に映画の「ロミオとジュリエット」がヒットし、映画自体は大したものではなかったのですが、ニーノ・ロータの音楽が素晴らしく、ジュリエット役のオリビア・ハッセーが信じられないくらいの美少女で、日本中の若者の目が眩んだとのも理由のひとつかもしれません。

 私はずいぶん長いこと、この「ロミオとジュリエット」もシェイクスピアの四大悲劇のひとつだと思い込んでいました。しかし違います。
 考えてみれば大人の事情も考えないガキのカップルが浅はかな計略に乗って失敗し、ともに死んでしまう話です。悲劇というには土台となるものが軽薄すぎます。教師になってから実感をもってそんなふうに考えるようになりました。

 四大悲劇と言えば「ハムレット」「マクベス」「リア王」「オセロ」。
 現代の子どもは「オセロ」と聞けば白黒の丸い駒を使うボードゲームしか思いつかないので、目を白黒させるかもしれなません。この際、「黒人の将軍と白人の美貌の妻の話だ」くらいは教えておきましょう。ちなみにオセロゲームは日本人の発明だと言われています。

 今回、改めて調べてみて、シェイクスピアが18歳の時に結婚した8歳年上の女性がアン・ハサウェイという名だと知りました。もしかした40年以上前にシェイクスピアについてあれこれ調べていた時にも目に入ったのかもしれませんが、同姓同名の女優さんの活躍する「プラダを着た悪魔」は2006年の映画ですから、当時はまったく引っかからず通り過ぎてしまったのかもしれません。
 偶然とはいえ、400年も経ってから奥様と同姓同名の役者さんが世界を相手に大活躍するなんて、やはりシェイクスピアはただものではありません。

 イギリスの文豪、世界の劇作家ウィリアム・シェイクスピア――機会があるようでしたら子どもたちにもちょっと紹介してやってください、





【追記――やりきれないこと】

 このブログには事情があってつくったミラー・ブログがあり、そちらでは「関連記事」というものが表示されます。

 昨日、本記事「シェイクスピアはなぜ偉いのか」を予約投稿して今朝確認したところ、その関連記事として『2018.04.23「シェイクスピアの命日」〜文豪に関するウンチク、あれこれ』が上がっていました。
 内容を見ると今回と9割方そっくりで、ジョン・ミレーの「オフィーリア」まで一緒です。
 「オフィーリア」には何か記憶があって引っかかったのですが、昔から好きな絵ですのでこだわらずに使ったのですが、今から考えるとここにアップしたわけです。

 わずか一年前に同じような記事を書いていたとは!
 耄碌も極まれり!

 先週末から東京と兵庫で80歳代と60歳代の男性による重大な交通事故が2件続いています。文章で人を殺すことはそうはありませんからまだしもですが、本当にがっかりしています。
 子どものころ付き合っていた女の子の口癖を借りれば、
「舌を噛んで死にたい気持ち」
です。
 嗚呼!





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2019/4/5

「元号が変わると世界が変わる」〜新元号が発表されたことに寄せて 2  歴史・歳時・記念日


 新元号が「令和」と決まり 多くの人々から歓迎の声が上がっている
 しかし一方で 
 「元号なんて面倒くさいことをやっているのは日本だけ」
 「元号が変わったところで何も変わったりはしない」
 という人がいる
 しかし私はそうは思わない

という話。

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【元号をなくしてはいけない】
「そんなことをやっているのは日本(人)だけ」という言い方で非難されることがあれば、私は反射的に「それは続けるべきことだ」と考える癖がついています。ですから
「元号なんて面倒くさいことをやっているのは日本だけ」
と言われれば、とりあえず「何が何でも元号はなくしてはならない」という地点から考えを進めようとします。

 もしかしたら日本人を日本人たらしめている原因のひとつが「元号」なのかもしれないのです。安易に廃止してはいけません。

 さらに元号を廃止してしまった場合、まさか金日成の誕生年に由来する主体暦や預言者ムハンマドのイスラム暦を使うことはないでしょうから、必然的に選択できるのは西暦くらいしかなくなります。しかしこれもイエス・キリストの生誕年に由来することを考えると、クリスチャンでない私には素直になれないところです。
 西暦は外国との交易の上で便利かもませんが、簡単に乗り換えていい話ではないでしょう。

 また長く歴史をいじってきた者として、
「元号が変わったところで何も変わったりはしない」
という意見にもなかなか与しがたいところがあります。


【元号は人々の気分を一斉に変える】
 日本語には言霊(ことだま)というものがあります。ですから元号が変わると日本は変わってしまうように思っているのです。

 手近なところで言えば今回の改元に際して若い女の子が、
「これまで『昭和』とか言ってバカにしてきたのに、これからは『平成』っていう古い人の仲間になっちゃう」
と言っていたことがそれを予感させます。

