2020/9/29

「ふた組の三姉妹」〜浅井三姉妹、宋家の三姉妹  歴史・歳時・記念日


 NHK大河ドラマ「真田丸」の淀君(竹内結子さん)はすごかった。
 しかし淀君を含む浅井三姉妹の生涯自体も凄まじいのだ。
 そしてふと思い出すのは、
 時代も国もまったく異なる、別の三姉妹のことだ。

という話。
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(ボッティチェリ「春」の三美神《左》)

【消化不良な歴史】
 昨日、竹内結子さんについて書いた際、4年前のNHK大河ドラマ「真田丸」での淀君の演技が素晴らしかったというお話をしましたが、私は淀君を長姉とするいわゆる浅井三姉妹について非常に消化不良な思いを持っています。
 ものすごく興味があるのに、ロクな資料に出会わないのです。

 歴史というのはその主軸が政治史にあって、政治の世界はほぼ男性に独占されてきました。したがってそれぞれの時代を女性がどう生きてきたかという記録は、ごく少数の例外を除いて、ほとんどないのです。その中にあって浅井三姉妹と呼ばれる茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(こう)の生涯については、事績としては比較的よく残っているのですが、それでも人物像を思い浮かべられるほどの記述はありません。
 「真田丸」の茶々(淀君)が素晴らしかったのは確かに竹内結子さんの演技力によるところも大きいのですが、三谷幸喜という風変わりな脚本家が自由に想像を巡らせることができるほど、資料がなかったからかもしれません。


【お市の方】
 浅井三姉妹の母親は織田信長の妹で、戦国一の美女と謳われたお市の方です。同盟のために二十歳前後で浅井長政のもとに嫁した政略結婚ですが、三人も子どもが生まれたところをみるとそれなりに仲も良かったのでしょう。
 織田と浅井の同盟はやがて破綻し、信長は小谷城に浅井長政を殺して、そのときお市の方と三人の娘は城から逃れます。逃れたというよりは脱出させられたといったほうがいいのかもしれません。
 信長は祝勝の酒宴の席で、長政の髑髏を盃に祝杯を挙げたと言いますから、よほど腹立たしかったのでしょう。しかしお市の方にとってはやりきれない話です。

 本能寺の変で信長が死んだのち、柴田勝家に再嫁したお市の方は秀吉に攻められて再び落城の憂き目に遭います。しかし秀吉の熱心な勧めにもかかわらず、北庄城落城に際して自らは脱出せず、三人の娘のみを外に出して夫とともに自害する道を選びました。前夫のことで後悔もあったのでしょう。


【浅井三姉妹】
 その後、3人の娘たちはそれぞれ数奇な運命を辿ることになります。
 茶々(淀君)は秀吉の側室となって二人の子を産み、最後は大坂夏の陣で三度目の落城の中、息子の秀頼とともに自害します。

 次女の初は秀吉の命によって室町以来の名家・京極家に嫁します。夫の京極高次という人はかなり面白い人物で、両親がキリスト教徒で(母親は京極マリアというなで名が残っています)自身も最後は妻とともに改宗したり、妹が秀吉の側室で妻が信長の姪であるとともに秀吉の側室の妹、その七光りのおかげで出世したと陰口をたたかれ、「蛍大名」などといったあだ名さえあった人です。
 そうかと思うと関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に味方して、わずか3000人の兵で大津城に籠城し西軍1万5000人(別に3万7000にとも4万人とも言われる)を足止め、東軍勝利に貢献した知将といった面もあったりします。
 ちなみに高次がなくなると初は剃髪して仏門に入りますが、ここは“あれ? キリシタンの話はどうなったんだ?”と首を傾げたくなるような部分です。

 三女の江は秀吉の命によって強制的に結婚させられたかと思ったらやがて強制離婚させられ、二度目の結婚相手は朝鮮出兵で戦病死。三度目の嫁ぎ先が徳川家康の嫡男で後の2代将軍、徳川秀忠という激しい前半生を送ることになります。
 次姉の初は子どもに恵まれませんでしたが、江は二男五女をもうけ、その中には有名な千姫や三代将軍徳川家光もいます。
 波乱の多い前半生に対して、もっとも安定した後半生を送った人といえます。

 それぞれ別な場所で生きることになった三人ですが、一瞬、激しく交錯する歴史的場面が生れます。1614年の大坂冬の陣、そして翌年の夏の陣です。
 言うまでもなくこのとき茶々(淀君)は豊臣方にあって総大将の母親、江は徳川方2代将軍の妻なのです。このとき両者の間にあって、和睦のために奔走したのがすでに未亡人となって僧籍にあった初でした。

 この時代の女性は男たちに運命を振り回されるのが常でした。浅井の三姉妹の生涯はその最も激しい典型ですが、それでも人間は生きていける、なんとかなる、自ら棄てることはないと教えてくれる例のような気もします。


