2020/10/23

「親は躾をしなくていい、教師は仕事を増やせ、オマエは死ね」〜文科省が学校に容赦ない通知を出しているA  教育・学校・教師


 押印廃止と文書のデジタル化・オンライン化で保護者は楽になり、教員は苦しむ。
 それだけならまだしも、子どもの躾も妨げられるとしたらどうだ?
 親が楽をするほど子どもはダメになっていく。
 それを考えると私はもう狂死しそうだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【公務員(教員)の負担増による有権者(保護者)の負担減】
 昨日はいろいろ言いましたが、私が頭に血を上らせているのは、しかしハンコレスのせいではありません。
 政治家が行政改革と言うとき、多くの場合、
「公務員の負担増による有権者の負担減」
となることが少なくないからです。
 日本は先進国の中でも最も公務員の少ない国のひとつ(公務員の数の国際比較《2016》)ですが、行政改革のおかげで必要な人員まで削られ、今回のコロナ禍で保健所は死ぬほど苦労していますし、児童相談所は児童虐待に対応しきれず、学校もアップアップです。

 今回の2020.10.20「学校との連絡もハンコレスに 国がデジタル化へ通知」にしても、
保護者の負担を減らし、教員の業務効率化を図る。
の前半はそうであるにしても、後半の「教員の業務効率化」が達成されるかははなはだ疑問なのです。保護者が楽をするために教師が苦労する仕組みになっていないか、眉に唾をつけて吟味しなくてはなりません。


【デジタル化で保護者の負担は軽くなるか】
 もちろん楽になるに決まっています。政治家が有権者に苦痛を強いることはありません。
 これまで紙ベースで届いていた学校だよりやらアンケートやらがオンラインで届くとなったら、小学校入学以来、毎日毎日、延々と繰り返されてきた親子の会話、
「ねえ、今日は金曜日なんだから学年だよりがあるはずでしょ。なぜ帰ってきたらすぐに出さないの」
「え? 忘れたって? あんたいつも何してんのよ。先生からもらったらすぐにカバンに入れればいいだけじゃない。帰りの会で配られて、そのとき目の前でカバンの口が開いているわけでしょ? どうやったら忘れることができんのよ?」
「え? あった? 当たり前じゃない。それでなかったらあんたはバカよ」
「ゲッ!? 何これ? グチャグチャじゃない、おまけに端はちぎれているし、どういう入れ方をしたの? まさか丸めて入れたわけじゃないでしょうね? ちょっとカバンを見せてごらんなさい?」
「エッ!? これなによ? 先週渡したPTA研修会の申し込み、結局、出してなかったの? どーすんのよ、もう締め切り過ぎてんのよ!」
「あんた、いったい、どういうふうにカタつけてくれんの!? このこと」

が、すべて胡散霧消してしまうのです。それだけでも保護者にとっては大きな負担減です。

 朝日新聞の別記事(2020.10.20「学校便りもデジタル化? 保護者ら歓迎『メールで十分』」)には、保護者のこんな声が紹介されています。
次男の通う公立小学校では「お便り」はすべて紙。なくしたり、ランドセルの中で眠らせていたりすることも少なくない。
親が深夜まで仕事で、すぐに対応できない家庭もあり、押印して提出しなければ参加できない水泳指導などの書類は、自分で押印している子もいると聞く。女性は同じクラスの保護者でLINE(ライン)グループを作り、「今日、これ提出です」などと情報交換して、提出忘れがないようにしてきた。



【親は躾をしなくていい】
 LINEグループをつくってママ友から提出物を聞くなんて、恥ずかしくないのでしょうか? 私なら舌を噛んで死にたくなるところです。
 子どもが毎朝ランドセルの中を整理して、本やノート、宿題を確認する、親から渡された提出物は学校で真っ先に先生の机の上に置く、帰りに学校で渡されたプリントはきちんとクリアファイルに入れて持ち帰り、家に着いたら真っ先にテーブルに置く――って、基本的な躾じゃないですか。

 もちろん難しいことですよ。難しいからこそいつまでも繰り返さなくてはならないのですが、やめていいことではありません。だって「忘れ物をしない」「書類はきちんと扱う」「カバンの中はいつも整理しておく」等々は大人になっても必要な、最低限の技能じゃないですか。営業職に就いて取引先で、
「あ、すみません。書類、忘れました」
「あ、契約書、グチャグチャになってしまいましたけど・・・いいですよね?」
で認めてもらえるほど、世間は甘くないでしょ?

