2022/4/25

「私の家庭菜園農法:隣がやるまで仕事はしない」〜隣り百姓と集団脳@  教育・学校・教師


 私の家庭菜園。苗植えや種まきの準備は終わったが、
 それ以上は何もしていない。隣がまだだからだ。
 農業は本やネットだけではできない。
 隣り百姓こそ、農業の神髄だ。

という話。
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(写真:SuperT)

【隣がやるまで仕事はしない

 我が家の畑、3月に苦土石灰を撒いて酸性土を中和し、4月の初頭に堆肥を入れて化学肥料も散布し、マルチを敷いたり支柱を立てたりしてほぼ準備を終了しました。しかし今、畑にあるのはジャガイモに長ネギ、そして昨年秋に植えた玉ねぎとサヤエンドウだけです。
 今年は4月が比較的に暖かく、先週末は土曜日が快晴、そして昨日(日曜日)が雨でしたから、土曜日に苗を植えたり種を蒔いたりすればよかったのですがしませんでした。忙しいとか、怠けたかったというのではなく、他の人がやっていなかったからです。

 この「他の人がやっているかどうか」というのは農業をする上で重要な指標で、極端な話、1月にモミを撒いて苗床をつくったり、秋をやり過ごして12月に稲刈りをしたりをするのはバカのやることです。どっちみち収獲なんてできませんから。
 しかし今や情報社会、農業関係の書籍でもネットでも、いくらでも調べるだろうと考える人もいるかもしれませんが、実はそういうわけにはいかないのです。種まきや収獲には暖地だの高冷地だのといった幅がありますし、年によっても違う。私の家のように畑が家屋の北側にある場合もあれば、一年じゅうポカポカと暖かい日差しを受けられるところもあるのです。苗植えや種まきに時期は微妙で、そのサジ加減はプロに頼るしかないのです。


【実際の農業は本やネットでは分からない】
 私のように、ひとに聞くより本やネットで調べる方が好きだという人間でも、農業だけは誰かに教えてもらうしかありません。近隣に師匠と仰ぐ人をみつけて本気で教われば、たぶんかなりうまく行くと思うのですがそれができない。
 なぜなら生来の見栄っ張りで、いまさら30年近くも携わっている畑仕事に自信がないとは言えないのです。30年近い経験と言っても大部分は教師として働く片手間農業でしたから、技術の蓄積もなく、学んだことはすぐに忘れてしまうので中身が知られそうで恥ずかしいのです。
 そこで何をしたのかというと、要するに見て回ったのです。具体的に言うと一日おきの日課であるウォーキングの際に、できるだけ菜園を見て回り、ああネギを植え始めたなと気づいたらネギの苗を買いに行き、キャベツを見たら自分もキャベツの苗を買って植える、ということを繰り返すのです。

 このときの大切なポイントは、決して早まらないということです。あちこちの菜園のひとつにネギが植わっていたからといってすぐに真似をするのではなく、数か所で始まったら自分もやる、というふうにゆっくり後追いをするのが上策。最初にネギを植えた家が“大量にネギ苗をもらってしまった”といった特殊な事情で植えたに過ぎないこともあるからです。さらに先ほども言ったように私の家の畑は日陰にありますから、その点でも少しぐらい遅い方がいいのです。


【最後は誰かに聞くしかない】
 ネギとか玉ねぎとか、ナスやキュウリはこうして苗を植える時期を割り出します。しかしそうはいかない野菜もあります。苗ではなく種を蒔いて育てる、例えばダイコンだとかニンジンだとか、あるいは落花生やジャガイモなども、芽が出てしばらくたたないと何をいつごろ蒔いたのか(植えたのか)分かりません。そして分かったころに慌てて後追いしても間に合わないのが普通です。
 ではどうしたらいいのか?

 これはもうしかたないので、恥を忍んで聞くしかありません。ウォーキングの間に畑で何か作業をしている人を見かけたら、「いま何をしようとしているところなんですか?」とか「最近やった仕事はなんですか?」とか尋ねるわけです。専業農家以外で週日に畑仕事をしているのはたいていが高齢者で、日ごろ話し相手に事欠いていますからたいていは気持ちよく答えてくれます。そこからしばらく話をして、また歩き始めます。特定の師匠を見つけようとすれば相手も熱が入って面倒なことになりそうですが、これだと差しさわりありません。
そんなふうに畑仕事をすすめています。