【宋家の三姉妹】
 歴史、特に戦国史が大好きで、自分自身が教師としては歴史が専門だと思っていたにもかかわらず、浅井三姉妹に興味をもったのはずいぶん後のことでした。学生時代は茶々以外のことはまったく知らず、三姉妹といったらまず浮かんだのは中国の、宋家の三姉妹の方です。
 中国近代史が私の専門でしたので。

クリックすると元のサイズで表示します  宋家の三姉妹と呼ばれるのは戦前の中国の財閥、宋家の三人の娘、宋靄齢(そう・あいれい)、宋慶齢(そう・けいれい)、宋美齢(そう・びれい)のことです。父親は牧師でありながら金融と印刷業で財を成した人で、母親は元数学者。娘たちは三人ともアメリカで高等教育を受けています。
 三人が有名なのは浅井の三姉妹同様、嫁ぎ先がかなり特殊だったことと、そして政治の世界にそれぞれ役割があったことによります。

 長女の靄齢の嫁ぎ先は富豪で政治家でもあった孔祥熙(こうしょうき)、孔は宋家とともに孫文の中国国民党を財政面から支援し、抗日運動も支えた人です。ただし晩年には一族を挙げて私腹を肥やした面もあり、最終的な評価は靄齢とともにかなり芳しくないものがあります。

 次女の慶鈴の夫は近代中国の国父とされる孫文です。宋家・孔家が国民党支持を続けたのに対して慶鈴は途中から中国共産党支持に回り、中華人民共和国成立後も大陸に残って毛沢東の中国の国家副主席にまで昇り詰めました。非常に清廉な革命家といった感じの人です。

 三女の美齢は三人の中でももっとも華やかな女性でした。夫は蒋介石、中華民国の初代総統です。中華人民共和国が成立して本土を追われてからは後は、台湾のファースト・レディとして国政政治の舞台でも活躍しました。2003年まで存命でしたのでその姿を覚えている人も少なくないでしょう。政治的野心の強い人で、戦後の台湾史をちょっと覗くだけでも繰り返し名前が出て来ます。

 中国共産党の国家副主席と台湾国民党のファースト・レディーですから次女と三女の関係は大坂夏の陣の淀君(茶々)と江に匹敵する、あるいはそれ以上に厳しい関係だったと言えます。
 1981年には名誉国家主席になっていた宋慶齢が危篤となり、その際、中華人民共和国は見舞いのための訪問を打診しましたが、敵対関係を理由に美齢はこれを決然として拒否しています。

 三者三様の生き方――。こうした事情から、三姉妹については靄齢、美齢、慶齢の順に、「一人は金と、一人は権力と、一人は国家と結婚した」と言われています。


【誰か物語にしてくれないか】
 宋家の三姉妹については記録もたくさん残っていて調べるときりがないのでこの程度の紹介にとどめます。1998年に映画になっていますから、そちらを観るのが早いでしょう(私は見ていないので評価はできませんが)。
 浅井の三姉妹については、どうして映画にも大河ドラマにもならないのか不思議です。2011年の「江 〜姫たちの戦国〜」は確かに浅井三姉妹が主人公ですが、江に寄せすぎている感じもします(これもあまり熱心に見ていなかったので評価の対象外ですが)。

 私ももう齢ですので、今から熱心に調べようという気力がありません。だれか都合よくまとめて見させてくれる人がいればいいのですが――。




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2020/9/23

「海王星の日」〜惑星とセーラームーンと陰陽師の話  歴史・歳時・記念日


 今日は「海王星の日」。この星の発見された記念日だ。
 ところで、水星・金星・火星・木星・土星はいいが、
 次が天王星でそのまた次が海王星というのは何なのだ?
 この話に、セーラームーンと陰陽師はどうからんでくるのか。

という話。
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(写真:フォトAC

【海王星の日】
 今日は「海王星の日」、ドイツの天文学者ガレが海王星を発見した日です (1846年)。

 海王星はそれまでと違って実際にみつかる前に数学的に予言された惑星でした。フランスの天文学者ブヴァールが、天王星の予期しない軌道変化から未知の惑星の存在を予言し、ルヴェリエという学者がその惑星の位置を予測して、実際にガレが発見した、という順になります。

 海王星の直径は地球の12倍ほど。単純な計算だと体積はその3乗の1728倍、だから質量も1728倍ということになりそうですが実際には17倍にしかありません。ガス惑星だからです。しかしそれでも太陽系の中では3番目という重い惑星になります(木星・土星・海王星の順)。

 海王星という名はこの星がまずヨーロッパで「ネプチューン」と名付けられたところからきています。
 ネプチューンはローマ神話では「ネプトゥーヌス」、ギリシャ神話では「ポセイドン」と呼ばれる海を支配する神です。そこから「海王星」という名前が選ばれたのです。海王星のひとつ手前の惑星が天空の神「ウラヌス」であることから「天王星」と呼ぶのに倣った形になります。


