2020/2/19

「訂正!! 企業は積極的に社員を休ませるようになるだろう」〜新型コロナと学校A  教育・学校・教師


 やはり企業は社員を積極的に休ませることになるだろうと思い直した。
 会社が丸ごと“屋形船”になると考えたら、
 恐怖でいてもたってもいられないはずだ。
 学校も同じ。
 しかし教師の仕事は分担できるものではないし、代わりもいない。
 同じことは病院にも、一部の役所にも言える。
 みなさん、どうするつもりだ?

という話。

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(「浅草から見たスカイツリー3」フォトACより)

【訂正!! 企業は積極的に社員を休ませるようになるだろう】
 昨日、
「子どもならまだしも、大人だと教員に限らず、『発熱などの風邪症状が出た場合は、・・・仕事を休み外出を控えた上で・・・』なんて簡単にはできそうにありません」
と書きましたが、今日になって考え直しました。
 普通の企業家、管理職なら、風邪症状のある社員を積極的に休ませるだろうと思い直したのです。

 考えてみれば屋形船でのわずか2〜3時間の宴会で、あれだけ多くの感染者が出るのです。小さな会社で感染者ひとりが半日も勤務したら、ひとたまりもないのかもしれません。大きな会社でも、各支社、各部署、まるごと新型コロナに持って行かれかねません。

 被害はそれだけでは留まりません。
 一番心配なのは大切な顧客にうつしてしまうことで、新型コロナかもしれないと心配される社員をそれと承知でと得意先に向かわせたとなれば、いかに寛容な相手と言えど容赦はしないでしょう。大げさに言えば恩ある人にヒットマンを差し向けたようなものです。それで得意先の会社が先につぶれでもしたら、その世界では以後生きていけないでしょう。
 私なら許しません。

 というわけで、ちょっと気の利いた会社なら――いやよほど勘の悪い企業でない限り、社員が風邪だと聞けば積極的に休んでもらうよう取り計らざるをえません。そのために事前にテレワークに移行したり、“多少調子が悪い”程度でも報告するよう、社員に徹底するでしょう。
 社会は厳しいというのはそういう意味です。目先の利潤は捨てても、“信用”といった大切な財産を棄てはしません。


【学校はどうだろう】
 翻って、担任教師が「具合が悪い」と言ってきたとき、すんなりと休むように勧める校長が何人いるのか?
 もちろん最初の一人や二人に対しては優しくなれます。しかし三人目からは頭を抱える管理職が出て来ます。代わりがいない上に、欠員分を他の教師で分担するということもできないからです。

 通常、担任の先生が休もうとするときは休業中の授業計画を立てます。
 私もインフルエンザに罹ったときは、夜おそく、大半の先生が帰宅した後の学校へ行って数日分の授業計画を書いたものです。子どものいる日中に来るわけにいきません。

 休む予定の日数分の計画台紙を用意し、時間割に照らして、小学校なら専科の先生にお願いしてある音楽や家庭科の時間を記入し、あとは算数や国語のプリントを用意して、「〇月〇日(〇曜日)第〇時、算数プリント『少数のかけ算(1)』」とか記入します。場合によっては体育や図工を隣のクラスと合同でやってもらいますから、同学年の先生に電話して、
 「〇月〇日(〇曜日)の〇時間目、先生のクラス、体育の授業で体育館を押さえてありますよね。恐れ入りますが私のクラスも一緒に面倒見てください」
とかお願いします。

 中学校の場合は、基本的に教科はプリントと教科書のまとめだけになります。
「プリント『鎌倉幕府と元寇』をやらせてください」
とか、
「教科書P48〜P51を読んでノートにまとめるようにしてください」
とか言った具合です。
 他の先生と授業を入れ替えてもらうこともありますが、復帰後にお返しすることを考えると、そう多くは頼めません。返すといっても自分の空き時間は1日1時間。時間割の複雑さを考えると、そう簡単に元の戻せるもんではないからです。

 学級担任の授業(道徳や総合的な学習の時間)は、仕方ないので副担任の先生に授業をやりくりしてやってもらうようにします(副担任といっても教科を教える先生ですから、いつでも暇なわけではありません)。


