2021/4/14

「部活は絶対なくならない」〜教師の働き方改革の行方B  教育・学校・教師


 中学校教師の苛酷な勤務状況という話が出ると、真っ先に思い浮かぶ部活動。
 しかし部活の切り離し、外部人材の活用、外部委託という話は、
 もう20年以上の歴史を持つ。具体的な動きが始まってからでも10年。
 これだけかかってもできないことは、結局できないことだ。
という話。
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(写真:フォトAC)

【部活動をいかにせん】 
 教員の働き方改革で常にもっとも問題になるのは部活動です。
 部活動の一部は明らかに毎日、勤務時間外に行われていますし、休日に出勤しなくてはならないのも部活動のためというのが第一だからです。
 
 部活動が学校にとって負担だという話は20年以上前からあったもので、1996年4月〜7月にかけて文部科学省(当時は文部省)が実施した全国調査「中学生・高校生のスポーツ活動に関する調査」(『運動部活動の在り方に関する調査研究報告書』(1997年))のなかにも同じような内容を見つけることができるといいます。(2018.01.02 Yahooニュース「学校から部活がなくなる? 完全外部化の是非」

 部活動を外部に移行するという話も「開かれた学校づくり」の一環として、その時期から模索され始め、2000年代後半に至ってようやく「部活動の社会体育への移行」という動きが始まります。
 学校がいきなり部活動を放り出しても受け皿がありませんから、社会体育としてのスポーツ団体を立ち上げ、学校の部活動は縮小しながら徐々に活動を移行して最終的には社会体育に移してしまうという計画です。
 ところが実際に始めてみると、そもそも組織が立ち上がらない、指導者になってくれる人がほとんどいなかったのです。

 現在のように「朝部活は禁止、土日はいずれか一方で3時間以内、他に週1日の休養日」といった制約が課せられる以前、部活指導は「朝7:00〜8:00、午後16:30〜18:30、休日は3時間まで」というのが基本でした。もちろん陽の短い1月〜2月の下校は早まりますし、大会直前は練習量を増やすということもあります。その時間帯を顧問は指導の時間にあてていたわけです。したがって部活動を社会体育に移行する、あるいは現在言われているように外部指導者に来てもらったり外部委託にするといった方策を考える場合、その時間帯に活動できる人や組織を探さなくてはならないのです。
 話があと先になりますが、言うまでもなく、バスケットボールやバレーボール、あるいは吹奏楽の指導ができることが前提です。十数年前の「社会体育への移行」はその点で大失敗をしてしまいました。


【社会体育への移行は、教師の大幅負担増を引き起こした】
 とりあえず地域は、平成不況のために当時まだかなりたくさんいた教採浪人(教員採用試験を受けるためにアルバイトをしながら試験勉強をしていた若者)に白羽を立て、いくつかの社会体育団体を立ち上げました。もちろんすべての部というわけにはいかず、多いところでも2〜3の部だけが成功したにすぎません。
 実際、教採浪人は各市町村に何千人もいたわけではありませんし、教育委員会から出される謝礼もスズメの涙ほどでしたから、受け手も見つからなかったのです。

 部員にとっては活動の時間は変わりません。ただし朝部活は社会体育扱いなので教員は来なくてもいいということになり、午後も退勤時刻の17時までは教員がいるものの、あとは社会体育の講師が指導するという形を取りました。生徒からすれば「お手伝いのお兄ちゃんが来て、遅くまで熱心に指導してくれる」という感じだったのかもしれません。しかしそれも1〜2年が限度でした。
 なにしろ教採浪人ですから翌年には合格してしまったり、講師として採用されてしまったり、あるいは2回も3回も落ち続けて結局、別の進路に進んだりと、かなり早い段階でいなくなってしまったのです。
代わりはそう簡単に見つかりません。しかし社会体育は存在する。
 運営組織として社会体育の主体は部員の保護者たちでしたが、困り切った彼らはあろうことか学校の部活顧問に指導者を頼みに行ったのです。ほかに人材がいない以上、やむを得ない措置でした。

 社会体育に指導者がなく、地域に候補もなく、保護者に哀願されるとなると教員は応じざるを得ません。受けなければ子どもたちを放り出すことになります。また、正直に言いますが、むしろ積極的に呼応していった教員がいたのも事実です。