【西洋天文学とセーラームーン】
 ところで地球を除く太陽系の惑星は、天王星の前までは水星・金星・火星・木星・土星なのに、なぜその先は神様の名前なのか――。私たちにはずいぶん妙な感じがしますが、欧米人にとっては何の違和感もないことです。

 私たちが水星・金星と呼ぶ内側の惑星について、欧米人は古くから神様の名前を付けていたからです。主神ジュピター(ゼウス)の家族の名で、太陽に近い方から、マーキュリー(水星)、ビーナス(金星)、昔は惑星と考えていなかった地球を飛ばして、マーズ(火星)、ジュピター(木星)、サターン(土星)となります。

 このあたりのことはおそらく現在30歳代くらいの、特に女性に詳しい人が多いかもしれません。二十数年前に大ヒットした「美少女戦士セーラームーン」に出てくる戦士は、皆この名でしたから。
 ご丁寧に、例えば戦士セーラーマーズの本名は火野レイ、使う技は炎を操る「バーニング・マンダラー」と、しっかり「火星」が浮かぶようになっていました。

 私は、当時まだ保育園児だった娘のシーナの影響で「セーラームーン」に接していたのですが、特にこころ魅かれたのは一人だけ飛び抜けて大人びていたセーラー・プルート(冥王せつな)でした。必殺技はデッド・スクリーム。しかしプルートは第2部であっけなく死んでしまいます。

 このことはけっこう暗示的で、セーラームーンが大ヒットしていた1990年代には太陽系の第9惑星として輝かしい地位を保っていた冥王星は、2006年、惑星の定義の見直しとともに“準惑星”という分類に下げられてしまったのです。

 冥王星の発見者はアメリカ人のトンボーで(1930年)、天文学の新興国アメリカで発見された最初の惑星として熱狂的に迎えられました。ディズニーも新キャラクターの犬にその名をつけたほどです。それが100年も持たずに消えてしまうとは、まさに「(冥王)せつな」的なできごとでした。


【東洋天文学と陰陽師・惑いの星】
 ヨーロッパの天文学はメソポタミアに起源を持ち、ギリシャ、ローマと経て欧米に広がりましたから惑星以外の星々はほとんどがアラビア語かラテン語(一部、新しく発見された星は他の言語)です。しかし中国・朝鮮半島・日本などは中国占星術に起源をもつ天文学から始まっていますから、基本的な考え方がまったく違っていました。中国占星術における基本的考え方というのは陰陽五行(おんみょうごぎょう)のことです。

 陰陽師があつかう陰陽道ではすべての存在は「木火土金水(もっかどごんすい)」の五つの要素から成り立っており、それが陰と陽、二つのまったく異なる様相をみせることから世界が動いていると考えます。

 空を見上げると奇しくも不思議な動きをする7つの天体があります。太陽と月と五つの星、それ以外のすべては、全部、規則正しく動きます。

 例えば夜8時と決めて毎晩天体観測をすると、満天の星のすべてが一斉に、角度にして約1度ずつずれながら、西の方に移動しているが分かります。全部一斉ですから星座の形が崩れることもありません。
 さらにそのまま西へ西へと移動しているわけですから、特定の星座はいつか見えなくなってしまいます。冬の代表的星座であるオリオン座は春には西の山の端に消えて夏の間じゅう姿を見せません。代わりにのぼってくる夏の星座さそり座も秋になると西山に消え、再びオリオン座が上ってきます。つまり1年かけて元の状態に戻るわけです。

 この寸分狂いのない星の運行の中にあって、五つの星だけが自由気ままに動き回っています。中国占星術ではこれを根本的要素の「木火土金水」に当てはめて、「木星・火星・土星・金星・水星」と呼ぶようにしました。これらの星は星座の間をフラフラとさまよっているわけですから、まとめて「惑う星=惑星」と呼ばれました。
 おもしろいことに英語で惑星を表すPlanetsも、語源は「さまよい人」「さすらい人」です。

「水星・金星・火星・木星・土星」――肉眼で見える惑星は五つしかありませんでしたから、昔はそれでよかったのです。
 ところが1781年にイギリス人のハーシェルが7番目の惑星を発見し、その情報が中国に伝わると、陰陽を扱う人や天文学者は困ってしまいました。陰陽道で使える概念は使い果たしてしまったからです。そこでしかたなくウラヌスを「天を司る神=天王→天王星」として受け入れました。あとは申し上げた通りです。


【太陽系の姿】
 現在、太陽系と呼ばれる惑星群は、8個の惑星と5個の準惑星、それらを公転する衛星、そして多数の太陽系小天体などからなっています。
 数として分かっているのは衛星が630個、小惑星は99万933個。小惑星の中には「はやぶさ」や「はやぶさ2」が行ったイトカワやリュウグウも入ります。他に彗星が4188個。
 海王星はそのひとつにすぎません。