【副校長(教頭)先生は大変】

 そうした計画書にそって、教室に入る先生を割り当てるのは副校長(教頭)あるいは主幹教諭、教務主任の仕事です(学校の体制によって違う)。

 出張計画や時間割を見て、空き時間の先生を探します。基本的には音楽や理科の専科の先生を最初に入れ、続いて教育支援の講師の先生を入れます。学級担任はできるだけ入れません。というのは学級担任だと“空き時間”といっても実際には児童生徒の日記を読んで返事を書いたり書類整理をしたりと、授業時間以上に忙しい場合が少なくないからです。
 それも限界になると、仕方がないので副校長(教頭)先生みずからが教室に向かうことになります。

 普通の先生の“日中の仕事”は「授業」が大部分ですから夜に回すことはできません。けれど副校長(教頭)先生の仕事は事務処理と営繕(つまり雑用)、それに職員指導ですから、全部を夜中に回すことができるのです。そんなふうに本来の仕事をすべて夜に回している副校長(教頭)先生は意外と多いものです。

 そしてそれでも手が足りなくなると禁じ手を使います。養護教諭や図書館司書、時には校長先生まで動員するのです。
 校長先生なんて制度上は教員ではない(*)ので本来は授業をしてはならないのですが、“地域のおっちゃんが見守っている”という体で置いておくのです。
*教育関連の法規を読んでいると「校長及び教員は」という表記がたびたび出て来ます。つまり校長は教員ではなく、したがって校長に授業をやらせるとその時間は授業時数としてカウントできません。


【腹をくくれば学校にはやれることがある。しかし・・・】
 ただし、ここまでやって穴を埋められるのは、中規模の学校で、せいぜい休む先生が3人程度の場合。それ以上だと児童生徒が子どもだけで時間を過ごす、本物の“自習”になってしまいます。そんなものを3日も4日も続けるわけにはいきません。

 事態がここまで進んでしまったら校長先生も学校閉鎖を考えなくてはならなくなります。児童生徒はぴんぴんしているのに、職員室で先生たちがうつしあったために学校閉鎖――非常に不本意ですが、そういうことも考えておく必要があるも出てきます。
*もっとも先生が4人も5人も倒れて子どもたち全員がぴんぴんしているという事態も、現実には考えにくいところですが。

 最悪の場合、学校はこのように対処するはずです。学校は覚悟さえ決めれば閉じることができます。
 しかし病院や官公庁はそういうわけにはいかないでしょう。地域にひとつしかない病院だとか小さな役所は、万一に備えてどんな計画を立てているのか、聞いてみたいものです。


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2020/2/18

「不要不急でもないし、在宅勤務も時差出勤もできない」〜新型コロナと学校  教育・学校・教師


 いよいよ水際から、深く侵攻してきた新型コロナウイルス。
 対応策として、政府、医学関係者、マスメディアから、
 様々な提案があるが、学校は守れない。
 いったいどうしたらいいのだ?

という話。
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(「2019新型コロナウイルス」パブリックドメインQ より)

【在宅勤務も時差出勤もできない】
 新型コロナウイルスもいよいよ市中感染を心配する時期になってきて、ニュース番組を通して国立感染症研究所長などは、
1 在宅勤務
2 時差出勤
3 不要不急の集会への不参加

等を提案しています。
 でもこれ、学校の先生はひとつも実行できませんよね。

 また、先週13日あたりから急に増えてきた感染経路不明の感染者の中に、医療関係者がかなりの割合で入っていて、中には熱があるにもかかわらず診察を続けた医師もいたのですが、さすがに「熱があるなら休めよ」といった批判は少なかったようです。地方の病院で医師が簡単に休めない現状については、多くの人が承知しているからです。
 新型コロナだと分かっていればまだしも、代わりがいないのに風邪症状くらいで休めるはずがありません。

 教員も同様です。
 数年前までは教師に問題があるとすぐに、担任を交代させろ、他の先生を寄こせといった話になりましたが、学校内に手の空いた先生などおらず、担任を休職に追い込んだら副校長先生が片手間に担任業務をしなくてはならなくなる状況は、だいぶ知れ渡るようになっています。さらに最近は、校内どころか校外にも代わりの先生がいなくなりつつあります。


