2021/1/13

「美しい文字の美しい娘」〜年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様A   教育・学校・教師


 18年前の教え子から、結婚の報告を兼ねた年賀状をもらった。
 18年間、欠かさず寄こしてくれた子だ。
 私はこの子に格別の思いがある。
 とにかく素晴らしく、時には困惑させられた子だったからだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【結婚の報告】
 18年前に担任した教え子から、結婚の報告を兼ねた年賀状が来ました。和装で和傘を指した新郎新婦が、中央で微笑んでいます。
「ご無沙汰しております。12月に入籍しました」
 新型コロナのせいで式や披露宴ができなかったのでしょう。夫婦の名前や新居の住所の下には、さらにこんな添え書きがあります。
『和装をしながら、先生に「〇〇さん(この子の本名)は和装が似合うだろうなあ」とおっしゃっていたのを思い出しました』

 女の子の容姿について語ったわけですから今ならさしずめセクハラ扱いでしょうが、昭和顔というよりはさらに進んで平安時代にいそうな、絵に描けば引き目・鉤鼻・おちょぼ口、頬のふっくらとした美人だったのでそんなふうに言ったのでしょう。記憶にはないのですが、いかにも私の言いそうなことです。

 彼女の担任は小学校4年生の時の一年間だけで、その後都会の方に転校してしまったので以後は言葉を交わすことはなかったのですが、年賀状だけはこの18年間、欠かさず寄こしてくれました。
 写真で見る限り、想像していたよりもさらに美人になっていました(これもセクハラかな?)。ただしこの子に関する思い出の中心はそこにはありません。


【なんという子だ】
 それは小学校4年生の、この子については最初で最後の私の家庭訪問のときのことです。

 市営アパートの2階か3階が自宅でしたが、車で行くと階段下にすくっと立っていて、私を見かけると両手を膝に当てて深々と頭を下げます。それはあまりにも子どもらしくない、大人びた仕草でした。

 駐車場に車を置いてその棟に行くと軽く会釈をして案内し、私を先に玄関を入れると後ろ手にドアを閉めます。私が靴を脱いで上がるのを待って自分も脱ぐのですが、膝を折って脱いだ靴をそろえ、上がり框に寄せてそれからふと気づいたかのように私の靴もそろえ直して引き寄せます。
 私だってそれほどいい加減に脱いだわけではないのですが、ひとの靴を整える姿があまりにも自然で、ほんとうに驚きました。そんなことのできる小学校4年生が現代に生きているのか、といった驚きです。
 そのあと私と母親の話にどんなふうに加わっていたのか記憶はないのですが、なんとなく伏し目がちで、小さく正座していたような気がします。
 それが最初で、最も強い印象です。


【美しい文字への執着】
 1年を通して、大人しい良い子でした・・・というかあまりにも目立たず、良い子であったかどうかもはっきりしません。けれどそれでいて記憶に残らない子だったのかというと、そうではないのです。何しろ毎日感心させられ、毎日苦しめられていたから忘れようがないのです。

 何に感心していたのかというと、毎朝提出される漢字練習帳の紙面があまりにも汚かったからです。鉛筆で何度も書いては消し、書いては消すのを繰り返すので紙がいつもくすんで灰色がかっているのです。何のために?
 実はこの子、漢字を覚えるために書くのと同時に、美しい字が書けることも練習していたのです。だから書いた字が気に入らないとすぐに消してしまい、それを繰り返すためにノート全体が汚れてしまいます。
 1ページ400マスを埋めてくるのが宿題でしたが、この子が書いた漢字はおそらく1000字でも足りないでしょう。時間は、もしかしたら普通の子の4〜5倍もかかっていたのかもしれません。
 そしてこの「美しい字」へのこだわりが、毎日、私を苦しめたのです。

 考えてもみてください。
 漢字練習帳とともに出される日記の文字が、赤ペンで添え書きする私の字よりもはるかに美しいのです。私は一言書くたびに何か美しい作品を汚しているみたいで、本当にかないませんでした。
 今年もらった年賀状の文字も、それは美しいものです。