 太陽系だけでも、まだまだ未知の部分は大きいのです。


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2020/8/25

「私のヒーロー、地蔵菩薩」〜チコちゃん、私は憧れていたんだ  歴史・歳時・記念日


 先週金曜日の「チコちゃんに叱られる」で、
 「お地蔵様は閻魔様だ」と言っていたが、
 私はちょっと違うと思う。
 地蔵菩薩はもっとすてきな、私のヒーローなのだ。

というお話。
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(「護国寺」フォトACより)

【チコちゃんにひとこと言いたい】
 先週の金曜日(21日)の「チコちゃんに叱られる」に、「お地蔵さんって何?」というのがあって、答えは「お地蔵様は閻魔様」でした。地蔵は閻魔の姿を借りて地獄にいる、あるいは閻魔が地蔵の姿を借りて現世で人々を見守っているというのです。

 確かにそういう話もあって間違いではないのですが、地蔵菩薩を考えるとき、その入り口が「お地蔵さまは閻魔様」だと、この仏様の全体を理解するのが難しくなるのです。
 私は地蔵尊の熱烈なファンですので、ひとこと言わずには気が済みません。


【仏様たち】
 たった今、私は「この仏様」という言い方をしましたが、「仏様」には広義の「仏様」と狭義の「仏様」の2種類があって、前者は仏教に関わる全ての存在のことを言い、お寺に行くとそれが阿弥陀様であれ観音様であれ、あるいは閻魔大王や世親・無著であってもひとくくりに「仏様」といったりします。そのレベルの「仏様」です。

 仏教では開祖の釈迦が、自分が会得した悟りは誰にも理解できないと早々に諦めてしまっていたのを、バラモン教の主神である梵天が盛んに乞う(梵天勧請)のでようやく重い腰を上げ、説法に向かったということになっています。ですから仏教は言葉や概念に厳密ではなく、そのことが日本だけでも五系十三宗五十六派と呼ばれる膨大な広がりをつくってしまい、仏教を拡大させるとともに多くの異説を取り込んでしまう原因となっています。
 それほど寛容な宗教ですので、厳密には「仏(ほとけ)」ではない地蔵菩薩を、信仰心篤い人が「仏様」と呼んでも一概に間違いというわけにはいきません。それが広義の「仏様」だからです。

 狭義の「仏さま」は、しかし厳密な概念です。別に「如来」と呼ばれるのも同じですが、皆、釈迦仏(釈迦如来)と同じく「悟りを開いた者」です。
 廬舎那仏、阿弥陀仏、薬師如来、大日如来、弥勒如来などが有名なところで、いずれも欲望のから一切解放されているので、布一枚を体に巻き、装身具は一切身に着けず、静かに瞑目しています。修行の身ではないので頭も剃らずに、短く髪を伸ばしています(ただし天然パーマなので仏像ではイボイボみたいな形で表現されます)。

 その仏(如来)の一つ下に位して、仏になることをめざし、修行を続けているのが菩薩です。まだ悟りを開いていませんから欲望も捨てきれず、菩薩像では冠をつけ、ネックレスやブレスレッドを大量に着けて欲望を表現するのが普通です。
 菩薩の中で飛びぬけて有名で人気があるのが観音菩薩で、人々の悩みの応じて姿を変えるので、聖観音菩薩、慈母観音、如意輪観音、千手観音、不空羂索観音、馬頭観音など三十三種類以上もあります。
 他にも日光菩薩、月光菩薩、勢至菩薩、虚空蔵菩薩と有名どころがずらっといるのですが、観音と並んでもうひと方、庶民の人気が高いのが地蔵菩薩です。

【地蔵菩薩】
 地蔵菩薩像は他の菩薩像と違って、出家僧の姿で表現されるのが普通です。それは悟りを開いて自らが仏になることを諦めた存在だからです。

 地蔵はその修行中、法力によって三途の川の賽の河原で、石を積む子どもたちの姿を見てしまいました。子どもは、“子どもでありながら死んで親を悲しませた”という重罪によって地獄からも拒絶され、鬼に責められて石積みの山をつくっては壊されているのです。
 地蔵はそれを悲しく思い、修行を棄てて急遽賽の河原に向かい、子どもを助けようとします。これが「地蔵は子どもの神様」と言われる由縁です。

 私は、この「自らの出世を棄てて、子どものためにかけつけた」というところが大好きなのです。

 地蔵菩薩は古代インドや中国ではさほど注目される存在ではありませんでした。日本でも奈良時代や平安前期ではさほど有名でもなかったのですが、平安中期以降、浄土信仰が盛んになり、人は死ぬと極楽浄土に往生(往って生きなおす)するべきだといった考えが広まると俄然人気者になります。
 というのは世の中のほとんどの人々は藤原頼通のように宇治平等院を建てて極楽に往こうなどと、考えることすらできなかったからです。極楽に往生できない者は、当時の常識では地獄に往くしかなかったのです。