 チームを本当に強くしたい部活顧問たちはこの機を逃しませんでした。制度の趣旨の先取りをして学校から部活をなくし、あっという間に社会体育への移行を果たしてしてしまったのです。
 どういうことかというと、放課後すぐに部員たちを下校させ、早い夕飯を摂らせたあとで改めて集合させるのです。社会体育は学校の活動ではありませんから校長の指導を受ける必要はありません。18時に始まった練習は理屈上、3時間でも4時間でも続けることができます。土日も制限なくできます。


【負けてもいいが子どもたちをなぶり者にされたくない】
 もちろんそこまで勝つことにこだわらない教師は真似をする必要はありません。しかし次第に過剰練習の波に飲み込まれて行きます。勝たなくてもいいのですが、なぶり者のされるような負け方はしたくないのです。
 野球の0−20(コールド)、バスケットボールの2−50、剣道・柔道の10秒一本負け。

 指導者の力量に差があり、練習量にも個人の能力にも差があるとはいえ、同じ2年半を競技に捧げてきた私の部員たちが、コートで手も足も出ずに好き放題にされているのです。試合中であるにもかかわらず顧問に向けて投げかけられる助けを求めるような視線――他のチームについて傍で目撃しただけですが、私は二度と忘れることはできません。
 他校が無制限の練習をしていると聞けば、応じざるを得ないのはそのためです。

 かくして部活の社会体育への移行は、無制限の教員の負担増となって戻って来ました。もちろん問題となって今は禁止されていますが、昨日お話しした、「公立学校における働き方改革の推進(全体イメージ)」のB外部人材の配置支援とC部活動の見直しは、単に金を出して、どこかの学校が死ぬほど苦労して成し遂げた成功例を示そうというだけのものですから要注意です。

 断言しますが、学校から部活動をなくすことなどでできません。できても1〜2の部活だけです。
 もちろん1日につき3時間、週6日の指導で生計の成り立つだけの指導料(例えば年収400万円の複数年保証)を払えばやる人も出て来ますが、そんなことは不可能です。
 文科省の「善処します」を信じて部活の外部委託に期待するのはやめて、今できることを要求していくしかありません。

(この稿、続く)

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2021/4/13

「教員の負担を減らすために必要な労働コストの話」〜教師の働き方改革の行方A  教育・学校・教師


 あまりに過酷なために志望者の少なくなってしまった教職をどう立て直すか――。
 文科省はすでに平成31年、
「公立学校における働き方改革の推進」を出して方針を示したが、
 下手をすると、実施されて今よりも大変になるかもしれない。

という話。
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(写真:フォトAC)

【勤務時間の制限が教師を苦しめる】
 教員の苛酷な勤務状況に対して文科省は何もして来なかったわけではありません。
 平成31(2019)年1月25日の「学校の働き方改革」に関する中央教育審議会答申を受けて始められた改革は、「公立学校における働き方改革の推進(全体イメージ)」にうまくまとめられています。しかしざっと眺めただけでも限界は自ずと見えてきますし、扱いをあやまるとかえって労働強化につながりかねない部分さえあります。
 例えば「外形的に把握することのできる時間を『在校等時間』」と定義し、
@ 1か月の時間外在校等時間ついて、45時間以内
A 1年間の時間外在校等時間について、360時間以内

を上限とするという指針、現実性という点ではとても首を傾げるものです。

 30年近く以前のことですが、私が中学校の部活持ち学級担任であった時期は、同時に子育ての真っ最中でした。夫婦で教員でしたから家事分担は厳密で、夜7時には自宅に戻り、夕食を取った後は子どもを風呂に入れ、着替えと歯磨きを済ませると本を読んで一緒に寝付くのが日課でした。朝は3時に起きて6時までが持ち帰り仕事の時間です。独身の先生たちは9時・10時と学校で仕事をしているわけですから、同じように働くとなると家で3時間の仕事をしなくてはなりません。
 朝は7時に出勤しました。朝部活がありましたし、印刷など家でできない仕事はこの時間にやるほかありません。
 