 右を見て左を見て、周囲に合わせてやっていく農業を「隣り百姓」と言います。明日はこれについてお話をしたいと思います。

(この稿、続く)
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2022/4/22

「学校の先生は教養がない」〜だから子どもの教養は、家庭で高めてください  教育・学校・教師


 佐々木朗希の二試合連続完全試合の不成立――、
 ところが教師たちは多くがそれを知らなかった。
 無理もない、彼らはニュースも見なければ新聞も読まない。忙しいからだ。
 こんな教師たちに子どもを任せておいていいのだろうか。

という話。
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(写真:フォトAC)

【どこからでも切り取れる佐々木朗希】
 ロッテ・マリーンズの佐々木朗希投手はまだ若いのに逸話の多い人で、小学校3年生のときに陸前高田で東日本大震災に遭い父親と祖父母をなくしたとか、中学校では腰の疲労骨折を見逃されそうになったのを指導者の機転で花巻東高校の監督を頼り、その紹介で大谷翔平の通っていた病院に通って無事、完治したとか、あるいは高校時代に非公認ながら大谷選手を上回る最速の163km/hを投げたとか、わずか20年の間に失意やら奇跡やら栄光やらの総花的な半生を歩んできました。
 中でも高校3年生の夏の大会地区予選で、投手・4番として大活躍しながら、決勝戦は「故障回避」のために出してもらえず、ために在籍校は全国大会に出場できなかった――この逸話は、岩手の一高校生の名を全国区に押し上げました。私が知ったのもこの時です。

 単に飛び抜けた才能の持ち主だったというだけでなく佐々木投手には運も人徳もあるのか、マリーンズに入団してからも1年目は公式戦での登板はゼロ、2年目もわずか11試合に出場しただけでした。「フォームが固まっていないから」という理由で地道に育てられたのです。
 ドラフト会議でくじを引いたのが井口監督でなかったら、入ったチームがマリーンズでなかったら、そんな余裕のある育成はしてもらえなかったのかもしれません。
 そう考えると二試合連続完全試合という快挙直前でマウンドを下ろされたのもよくわかります。大切にされたのです。完全試合なんて、また何度でもすればいいのです。


【そして誰も知らなかった】
 さて、プロ野球ファンではなく、ましてやロッテ・ファンでもない私が佐々木朗希選手を持ち出したのには二つの理由があります。
 ひとつは、「私がまだ現職の教員だったらこの話を必ず教室に持ち込むだろうな」と思うからです。ただし逸話が多すぎてどこを切り口にするかは微妙です。震災遺児の成功物語というのもいいですし、単に「この人に注目!」でもいい。周囲のひとに大切にされることの重要さという面もいい。なかなか調理しがいのある素材です。

 もうひとつは、まだ現職教員で私と同じように感銘した妻が、佐々木投手の話を学校へ持って行ったときの、ちょっとした出来事のためです。簡単に言うと、誰も知らなかった、連続完全試合目前どころか佐々木朗希の名前さえ知らなかったのです。
 特別支援学校ですから生徒は少なく、その場にいた職員も兼業主婦の女性ばかり3人という構成ですからサンプルが偏りすぎていますが、それにしても前夜のニュース番組のトップで扱われるような内容を誰も知らないとは!


【学校の先生には教養がない】
 知らなかったのは、言うまでもなく誰もニュースを見ていなかったからです。生徒は勉強(?)やスマホに忙しく、教職員は仕事に忙しい。
 教員の場合、退校が遅いので7時のニュースには間に合わず、9時のニュースは家事の片づけや持ち帰りの仕事の準備に忙しく、朝はもちろんテレビなど見る暇はありません。新聞は、若い教員を中心にそもそも取っていません。取ったところで新聞紙(しんぶんし)がそのまま新聞紙(しんぶんがみ)になるだけです。

 私は社会科を専門とする教師でしたからそれでも他の教員よりはニュースに敏感で、新聞も取っていました。その私をしても2001年9月11日の大事件は学校に来て、職員同士の会話を小耳にはさんで知りました。当時は夜9時に床にはいって午前3時に目を覚まし、そこからギリギリまで持ち帰り仕事をして、慌ただしく出勤するという生活を送っていたので、午後10時過ぎに第一報が入ってその日のうち(日本時間)に貿易センタービルが崩壊するのを、見ていなかったのです。