 しかし、
次男の通う公立小学校では「お便り」はすべて紙。なくしたり、ランドセルの中で眠らせていたりすることも少なくない。
などと、プリントが届かないのは息子が悪いのではなく、紙で発行する学校が悪いみたいな言い方をする母親です。自分で子どもの躾をするなんて真っ平だと思っているのかもしれません。命に関わる水泳カードの押印さえ面倒くさがる人ですから、躾が面倒だというのも無理はないのかもしれませんが――。
(私は子どものもってきたカードに押印するよりも、スマホの電源を入れてアプリを開き、そこから水泳カードのページを探して「水泳可」のボタンをタップする方が楽だという若い世代の気持ちがわかりません)


【メールを開くな】
 そんな調子ですから学校に対する要求には際限がありません。
「担任に相談があって電話しても、会議や授業でなかなかつかまらないこともあり、メールでやりとりできたら本当に便利です」
 はい便利でしょう。しかしそのメールのお返事、先生は会議授業もない時間、つまり勤務時間外に書くことになるのです。

 学校が教員あるいは学校自体のメールアドレスを公開することは危険だと私は思っていますが、文科省は気にならないようです。
 中央省庁は縦割りが徹底しているそうですから、つい先日、河野行政改革担当大臣がウェブサイトに「目安箱」を置いたら、9時間で3000件もの書き込みがあって慌てて閉じたという事実を知らないのでしょう。
 教師や学校のメールアドレスはそのくらいの覚悟がないと開いてはいけないのです。

 匿名の電話ならかけ直すこともしなくて済みますし、手紙ならそもそも最初の返事も書けません。しかし電子メールはすべてに返事を書かないと中に必ず激怒する人が出てきます。だから教師は届いたすべてのメールに返事を書き続けるしかないのですが、それでも文科省は保護者の利便性を優先するのでしょうか。
 萩生田大臣なら、“勤務時間外の大仕事という点は大問題としても、保護者と学校を繋ぐ大切なツールだ”などと平気で言い出しそうです。


【大臣は言った。「すべて今まで通り。その上でデジタル化を進めよ」】
 ところで記事の表題となっている『学校便りもデジタル化? 保護者ら歓迎「メールで十分」』の学校だより、どういう形式で送られてくるのでしょう?
 「メール本文」の形で流されているのでしょうか? PDFファイルが添付されてくるのでしょうか?

PTAの役員募集など重要な連絡がある一方、ほとんどは学校の近況報告や生活上の注意といった内容で、「これならメールで十分」と感じていたという。
 先生が勤務時間外に一生懸命書いた学校だよりが「こんなもの」扱いされるのもシャクですが、スマホでPDFというのも読みにくくて大変ですから、「メール本文」かHTML(インターネットの形式)の専用フォームに打ち込んで流すことになるのでしょう。それもひと仕事です。しかも紙のお便りがなくなることもありません。
 なぜなら昨日紹介した記事に、
デジタル対応が難しい家庭向けに、書面による連絡にも対応する配慮を求めた
とあるからです。萩生田大臣も、
「あくまでハンコをなくすだけで、今まで通りの連絡ツールも残す。デジタルとアナログのハイブリッドで進めることが必要」
とおっしゃっているのです。
 ハイブリットとはよくも言ったものです。要するに今までの仕事に加え、デジタル化の仕事も同時並行で行えというだけの話なのです。


【教師は仕事を増やせ、オマエは死ね】
 オンラインと紙ベースの平行業務。
 ところで通信費が払えなくてスマホを止められた保護者は「来週から紙のお便りやアンケートでお願いします」と言って来なくてはならないのでしょうか? 可愛そうですね。
 そもそもスマホを持っていない家の子も含めて、クラスに2〜3人しかいない「紙でもらう子」は惨めではないでしょうか? 陰で嘲笑われたりしないでしょうか?

 もちろん先生たちは、精一杯の配慮をして支えてくれるはずです。なにしろこれまで1クラス40枚も印刷していたお便りが2〜3枚に減って印刷・配布業務が軽減され、業務効率化も進み、たあ〜〜〜〜〜っぷり5分くらいの余裕ができた先生たちですから、そのくらいは頑張ってもらわなくてはなりません――と荻生田大臣は思っているのでしょう。

 それが昨日から今日まで、私がキレたまま、脳溢血の手前まで行っている理由です。まるで「オマエは死ね」と言われているようなものです。


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2020/10/22

「対抗策:通知票はやめる、大切な書類は直接親が届ける」〜文科省が学校に容赦ない通知を出している@  教育・学校・教師


 官邸のハンコレス方針に従って、文科省も学校に押印の廃止を指示したという。
 親に押印させる書類なんて、さほどないと思うのだが、
 それでもやめて、オンラインで連絡できるようにするらしい。
 保護者には便利かもしれない。しかしこれで学校は死ぬ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【私はキレた】
 私は頭の切れる人間ではありませんが、どうやら頭のキレやすい人間ではあるようです。
 昨日キレたのは2020.10.20「学校との連絡もハンコレスに 国がデジタル化へ通知」という朝日新聞の記事を読んだからです。

 それによると、
学校と保護者の連絡手段を「紙」から「デジタル」にし、ハンコは省略――。文部科学省は20日、全国の教育委員会や都道府県にそんな通知を出した。押印を省き、メールなどを使うことで保護者の負担を減らし、教員の業務効率化を図る。
 覚えておいていただきたい。「教員の業務効率化」です。