 確認しますが、午後6時半まで部活をして7時までに帰宅するのは、教員としては例外的に早い退勤に当たります。その「最も勤務時間の短い私」の時間外在校等時間は1日3時間、1か月20日の勤務で60時間にもなってしまいます。それをどうやって45時間以内にしようというのでしょう。
 これはもう部活をやらないことを前提とし、教材研究など家に持ち帰ることのできるものは持ち帰り、成績処理等個人情報に関する業務のみを学校で行え、と言っているのと同じです。 
 しかしそんなことは不可能ですから、日曜日などに隠れて出勤して行うしかありません。

 また「休日まとめ取り」の変形労働時間制は、東京都などで月一回以上行われている土曜授業の常態化に寄与することになるかもしれません。
 現在、年間の授業日数は200日ほど。これは40週間にあたりますから土曜授業が常態化すれば授業日は40日ほど増えます。3時間授業ですから実質的には20日分にしかなりませんが、20日といえば1か月分の授業と同じです。
 半日とは言え土曜日に家に子どもがいないとなれば半分程度の保護者は大喜び、学力が向上するかもしれないということで議員や地域の人々からも好評を博すでしょう。しかしそれが「教員の働き方改革」だと言われると、何かピンときません。

 さらに議会や教委からは「長期休業にたっぷり休めるのだからいいだろう」と極めつけられ、世間からは「先生たち、夏にはたっぷり休めてお気楽ね」などと蔑まされる――。学校完全5日制になる直前がそうでした(*)から間違いありません。
*公務員全体が完全週休二日制になる中で、学校だけは月1回の土曜休、月2回の土曜休と順次増やしていったため、その分を夏休みにまとめ取りした時期があった。


【教員の負担を減らすために必要な労働コストの話】
 文科省もただ勤務時間を減らせと言っているわけではありません。仕事の中身を減らす提案も具体的に8項目にまとめて示しています。
@ 教員定数の改善(小学校の学級編成の標準を40人から35人へ)
A 教科担任制の推進
B 外部人材の配置支援
C 部活動の見直し
D 教員免許更新制の検証
E ICT環境整備の支援
F 学校向け調査の削減
G 全国学力学習状況調査のCBT化


 しかし騙されてはいけません。例えば教員を増やすことなく実施する小学校の教科担任制は、学級担任同士が教科を交換し合う非常に複雑な授業形態です。1学年1クラスしかない学校では5年生と6年生の担任が授業を交換するしかありません。
 ひとりが5・6年の算数を見る代わりに、もうひとりがそれほど得意でもない国語を教えるといったふうにやるのです。もちろん5年と6年では指導内容が異なりますから、教材研究が半分になるわけではありません。
 また、5年・6年の算数と国語は指導時数が同じですから交換しやすいのですが、理科と社会科は時数が異なるので他の教科とセットにした複雑な交換にならざるを得ません。そのやりくりだけでも大変で、果たして教員が楽になるかどうかは不明です。

 6番と8番についてもコンピュータを整備すれば仕事が楽になるというのは思い込みです。ICTが進めば教師は専用のコンテンツを作成しなくてはなりませんし、スキルも高めなくてはなりません。研修も増えます。
 また、全国学力学習状況調査の大変さは当日の事務処理の問題ではありません。都道府県ごと、市町村ごと、学校ごとに比較され指導されるため、成績を上げるよう準備しなくてはならない、そこが大変なのです。試験対策をしてはいけないと言われても、あれほど試験対策の馴染むテストで、対策を怠ったばかりに議会や教委に叱られるのは割に合いません。文科省はきれいごとを言っていますが、最初から競わせ成績を上げるのが目的でした。

 7番目の「学校向け調査の削減」はさらに眉唾です。同じ「公立学校における働き方改革の推進(全体イメージ)」の中にこんな文章があるからです。
「教育委員会における学校の働き方改革のための取組状況調査」を実施し
好事例の全国展開((中略)、事例集作成(R2.3、R3.3展開予定)等)
学校における働き方改革の中教審答申を受けて、令和4年を目途に勤務実態調査を実施

 ――国会や都道府県会で議員たちが教育に関する質問をやめない限り(もちろんやめてもらっては困るのですが)、学校向け調査が削減されるなんていうことはないのです。

 さらに「外部人材の配置支援」「部活動の見直し」は、教員をいっそう窮地に立たせることになりかねない危険な項目です。
 部活動の削減ないし廃止・外部委託は先生たちからの要望が最も多い項目ですが、もう10年以上前からあれこれ試されてきたことです。10年かかってもできないことは、よほど特殊な状況変化のない限り、できることではありません。