 誰か地獄に行った私を救ってくれる者はないのか――。
 地蔵菩薩は子どものために自らの修行を棄てて駆けつけてくれるような存在です。地獄にだって来てくれるに違いありません。いや、人が死ぬと行くことになっている六つの世界(天道・人間道・餓鬼道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の、どこへ行っても来てくれるに違いない――。

 村の入り口や町の辻に置かれることの多い「六地蔵」は6人の地蔵を表したものではなく、六つの世界へ向かうひとりの地蔵菩薩の六つの表現です。地蔵は誰がどこに居ようとも、助けを求められれば飛んで行って救う意志があるのです。

 やがて武士の時代になりますが、武士というのは必然的に人殺し集団、あるいは人殺し予備軍です。武士である限り死んだ後に行くべきは地獄のほかありません。そんなところから地蔵信仰はさらに強固になっていきます。


【私自身のこと】
 若いころ、と言っても本当に若い、まだ中学生か高校生のころ、地蔵にはついて何も知らなかったのですが、将来に憧れたのはそういう生き方でした。宮沢賢治の言う、
  東ニ病気ノコドモアレバ 
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ 
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ 
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ 
  ツマラナイカラヤメロトイヒ

 そういう人生だと言ってもいいでしょう。

 そのことを、当時つき合っていた女の子に話すと、
「Tくん(私のこと)は神様になりたいんだね」
と、何か悲しそうに笑ったことがありました。
 あれは何だったのか?

 結局そうはならなかった今の私を、あの人は見通していたのでしょうか?


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2020/4/14

「リンカーン、高杉晋作、タイタニック」〜4月14日はそんな日です。  歴史・歳時・記念日


 書くことが思い浮かばないと頼りにするのが「今日は何の日」
 一年365日、毎日が何かの記念日で誰かの誕生日、そして命日。
 人類史がたった365個の箱に収まるわけだから、
 きっと面白いことがあるはずだ。
というお話。
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(「1912年4月11日に撮影されたタイタニック号」 パブリックドメインQより)

【今日、4月14日のできごと】
 今日、4月14日はリンカーンが劇場で銃撃され(1865:翌朝死去)、高杉晋作が結核のために弱冠27歳の若さで亡くなり(1867)、タイタニック号が氷山にぶつかった日です(1912:翌15日午前2時20分過ぎに沈没)。
 それぞれ何のつながりもありませんが、三つまとめて覚えておいて、何かの折にウンチク話とし披露すれば案外モテるかもしれません。

 そのうえでさらに勉強して、高杉晋作は現在でいう山口県随一の美人を嫁さんにしていたとか、晋作を含む松下村塾四天王(他は久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一)は誰一人生きて明治維新を迎えることなく、生き残ったのは二線級ばかりだったとか、あるいはリンカーンについては、西暦の下1けたが0年である年の選挙で当選した大統領は任期を全うしないという「テカムセの呪い」にまんまとはまっていたとか、そのテカムセの呪いを打ち破ったのは元俳優で死んだふりの上手かったレーガン大統領だったとか、さらにあるいは百年を置いて1960年に当選して暗殺されたジョン・F・ケネディと比べると、二人はともに黒人解放のために戦った政治家だったということ以外に、背後から銃で頭を撃たれた、犯人は裁判を待たずに殺された、大統領の死去で繰り上がった元副大統領は二人ともにジョンソンという名だった、とかいった共通点がある一方、リンカーンの犯人は劇場で暗殺を謀り倉庫で逮捕されたのに対し、ケネディの犯人は倉庫で暗殺を決行して劇場(正しくは映画館)で逮捕されたという逆の関係にあるとか・・・。

 昔の教師はこうした話を始めると止まらず、中には3日〜4日に分けて講談のように語る人もいて、生徒の方も本来の授業内容よりも「雑談」と言われたそちらの方をよく覚えていたり、そちらの方が人生の役に立ったりといったことも少なくありませんでした。

 ちなみに当時の「雑談」は教師にのみ与えられた権利で、児童生徒には許されていませんでした。それがいつの間にか子どもたちの方が「雑談」をするようになり、今は両方とも厳しく禁じられています。

 最近は「と言ってももう20年来ですが)カリキュラム管理が厳しくなって3日はおろか15分の雑談も難しくなり、先生方はきちんとした授業をしておられます。
 しかしそれでも1授業時間(45分または50分)を緊張しっぱなしというわけにも行きませんから、うまく強弱を計っているのです。

 ちょっと思いついたのですが、新型コロナ事態でオンライン授業などが始まったら保護者も近くでモニターを見ている可能性がありますから、教師は「雑談」はおろか少しも気を抜くこともできず、児童生徒は背後の親から「ボーっと学んでるんじゃあねぇよ!」と叱られないよう頑張るしかなく、保護者は保護者で参観日と違って、ウチの子が正面から別の保護者の目に晒されていると思うと落ち着かずという――なにか凄まじい45分間(50分間)になりそうな気がしてきました。
 それが毎日6時間も続くようだったら、私なら生徒であっても教師の側でも、はたまた保護者でも、気が狂ってしまいそうです(どうかそんなふうになりませんように)。