【有り難いこと】
 転校によって私のもとを離れたその子は、翌年父親を病気で失い、母親とともに苦労を重ねたようですがやがて地元(といっても都会)の国立大学に進み、数年前、教員になりました。
 教師としての様子は聞いていませんし18年前を思い返しても教員としての才能があったかどうかといった細かな点までは蘇ってきません。

 ただしあれほど誠実な子ですから、時間をかければ大抵の困難は乗り越えられているはずです。教職は一種の職人芸の世界ですから誠実に努力すれば確実に腕を磨けるのです。着実に歩みを進める人間には向いている世界です。

 年賀状という細い糸のおかげで、一人の子どもが大人になっていく過程を見続けることができました。
 通常の意味でも、語の本来の意味でも、本当に「有り難い」ことでした。

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5

2021/1/6

「今年の年賀状」  教育・学校・教師


 結局、今年の年賀状はこうした平凡なものになりました。


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(やや、不本意)


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2020/12/24

「相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと」〜同調圧力の話A  教育・学校・教師


 同調圧力だの自粛警察だの――、
 しかしそれらは結局、程度の問題なのだ。
 私たちは子どもの頃からお互いを見て、お互いを正すことになれている。
 それを大人になった今も続けているにすぎないのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【シーナは同調圧力に負けたのか】
 年末年始の帰省を非常に楽しみにしていた娘のシーナが、新型コロナ感染第3波のために断念しました。
 親や祖母にうつしてはいけない、東京のウイルスを田舎に持ち込んではいけない、といった公徳心からではありません。とてもではないが今の東京に里帰りできる雰囲気がない、許される気がしないというのです。
 昨日残したのは、この事実をもって「シーナは同調圧力に屈した、負けた」という話になるのかという設問でした。

 答えはそれほど難しいものではありません。

 結局すべては“方向性”と“程度”の問題で、戦争遂行だの犯罪だの、あるいは「いじめ」といった悪い方向へ向けた有形無形の集団圧力とは戦わなくてはなりませんし、正しい方向への圧力であっても、コロナ自粛の最中の、他県ナンバーの車を傷つけたり、自粛要請に従わない飲食店への張り紙、マスクをしていない人の画像をSNSにアップするなど、行き過ぎは厳に慎まなくてはなりません。

 もちろんだからと言って「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人」を温かく見守る必要もありませんし、マスクをなくして困っているといった話なら助けてあげてあげればいいし、訳もなくそうしているなら思い切り冷たい目で見てやればいいのです。
 
 同調圧力という言葉に負のイメージを被せて、一括で扱ってしまうと社会の自浄能力や教育力さえ失ってしまいかねません。
 今年の年末年始に限って、里帰りは自粛しようというのはどう考えても正しい見方です。だったらその流れに乗ることは、決して負けたことにも屈したことにもならないはずです。


【私が子どもの時代の人民裁判】
 考えてみれば学校というところは、昔から同調圧力を借りて子どもを育てる場所でした。
 保育園でヤンチャだった子どもが小学生になったとたんにしっかりし始めると、保護者の中には、先生の偉大さだ、学校の凄さだととても感心して下さる方が出て来ますが、特別の技があるわけではありません。
 1年生になるにあたって、相当な覚悟をして入学してくる立派なお子さんがたくさんいるのです。教師はその力を借りて全体に枠を作るだけです。

 今は人権意識も広く定着して先生たちもとても優秀になりましたからそんな乱暴なことはしませんが、私が子どものころの帰りの会はまるで人民裁判でした。私などはかなり良い子だったはずなのに、それでも週に2〜3回は、
「T君は今日、〇〇をしていました。やめた方がいいと思います」
とか、
「今日、T君に○○されました。やめてほしいと思います」
とか言われて、そのたびに立って“お詫び”をさせられていました。毎週2〜3回というからにはよほど懲りない性格をしていたのでしょうが、吊るし上げる方も実に熱心でした。

 今の先生たちはそんな明け透けなことはしませんが、やっていることは基本的に同じです。常に正しい行い・善い行いを称揚し、悪い行いは陰で丁寧に潰すようにします。そうすることで学級内にモラルの枠を示すのです。
 するとそれだけで、子ども同士がお互いを正す”相互批正“が自然に発動してくるのです。特に小学校の低学年ではその力は絶大です。