 続いて、
学校では行事への参加申し込み、アレルギーの確認、欠席連絡、進路調査など様々な連絡を書面で行い、必要な場合は押印を求めている。ただ、押印は学校と家庭の信頼関係を高める上で慣例的に使われているに過ぎず、法律で義務づけられてはいない。
 なるほど。

 そうした状況を踏まえて、通知は、
▽保護者へのアンケートはURLやQRコードをスマートフォンやパソコンで読み取って回答
▽欠席や遅刻の連絡は電話ではなく専用フォームで
▽学校のお便りは直接メールで配信

などのデジタル化の具体例を示し、可能なところからの導入を求めたとのことです。

文科省は「学校は印刷・配布業務が軽減され、保護者はスマホなどでいつでもどこでも閲覧できる」とメリットを説明する。

 また
児童生徒や他人が保護者になりすますのを防ぐため、個人IDやパスワードの設定のほか、デジタル対応が難しい家庭向けに、書面による連絡にも対応する配慮を求めた。

萩生田光一文科相は20日の閣議後会見で「あくまでハンコをなくすだけで、今まで通りの連絡ツールも残す。デジタルとアナログのハイブリッドで進めることが必要」と述べた。

 怒りと苛立ちで、今も、キーボードに乗せる指が正しいキーを打てません。


【押印は意味のない単なる慣習なのか】
学校では行事への参加申し込み、アレルギーの確認、欠席連絡、進路調査など様々な連絡を書面で行い、必要な場合は押印を求めている。
 要するに学校が印鑑を必要とする場面はそうたくさんはないということです。しかもここに上げられた例はすべて重要なものであって、その都度、覚悟や確認を必要とするものです。それをサインだけで済ませていいものか?

 押印は日本の文化であって、場面によって程度に差はあるものの、サインに比べたらずっと重いのです。
 たとえ三文判でも、子どもにとって親の印を盗用したり押印を偽造するのは一定の覚悟がいることで、そこに確実にハードルがあります。したがって押印は現在でも、保護者の意志を証明する強い力を持っているのです。

 しかしだったらサインでもいいじゃないかという人もいるかもしれませんが、普通の教員は大学で筆跡鑑定など学んできません(*)。学校に筆跡を見分ける能力がない以上、押印がなくてもいいということは誰が書いても良いということです。大切な書類が子どもの意志だけで出されていく――。

 親の知らぬ間に進路調査が子どもの意志だけで出されたり、アレルギーでもないのに牛乳嫌いの子が牛乳アレルギーを申告したり――逆にアレルギーがあるにもかかわらず他の子と違った扱いをされたくないばかりに「なし」と書いてアナフィラキシーを起こしたり――。

 もちろん現在だって親の印を持ち出す子はいますが、そんな子は、どんな方法を用いてもやりたいことをやります。デジタル化したところで変わりません。
*ちなみに私は保護者の連絡文で文字も文章もあまりに酷いので、本人もしくはその友だちが書いたものだと思い込んで、ひどく保護者を傷つけたことがあります。


【通知票はやめる】
 押印は学校と家庭の信頼関係を高める上で慣例的に使われているに過ぎず、法律で義務づけられてはいない。
 信頼を高めることに効果のあるものでも、法律で義務づけられていないことはやらなくていいという意味でしょうか?
 だとしたら押印より先にやめてもらいたいものがあります。通知票です。

 引用した記事の「押印」は「通知票」に変えてもまったく問題はありません。通知票は公文書ではありませんが、親と学校の信頼関係を高めるために校長の権限で行っている慣例です。しかし確実に教員の負担軽減となることが分かっているのに、文科省が廃止の方向で考えているという話はつとに聞きません。

 押印に先立って、通知票は是非ともやめてほしい。通知票をなくせば教員の負担が大いに削減されるとともに、毎学期保護者に“大きな負担”をかけてきた確認印も押さずに済みます。

 押印廃止はこんなふうに、そもそも書類自体が必要なものか、法律に定められているか、などを基準に、ひとつひとつ確認して進めるべきです。


【大切な書類は親が直接学校に届けるようにする】
 押印がなくなったからといって、片っぱしデジタル通信に乗せるのもやめにしていただきたい。
 児童生徒や他人が保護者になりすますのを防ぐため、個人IDやパスワードの設定
と言っても、保護者がIDやパスワードを守ってくれる保証はないからです。

「ちょっとお母さん忙しいから、欠席連絡、自分で出しておいて。IDは〇〇〇〇〇〇、パスワードは××××××だからね。先生にばれないようにやってよ」
「うん、スマホじゃなくてパソコンからやっておく」
 そのくらいのことはいくらでも起きそうです。そしてその子は以後、好きなように行事に参加したりしなかったり、進路調査にも適当に答えて、好きな時に休むことができるようになります。家出をしたくなったら朝のうちに母親の名前で欠席届を出せば、夜までは探されずに済みます。