【タイタニックとダイヤモンド・プリンセス】
 さてタイタニックですが、私は1997年のジェームス・キャメロン監督の映画「タイタニック」以上のことは何も知りません。
 ただ、乗員乗客2208人中、生存者はわずか695人という大海難事故で、何度も映画になって有名なのに、実は死者の数においてワースト5にも入っていないという話を、昔、聞いてびっくりしたことを覚えています。
 今回、調べたら第8位。最も人命を失った海難事故は1987年にフィリピンで起こったドニャ・パス号事故で死者は4341名だそうです。この事故自体は私の記憶にもありました。


 航空機の事故はいったん起きると乗員乗客の全員が死ぬ場合が多く、それだけに記憶にも残りやすいのですが、人数においては海難事故に敵いません。
 そう言えば今回の新型コロナ禍でも、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」では乗員乗客3711人の全員が感染してしまうのではないかといった恐怖にさらされました(実際の感染者は昨日までの段階で712名、死者は12名)。

 ダイヤモンド・プリンセスに関しては当初から、感染拡大を防止する義務が、船籍のあるイギリスにあるのか、運航会社「プリンセス・クルーズ」が本社を置くアメリカなのか、寄港国である日本なのかが問題となりました。結局、乗客の割合が特に多く、実際の寄港地である日本が入管の問題として扱うことになり、手際の悪さが世界から非難されました。しかしイギリス人船長は一度も顔を見せず、詫びることもなく、3月28日に横浜港を離れて行きました。
 私にはこれが納得できない。

 納得できないと言えば日本で「ダイヤモンド・プリンセス」が苦しんでいる真っ最中の2月11日、「ダイヤモンド」とおなじプリンセス・クルーズ社が運航する「グランド・プリンセス」がサンフランシスコ港を離れ、20名を越える新型コロナウイルス感染者を出してあちこちの港から入港拒否にあうという事件が起こりました。船は二十日以上に渡って漂流するように移動を重ねましたが、最後はオークランドが引き受けてくれ、乗員乗客はアメリカ軍の施設で2週間を過ごすことになりました。

 さらに絶望的に驚くのは、3月に入って8日にオーストラリアのシドニーを出発した「ダイヤモンド」の姉妹船「ルビー・プリンセス」でもコロナ感染が起こり、19日にシドニーに帰港。到着時点で4人が陽性。31日までに162名の発症者と5名の死者を出しています。
 責任の所在が曖昧だとこういうことになるのかと、茫然として自失し、怒りもわいてきません。

 3月28日に横浜港を離れた「ダイヤモンド・プリンセス」も、今度は5月16日に神戸港を出発し中国・四国・韓国などをめぐるツアーを行うそうです。
 もうこうなると「すごい」としか言いようがありません。
 やりたいことをやって、ツケを誰かに払ってもらう――そういうことのできる人は、確かに世の中にいます。

 ひとりひとりが責任をもって、新型コロナと戦おうという掛け声が、むなしく聞こえるのはこういうときです。


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2020/2/28

「明日はうるう年のうるう日」〜ちょっとしたウンチク  歴史・歳時・記念日


 明日は2月29日、うるう年のうるう日です。
 どうして4年にいっぺん2月が29日間になるのか、
 この日生まれた有名人にはどんな人がいるのか、
 その人たちは年齢をどう数えるのか、
 トリビア!
という話。
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(「2020年の2月」フォトACより)

【うるう年・うるう日】
 明日はうるう日、4年にいっぺんの2月29日です。
 なぜそういうことになるのかというと、地球が太陽の周囲を一周する日数が365日ではなく365.2422日だからです。端数である0.2422日を4回繰り返すと0.9688日でほぼ1日になるため、4年に1回、1年を366日とするわけです。

 ただし正確には“0.9688日”なのに“1日”増やしてしまうため、いずれ誤差がたまって日が余ってしまいます。そこで100年に1回ずつ、うるう年を端折るようにします。しかしうまくいかないもので、400年もたつとまた日が余ってしまい、仕方ないので400年目はうるう年を端折らないことにします。
 これは現在ルール化されていて、次のように説明されます。
「西暦の年が100で割りきれ、かつ400では割りきれない年はうるう日を入れない」

 具体的に言えば、西暦2100年、2200年、2300年にはうるう年がなく、2400年にはある、ということです。もう過ぎてしまいましたが、近いところでは西暦2000年は100でも400でも割り切れるため、うるう年は普通にあったのです。

 しかしそうした暦のずれは、なぜ2月に修正されるのでしょう?
 それは古代ローマ暦で、現在、英語でMarchと表記される月が1年の最初の月だったからです。したがってFebruaryが最終月。だからここで帳尻合わせをするのです。
 この部分は私の最も得意なトリビアなのですが、「昔は3月が1月だった」ではしっくりこないので、英語嫌いの私もしかたなく英語で説明しています。