 教員はテレビも見なければ新聞も読まない、教育関係以外の本も読まない、それが現実です。テレビのドラマは仕事のために何度か見逃すうちに興味を失い、ドキュメンタリーも教育関係以外は見ることがありません。バラエティや音楽番組は時代に乗り遅れてついて行かれない。書籍も詩だの小説だのルポルタージュなどを読む時間はなく、かろうじて教育書だけは必要に迫られて読みますが楽しい読書ではありません。
 見なくなったもの、読まなくなったものの大部分は仕事の不可欠なものではありません。私たちは仕事に直接かかわらない知識や技能のことを「教養」と呼びます。その意味では、教師たちはまるっきり教養がない。あるように見える場合も、過去の財産で食っているにすぎません。
 もちろんそれは教員が悪いのではなく、とにかく忙しすぎるのです。


【子どもの教養は家庭で高めてください】
 私は先日、「毎朝、子どもたちに良い話をしましょう」と言いました。良い話の背景にあるのは教養です。授業で自信をもって話ができるのも、背後に膨大な教養がある場合だけです。

 最近の教師は質が下がった――本気でそう考える人がいます。
 私はそうは思いません。体罰もせず怒鳴り声も上げず、言葉と表情だけで子どもを動かすのですから昔よりよほど優秀です。ただし教育全体の質が下がったという話なら、一部分、乗ってもかまわないと思います。
 何しろ暇に任せて教養を高めた大昔の教師たち―夏目漱石や宮沢賢治、島木赤彦たち―に比べたら、教育以外の何の勉強もしていないからです。佐々木朗希すら知らない。
 そんな教師に子どもを任せておいていいのでしょうか?
 
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2022/4/21

「新型コロナ:現状と世界の無関心、それでも罹りたくない」〜ハーヴ、感染のために入学式に出られない  教育・学校・教師


 新1年生の孫のハーヴが3月末にコロナ感染し、入学式に出られなかった。
 それも可哀そうだが、自宅療養の10日間(家族の待機は8日間)、
 家族全員がカンヅメ状態でほんとうにたいへんだった様子。
 国内も世界も規制緩和へ向かっていく中での厳しい療養生活、
 やはりコロナには罹りたくないものだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【コロナ感染で孫のハーヴが入学式に出られなかった】
 私の最初の孫であるハーヴが、この4月から小学校一年生になりました。
 生まれたときは新生児仮死で全身紫色、息もしなければ心臓の鼓動もない状態でしたから、まずはここまで来られたことに感謝しなくてはなりません。めでたく入学、しかしこのブログでも少し書きましたが、いよいよ新年度という直前、3月31日の夜に高熱を発し、翌4月1日の検査で新型コロナ陽性と判定されました。この時点で6日の入学式は欠席と決まります。
 同じ保育園の年長組からは他に園児4人職員3人の感染があり、ああこれでこのクラスの子たちは誰も入学式に行けない、と思ったらそうでもありませんでした。

 ハーヴの弟、イーツの在籍する未満児クラスに感染者が出たときは、全員濃厚接触者ということで学級閉鎖となったのですが、兄の場合は発症者だけが登園禁止、したがって卒園した他の子どもたちも入学式に出席できたのです。その違いは何かというと、未満児はマスクができないが、年長児は1日じゅうマスクをしていたから濃厚接触に当たらないというのです。
 マスクをしていれば感染しないというならなぜハーヴや先生たちは感染したんだ? と不満を言いたいところですが、「同じクラスに罹った子がいても、マスクをしていた子は濃厚接触者としない」という不条理極まりないルールでもつくらないと、ずっと休園続きになって親が困る、という現実的な事情があったのでしょう。発症したのが不運というしか言うしかない、これも仕方ないことです。


【ハーヴ、隔離に順応する】
 ハーヴは0歳児のころからとても良い子で、親を手こずらせることはほとんどありませんでした。今回も子ども部屋一室を隔離室にして10日間過ごさせたのですが、午前と午後に1時間のYoutube視聴を許可したら、あとの時間は本を読んだりドリル帳をやったり(計算と漢字練習が大好きなのです)、あるいは鉄道のおもちゃで遊んだりとまったく飽きる様子がない。
 風呂も一人で入り着替えも一人でする。食事も差し入れるときちんと食べ、済むと食器をドアの外に出しておきます。食べるのが遅いことが唯一の欠点みたいな子なので、親にやいのやいの言われずに済むひとり飯は、むしろおいしかったのかもしれません。
 最初は誉めて励ましてばかりいた娘のシーナも、あまりの順応ぶりにしまいには心配になったようです。
「この子、引きこもりなったら絶対部屋から出て来んワ」