 やはりオンラインの連絡は危険です。しかし押印廃止は不可避なようですから、アレルギー調査や欠席調査、進路調査などの重要な書類については、印を押す代わりに保護者本人が学校に手渡しで届けることにしましょう。
 それなら確実です。

(この稿、続く)

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2020/10/21

「自分のフンドシは洗って渡す」〜書類の整理の工夫  教育・学校・教師


 隣り百姓とはいえ、私だって他人のフンドシをあてにしていただけではない。
 時には誰かの役に立とうと頑張っていたこともある。
 もっともこの世界、
 「自分のために」が「誰かのために」であることも少なくないのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【他人のフンドシ探しをしていただけではない】
 昨日、仕事なんて人より先にやればいいというものじゃない、本質的でない仕事は手を抜け、右を見て左を見て、誰かがやってからその様子を伺いながら始めればいい、そんなことを書きました。しかしこのままでは他人のフンドシを探してばかりいたみたいで居心地がよくありません。
 そこで私なりに人に先んじてやって、人様の役に立った仕事について記して、心の平衡を保ちたいと思います。やったことは大きく分けて二つです。
 ひとつは「来年の計画作り」、もうひとつは「電子書式の充実」。


【来年の計画作り】
 例えば新たに運動会の総務係に任じられ、総務として今年の計画を立てようとするとき、まず初めにするのは何でしょう?
 たいていの場合、最初に行うのは去年の“計画”を見るという作業です。しかしそこには落とし穴があって、去年の“計画”には去年の反省がいっさい入っていないのです。ただ前年度踏襲をすると、去年と同じ間違いを犯しかねません。
 そこでファイルをあちこち探して昨年の“運動会の反省”を引き出し、“計画”と対照しながら今年度の計画を立てようとします。それが普通の手順です。

 しかし前の年にしっかり反省しているなら、まだ記憶に新しい前の年のうちに今年の“計画”を立ててくれていたら、どんなに楽なことか――。次の年にならなければ分からない日付や担当者の氏名は別にして、本質的な部分は何年たっても変わらないものです。
 そこで私は、それをするように心がけました。
 もちろん今年のように“コロナ禍の下での運動会”というような特殊事情が発生すれば根本的な計画変更ということもありますが、それは特殊です。
 
 運動会が終わって職員会議で“反省”が通過すると、その内容で次年度の総務係の計画を作り直しておくのです。
 大して難しいことではありません。
 総務係のフォルダを丸ごとコピーして年度をひとつ足し、中の“計画”ファイルを“反省”を生かして書き直し、ファイル名の年度を繰り上げて保存するだけです。先ほども申し上げた「翌年にならないと分からない部分」は、赤字か何かで分かるようにしておきます。

 翌年、同じ係に就けば(その可能性は高いのですが)、その時の自分が楽できますし漏れも防げます。不幸にして違う係に回されたり他の学校に転任したなら、後任の総務係にものすごく誉めてもらえます。実際に会って誉められることはなくても、その人の心に必ず爪痕を残すことができます。
 どちらに転んでもいいことです。


【電子書式の充実】
 管理職になってから心がけたことのひとつは、電子書式の充実。簡単に言えば、毎年紙ベースで同じようにやってくるアンケートやら調査やらを、すべてWordやExelに作り変えることです。
 最近ようやく世間に知られるようになりましたが、学校に送られてくる文書、調査、アンケートの数は膨大です。大臣がひとこと「国や県から学校に送られる調査の量が膨大だそうだがどれくらいあるのか」と訊くだけで、「どれくらいあるか」というアンケートが降りてきます。

 特に4月当初に提出しなくてはならない書類は大変な量で、それを片っぱし電子ファイルに置き換えようとしたのです。中には学校名と数字をひとつ書いて提出すればいいだけのものもありますが、それらも電子化します。

 なぜそんなことを始めたのかと言うと、ひとつには私が教師にあるまじき悪筆で、自分の直筆は一字たりとも世間に出したくないという強い情熱をもっていたからです。
 35年ほど前、当時誰も持っていなかったワープロ専用機を購入し、校内で初めて活字で記入した通知票を出したのも、あるいは高校へ送る調査書を始めてワープロで印字したのも私です。そんな調子ですから、以後、どんな書類であっても送られてきたものは書式をWordやExelに写すのが最初の仕事でした。

 ところがやってみると、見栄えがいい以外に思わぬ利点がありました。
 ひとつは電子化することで、すべての書類が電子ファイルの中にセットで置かれることです。ワープロ文書と手書き文書が混在するとどうしても紙ベースでしか保管することができません。ところが電子ファイルで整理すると番号を振るだけで、どのくらいの書類ができ上っていて、何が欠けているかが一目瞭然なのです。