【受診の目安も守れない】
 政府の専門家会議は昨日(17日)、医療機関の受診の目安をまとめ、発熱など風邪に似た症状が4日続く場合は「帰国者・接触者相談センター」に相談し、センターが指定する医療機関で受診するよう求めました。
(参考)新型コロナウイルスに関する帰国者・接触者相談センター

 具体的には、
1 発熱などの風邪症状が出た場合は、相談や受診をする前に学校や仕事を休み、外出を控えた上で、体温を毎日測って記録しておくこと。
2 37.5度以上の発熱や息苦しさが4日以上続いた場合などは、保健所などの窓口に相談する。
3 特に高齢者や持病(糖尿病、心不全、慢性閉塞性肺疾患《COPD》など呼吸器疾患など)がある人や妊婦などについては、発熱などが2日程度続いた場合は窓口に相談する。
4 子どもが特に重症化する例はないので、他の人と同様に対応する。


 しかし子どもならまだしも、大人だと教員に限らず、「発熱などの風邪症状が出た場合は、・・・仕事を休み、外出を控えた上で・・・」なんて簡単にはできそうにありません。多少熱があっても職場に出かけ、2日半くらい働いて「ヤバイ、かも?」と感じて対面上、帰宅し、4日目になって本気で心配する――その程度が関の山です。
 教員だったらその間に、子どもたちにウイルスをばら撒いています。どうしたらいいのでしょう?


【とりあえず目前の行事をどうするのだ?】
 もっとも教員自身が罹患して子どもを巻き込む心配をする前に、厄介なことが山ほどあります。
 当面、問題となるのが入試でしょう。
 不要不急の集会への不参加といっても入試は不要ではありませんし、どんなに延期したところ3月中旬には終えていないと学級編成もできないことを考えると、不急でもありません。もちろん中止という選択肢はありませんから予定通りやるとして、風邪症状の受験生を受け入れるのか、学校閉鎖・学年閉鎖の学校からくる受験生をどうするのか――これは喫緊の問題です。

 そもそもそれ以前に、校内から一人でも新型コロナウイルス感染者が出た場合、学校はどう対処するのか。
 11年前の新型インフルエンザは5月の初旬に日本に入って、7月に普通のインフルエンザ扱になりましたから学級閉鎖も学校閉鎖も簡単でした。欠落した時数は残り8カ月で取り戻せばよかったからです。延期した行事も2学期以降、実施できる場合が少なくありませんでした。
 ところが今回は2月も下旬です。時数は誤魔化すにしても、終わっていない単元をそのままに進級・卒業させるわけにもいきません。

 卒業式は中止するとして、4月の入学式はどうするのでしょう。地域によっては新年度早々に修学旅行を行う学校もあります。キャンセルするなら早めの対応が必要ですが、それにしてもまだ県内に一人の感染者もいないという状況だと決断しにくい――もちろん地元の感染者が10名以下なら実施といった目安があるわけでもありませんが。

 それら全部をひっくるめて、学校や教育員会、校長先生や教育長の頭の痛い時期が続きます。
ほんとうに、どうなるのでしょう?

*余談ですが、教員の出世の終着点は教育長。しかしこういうことがあると、そこまで出世してしまう人の気が知れません。

 

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2020/1/31

「今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていく」〜ものごとの考え方のB  教育・学校・教師


 日本の教育は世界一だが完璧ではない。
 政府もマスコミも、完璧でないことをもって教育改革を叫ぶが、
 ほぼ健康な体にメスを入れるのはいかがなものか。
 もうしばらく、対症療法で様子を見てはいけないのだろうか?