【相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと】
 なぜそうなるのかというと、比較的自由で遊ぶことが主な活動だった保育園から、制約の多い小学校に入ってくると、どうしてもうまく順応できない子が出て来ます。その子たちは枠からはみ出しやすく、“良い子”から見ればひどく身勝手です。自分たちはきちんとやろうと努力しているのに、“悪い子”たちはまったく自覚なく、好き勝手に生きているように見えるのです。そこで正義の大鉈が振るわれるようになります。 “良い子”たちだって我慢しているわけですから、我慢できない子たちが許せないのは、ある意味で無理ないことです。

 この構造はコロナ自粛をかたくなに守っている“ハンマーの下の人々”と、常に枠の外に出たがる“踊る人々”の関係にそっくりです。
 別の言い方をすると、同調圧力だの自粛警察だのといったことは、私たちが小学校のころからずっと続けてきたことなのです。

(この稿、続く)

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2020/12/21

「教師の首に突きつけられる匕首」〜35人以下学級が始まる  教育・学校・教師


 小学校の35人以下学級が始まるらしい。
 一方で熱烈歓迎みたいな扱いをされているが、実際は焼け石に水。
 それどころか、
 楽にしてやった分、教育の質も上がるはずだと、
 教師の首に突きつけられた匕首。
という話。
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(写真:フォトAC)

【35人以下学級制度が始まる】
 頭と心を新型コロナに奪われている間に、社会ではさまざまなことが起こっています。そのひとつは学校の長年の夢だった一クラスの定員の引き下げです。
 先週17日(木)、文科省の荻生田大臣と財務省の麻生大臣との折衝で、小学校の一クラスの定員を5年かけて35人以下に引き下げることで合意しました。文科省は小中ともに30人以下を要求したのですが、そこにまでは至りません。

 これを受けて学校もマスコミもお祭り騒ぎで、例えば産経新聞(2020.12.17『「よくぞやってくれた」35人学級に保護者ら歓迎の声』)では、堺市の小学校長が、
「よくぞやってくれた」と歓迎。「子供1人1人の活躍の機会が増える。教師はきめ細かい指導ができる」と話した
とか。
 大阪市の教頭も、
「担任が児童と関わる時間を増やせる」「配慮が行き届き、学力の安定や保護者の安心にもつながる」
と歓迎の声を上げています。
 さらに東大阪市の女性教諭は、
「40人と35人では、子供に割ける時間も力も全然違う」
 大阪府の30代教諭も、
「40人の子供には、勤務時間中に対応しきれない」
 保護者たちも、もろ手を挙げて歓迎している様子が紹介されています。

 しかし私は、これがほんとうの話かどうか、かなりまじめに眉にツバをつけて聞いているのです。


【35人以下学級でも変化は緩慢】
「40人と35人では、子供に割ける時間も力も全然違う」
 たった5人の差がそこまで大きなものですか?
「40人の子供には、勤務時間中に対応しきれない」
 35人だったら勤務時間中に対応できるのですか?

 実は35人以下学級というのは「児童数が35人を越えたらクラスを割りなさい」という制度ですから、1学年の児童数が35人だったら1クラスのまま、36人になったら18人ずつの2クラスになります。担任ももう一人入ります。
*これについて昔、「良い子30人と悪い子6人の二クラスに分けたらどうか」と本気で考えたことがあります。もちろん私はどちらの担任であっても構わないのですが。
*1学年が70人を越えたら2クラスでは収容しきれませんから、3クラスにします。その場合は23人・23人・24人といったふうにするのが一般的です。

 産経新聞のインタビューに答えた二人の先生は、それが念頭にあって劇的に余裕が生まれるような言い方をしたのでしょう。しかしそんな大げさな変化は実際には起こりません。

 ニュースによると、文科省は35人以下学級を来年度から5年かけて小学校全体に広げると言っています。実は現在でも小学校1年生だけは35人以下ですので、来年度は新1年と新2年が同時に35人以下になることになります。つまり2年生以上では何の変化も起こらないということです。
 再来年は新1年から新3年まで、さらに翌年は4年生までが35人以下学級となる、というふうに順次のばしていって、5年間で全学年に生き渡ることになるのです。
 ということは現在40人の学級は卒業まで40人のままだということで、一村一校みたいな地域で中学校に進んでも40人だったら、そのクラスは最後まで40名のままということになります。担任教師も、児童生徒と一緒に進級している限りは、劇的な変化を味わうことはありません。もちろん下の学年に移れば別ですが――。
 