(この稿、続く)

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2021/4/12

「教師の働き方改革の行方」@  教育・学校・教師


 国語・社会・数学などの基本的な具材がきちんと入っていた学校教育という寄せ鍋に、
 総合的な学習やらキャリア教育やら、教員評価・学校評価・教員免許更新などを入れ、
 さらに小学校英語だのプログラミング教育だのをなんとか乗せきったら、
 「教員の働き方改革」という蓋をしなくてはならなくなった。できるのか?

という話。
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(写真:フォトAC)

【#教師のバトン】
 文科省が先月の末に「#教師のバトン・プロジェクト」を始めてボロクソに叩かれています。その顛末は2021.04.08 NHK NEWSWEB「“教師のバトン” 想定超える悲痛な声」に詳しいのですが、要するに、
「本プロジェクトは、学校での働き方改革による職場環境の改善やICTの効果的な活用、新しい教育実践など、学校現場で進行中の様々な改革事例やエピソードについて、現場の教師や保護者等がTwitter等のSNSで投稿いただくことにより、全国の学校現場の取組や、日々の教育活動における教師の思いを社会に広く知っていただくとともに、教職を目指す学生・社会人の方々の準備に役立てていただく取組です」文科省「『#教師のバトン』プロジェクトについて」)
と目的を掲げ、ツイッターやノートといったSNSに「#教師のバトン」をつけの投稿するよう呼びかけたところ、当初の想定を超えて過酷な勤務環境を訴える声が相次ぐといった事態に陥ったのです。

 文科省の担当局長は8日、改めて趣旨を説明するとともに、次のように話しました。
「国としても現場から直接声を受け止める初めての試みで、厳しい勤務実態を訴える投稿が多く寄せられた。社会から注目を集めたことを前向きに捉えつつ、教師の声を集積する役割を果たしていると思うので、この声を推進力に、迅速に具体的に勤務環境の改善を進めたい」

 マスメディアは今回の事態を「想定外」のこととして記していますが、日本の官僚は案外頭がいいのです。局長の言う「この声を推進力に、迅速に具体的に勤務環境の改善を進めたい」「教師たちの声と実態、マスコミの後押しを背景として財務省に圧力をかける」という当初からの予定だったのかもしれません。


【金よりも時短だ】
 冗談はともかく、このままでは学校教育は潰れてしまうという話は、ずいぶん前から現場の一部でささやかれていたものでした。管理職になってからの私もその旗振り役のひとりでしたが、そんな私にとっては腹立たしく、文科省にとっては幸いなことに、最前線の先生たちは忙しすぎて新聞も読みませんし、おかしいと思っても抗議をするだけの時間もエネルギーも残っていません。そんなこんなで唯々諾々と従って今日まで来てしまったのです。平成不況が教員(公務員)人気を支えてしまったのも悪しき要因だったといえます。

 ツイッターの「#教師のバトン」には私たちが放置してきた学校のさまざまな問題が延々と書かれています。とにかく緊張感の高い業務が休み時間なしに12時間以上続くこと、長時間労働の象徴として部活動の負担が特に大きいこと、どんなに働いても残業手当がつかないことなどが、多くの先生たちによって語られているのです。
 
 いくら残業をしても手当が出ないことについては、もちろん金銭は評価としての面を持ちますから“一円の価値もない仕事”をさせられているみたいで面白くないのですが、実際にもらったところで使う時間もありません。それに部活動の特殊勤務手当みたいに「休日に4時間以上部活指導をしたら3400円」と「休日の部活動は3時間まで」がセットになるといったまやかしのまかり通る世界です、手当が出ても同時に何が起こるか分かりません。

 本給のたった4%(金額に直すと初任者で8000円、平均給与で1万4000円程度)の調整手当でも、「働かなくてももらえる手当」ということでメチャクチャ叩かれ続けてきたのです。残業手当が出るようになったらかえって「高給の上に高い残業手当をもらっているのだからもっと働け」ということになりかねません。
*ちなみに現在は時間外労働を45時間以内するよう文科省から方針が出ていますが、調整手当を45時間で割ると、教員の残業手当は平均で時給311円にしかなりません。小学生のお駄賃みたいなものです。