【しかし家族はたいへん】
 結局、入学式を含めて三日間学校に行けず、ハーヴは翌週の月曜日から登校し始めます。初日は校長室で同じ境遇の3人の子とミニ入学式をしてもらい新生活が始まりました。
 校内巡りや基本的生活指導の受けられなかった三日の遅れはけっこう大きかったようで、最初の数日はぐったりと疲れ、涙目で帰って来たようです。きっと一日じゅう右を見て左を見て、友だちのやることを真似しながら過ごしていたのでしょう。家に帰るとさっそく元の隔離部屋に引きこもり、十分にひとり遊びを楽しんだようです。

 ハーヴはそんなふうで何とか自粛期間をやり過ごしました。しかし大変だったのは他の家族です。特に異動によって新しい学校に行くはずだった父親のエージュは一日も勤務できず、暴れ盛りのイーツもずっと部屋の中、二人のストレスを一手に引き受けるシーナもイライラを持って行く場所がありません。
 買い物にも出られないのに3食つくらなくてはならないし、洗濯にも普通以上の気を遣います。隔離部屋を中心に、一日じゅうアルコール消毒をしてエネルギーを奪われていたようです。

 オミクロン株は重症化しにくく、特に若い世代では無症状のまま終わる人も多いとは言え、感染者の出た家族の大変さはこれまでと大差ないのです。やはり気楽にうつされていいものではありません。


【新型コロナの現状と世界の無関心、それでも罹りたくない】
 さて、昨日までの東京都の感染者数は139万人あまり。今週中に140万人を越えます。この140万人という数字には意味があって、東京都の総人口1401万人(2022年10月1日現在)の1割(10%)に当たるのです。つまり東京都では10人に1人以上が感染したことになります。
 驚くべきは今年の1月1日に2・8%ほどでしたから、4か月足らずでそれまでの2年間2・6倍もの感染者が出たことです。恐るべき感染力です。全国では同じ期間に1・3%から5・9%と3・5倍ほどですからさらに激しく、これはやはり6・5波と呼ばれる現在の状況が影響しているのでしょう。

 オミクロン株の飛び抜けた威力というのは世界的な傾向で、かつて感染対策の優等生とされた国々が軒並み日本の感染者数(単位人口あたり)を追い抜いて行きます。その数、ニュージーランドは日本の2・9倍、オーストラリアが3・6倍、ベトナム1・8倍、シンガポール3・5倍、長くK防疫を誇っていた韓国に至っては5・5倍にもなります)。

 人口5100万人ほどの韓国は、感染者の実数でも日本の2倍以上になり、死者の実数も日本に迫ろうとしています。ピークは去ったとはいえ現在も世界の感染者の5人にひとりは韓国人といった状況。それなのに韓国政府は大統領の交代を目前に、感染対策を投げ出したみたいに対策緩和を続けています。
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 ただしこうした無関心あるいは投げやりも世界的な傾向で、新型コロナ初期に爆発的な感染拡大をした欧米の国々も、いまや対策を失念してしまったようにさえ見えます。
 イギリスは感染状況の報告を2月末から土日休みにしてしまい、もともと五月雨報告だったスペインは今月に入って2〜3回更新しただけで感染者数・死者数を発表していません。アメリカはもちろん、律義なはずのドイツでさえも感染者41万7000人の翌日いきなり17万5000人と、なかなか信用できる数字を出さなくなっています。

 ハーヴの部分で話しましたが日本でも「マスクをしていれば濃厚接触者ではない」といった便宜的なルール改正を繰り返しながら、なんとか日常生活の回復を模索しています。しかしそう言いながらも、いったん感染者が出れば家族全員が1週間以上身動き取れなくなるわけですからたいへんです。

 まだまだ感染はしたくない。早く、もっとのびのびできる日が来るといいですね。
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2022/4/20

「低学年の指導:理念よりも具体的な方策を」〜落ち着いた雰囲気で授業を行う工夫D  教育・学校・教師


 人間は強制や同調圧力によって行動を規定されるべきではない
 そう考える人たちがいる。もちろんその通りだ。
 しかし大人と同じことを年少者に求めることはできないだろう。
 小学校の低学年を育てるためには、理念より優先されるものがある。

という話。
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(写真:フォトAC)

【自主性尊重や同調圧力排除にこだわる人々】
 私が最近気になったニュースのひとつは、「横断歩道で小学生が車におじぎ、交通教育に反発の声『一時停止は善意じゃない!』」(2022.04.12 弁護士ドットコム)です。

 これは4月8日のテレビ朝日「「ありがとうございます」一時停止の車にお辞儀 新1年生が横断歩道で実践」に対して、一部知識人から「停止するのが当たり前なんだから、重たいランドセルを背負った小さな子供に、こんなことをさせるべきじゃない」と批判があったこと始まった、ネット上の論争を紹介したものです。