という話。
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(「休日の校庭」 PhotoACより)

【日本の教育は世界一だが完璧ではない】

 日本の教育は世界一だといえば当然、「そうではないだろう」「イジメはどうした?」「不登校はどうなった?」「PISAの読解力は15位といった体たらくだ」ということになりかねません。
――確かに。

 ただし私は「日本の教育が完璧だ」といっているわけではありません。完璧ではないが世界一だと思っているのです。
 そんな例は世界中にいくらでもありますでしょ? 例えば最先端であって世界一の自動運転車というものは(たぶん)ありますが、完璧な自動運転車はまだできていません。それと同じです。

 もっとも教育と自動車産業を並べるのはあまり適切な例ではないのかもしれません。
 完璧な自動運転車はいつか完成しますが、完璧な教育というものが成立するかどうかはかなり疑問だからです。教育を構成する様々な要素は有機的に絡みあっていて、一か所に手を入れることがあちこちに予期せぬ影響を与えるとこともあると考えられるからです。


【不登校といじめ問題を劇的に減らす方法】
 不登校やいじめ問題を例に考えてみましょう。実はこれらをほぼ完全になくす方法というのも、あるにはあるのです。

 不登校の専門家の富田富士也という人は、かつて、
「不登校の子が学校に行けないのは、そこが人間関係を強制するからだ」
と言ったことがあります。まさに慧眼の至りです。

 特に日本の学校の場合は、部活に行けばチームワークを強制され、校内にいる限り委員会活動や学級内係、日直当番や清掃活動と常に誰かと協働することが強制されます。授業も話し合い重視、実験重視、体験重視ですからどうしても人間関係が絡んでくる。

 もちろんそれには理由があって、日本では学校の責任として児童生徒につける力(生きる力)の中に、わざわざ「豊かな人間性」を入れて(他の二つは「確かな学力」「健康・体力」)、学校は全エネルギーの三分の一を費やして人間関係づくりをするよう求められているのです。
 それが一部の子には煩わしい。

 もし学校が三本の旗のうちの2本を降ろし、「確かな学力」一本にすれば、いずれは一部の識者の言う通り、インターネットを通してAIが指導する在宅学習が主流となっていきます。
 子どもにとっては登下校の手間が省け、行政は学校施設の維持管理・給食補助などの一切を減らすことができます。特に人件費の大部分がなくなることは大きく、教育予算は激減します。
 そもそも登校しないのですから“不登校”という概念も変わらざるを得ないでしょう。

 いじめ問題も100%なくなります。
 なぜなら平成25年度から使われている「いじめの定義」は、
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」
だからです。AIによる在宅学習では「一定の人的関係のある他の児童生徒」自体が存在しませんから、定義に当てはまる事象は起こりようがない。

 最近、主として教員の働き方改革の観点から「部活動の縮小」「行事の削減」「教科教育への専念」などが叫ばれていますが、教員はダシに使われているだけで、真の理由は子どものどうしの関係を希薄化することで、不登校やいじめを少しでも減らそうということなのかもしれません。


【今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていく】
 さて、ここでようやく話は、私の両足の裏にできたウオノメに戻ります。

 昨年4月に、ダイエットを目的に始めたジョギングは、同時に私に健康と筋肉をもたらしました。長距離の歩行に対する自信も重要な賜物です。ところがその、良き方向に進んでいた流れが、ここにきてウオノメの復活という形で阻害され始めたのです。
 健康も自信も、ウオノメも、ともに同じところから生まれてきた――そこがミソです。

 同じように、和を貴び、思いやりやおもてなし・忖度・場の空気を読むと言った高度な技術を磨き、大規模災害でも余すことなく機能する集団性や協働性を育ててきた日本の教育は、まさにその働きによって不登校やいじめを生み出してきた――そう考えることに何の矛盾もありません。
 ならばどうするのか――。

 考えられる方法は四つです。
 一つ目は、前述のとおり「豊かな人間性」を求める教育をやめてしまうこと。
(これには賛成できません)

 二つ目は「豊かな人間性」を追求しながら不登校もいじめ問題も発生しない、まったく新しい教育の目標と方法を編み出すこと。
(ただしこれには私の能力は追いついていません)

 三つ目は、今やっていることをさらに徹底すること。不登校もいじめ問題も飲み込むほど徹底した集団性、協働性を育てること。
(この方法にはさらなる不登校といじめを生み出す可能性もあります)

 第四に、放置すること。
(もちろん不登校やいじめ問題を放ったらかしにはできませんからその都度対処します。いわば弥縫策です)