 もちろん手当が出ればそれに越したことはありませんが、私としてはそれよりも時間外労働を極端に減らすことの方が先決だと思っています。ツイッターに、
 出勤 7時
 退勤 21時
 基本的に休憩なしです。
 小学校勤務、初任者で1年目、まだ4日目でこの状況です。もう限界です。
助けてください。
(ツイッター「#教師のバトン」より)
と書かれるようではおしまいです。あとについてくる者など出て来ようがありません。


【学校教育という寄せ鍋をどう扱うか】
 国語・社会・数学(算数)・理科・・・といった基本的な具のきちんと入った学校教育という寄せ鍋に、性教育やら人権教育やら総合的な学習やら、キャリア教育・薬物乱用防止教育・メディアリテラシー教育といった新しい具をてんこ盛りに乗せ、教員評価・学校評価・学校評議員制度・地域交流・教員免許更新制度を加え、さらに小学校英語だのプログラミング教育だのを、なんとかようやく乗せきったら、「教員の働き方改革」という蓋をしなくてはならなくなった。今のままでは蓋がかぶさらない――それが今の状況です。無理に「時間外労働は月45時間まで」の蓋を押さえれば具も鍋も傷みます。

 このままでは絶対に破綻することは分かっているので、そこで抜き始めたのが鍋の底の方にある、基本的で定評のある具材たちです。部活動、清掃活動、児童生徒会活動、動物飼育、植物栽培、いずれも価値があるものなのに無残に捨てられようとしています。
 30年前、それらは大して苦痛ではなかったのです。それなのになぜ消されなくてはならないのでしょう? 
 大根もはんぺんもがんもどきもないのに、ウインナーやら唐揚げが入った鍋なんて!

(この稿、続く)

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2021/4/9

「それでも理解できないブラック校則」〜「わけの分からない校則」にもわけがあるD(最終)  教育・学校・教師


 「すべてのきまりには理由(ワケ)がある」と考える私でも、
 容易に説明できない校則が報道される。
 それは取材不足・説明不足・悪意によってゆがめられた校則だ。
 だからせめて市町村教委の段階に、
 学校教育を説明し、時には外に対して抗議する組織が必要だと思う。

という話。
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(写真:フォトAC)

【学校と世間の立場の違い】

 学校は子どもを学ばせ能力の最大限を引き出す場所で、そのために多くの仕掛けがあります。
 教科書や副教材、実験器具や運動施設、校舎、ソフトウエアとしての授業法やカリキュラム、私が「学校のアカデミズム」と呼ぶ学習の雰囲気、地域と年齢が同じというだけの理由で集まってきた烏合の衆を「学び、成長する」目的集団に変え、団体戦を戦える組織作り。そういったものはすべて学校の本来の目標を達成させるためのものです。

 学校は、その子が将来「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法第25条)を保持したうえで、さらに少しでも豊かな生活が送れるよう技能を高めることを考えて設計されています。
 また、将来、進路選択や職業選択の場で可能な限り自由な選択ができるよう、知的・体力的・人間関係的能力を高めようと心血を注ぎます。というのは、例えば高校選択で最も多くの選択肢を持っているのは最も成績の良い子だからです。学区のどの高校へ進んでもいいのですから。職業選択も同じ。社会が求める能力が高ければ高いほど、自由な選択ができます。
 そんな将来の自由のためなら、中高生である今の、目先の自由など多少犠牲にしたってかまわないと本気では思っているのです。そこがマスメディアや人権派教育評論家と決定的な違いです。
 彼らにとって大切なのは目先の子どもの自由です。あとのことは学校が何とかしてくれるし、ダメならそれも自己責任です。


【それにしてもわけの分からない校則は多すぎはしないか】
 校則が過剰に児童生徒を制限したがる理由については昨年、記事にしたばかりなのでそちらを参考にしてください。
2020/7/20「教員が、ものさしを持ち出して髪の長さを調べる日が来る」〜東京都議会ツーブロック問題@ 
2020/7/21「校則は、くだらなければくだらないほどいい」〜東京都議会ツーブロック問題A