 また私の友人の息子は、ツイッター上でこんなことを呟いています。
 昭和の生まれでまだ未婚なので令和になる事で平成、令和生まれの方達に凄く昔の人だと思われて、より婚期が遅れるのではないかと恐怖を感じています。
 もちろん半分は冗談でしょうが、大きく的を外しているわけではありません。

 元号が変わるということは世界そのものが変わることにつながっているのです。


【改元は時代を変えた】
 それについてはこれまでも何度も書いてきました。
 例えば、
 2013/9/11「年号や世紀が変わることへの思い」 
では、「明治」「大正」「昭和」にはそれぞれの目標と時代を覆う雰囲気があり、元号が変わるとすっかり変わってしまうというお話をしました。

 私の実体験で言えば、「昭和」である間は誰も自衛隊の海外派遣など考えませんでした。頭の隅にも浮かばなかったのです。
 憲法が改正しうるものだということも、もちろん法律上のことは知っていましたが、まったく可能性のないことのように思っていました。口にすることさえ罪悪のように感じていたのです。

 経済的には、株も土地も給与も一直線に上がり続け、勢いは衰えることがない。NTT株は放っておいても一株400万円、500万円と上がっていく、単純にそう信じられたのが昭和なのです。

 ところが、「平成」の言葉を聞いたとたんに一切が変わってしまった――。

 細かなことで言えば、死語だったはずの「デフレーション」が日常会話で繰り返されるようになり、昭和時代には常識だった「若者の活字離れ」が覆され、子どもたちは暇さえあれば文字を読み、果てしなく打ち続ける日が来ました。
 高級ラウンジやディスコで飲んだり踊ったりしていた学生たちが、居酒屋でチューハイを傾けるようになったのです。
 そんなこと、誰も考えませんでした。


【変化は心理的な側面だけではない】
 昭和天皇の崩御された平成元年(1989年)は、手塚治虫・美空ひばりという二つの巨星が落ちた年です。

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」「連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)」という、その後の少年犯罪の原点となるような大事件の起きたのもこの年です。
 そして当時は表に出てきませんでしたが、オウム真理教が最初の殺人に手を染め、坂本弁護士一家を殺害したのもこの年です。

 海外では6月に「天安門事件」が起こって、中国はいわゆる“民主化を伴わない経済成長”の道を歩み始めます。しかし何といっても平成元年最大の事件は、ベルリンの壁が崩壊し、一連の東欧革命が進んだことです。東欧革命と呼ばれる一連の政変が続き、ついに年末の「マルタ会談」で東西冷戦の終結宣言が発表されます(ソ連崩壊は1991年)。
 平成の声を聞くとともに、世界の一切が変わってしまったのです。


【明治も大正も昭和の始まりもそうだった】
 改元による歴史の大きな変化というのは昭和以前もありました。
 明治の最大の目標「不平等条約を改正して欧米と肩を並べる」は明治44年、関税自主権回復によって成し遂げられます。明治天皇は目標達成を見届けたかのように翌年崩御し、明治時代は終わります。
 大正デモクラシーの発端である第一次護憲運動は大正元年のできごとです。その最大の成果である普通選挙法の制定は大正14年で、その翌年の12月25日に天皇が崩御して大正時代が終わります。
 昭和元年は一週間しかありませんでしたから実質的な元年は昭和2年なのですが、その3月、金融恐慌が始まって時代は一気に暗黒の昭和前史に突き進みます。

 元号が変わると、この国はまったく違ったものになってしまいます。
 

【では、「令和」は?】
 では次の「令和」はどんな時代になって行くのか――。それについては、既にいくつかの予兆があるように思うのです。

 今回の元号を万葉集から採ったということにも、ひとつのヒントがあります。中国の文化的呪縛から一歩身を引こうという意思です。

 あるいは、ここのところ日韓関係は史上最悪と言われていますが、原因のひとつは日本政府および国民・マスメディアがいつになく強硬な態度であとに引かないからです。それも予兆でしょう。
 「令和」の世になれば「昭和」はふた昔前の時代となります。前代の罪は引き継いでもいいが2代前までは背負いきれない――そんなふうに人々が思い始めるのも自然の成り行きでしょう。内外で戦時中に生きていた人たちが全員いなくなっても、私たちは第二次世界大戦の責任を担い続けることができるでしょうか?

「令和」がどんな時代になるのか他にも心当たりはありますが、それはおいおいお話していくことにしましょう。

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