 私の答えは4です。
 完璧ではありませんが現在の日本の教育は、少なくとも150年の歴史がつくった世界の宝石なのです。これを根底から覆す決定的な教育方法論が生れない限り、あるいは現在のやり方が完全に行き詰まらない限り、「将来はこうなるだろう」といったあいまいな予言によって変化を加えるべきではないと思うのです。

 私はウオノメをナイフで削りながらジョギングを続けましょう。同じように、基本的には非常にうまくいっている日本の教育には、根本的な変更を加えるのではなく、今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていくべきだと思います。


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2020/1/30

「教育内容の自然淘汰・適者生存、そこから生み出される世界最高の教育」〜ものごとの考え方のA  教育・学校・教師


 公立の普通の学校は教育の研究室ではない。
 実験的なことは行ってはならない。
 仮にやっても、その試みはいつか自然に消されてしまう。
 ただエネルギーがムダ遣いされ、時間がかかるだけだ。
 こうして日本の学校教育は、成熟した、最先端のものとなった。

という話。
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(「帰り道」PhotoACより)

【普通の公立小中学校で、先端的な教育を行う気になれない】

 私は臆病者の保守主義者です。容易に新しいことに取り組みませんし、いったん決めると簡単には手放しません。もっともたいていの臆病者は保守主義にならざるを得ないのですが。

 学校というところは非常に保守的な場でしばしば批判を受けます。臆病なのです。
 しかし私は臆病でいいと思っていますし、そうであるべきだとも思っています。

 もちろん大学の教育学部の付属学校だったら革新的であっても構いません。付属学校というのは最初からそれを承知で入る学校であり、学者の実験に供されるのはかなわないという家庭の子どもは入学すべきではないのです。また、付属学校のもう一つの機能――大学生・大学院生・教員の研修の場――ということを考えると、半分素人の学生の授業を受けてもなんとかなるくらいに頭のいい子でないと、やっていけないのも事実です。

 そうした学校では実験的な授業を試して「ああ、やっぱりだめだった」でも構わないのです。優秀な子たちですから、ムダに失った数時間も1時間で取り戻せます。しかし普通の公立学校ではそういうわけにはいかない。

 見通しの甘かった計画、悪い授業でグチャグチャにされた頭は、真っ白な頭よりよほど厄介です。普通の学校では基本的に「やり直しの授業」はできないのです。

「これからのグローバル社会は英語やプログラミング的思考ができないと生きていけない」
と言われて瞬間的に身構えるのはそのためです。
 そんなはっきりしない未来予測のために、大切な教科の時間を削ったり子どもたちに無理をさせていいものか?
 結局のところ子どもたちは、優秀な自動翻訳機を振り回し、プログラミングはコンピュータ自身が行う時代が来るのではないか?
 私の脳の奥の声が、そんなふうに叫ぶのです。


【エリートのためのゆとり教育】
 あの悪名高い「ゆとり学習」も、その始まりは、
「これからのグローバル社会は知識だけでは生きていけない。そこで必要なのは『問題を発見する力』『問題を解決する方法を考える力』そして『すべての資源を組み合わせ、操作して実際に問題を解く力』、一言でいえば『問題解決能力』だ」
といった考え方でした。
 一般的にはここから、“知識偏重を排し、ゆとりあるカリキュラムの中で「考える力」をつける新しい教育が始まるのだ”と考えられましたが、そうではありません。

 この表現の肝は「知識だけでは」です。「知識はなくてもいい」もしくは「知識をつける教育はそこそこにして」ではなく、「知識をつけるなんて当たり前、十分な知識をつけた上に『考える力』もつける、それが新しい時代の教育だ」と高らかに宣言しているわけです。つまり、
「エリートにさらに高い能力を!」
が、本来の趣旨だったのです。

「そんなレベルの高い教育は、普通の公立学校ではムリだ」
という声は無視されました。
 そして予想通り、知識という土台さえ不確かな子どもに「考える力」という壮大な構造物を乗せようとした試みは、うまくいかなかったのです。
 社会は学校に「脱ゆとり」を望むようになりました。考える力も大事だが、知識も大切だと揺り戻したのです。


【教育内容の自然淘汰、適者生存】
 日本の教育は明治以降の近代教育だけでもすでに150年の歴史をもっています。
 その間さまざまなものが試され、あるものは残りあるものは消えていきました。