 しかしそれらすべてを受け入れていただいても、なお残る「本当にわけの分からないブラック校則」の数々――。ネットをちょっと検索するだけで続々出て来ます。
『体育でのブラジャーの着用禁止』(女子スパ!)、
『タイツの着用禁止』(女子スパ!)
『肌着の着用禁止』(ハウスポスト)
『中学生なのに体育前の着替えは男女同じ教室で行います』(ハウスポスト)
『セーラー服をまくったり、ブラウスのボタンの間からのぞいたりする肌着検査』(沖縄タイムス)
『生理で水泳を休む時は女性の教員が一人ずつ保健室に呼び、ナプキンをしているか下着を触って確認した』(沖縄タイムス)
『廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェックされる』(FNNプライムオンライン)
『男女一緒の体育館で下着の色をチェックされる』(FNNプライムオンライン)

 こうしてみると学校はほとんど狂気の場です。とてもではありませんが子どもを安心して預けられる場所ではありません。これはいったいどうなっているのでしょう?
 問い詰められると私にも答えられませんが、どうやらメディアは情報集めるだけで、直接、当該の学校に行って調べたりしないようなのです。取材するにしても知り合いの校長や教育委員会に電話をかけて聞く程度のことで、だからブラック校則はいつまでたっても『わけが分からないまま』なのではないかと、そんなふうに私は思うのです。


【取材不足・説明不足・悪意が増加させるブラック校則】
@ 取材不足
『体育でのブラジャーの着用禁止』だの『タイツの着用禁止』だの、これだけの情報では私にだってわかりません。前後に落とされた情報があるとしか思えません。極端な話、前に「水泳の授業では」とつけただけで『体育でのブラジャーの着用禁止』は理解可能になります。
「そんなヤツがいるのか?」「そんなヤツがたくさんいたからきまりになったんだろうな」「それにしても明文化するほどのことでもないだろう」などと議論になるにしても、「わけの分からない」と言った状況からは解放されます。
 ありえないとことのほとんどは実際に「有り得ない」のいです。きちんと調べれば理由が浮かんできます。

『中学生なのに体育前の着替えは男女同じ教室で行います』
『生理で水泳を休む時は女性の教員が一人ずつ保健室に呼び、ナプキンをしているか下着を触って確認した』

 これにはきちんとした理由があるはずです。私には心当たりがあります。しかしハウスポストや沖縄タイムスはきちんと調べて報道する気はなかったのでしょう(*具体的説明は欄外に置きます)。

A 説明不足
 ブラック校則の多くは、学校がきちんと説明すれば納得の得られるものばかりです。しかし学校も教育委員会もきちんとした説明ができていません。
 それには理由があって、校則の多くが経験から生み出されて長く続いてきたもので、制定当時は分かっていたもののいつの間にか不明となり、そのまま今日まで続いている例が少なくないからです。
 小学校の低学年の体育の時間の肌着禁止などはその典型で、きちんと調べれば説明できるはずなのに、学校にも教委に余裕がありません。ですからすぐには説明できないのですが、説明が難しいからといって安易に変えられるものではありません。そこに何が隠されているか分からないからです。

 私は初めて小学校の担任になったとき、5年生にもなって理科室に行くのに教室から並んでいくのがバカらしくて(私自身も理科室で準備する必要があった)、中学校と同じように直接行くように指導して大変な目にあったことがあります。迷子にこそなりませんが、休み時間の遊びに夢中になって遅れたり、教室に忘れ物をしたりといった児童が続出して、授業にならなかったのです。
 結局、1カ月ほどして方針を変えたのですが、4年生までできたことが再びできるようになるまでにまた1か月ほどもかかってしまいました。校則や学校ルールは、動かすときには相当な研究と覚悟がいるのです。

 こうした経験から、私も校則の見直しは必要だと思うようになっています。廃止するという意味での見直しではなく、説明できるようにするという意味での見直しです。
 自信があります。「すべての決まりには理由(わけ)がある」からです。