 さらに都合のいいのは運動会の総務係と同じで、翌年同じファイルを開けば、そこで直すだけで1組の書類が揃います。中にはびっしり書き込まなくてはならないものもありましたので、コピペだけですむ電子ファイルは実にありがたかったのです。
(それをやらせないために、毎年少しずつ書式を変えてくるというひどい文書もありましたが)


【自分のフンドシは洗って渡す】
 紙をなくさないというのは管理職の重要な能力ですが、それでも量が膨大なのでなくなる時はなくなってしまいます。知り合いの中に「人生の三分の一を書類整理に費やし、三分の一でものを探し、創造的な仕事は三分の一しかやっていない」と嘆いた人がいますが、どこも似たり寄ったりです。

 ただし私の場合は「自分の直筆は一字たりとも世間に出したくない」という強い情熱に支えられて、書類は比較的よく揃っていたのです。ですから他校の先生から電話をもらい、紛失した書類を回すよう頼まれることも次第に多くなっていきました。書類整理にもっとたけた人はいたはずですが、すべてを電子ファイルですぐに送れる人は少なかったのです。しかも私のフンドシはよく洗濯できている(不必要な情報が消されている)。
 人から譲ってもらった書類のコピーがすでに書き込み済みで、一字一句ホワイトで消して書き直さなくてはいけないというのが当たり前の時代でしたから、けっこう重宝がられたのです。

 私だって、右を見て左を見て、他人のフンドシを探していただけではないのです。

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2020/10/20

「隣り百姓の伝統」〜本質的でない仕事では手を抜け  教育・学校・教師


 教育に関する実験的なことは外国にやってもらい、
 成果は我が国で利用すればいい。
 同じように無意味な努力をしないで済むように、
 いつも周囲を見回していることは多忙な学校教師の必須な条件だ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【隣り百姓の伝統】
 昨日はオンライン学習なんて世界に先駆けてやってはいけない、オンライン先進国に経験を積んでもらい、十分に効果と安全性を検証してもらってから我が国で行うというのはどうか、というお話をしました。
 実は日本という国は、基本的にそういうやり方が似合う国なのです。いや、日本に限らず、農耕民族というものはそういうものです。

 この国には「隣り百姓」という言葉があって、これは主体性を重んぜず、お隣りの様子を見ては作業を進める農民の在り方を示しています。お隣が苗床をつくり始めたら慌てて自分も始め、田植えを始めたらこちらも準備を始めるというやり方です。

 私もここ2年あまりは一日置きのジョギングコースに畑道を入れ、プロの農家がキャベツを植え始めたら自宅でもキャベツを植え、ナスを撤去したらもうこれ以上の収穫は望めないと考えてナスを片付けるようにしています。キャベツやナスはいいのですがタネ播きをしている畑では何を撒いているのか分からないので足を止めて、「何を蒔いているのですか」と聞くことにしています。教えてくれないということはありません。そんなことを訊くのは素人に決まっているからです。

「ここ2年あまり」と書きましたが、ジョギングを始めたのが2年前で、それまでは農家の様子などあまり目に入らなかったのです。しかしもっと早く気づくべきでした。「隣り百姓」は素人に最適の方法で、おかげでここのところ特に秋冬の作物生産に腕を上げ、これから楽しみなものもいくつかあります。


【狩猟民族のモットーは「出し抜け!」】
 ところが狩猟民族は違います。「隣り狩り」「隣り採集」というわけにはいかないのです。
 マンモスだのオオツノジカだのといった大型の獲物を狙うときは皆で出かけるにしても、小動物や木の実を取る時は、人のあとをついて行ったのでは話になりません。日本でもマツタケ狩りで、人のあとについていってもダメでしょう?

 狩猟民族のモットーは「他人を出し抜け」です。人より早く起きて雪の中のウサギの足跡を追ったり、渡り鳥が帰ってきたら誰よりも早くいって狩場の良い場所を押さえなくてはなりません。たくさんの栗を拾ってきた人に落ちていた場所を訊いても、教えてくれないかすでに全部拾われたあとです。
 以前、ブッシュ大統領(父)の夫人のバーバラさんの言葉として「ブッシュ家の人間は負けることに慣れていないのです」を紹介したことがありますが(*)、アメリカの子どもたちが小さなころから「勝ちなさい」「他人を打ち負かして上に立ちなさい」と教えられて育ちます。いかにも狩猟民族の末裔らしい考え方です。
2007/2/9「勝つことを強いられる国の凄さと不安」〜バーバラ・ブッシュ元大統領夫人の言葉から

 しかし私たちは農耕民族なのですから、右顧左眄してなかなか動かないことを恥としてはいけないのです。この件に関して、私は自主性を発揮したばかりにひどく損をしたことがあります。
 