 私が実体験したものだけでも、子どもの活動としては全校書初め大会、全校縄跳び、百人一首大会、短歌・俳句教室、社会科一研究、教師の側では一年間のすべての授業内容を明らかにしたカリキュラムづくり、絶対評価、全授業時間における評価基準づくり、授業内評価、ひとり一公開授業、参観週間等々、これらは全部消えていったものです。たとえ文科省からの直接的な指示であっても価値の低いものは消えていく――。

 一方、音楽会や合唱コンクール、運動会や体育祭、手の込んだ文化祭、卒業式の細かな手順、部活動などは、かなり面倒だったり苦労も多かったりするのですが残りました。いまとなれば教師自身も十分に説明できないのですが、それらには高い価値があって必要だったからです。

 価値あるものは残り、価値の低いものはなくなる――あえて言えば教育内容の自然淘汰、適者生存です。

 日本の公教育はこうして、考えうる世界最高水準にまで高められたのです。
 異論がある方は、総合的に見て日本よりも優れた教育を行っている国・地域を示してみてください。納得すれば私も持論を取り下げ、従います。
 日本より優れた教育の行われている国が特定されれば、真似をすればいいだけですからずっと楽になるのです。

 しかしそんな国や地域はどこにもないでしょう? まさにそれが、日本の教育が世界最高であることの証明です。

(この稿、続く)


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2020/1/29

「健康を生み出す努力が健康を阻害する」〜ものごとの考え方@  教育・学校・教師


 きつくなったズボンに体を合わせようと、
 筋トレ・ジョギングを始めて10か月。
 まだ目標は達成できていないが、方向は見えてきた。
 しかし運動は、同時に目標を阻害する要因も生み出すようだ。

という話。
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(「脚3」PhotoACより)

【ズボンを履くために始めたジョギングの顛末】
 昨年の4月から1日置きのジョギングを始めてまもなく1年になります。
 きっかけは腹周りがメタボ基準を越え、昔、履けた十数本のズボンがまったく履けなくなってしまったからです。中には新しいものもあって、捨てるにはあまりにももったいない。
 その十数本を履けるようにしたいというそれだけの理由で、一昨年、まずテレビ体操と腹筋運動を始めたのですが、若いころとは違ってまったく減りません。そこでジョギングなのです。

 ウォーキングではなくジョギングにしたのは、「後期高齢者じゃあるまいし、のんびり歩いたって腹が減って余計に食べるくらいがオチだ」という友人のアドバイスがあったからです。一日置きにしたのは「筋肉は一日破壊し、一日修復することで増える」という、これも別の友人のアドバイスによるもので、おかげで筋トレとジョギングを交互に行う羽目になってしまいました。
 年を取ると健康に関する助言者は次々と出て来ます。


【頑固者はルーティーンワークが得意、望外な収穫もある】
 運動は大嫌いなのですが、私は「ケチでガンコ」な性格なので、「ズボンを棄てないためのルーティーン・ワーク」は生活によく馴染みます。10カ月も続けていられるのもそのためです。
 ただし1日たりとも楽しいと思ったことはありません。腹周りもまだズボンの9割が履けないままです。

 実は腹囲が減らないのも当然で、テレビ体操にジョギングと筋トレを組み合わせる40分間の運動は、調べたら熱量でせいぜいが200kcal、ご飯一杯分(269kcal)にもなりません。これでは減らしようがありません。
 体脂肪率は20%弱に減りましたから、脂肪が減って筋肉が増えるという面もあると思いますが、体重全体は10カ月で3s減っただけ、腹囲も3cm減りましたがまだまだメタボです。
 1年近く毎回泣きながら頑張っているのに、成果はあまりにも小さい。

 ただし望外のこともあって、歩くことがさっぱり苦にならなくなった。近くのコンビニに行くにも以前は自家用車に頼っていたのが、
「カギを開けて車に乗り込む手間を考えたら、歩いた方がいかな」
と思えるまでになっています。
 さらに良かったのは観光旅行や美術館巡りといった長距離を歩くことが予定される場合でも、気が重くならずに済むようになったのです。どんなに歩いてもたぶんへばらない――。
 近々、息子の赴任先である九州に遊びに行くことになっていますが、単純に楽しみにしていられます。