【35人以下学級でもそれほど楽になるわけではない】
 私は38人の学級担任から、転任のために13人のクラスの担任に変わったことがあります。
 それはもう劇的に事務処理は少なくなります。日記を見るのも通知票を書くのもテストの採点をするのも、すべて三分の一程度で済むのですから。

 しかし児童が三分の一だからといって国語の授業を三分の一に減らせるわけでもありません。
 児童のための授業プリントは印刷時間こそ三分の一ですむものの、原稿の制作時間は一緒です。家庭訪問も懇談会も確かに三分の一ですが、その分、通り一遍では済まなくなります。
 それがきめ細かい指導ということなのかもしれません。しかし対象の人数が減った分だけ内容が深まるなら、結局教師の多忙には変わりはないことになります。実際に事務処理の楽になった分は他の仕事に吸収されてしまいます。
 しかも私が13人のクラスの担任だったのは、今から四半世紀も前の話で当時は今よりもずっと余裕があった時代です。


【教師の首に突きつけられる匕首】
 産経新聞が『「よくぞやってくれた」35人学級に保護者ら歓迎の声』とはしゃいだ記事を書いた17日夜のNHKニュース9は、今回の35人以下学級のねらいについて、要領よく次のようにまとめていました。
「今回の定員の引き下げ、背景には感染拡大だけではなく、新たな時代を見据えた学びが次々と導入されている教育改革もあります。
 一方的な知識の詰込みではなく、子どもたちが対話をしながら思考力や表現力を育む教育が求められています。さらに情報化や国際化の流れに対応できるよう、今年度から高学年では英語が教科に、プログラミング教育も必修化されました。今、現場はこうした新たな学びへの対応に追われています」


 その上で、夜の10時過ぎまで小学校英語の教材づくりに励む先生の姿や、いきなり児童数分のコンピューターが送られてきて、その初期設定ができずに苦労している先生の姿が映し出されていました。
「子どもたちのために仕事をしているのに、これ(小学校英語やプログラミング学習の準備)で圧迫されて、明日の準備に影響が出るようなら逆効果」
とは、そこにいた情報教育担当者の弁です。
「(新しい学びのために)放課後の仕事の量も変わってくるし、授業中のみとり、一人ひとりへの対応も変わってくるので、少人数学級が実現してもらえたらうれしい」

 しかし少人数学級が実現したところで、次々と導入される新たな学びによる負担が減るわけではありません。
 マラソンの40km地点でフラフラになっている選手に栄養ドリンクを渡して、
「さあ楽にしたんだから金メダルを目指して走れ!」というようなものです。
 キジでもサルでもイヌでもないのに、キビ団子ひとつで命を懸けさせられる――。

 そういえばニュース9の有馬キャスターも、
「教員にゆとりが出れば、学びの質は上がるはず」
と教師の喉元に匕首を突きつけ、和久田キャスターも「ぜひ(35人以下学級が)学びの質が上がること、なにより子どもたち一人一人の成長に繋がって欲しいと思います」
とか言ってまとめていました。

 アメを渡されてヘラヘラしているとムチでブン殴られる世界の話です。
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2020/11/20

「『夕飯にします? お風呂にします?』の衝撃」〜モノによってもたらされる幸せE  教育・学校・教師


 ここまできて気がついたことは、
 ガスも水道も冷蔵庫も洗濯機も、そして瞬間湯沸かし器も電子レンジも
 単に私たちの生活を楽に、便利にしただけではなかったということだ。
 それらは日本人の生活と家族関係を根本的に変えてしまった。
 なかでもテレビはもっとも破壊力の大きな道具だった。

という話。
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(写真:フォトAC)