B 悪意によって増えるブラック校則
 悪意に満ちた偽情報も多くあります。
『セーラー服をまくったり、ブラウスのボタンの間からのぞいたりする肌着検査』(沖縄タイムス)
『廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェックされる』(FNNプライムオンライン)
『男女一緒の体育館で下着の色をチェックされる』(FNNプライムオンライン)
 話半分としても重大な人権侵害、もしくは犯罪でしょう。特に下の二つはFNNの独自取材ではなく、福岡弁護士会が調査したもので、弁護士会は記者会見を開いただけで刑事告発もしなかったという悪質なものです。

 なぜ偽情報だと思うのかというと――、状況を思い浮かべてみてください。
廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェック
ですよ。
男女一緒の体育館で下着の色をチェック
ですよ。
 わざわざ人目につくところで行う以上、そこには他の教師もいるわけです。その全員が変態だという可能性を飲んだとしても、女性教員は何をしていたのでしょう。ただ指をくわえて見ていたのですか? まさか一緒に楽しんでいたというわけでもないでしょう。
 中でも児童生徒の心と体に責任を持ち、日ごろから相談を受けることの多い養護教諭の罪は軽くありません。もし黙って見ていたとしたら、その罪は実際に検査した教員よりも重いと言ってもいいくらいでしょう。
 しかしそんなことはあり得ません。この情報は真っ赤な偽物か、もしくはごく少数の生徒の心象風景です。
 このニュースは、本来なら教育界が総力を挙げて批難すべき偽情報です。


【学校を説明し誤解を解き、場合によっては抗議する組織が必要だ】
 教員は忙しすぎてニュースも見ません。見て怒っても、抗議をする時間さえもありません。だからただ「なぶり者」にされているだけです。しかしこんなことが続けばブラック校則は教職をさらにブラック化し、深刻な教員不足を招きかねません。
 きちんとした企業には必ず「広報」があるように、せめて市町村教委レベルに広報係を置いて、学校の正しい情報を伝えていかなくてはならない、もはやその時期だと私は思います。

(この稿、修了)

《文中で説明しきれなかったこと》
『中学生なのに体育前の着替えは男女同じ教室で行います』
『生理で水泳を休む時は女性の教員が一人ずつ保健室に呼び、ナプキンをしているか下着を触って確認した』

 更衣室が一つか二つしかない普通の学校では、全校体育だの清掃だので着替えるときに、すべての生徒を更衣室に向かわせることができないのです。そこで男女一緒にということになり、それが体育の授業でも行われるようになるのですが、男女一緒というのは正しい情報ではないでしょう。
 運動着への着替えでは、女子のほとんどはスカートの中でズボンに履き替え、上半身は頭からかぶってブラウスの袖を抜くという実に見事なやり方で着替えますが、男子はまるでダメだめです。ズボンからズボンですから必ずパンツ姿になってしまう。そこで男子は教室内、女子は廊下としたり、男女時間を区切って交互に教室で着替えたりといったことになります。いずれにしろ男子を女子の目から守るような工夫がなされるのが普通です。女子だって見たくはないでしょうから。
 本質的な解決方法がないわけではありません。各教室に男女別の更衣室をつくればいいだけのことです。現在の教室を二つに分けるわけにも行きませんから、やはりすべての学校の改築が前提となりますが(他に解決策があるなら教えてください)。

 生理の確認については厄介です。
 女子の中には水着姿になるのが嫌で、連続3週間、9授業時間にわたって「生理のため」や「風邪」によって授業を休む子がいます(必ずいます、それもかなりいます)。特に男性が教科担任だとそうした申し出に抵抗できません。そこで養護教諭にお願いするわけです。養護教諭にしても言葉だけで許可を出すわけにはいきませんから確認ということになります。
 「地毛証明」もそうですが、少数の逸脱者のためにみんなが我慢するのは世の常です。みんながマスクなしで大声でしゃべるようなことをしなければ、緊急事態宣言も「マンボウ」もなかったのです。