 反発を覚える人たち言い分はこうです。
・ 横断歩道に歩行者がいたら止まるのはドライバーの義務なのでこういうのは良くない。
・ 教育すべきはドライバーであって、歩行者に「頭を下げさせる」かのような行為はいかがなものか。
・ 自主的に行うならいいが、強制だとすれば問題。
・ 警察や学校が指導すれば同調圧力につながる。

 前の二つは世の中を“法律と力比べの世界”にしたい人たちの言い分ですからあまり苦にならないのですが、後ろ二つは気になります。というのは子どもの自主性を尊重するというのはそれ自体が擬制だからです。少なくとも学校が子どもの自主性を完全に開放することなどありえません。


【壺中の自主性、同調圧力の助け】
 子どもが自ら判断し自ら実践しようとすることをすべて認めたら、たいへんなことになります。子どもたちは未熟で判断の材料も不十分ですから、必ずしも正しい行いをするとは限らないからです。そのことも考えず、何の仕掛けもないまま、
「自分で判断して、自分で決めなさい」
と投げ出してたいへんな目にあった教師や親はたくさんいます。

 道を渡ったあとのおじぎに話を戻せば、警察官や教師が指導した段階で子どもたちの活動はすでに自主的なものではなくなっています。なぜなら子どもたちには「停まるのはドライバーの義務なので必ずしも挨拶することはない」という別の情報が与えられているわけでもありませんし、「教師の指導だからと言って必ずしも従う必要はない」という教育を受けているわけでもないからです。
 真に自主的であることを求めるなら、ひとつのことがらに対して複数の価値を示し、その中から選ばせるか、何も教えないかしかありません。しかしそんなことはできないでしょう?

 同調圧力についても同じです。
 私はそもそも「他人の目が気になるといった同調圧力がなくても、人間は道徳的でいられる」という考え方に懐疑的です。あの孔子ですら「自分の思う通りに生きても社会道徳を外すことはなくなった」と言えるようになったのは70歳を過ぎてからのことです(我れ七十にして己の欲するところに従えどその矩を踰えず)。ましてや凡人をや、さらに子どもをやです。
 同調圧力はいけないといわれても、子どもが互いに注意し合って高め合うような仕組みをつくっておかないと、教師と児童生徒は常に1対多数で、それこそモグラ叩きのようになってしまいます。


【理念よりも具体的な方策を】
 小学校の低学年においては「自主性の尊重」とか「同調圧力の排除」といったことは脇に置いておくべきです。
 落ち着いた教室で集中した授業を受けることは子どもたちの利益であり、それぞれが同調圧力から自由になって自主的に発言し思いを遂げることよりはるかに価値があることなのです。教師や親はそのためにさまざまな技を繰り出すことにためらってはいけません。

 「人の気持ちを思い遣って、授業は静かに受け、集中しなさい」
そうさとしてもいいし、将来のためには言っておくべきかもしれません。しかし効き目は期待できません。それよりも集中させるための具体的な技術を持つべきです。

 私の先輩のひとりは、一日の初めの日程確認や社会見学の出発の会では、大切な部分で指を一本立て、タクトのように振り下ろすことをしました。子どもたちはそれに合わせて元気よく「はい!」と言わなくてはならないのです。
 姿勢を正すために、床に机だけでなく、椅子の位置も示す印までつけていた人もいました。
「教室の前3列の子は、先生が話すたびに小さく頷きなさい。そうすればうしろの人も自然と熱心に授業を受けるものです」――そう言って実際に励行した先輩もいました。

【子どもは犬を躾けるように育てなくてはいけない】
「人間の子は育て損なっても殺されないが、犬は育て損なって人を噛んだりすれば殺されることもある」
 そのことを最優先に考える人たちの言葉ですから真剣に聞きましょう。
 彼らに言わせると犬を躾けるというのは、こういうことです。
1. 必要なことができるようになるまで、諦めずに行う。
2. そのためにも一定期間に育てる能力は項目を最小限に絞り、細かな段階を設定する。
3. 目標はその子の能力にふさわしく達成可能なものであること。
4. 具体的に、分かりやすく、丁寧に教える。
5. 目標が達成できたら、その場で、大げさに愛情を表現し、抱きしめて誉める。
6. してはならないことをしたときも、その場で、短く、厳しく叱る。
7. 獲得した能力がなくならないように、繰り返し確認する。

 小さな子ども教育はそうあるべきで、子どもは小さければ小さいほど、苦もなく能力を獲得していくものです。


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