【決して狭くはない日本の文化的統一性】
 昔の交通安全標語に「狭い日本、そんなに急いでどこへ行くの?」というのがありましたが、なかなかどうして日本はそれほどちっぽけな国でもありません。
 確かに中国だのアメリカ合衆国だのロシアだのを思い浮かべるとかなり小さいですが、西ヨーロッパの中にいれてみると、日本より国土の広い国はフランス・スペイン・スウェーデンの3カ国しかないのです。世界201カ国及び地域に当てはめても61位ですからまあまあ大したものです。
 それだけの広い国土を持ちながら、非常に高い文化の統一性を持っているという点でも特筆すべきです。

 例えば中国では北京の人と広東の人とでは普通の意味での会話はできませんし、イギリスでもすべての人が英語をしゃべりますが、日常的にはアイルランド語やウェールズ語、スコットランド語などで生活をしているのです。
 日本の場合、さすがに津軽のお爺ちゃんと博多のお婆ちゃんがそれぞれの方言全開で会話をすると難しい面もありそうですが、基本的には標準語ひとつで全体が回っていると言って問題ないでしょう。

 生活習慣や景観などもほぼ同じで、沖縄の屋根に乗ったシーサーだとか1mもの雪をかぶった屋根だとかを見せられない限りは、日本中どこに行っても似たような建物ばかりです。室内の様子はほとんど変わりないでしょう。
 しかしそうした統一性は大昔からあったものではありません。

 日本が日本になったのは、戦国時代以降に家臣団とその家族が丸ごと移動する領地替えが繰り返されことや、江戸時代に定期的に江戸文化が地方に下り地方の物産が上った参勤交代、そして明治政府による強力な中央集権化に負うところが多かったように思うのです。しかし庶民の生活の隅々まで完全にひとつのものにしてしまったという点では、領地替えも参勤交代も中央集権も、現代の、あるひとつの装置の敵ではありません。それがテレビです。


【日本統一(言語の統一、文化の統一)】
 我が家にテレビが来たのは1962年(昭和37)のことだったと思います。
 1959年(昭和34)、当時まだ皇太子だった現在の上皇ご夫妻のご成婚パレードを電気屋の店先で見ながら、母は「今度、東京にオリンピックが来るらしいけど、それまでにはテレビを買いたいねぇ」とか言ったのを思えていますが、我が家ではオリンピックの1964年を待たずに入ったのです。とにかくご近所に続々と入ってくるので買わないわけにはいかなかった、そういう時代でした。

 毎日テレビを見るようになって驚くことはたくさんあったのですが、その一つは東京と私たちの生活の差です。
 例えばNHKの「ホームラン教室」という子ども向けドラマでは、主人公の野球少年たちはみなユニフォームを着て試合をしていました。現在残っている唯一の動画ではみんな貧しく大したことがないように見えますが、私がこの番組を見始めたのが放送4年目くらいのころからですから、その間にユニフォームを揃えたのかもしれません(動画は2年目)。味方ばかりか敵チームも全員ユニフォーム。しかし当時の私の周辺にはユニフォームを着た野球少年なんてひとりもいませんでした。そもそも世の中に子ども用ユニファームというものがあること自体が驚きだったのです。

 もしかしたらそんな少年野球のチームなんてテレビの中だけで、東京と言えど現実にはなかったのかもしれませんが、都会はそういうものだと私たちは思い込みました。

 家の中に冷蔵庫のある生活、夫や子どもが職場や学校に向かうと洗濯機に衣類を投げ込む生活、女の子がお稽古事としてピアノを習う生活、そうしたものがこの日本にあってやがてそれが標準になるだろう、そういう思い込みがひとつひとつ田舎で実現していきます。同じようにしないとダメになるといった強迫観念もありました。

 ドラマの中では言葉遣いも洗練され美しいものでした。自分のことを「オラ」などという子は一人もいません。何かを訊ねるときも気取って「〜なの?」とか言ったりします。田舎ではそれは女言葉で、男子は口が裂けても使ってはならないものでした。
 私の住む田舎はもともと方言の少ない地域でしたが、おそらく日本中の田舎人はテレビを見ながら東京言葉の勉強をしたに違いありません。まず聞き取ること、日常で使うか使わないかは別としていざというときは使えるように準備しておくこと、それが必須だと思い込んでいました。


【「夕飯にします? お風呂にします?」が衝撃的!】
 ドラマを見ていて、驚くべき東京の習慣に出会うこともありました。サラリーマンである夫が帰宅したとき妻が最初にかける言葉、
「どうなさいます? 夕飯にします? お風呂にします?」
 それで初めて知りました。東京の人は風呂に毎日入る!