【うるう日が誕生日】
 うるう日が誕生日の有名人には次のような人がいます。

 ジョアキーノ・ロッシーニ、作曲家(1792年−1868年)
 ルイス・スウィフト、天文学者(1820年−1913年)
 マキノ雅弘、映画監督(1908年−1993年)
 バルテュス、画家 (1908年−2001年)
 ダイナ・ショア、歌手(1916年−1994年)
 兼高かおる、ジャーナリスト(1928年−2019年)
 原田芳雄、俳優(1940年−2011年)
 赤川次郎、推理作家(1948年−)
 峰竜太、タレント、俳優(1952年−)
 飯島直子、女優(1968年−)
 吉岡聖恵、ミュージシャン(いきものがかり)(1984年−)

「いきものがかり」の吉岡さんはよく「私は誕生日を8回しかやってないからまだ8歳だァ(今年は9歳)」とか言っていましたが、この人たちの年齢はどうなっているのでしょう?

 実は日本の法律では、人は生まれた時間に関わらず、前日の午後12時に年齢をひとつ重ねることになっているため、うるう年であろうとなかろうと、2月29日生まれの人は2月28日の午後12時をもってひとつ年を取ってしまうのです。したがって吉岡さんも、順調に年を重ねて、今夜12時をもって36歳になられます。

 また、さまざまな資格や手続きの中で、例えば誕生日を基準として有効期間や更新期間が定められている場合は2月28日を仮の誕生日として考えることになっています。これを“みなし誕生日”と言います。
 法律上はそういうことになっていますが、“みなし誕生日”は一般用語であって、「私は3月1日をみなし誕生日として誕生会を開いています」という言い方も正しいといえます。

 いろいろ面倒くさいようですが、本当の誕生日が4年に1回しか来ないというのも、ちょっとカッコウいいような気もします。


【うるう年・うるう日の行事】
 4年に1回の近代オリンピック(夏季)、アメリカ大統領選挙はうるう年に行われますが、さしたる意味はないようです。ただ、「今年はうるう年だ」と思った瞬間にオリンピックと大統領選挙が思い浮かぶのはけっこう便利なので、覚えておくといいでしょう。

 うるう日は特別な1日なので、何か素晴らしい行事でもあるのではないかと思って調べたのですが、これが意外とない。
 ニンニクの日・・・「にん(2)に(2)く(9)」の語呂合せ。
 富士急の日・・・「ふ(2)じ(2)きゅう(9)」の語呂合せ。富士急行が2003年に制定。
 たったこれだけです。4年にいっぺんの記念日というのも悪くはありませんが――。

「かつてイギリスでは、4年間のうちでこの日にだけ、女性から男性へのプロポーズが伝統的に公認され、男性はそれを断ることはできないとされていた」
という記事がありました。
 何かさまざまな悲喜劇が思い浮かびそうです。
 (モテ男は大変だな)

 もっともその時代に私が独身で生きていたとしても、平穏な一日が送れたのはまず間違いありません。
 

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2020/2/14

「仏は、殺人者も救う」〜父が子に語る仏教概論E最終  歴史・歳時・記念日


 武士の時代とは結局、
 殺人集団・殺人予備軍が大手を振って闊歩した時代だとも言える。
 武士たちは、だから皆、地獄に落ちる運命にあった。
 そのあとをついて走り回る農民も同じようなものだ。
 さて、この人たちを、仏教はどう救うことができたのか。

という話。
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(「永源寺(もみじ寺)の紅葉」PhotoACより)

 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
 個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。


【普通の人が、日常の努力で、覚醒者(仏陀)に生まれ変わる方法――浄土教の教え】
 お釈迦様のように宇宙や世界の真理を会得して覚醒者(仏陀・仏・如来)になる、というのは仏教の基本的な願望です。
 奈良仏教はそのための研究に余念がありませんでしたし、平安密教では“即身成仏(行を通してその肉身のまま仏になる)”を目指して厳しい修行を積んだり、実際に即身仏(土中に入って瞑想をしながら絶命しミイラ化する)になる僧もいたりしました。
 しかし一般人はそういうわけにはいきません。
 難しい学問や厳しい修行など夢のまた夢。第一、生活がありますし、庶民がきちんと生計を立てて布施をしなければ教団や寺院を維持することもできません。

 学問や修行をしなくても、阿弥陀如来(阿弥陀仏)という偉大な仏の慈悲にすがれば、普通の人間でも死後、阿弥陀如来の主催する世界「極楽西方浄土」に生まれ変わり、そこで覚醒者(仏)になれる――そう教える浄土教は、だから多くの人々の心をつかんだのです。
 