【まともにやれば損をする――こともある】
 今から35年ほど前のことですが、文科省が突然、「学校はすべての教科について、細かな年間計画を立てるように」と言い出したことがあります。 どういう経緯があったのか――まだ当時は目の前の仕事で精いっぱいの新人だった私は覚えていないのですが、とにかく1年間のすべて授業の、行う時期、単元ごとの授業時数、単元の目標、1時間ごとの目標、授業の流れ、使う資料について、事細かに記述して提出せよ、ということだったのです。
 そのころ私は小さな中学校の社会科教師で、同じ教科にはもう一人の教科担任がいたのですが、初老の大先輩でとてもではありませんが「分担しましょう」とは言えず、地理・歴史・公民の年間指導計画(カリキュラム)を3カ月かけてひとり作ったのです。とんでもない労力でした。

 ところがしばらくして、社会科教師の集まりにみんなで持ち寄ろうという話になったとき、のぞき込むと各校のカリキュラムは似たり寄ったりで、中には体裁のほとんど同じものまであったりします。あまりにもそっくりなので怪しんでいると、
「Tさん(私のこと)、それ、自分でつくったの?」
 私がびっくりしながら、
「ええ、つくりました」
と答えると、
「そりゃあ大変だったろう。オレなんかA中の〇〇先生があっという間につくったって聞いたから、もらいに行って名前だけ書き直して出しちゃった」
「・・・・・・・」

 考えてみたら同じ市内で使っている教科書はみな同じ、授業は教師の個性だと言ってもやっていることは大同小異です。どうしても個性を出したかったら、誰かのカリキュラムをもとに手を入れればいいだけのことです。

 そう言えば私が半分もできていない時期に、何人かの同業者から、
「Tさん、どのくらい進んだ?」
とかいった問い合わせの電話が入ってきていたのです。もしかしたらあれも全部、他人のフンドシで相撲を取ろうという話だったのかもしれません。

 この話には後日談がふたつあって、ひとつは文科省がそれきり忘れてしまったみたいで、そののち今年やってみた結果はどうだったかとか、改訂をどうするかといった話は一切なく、私の作った大部の「カリキュラム」は倉庫の棚に眠ってしまったのです。もうひとつは数年後、教科書会社が自社の教科書を採用してもらいたいばかり精緻なカリキュラムを作成して、日本中の教師の努力を水の泡にしてしまったこと――あの膨大なエネルギー消費は何のために必要だったのでしょう。


【本質的でない仕事は手を抜け――経験は役に立つ】
 ただし、やがてこの体験は生かされることになります。
 2001年から2002年にかけて、私たちは異常な努力を傾けて「評価基準」なるものを作りました。それは学校で行うすべての授業時間について、
「その時間でどういった能力をつけさせるか」
「その能力がついたかどうかをどう判断するか」
「十分つかなかった場合は、どう対応するか」
などを盛り込んだ学習プログラムの集大成です。したがって各学年電話帳一冊にも匹敵するような膨大な書類づくりになりました。一時間の授業中に最低2回は児童生徒個々の学習状況を評価しなくてはならないという非現実的なもので、もちろん今は書棚の奥でほこりをかぶっています(そうでなければ燃やされている)。

 私は十分に知恵のついた年齢でしたので、このとき真っ先にやったのは近くで研究指定校になっているところを探すことでした。大きなプロジェクトですので絶対に9月ごろまでに評価基準を完成させ、10月あたりに研究発表をする学校があると考えたのです。
 その年の10月、思った通り私はまんまと「評価基準」を丸ごと手に入れ、表紙を付け替えて自校のものとしました。このときは教科書会社の対応も早く、翌年には教科書の準拠した「評価基準」が出て来ましたので、ムダな努力しなくてほんとうによかったと思いました。

 「隣り百姓」はこの国では正道なのです。

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2020/10/19

「『実験は外国で、成果は我が国で』でいいじゃないか」〜オンライン学習ならでは問題が起こっているらしい  教育・学校・教師


 新聞によると、IT先進国の韓国ではオンライン学習ならではの問題が出ているらしい。
 いずれも私たちの想像を越えるもので、実際に始めて見ないと分からないことばかりだ。
 やはり新しい教育のやり方は諸外国で試してもらい、成果は我が国で、
 それでいいじゃないかと思うのだが――、

という話。
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(写真:フォトAC)

【学校も教員も臆病でいい】
 前々から申し上げていますが、学校教育というのは常に大胆で先進的なものであっては、いけないと思っています。
 教師や学校にとってはどんな失敗も間違いもすべて将来への糧となりますが、子どもの方はかないません。その子にとってそれぞれの学年、それぞれの1日、それぞれの単元は一回こっきりのものであってやり直しが利かないのです。もちろんまったく不可能と言うわけではありませんが、スポーツでよく言う「変な癖」をつけてしまってから直すのは、真っ白なキャンバスに絵を描くよりはるかに難しいことなのです。

 ですから学校教育において何か新しいことを始めるとき、教師は常に及び腰になって、一歩一歩瀬を踏むようにおずおずと進んでいくのです。それを臆病とか怯懦とか言うのは、自分のために誰かを犠牲にする恐ろしさを知らない人たちです。