 銭湯通いだからということもありましたが、私の家では夏でも週に2〜3回、冬だと1週間に1回でも入ればいいくらいなものでした。下着だって冬場の母の負担を考えると2〜3日は同じものを着ていたくらいです。その何と野蛮で田舎臭かったことか――。
 しかし18歳で東京に出て初めて気づいたのですが、夏の東京では毎日風呂に入らずに暮らすことの方が難しいのです。夜、寝る前に着替えたのに、朝ぐっしょり汗まみれになって起きる、そんな生活は思い浮かびもしませんでした。

 海から遠く離れた私の田舎では汗なんてものは真夏の一時期を除いてほとんどかくことはありません。汗をかかないということは服も汚れないということです。だから風呂も2〜3日おきでかまいませんし着替えだってしなくて済んだのです。今でも欧米人の中にはシャワーも浴びなければ着替えもしない人がたくさんいるそうですが、すべて気候のなせる業です。
 ただしもちろん現在の私は毎日入浴し、毎日着替えています。しかしそれはトイレに行って必ず手を洗うのと同じで、習慣となっているしそれをやらないと見られたときに恥ずかしいからで、必要性という意味ではいまもしなくていいと思っています。

 もうひとつ重要なことがあります。
 それはテレビが家庭に入ってから、家族全員がそっぽをむいて食事をすることになったことです。全員がテレビの方を向いて会話もしません。いやそもそも「家族揃っての食事」ということ自体も少なくなっています。

 ご飯釜に保温機能がなく、電子レンジでチンすることもできず、味噌汁を温め直すには竈に火を入れるところからやるしかない生活では、家族一緒の食事は必然でした。それが別々でよくなった――。
 そう言えば夜更かしの習慣もテレビから始まったのかもしれません。

 そう考えたら収まりがつかなくなりました。「モノによってもたらされる幸せ」という問題でもなかったのかもしれません。しかし長くなりましたので、ここから新しいテーマとして改めて別の機会に考えることにしましょう。

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2020/11/16

「娘と私と母の世代の物語」〜モノによってもたらされる幸せA  教育・学校・教師


 30年を1単位と考える「世代」。
 それを基準に私たちの育ってきた世代、娘たちの育ってきた世代、
 そして母たちの育った世代を見比べると,
 意外なものが見えてくる。

という話。
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(写真:フォトAC)

【世代】
 「世代」という言葉は「ゆとり世代」とか「さとり世代」とかいったふうに“生まれた時期と経験を共有する集団”という意味で使われることが多いと思いますが、祖父母・親・子・孫と数える数え方のひとつで、一世代およそ30年あまりのことだという捉え方もあります。
 60歳定年制というのも大雑把に「人は30歳までに次の世代を生み終えて、60歳までには全員を独り立ちさせている」という推定の上に成り立った制度だとも言えます。現在のように平均寿命が延びることも、若者の晩婚化も予想できなかった時代の考え方です。
 
 ただし一世代30年という考え方はそれぞれの世代が経験してきたものを対比する上では今も便利です。例えば私が生れて30歳になるまでに経験したことと、娘が30歳になるまでに経験したことを比較してみると、有意義でさまざまに面白いことが見えてきます。


【堅実で賢い娘たちの世代】
 娘のシーナは平成2年生まれで今年30歳になりましたから、人生の最初の30年間はほぼ平成に重なっているわけです。平成を語ることとシーナの半生を語ることとはほぼ一緒になるとも言えます。
 そのシーナの生まれた年、平成2年はバブル経済の最終年で、預金金利はとんでもなく高いものでした。娘の誕生記念にシーナの名で預け入れた郵便局の定額預金は、10年後、信じられないほどの利息がついて返ってきました。しかし同じ10年の間、世の中は平成不況が延々と続き、「失われた10年」が「失われた20年」になっても終わらなかったのです。

 私の家は親も子も公務員で不況の実感は少なかったのですが、シーナが大学生になったときに歓迎コンパが居酒屋で開かれて、以後、飲み会はほとんどが居酒屋だと聞いた時には時代の大きな変化を感じました。