 すでに飛鳥奈良時代から阿弥陀如来像は作られていましたが、平安時代に入ると空也、源信といった名僧が現れ、浄土信仰(浄土教)は庶民の津々浦々まで広がっていきました。
 朝廷の中にも、斜陽の貴族の長、藤原頼道のように熱心に阿弥陀仏を崇拝する人も現れ、宇治平等院のような美しい寺院も建てられます。
 ただし飛鳥・奈良・平安を通して、浄土教は宗派として独立することはなく、天台宗の中に取り込まれたり庶民の宗教として流布していたりするだけでした。
 それが宗派として独立するには、鎌倉時代の法然まで待たなくてはならなかったのです。


【“地獄に仏”の仏には名前がある:武士と禅宗】
 鎌倉時代は言わずと知れた武士の時代です。ただ、この「武士」という新たな権力層は、宗教的にとても厄介な運命を背負っていました。彼らはどうみても殺人集団なのです。

 不殺生は仏教の在家信者が守るべき五戒の第一です。ところが武士はすでに何人も殺しているか、いずれは人を殺すかもしれない運命にありました。いかに包容力ある仏さまであろうと、大量殺人者を救ってくれるほど甘くはないでしょう。
 したがって武士たち自らが救われることを諦め、ひたすら心の平安を求めました。死後のことも心配でしたが日常的に死と隣り合わせですから、常に安定を取り戻す工夫が必要だったのです。人殺しは、勝っても負けても楽な仕事ではありません。

 座禅を組み、茶を嗜む。枯山水を愉しみ、水墨画を愛でる――当時輸入されたばかりの禅宗はその質素さで武士たちの生活にぴったりでした。
 こうして臨済・曹洞の二つの禅宗は、武士の生活の支えとなっていったのです。

 もっとも、彼らは仏からまったく見放されていたわけでもありません。殺人のために地獄に落ちたとしても、そこへ救済にやってくる存在がひとつだけあったからです。
 仏(仏陀・如来)ではありませんがその候補生の中に、自らが仏となることを諦め、人間が死んでから向かうとされている六つの世界(天道・畜生道・人間道・餓鬼道・阿修羅道・地獄道)へ、六つに分身してそれぞれ駆け付ける菩薩がいたのです。
 彼はまだ修行の身だったので頭も丸めたままです。粗末な法衣を着て、6人ひと組で私たちを見守っています。
 そうです。地蔵菩薩です。
 地蔵だけが地獄に入り込んで人々を救おうとできる、鎌倉に行くとあちこちで六地蔵を見かけるのはそのためです。


【庶民の味方=浄土系四宗と日蓮宗】
 人を殺せば地獄に行くしかない――その悩みは農民にもありました。
 彼らの多くは農閑期には領主にやとわれて戦地に向かう半農半士の地侍でしたから、武士と同じく“死んだら地獄に行くしかない”と感じていました。一般人ですから上級武士のように、“いざとなったら従容として死地に赴く”というわけにはいかないのです。

 そうした庶民の願いを救ったのが、長く阿弥陀信仰として広がっていた浄土教です。
 鎌倉時代に入って法然が浄土教を立て、親鸞が引き継いで浄土真宗を興します。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
 善人だって往生(極楽浄土に往って仏として生きること)ができるというのに、悪人が往生できないわけがないじゃないか。お前たちは自分が悪人(人を殺した者)だと知っているから阿弥陀仏への祈りも半端じゃない。
 善人たちが心の隅で、“自分は善行を積んだから極楽に行けるんじゃないか”とどこか甘えた考えを持っているのと違って、お前たちには祈りしか残っていない。だからお前たちの祈りこそ本物で、阿弥陀仏はその名を真剣に唱えれば、きっと救ってくれるに違いない。(悪人正機説)

 
 そう教える親鸞の言葉は、庶民たちにとってどれほど励みとなったか容易に想像できるところです。

 鎌倉時代には浄土宗・浄土真宗以外にも時宗・融通念仏宗といった浄土教系の仏教が次々と立てられました。それはこの時代がいかに殺伐としていたかの裏返しだったとも言えます。

 なお、同じ時期、日蓮は「妙法蓮華経(法華経)」を中心とする日蓮宗を開きます。
 この宗派の際立った特徴は「現在」と「この国(日本)」にこだわることです。浄土教のように理想の国(極楽浄土)に生れなおすことを本願とするのではなく、あくまでも「この場」「この時」にこだわり、世直しとか国の安泰とか、私たちの生きる現実の世界を具体的によくしていこうと考える側面が、かなり強いのです。

 日蓮宗が他の宗派には見られない積極的な政治への姿勢を見せるのはそのためで、宮沢賢治や石原莞爾、二・二六事件の思想的指導者・北一輝や一部青年将校の心をとらえて離さなかったのもそのためです。
 日蓮正宗の講として始まった創価学会が、日本初の宗教政党「公明党」をつくって政治に参加しようとするのも、同じ思想の流れに沿ったものです。

(この稿、終了)

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