【オンライン学習ならでは問題が起こっているらしい】
 先週の韓国革新系新聞(ということは政権寄り)の「ハンギョレ」にこんな記事が出ていました。
2020.10.16課題提出させたら18禁映像アップロード…遠隔授業で「教師へのセクハラ」増

 どんな話かというと、取っ掛かりは、オンライン授業で生徒に課題を提出させたら、アダルトビデオの映像が送られてきたという事件です。宿題の提出ですからもちろん犯人ははっきりしていて、その子は校内奉仕、特別教育の処分を受けたそうですが、こんなことはオンライン授業後進国の日本では起こりえません。電話がなければ特殊詐欺の大部分なくなってしまうように、オンライン授業の問題性も経験を重ねなければ浮かび上がってこないのです。韓国のようにインフラが整備され、かなりの授業がオンラインで行われて初めて分かることです。

 もちろん前述のような「犯人が見え見え」の事件は簡単には起きないでしょう。しかし次の、
生徒がオンライン授業のリンクとパスワードを流出させ続け、部外者が授業に入ってきてわいせつ行為をする事件が発生した。
は深刻です。一度流失したリンクやパスワードは、いつ、だれが、どのように悪用するか分からないからです。
 教師が授業を始めようとコンピュータを開いたら、見知らぬ生徒が何人もお面をかぶって座っていてわいせつ画像を示している、そんなふうではかないません。
 もちろん大多数の子どもはきちんとリンクやID・パスワードを管理すると思いますが、日本は1万人にひとりという稀有な愚か者が12600人もいる国です。そのうちの誰かひとりが不用意に、あるいは意図的に情報を流出させれば、稀有なことであっても被害は甚大です。

 三番目の事例、
授業画面をキャプチャして他のチャットルームで共有し、教師に対する性的発言を行ってもいる。
となると、これはもう明らかな犯罪です。
 もちろん教師の顔写真などはオンライン授業がなくても集められますが、授業風景からキャプチャリングする手軽さを考えれば、現在はまだまだ抑制が効いているとも言えます。


【教権侵害という概念】

 ところで、ハンギョレの今回の記事には「教権侵害」という聞きなれない言葉が出て来ます。
「教権」を調べると「教師が学生・生徒に対してもつ権力」のことだそうで、それ自体は分かるのですが「侵害」とセットになるとピンときません。「侵害」と相性の良いのは「権利」であって「権力」ではないからです。

 どうやら韓国には「教師のもつ権力は侵したり害したりしてはいけない」という考え方があるようです。だから、
処罰のみに焦点を当てた対策を繰り返しているから、このような教権侵害行為が根絶されないのだという指摘も出ている。
といった表現も出てくるのです。
 そこには儒教的な考え方が背景にあるのでしょうが、私は少し羨ましく思いました。

 日本だったらまだうら若い女性教師のもとにわいせつ画像が送られてきても、問題はシステムの脆弱性に気づかなかった学校や、きちんと生徒を指導してこなかった、あるいは生徒との間に十分な信頼関係を構築できなかった女性教師本人にあると考えられがちだからです。
 日本の場合、子どもは同じ子どもを餌食にしない限り、どこまで行っても純粋で無垢な存在です。嗚呼!


【テストは外国で、成果は国内で】
 横道にそれました。
 教育評論家の親野智可等氏によると、韓国以外にフランス・アメリカ・シンガポールといったところがオンライン学習の先進国だそうです。
2020.04.09『日本のコロナ「学力格差」を止めるための方策』オンライン授業「後進国」日本は何をすべきか

 ほんとうかどうか知りませんが、事実だとしたら、まずそうした国に経験を積んでもらい、十分に効果と安全性を検証してもらってから我が国で行うというのはどうでしょう。医薬品や治療法、いくつかの科学技術についてはいつもそうしてきたはずです。
 オンライン学習だって同じでいいと思うのですが、それでも日本が先んじてやらなくてはならないとしたら、そのわけを知りたいものです。

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2020/10/14

「汝、印鑑するなかれ」〜ノスタル爺の不安と郷愁@  教育・学校・教師


 政府に関わる書類から、一斉に押印がなくなる勢い。
 その流れは当然、都道府県から市町村、そして学校へと降りてくるだろう。
 必要ないものは淘汰されてしかるべき、
 それはそうだが、やはりなあ・・・

という話。
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(写真:ファトAC)

【印鑑がなくなるかもしれない】
 菅総理の一言で、政府に関わる押印が一斉になくなってしまいそうです。上川法務大臣はさっそく婚姻届けや離婚届の押印をなくす方向で検討に入ったということですが、そのことを伝えるニュース番組の中でインタビューを受けた若い女性が、
「楽になるからいいんじゃないですか」
と言うのを聞いて、私は少し天を仰ぐような気持ちになりました。
 結婚や離婚が楽にできるようになって、いいことは何もないように思ったのです。