 私が大学生だった時代、「居酒屋」は“あまり豊かでないサラリーマンのおっちゃん”の行くところでした。学生である私たちだって豊かではありませんでしたが、1973年のオイルショックがあれほど長く続くとは夢にも思っていませんでしたから、高度成長期のやり方そのままに、かなり無理をして行くのはスナックかカクテルバー、食事も少しは名の通ったレストランと相場が決まっていたのです。女の子をデートに誘って居酒屋に入るなんて夢にも考えられないことで、そもそも「居酒屋」に客として若い女性がいることすら考えられなかったのです。
 それがシーナの時代は「居酒屋」のワリカンが当たり前だとか――私の感覚からすればかなり惨めな姿ですが、そうした風潮が堅実で賢いシーナたちの世代を育てたと言えます。


【浮かれた人々、必死な人々、私たちの世代】
 話は横道にそれますが2005年に映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観に行ったとき、中のセリフに、それこそ座席から滑り落ちそうになるほどびっくりしたものがありました。
 それは主人公の自動車修理工場に初めてテレビの入った日の場面で、テレビを購入するという自らの偉業に感激した主人公が、集まった近所の人たちを前に一席ブツときのセリフです。
「戦争が終わって13年、ついにこの日が・・・」

 舞台は東京タワーが建ち始めた昭和33年ですから「戦争が終わって13年」は間違いないのですが、映画が上映された2005年(平成17年)から逆算して13年前は平成4年、シーナが2歳のときで、私にとっては「ついこの間」のことなのです。東京タワーが建ったのは「ついこの間」まで戦争があったころののことだという事実が、私を驚かせ座席から滑り落ちそうになったのです。

 さらに言えば私が生れたのが昭和28年。もしかしたら日本のあちこちに戦争の傷跡がいくらでも残っていたのかもしれません。その中で私は生まれ育った――つまり私たちはまさに「戦争直後」の子だったのです。
 しかし私自身にその自覚はまったくありません。

 戦争の記憶はまるでなく、私はひたすら高度成長期の子、夢の経済発展の子として大人になってきたのです。延々と続く不況の中で甘い夢も描かずに堅実に大人になってきた娘や息子の世代とは根本的に違います。
 受験競争の厳しい時代でそれなりに必死でしたが、それを勝ち抜いて「良い高校から良い大学へ、そして良い企業に」入れば、豊かな暮らしが保証されていると信じられた、その意味で浮かれた時代の申し子です。
 娘たちとは何と違ったことか。


【何もなく始まった母たちの世代】
 今年93歳になった母は昭和2年の生まれです。
 大正天皇は大正15年のクリスマスに崩御されましたから昭和元年はわずか7日間しかなく、その意味で2年生まれは元年生まれと同じようなものです。ちなみに昭和は最終年(64年)も1週間しかありませんでした。

 母の生まれた昭和2年は金融恐慌の起こった年で、それまでの世の中の雰囲気を一気に変え、昭和前期の暗く厳しい風が一気に流れ込んできました。直前の大正時代は、「鬼滅の刃」のおかげでこれからブームになるかもしれませんが、大正デモクラシーだの大正ロマンだの、質実剛健の明治と暗い昭和に挟まれたにしては、明るく、妙に浮かれた時代だったのです。

 母が4歳の年に満州事変があり10歳の年に日中戦争が始まっています。14歳の年に真珠湾攻撃があって18歳になったばかりの翌月に終戦となりました。物心ついた時から青春時代を終えるまで、ひと時も休まず戦争が続いていたようなものです。
 その7年後に結婚して翌年に私が生れるわけですが、結婚当初はとにかく何もなかった――布団二組と台所用品、父の持ってきた物と言えば小さな文箪笥(ふみだんす)ひとつで、六畳と四畳半の二間ががらんと広かったと言いますから相当なものです。
 その文箪笥は、私が大人になっても長く部屋の片隅にありました。
 
 貧しく何もないところから始まった母たちの生活は、それでは暗く苦しいものだったのかというと私にはそうとも思えないのです。それどころか私たちや私の娘たちの世代に比べたら、はるかに豊かで面白いものではなかったのかと想像することが多いのです。

(この稿、続く)


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