 筋肉には保水機能がありますから熱中症にもなりにくく、実感はありませんが代謝もよくなって健康状況も上向いているに違いありません。いまのところ血糖値や血圧にも大きな変化はありませんが、これから良くなっていくでしょう。

――と、いいこと尽くめだったのですが、ここにきて大きな問題が出てきました。
 ウオノメが復活した。


【私のウオノメ前史】
 10代のころ踵の高い靴が流行ったことがあって、それを数年履いていたら左右の足の中指の付け根当たりに大きなウオノメができるようになり、それが30年以上も続いた、私にはそういう悲しい病歴があります。
 特に教員になってからは状況が悪く、さまざまに薬を使い、血の出るまでナイフで削ってもついに完治しない。

 お医者さんからは、
「歩くからいけない」

 意外かもしれませんが教職というのはけっこうな歩き仕事・立ち仕事で、職員室と自分の教室を往復し、教科担任としてのあちこちのクラスを回り、清掃指導に部活指導、そんなことをしていると、日に最低でも1万3000歩くらいは歩いてしまうのです。「今日は少し大変だったなあ」と思う日で1万6000〜1万7000歩ほど。教室が3階だったりすると上下にも激しく移動します。足を休めている時間よりいじめている時間の方が長いくらいです。

「Tさん」
と医者は続けます。
「極端な話、寝たきりになれば治療をしなくても1〜2カ月で完治します。けれど生活が戻れば半月で復活します」

 そういうことで結局、現場にいる間じゅう治らなかったのですが、それが管理職になって歩く距離が減ったとたん、たぶん1年足らずで完全に治ってしまったのです。10年余り以前のことです。
 三十数年苦しんだウオノメが一年足らずで治って、さらに十年余りも穏やかな両足で生きて来られた――それが私の魚の目前史です。そこに「一日わずか30分間のジョギングを一日おきに10カ月続けたら元に戻った」という項目が加わったわけです。少しもうれしくありません。


【悩ましき課題】
 思えば古いズボンが履けるようになるための運動で、しかし付随的に望外の利益があり、全体として良い方向に進んでいたにもかかわらず、それを阻害する“ウオノメ”が復活してきた。
 ジョギングをやめて元の穏やかな足を取り戻すか、三日に一度はナイフで足裏を削り落とす昔の生活に戻って続けるべきか、運動の質を下げて“ウオノメ”の成長を計り、運動を続けながらも“ウオノメ”ができないレベルを探るのか――悩ましいところです。

と、そこまで考えたとき、私は急にあることを思い出したのです。

(この稿、続く)

 

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2020/1/24

「意義も重要性もわかっているのに伝える時間がない」〜特別活動の話D  教育・学校・教師


 教師が多忙なのは単純に仕事が増えたからだ。
 だが仕事を減らせというと、伝統のある重要なものから削られる。
 それは減らしてはダメだ、それは重要だと叫びたくても、
 きちんと説明し、訴えるための時間がない。

という話。
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(「修学旅行で海外へ」PhotoACより)


【なぜ学校はこうも多忙なのか】

 なぜ学校はこうも多忙になったのか――?
 答えは簡単です。仕事が増えたのです。

 パッと思いつくだけでも、
 人権教育、性教育、生活科、総合的な学習の時間、メディアリテラシー教育、薬物乱用防止教育、キャリア教育、食育、小学校英語、プログラミング学習、特別な教科「道徳」――これらは50年前にはなかった、いわゆる「追加教育」です。
 70年さかのぼれば「道徳」さえありませんでした。部活動もなかった。

 体罰は厳に慎まれ、説得と合意を基礎とした辛抱強い生徒指導が中心となりました。
 全国学力学習状況調査、教員評価・学校評価・授業評価・地域からの評価、地域ボランティア、地域交流、教員免許更新制度。
 不登校指導、発達障害支援、不審者対応。
 アカウンタビリティ(説明責任)は学級だより・学年だより・学校だより・学校ホームページの拡充を求めます。と同時に、政府・地方公共団体の説明責任に協力するための報告書も膨大にあります。
 これだけ仕事が増えたのに、教職員定数法によって教員はほとんど増えることなく今日に至っています。これでは忙しくなるわけです。