 妻にそう言うと、
「手続きのことを言っているので、結婚や離婚そのもののことじゃないでしょ」
と女どうし肩を持ちます。
 しかし結婚も離婚も一生の問題――最後の最後に朱肉にトントンとハンコを押しあてて、もう一度その決断が正しいかどうかを吟味し、「よし、それでいい」となったら気合を入れて「エイヤア」とばかり用紙に押し付け二度と後ろを振り返らない—そういうことの必要な場面だと思うのですがどうでしょう。

 死亡届まで自分で出しに行けとは言いませんが、結婚届も離婚届けも二人で証人の家々を回って、血判をもらうくらいの心構えで判を押していただき、そして一緒に役所に提出する、そんな心構えがなくてどうする――。
 そう言うと妻は、
「古いわねえ」

 冗談じゃあない。古い新しいが善悪の分かれ目だとしたら古女房こそ悪の権化だ。今すぐここで悪を神仏に詫びろ、腹を切れ――とは言えないので、
「古いからといって印がなくなったら御朱印帳はどうやって集めればいいんだ。掛け軸から印がなくなったらどうやって真贋を明らかにできる、そもそも印のない掛け軸なんてシナチクの入っていない醤油ラーメンみたいなで、味気もなければ素っ気もない。そういうものだろう」
とゴネると、
「もう、いい加減にしてくださいね」
と言ってウイスキーのボトルとグラスを持って行ってしまいました。


【印を贈る】
 もちろん政府もすべての押印をなくすと言っているわけではないので、家や車などの大きな買い物や借金の申込書などでは最後の最後にもう一度迷うための押印など残るのかもしれませんが、ハンコは日本文化そのものであって、総理の一言でなくしてしまうのはいかにも惜しい気がします。

 かつて私が勤務したことのある山の小さな中学校では、秋の同窓会入会式で3年生に印鑑を贈呈するのが習わしでした。
 高校生になると生活の一部に社会人としての活動が入ってくる、そのとき先輩から贈られたこの印鑑を使って、心を込めて押すのですよ、そんな思いで贈られる印です。ほぼ全員の子が、入学願書で初めてのその印を使いました。何となくそれで力が湧くように思ったのです。

 それを覚えていたこともあって、私は二人の子を社会人として送り出す際に印鑑のセットをプレゼントしました。そこそこに値の張る実印と銀行印と認印のセットです。銀行印などはすでに三文判で登録してあるので手間をかけて切り替えたかどうか定かでないのですが、親としては良いことをしたように思っていました。
――それがムダになる(かもしれない)。返す返すも残念なことです。


【印に関する思い出】
 とうぜん学校からも押印はなくなる方向だと思うのですが、そもそもどんな場面で使っていたのかと考えると、たとえば出勤簿の印、給与受け取りの印、会計担当者として会計報告に使う印、そのくらいしか思いつきません。
 なくすと言っても出勤簿などは毎日サインすることを考えたらハンコのほうがよほど簡単な気もします。事務の先生が打つ書類の受領印なども、一日に数十という数を考えるとサインでは気の毒な気もします。おそらくこういうところでは残っていくのでしょう。印鑑を禁止すればそれに代わるスタンプを作るだけのことです。

 校長先生の手元には学校印と職印という重要な印があります。学校印の方はめったに使いませんが、職印の方は重要な二つの書類に絶対必要です。
 卒業証書と高校に送る調査書(内申書)です。後者については省略の方向に進むでしょうが、卒業証書の方はなくすわけにはいきません。ないと格好が悪いからです。

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 この卒業証書に打つ職印というのが実はけっこう難物で、一生残るものですから曲げたくないのです。
多くの場合それは担任教師の最後の仕事で、校長先生からお借りした印を曲げてはいけないと思うと、さらに曲がってしまう。
 そこで私が発明したのが「押印アダプター」(右写真)でした。カセット・テープの蓋を利用して作った逸品ですが、今はもう必要のないものとなりました。けっこう重宝したのですが。
(参考)2013/3/13文具自慢B〜押印アダプター

 いずれなくなってしまうかもしれない調査書に打つ職印――これについても私はかなりこだわった時期があります。
 公式の書類はすべてそうなのですが、印は校長先生の名前の最後の文字を半分隠すように打たなくてはいけないのです。しかもその角印の右の枠線は、書類の行末にそろわなくてはいけないという約束があります。
クリックすると元のサイズで表示します 文科省から回ってくる書類は、その部分がいつもきちんとしていて感心しました(右の写真)。で、それを真似るわけですが、押印のための余白をきちんと作るには校長先生の名前の位置に工夫が必要なのです。それを私は時間をかけてきちんとやった、
――だから大変だった、
・・・だからやめるべき、なのでしょうね。
(参考)2008/10/30「文書の体裁」


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