 すぐにわかることですが、解決法は二つしかありません。
 教員を増やすか、仕事を減らすか。

 国・地方公共団体は後者を選びました。お金のかかる教員の増加は絶対に認められません。だから仕事を減らすしかないのですが、その際、新しいものは残し、古いものを削るを原則としました。

 教員評価や免許更新制はどんなに非難されてもやめることはしませんが、国語や社会科、音楽、美術、技術科家庭科といった教科の時数は平気で減らします。
 国語などは昭和に比べて70時間(3年間で)も減らしてしまいましたから、これ以上削減することはできません。そこで目をつけたのが特別活動と部活動です。

 政治家も官僚もマスコミも、そして世間一般の人々も、特別活動や部活動を、勉強ではないもの、楽しいお遊びやつまらない儀式、スポーツ、思い出づくり、気晴らしと、その程度にしか思っていませんから、減らすのに何の抵抗もないのです。
 もちろん一部は、特別活動や部活動の価値や重要性を十分に伝えて来なかった学校と教員にも責任のあることですが――。


【意義も重要性もわかっているのに伝える時間がない】
 部活は何のために行うのか、音楽会は、文化祭はどんな力をつけるためにやっているのか、修学旅行はなぜ行うのか――、学校も職員もそれについて社会に十分に知らせて来ませんでした。

 修学旅行の目的なんて「旅行の栞」の第1ページにはっきりと書いてあるのに、保護者説明会でも十分に説明してきませんでした。とにかく無事に行ってきたいという気持ちが強く、日程や持ち物の説明で精いっぱいといったところだったのです。

 しかし優秀な先生だったら修学旅行のような大行事には、必ず様々な仕掛けをつくっていきます。
 たとえばある先生にとって、ランチバイキングですら単なる食事の時間ではありません。
 私はそうしたクラスを見たことがあるのですが、バイキング形式のレストランでいったん食事をそろえてテーブルに座りかけた女の子が、プレートの中身を確認して、
「あ、やっぱ緑が少し足りない」
とか言って再び料理を取りに戻ったりするのです。それも一人や二人ではありません。隣の子のプレートをのぞき込んで評価する子までいます。たまげました。
 
 私は二流ですから旅行会社からランチバイキングの提案があれば、
「日ごろお仕着せの給食メニューを食べているのだから、たまには好きな食べ物も食べさせてやろう」
と考えるのですが一流は違います。
 おそらくそのクラスには、バランスの良い食事とは何か、どういう点に注意して食品をそろえるといいのか、どんな栄養素が何の食品に含まれているのか等々、日常的に学んでいるのでしょう。ランチバイキングはいわばそうした食育の卒業認定試験なのです。

 私は修学旅行にディズニーランドなどのテーマパークが入るのを好みませんが、こういう人が引率すれば、そこは単なる遊園地ではなく、集団行動と計画実践の場とになります。
 担任や添乗員がいちいち言わなくても計画表と時計を見ながら次の行動にきちんと移れるか、必要な学習はきちんとできているか、メモは取れているのか、忘れ物はしていないか、自分だけではなく友だちにも気を配れるか等々、すべてがテストされます。

「帰ってから旅行記を書くんだからね。ボーっと遊んできちゃダメなんだよ。
 作文なんて後から思い出して書こうと思っても書けるもんじゃない。はじめから作文に書けるように見て、作文で伝わるように楽しんで、メモに残しながら回ると、帰ってきてから楽だよ」
 そのくらいのことは前もって言って練習もしてきているのかもしれません。
 
 だから修学旅行は春に行われるのです。認定試験にパスできない部分は、卒業までに作り直さなくてはなりません。

 修学旅行がそういうものであることを私は知っています。そんなこと学校の先生はみんな知っているのですが説明している時間がない、時間がないから修学旅行の価値についても理解してもらえない。世間から軽く扱われる――。

 やはりそういうことを説明し、理解してもらうためにも、先生たちにはゆとりを与えなければならないのです。


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