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2021/4/8

「受験は団体戦だ」〜「わけの分からない校則」にもわけがあるC  教育・学校・教師


 何やかや言っても、最終的に子どもの願う進路を選ばせたい、
 次の段階に進むのに、挫折からスタートさせるのは忍びない、
 そう考えると結局、良き受験生を育てるのが教師の仕事ということになる。
 しかしその受験は、団体戦として戦わないと厳しいものなのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【支え合って勉強をする、支え合って勉強をしない】
 芸人のラサール石井は芸名の通りラサール高校の出身で、高校3年生の時に東京大学を受験して失敗しています。
 本人の話だと「とれもではないが東大に合格するような成績ではなかったが、ラサールの場合、一緒に受験に行く仲間の数がハンパではなく、ときどき『せーのォ、ホイ』みたいな勢いで紛れて合格してしまうようなヤツが出てくる。それを狙って挑戦したのですが、ダメな時はダメでしたね」(大意)
 最後はともかく「みんなで頑張るぞ」「みんなで合格するぞ」と気勢を上げると、その勢いで合格してしまう生徒がいる、というのはよくわかる話です。長野オリンピックでも最初の有力選手、清水宏保が金メダルを取った瞬間に後続たちが一斉にメダルを取れるような気がしてきて、実際に量産しました。

 それと正反対なのが沖縄です。
 沖縄県は全国学力学習状況調査(全国学テ)が始まった2007年から6年連続で小中ともに最下位で、「ふりむけば沖縄」という言葉ができたほどでしたが、その後、学力全国一位の秋田県から講師を招くなどして学力向上に努め、2019年にはついに小学校国語で5位、算数で6位という好成績を取るに至りました(2020年はコロナのため中止)。ところが中学校の方は、点数は伸びたとはいえ国語・数学・英語の三教科すべてで、相変わらずの最下位です。

 小学校と中学校で何が違ったのか。
 実は沖縄の中学校には「まーめー」という特殊な概念があって、それが邪魔するらしいのです。
テレビで見ただけですから詳細は分かりませんが、「まーめー」は「真面目」を語源としていて、真面目であることをからかうというよりはさらに一歩進んで、「学校の勉強はいい加減だったのに社会的に成功する」、そういう生き方こそ格好いい、目指すべき姿だ、といった価値観があるようなのです。
 私たちが高校生のころも、東大や早稲田を中退することこそが格好いいのであって、卒業するようではだめだといった歪んだ価値観がありました。比較的最近でも、ホリエモンや村上世彰のように、額に汗して働くのではなく情報と才覚だけで一瞬のうちに数億円を動かす生き方こそ正しいといった時代もありました。
 いずれにしろ、こうした歪んだ価値観からは一生懸命勉強しようという気分は生まれて来ようがありません。沖縄の中学生の成績を上げるのは、これからも大変でしょう。
*ただし私は沖縄の中学生がダメだと言っているわけにではありません。こうした価値観の裏には地域や保護者の意向が働いている場合が多いからです。私が以前勤めた牧畜業のさかんな地域では「そんなにいい成績を取って、都会に行って帰って来られなくなっても困るで・・・」といった調子で勉学には全く不熱心で、子どももガツガツと勉強したりしませんでした。それでも教師は学力をつけるために頑張らなくてはいけませんが、地元や親がそれでいいなら、子どもたちもそれでいいのです。
 こういう地域で学力順位うんぬんを言うのは政治家と地域ナショナリストだけですから、彼らを黙らせればいい。



【受験は団体戦だ】
 はじめて中学校の学級担任になったとき、私が最も大切にしたのは生徒の自由と自主性でした。おかげで「みんなを自由にすると、誰も自由でなくなる」という法則を発見することになるのですが、今日はその話ではありません。

 個人が大事で集団性が嫌いだった私は、クラスマッチや合唱コンクールのような「みんなで力を合わせる」といった行事にも不熱心でした。そもそも学校は勉強をするところで、そんな余暇めいたものにエネルギーを注ぐことはないと思っていたのです。
 ところが3年生になっていざ受験という時期になると、私のクラスだけが成績が低い――いや10クラスもありましたから他にも低いクラスはあったのですが、上位のクラスとは平均点で段違いの差ができていたのです。
 しかもそれまでの2年半、クラスマッチだの合唱コンクールだので華々しい活躍を競っていたクラスばかりが、ここでも上位に並んで光り輝いているのです。

 クラスごとの平均点など外部に出すことはありませんが、入試が終わって進路がはっきりするとどうしても学級の学力差は表面に出ます。地域のトップ校に5人〜6人と送り込むクラスがいくつもあるというのに、私のところはたった二人しかいません。トップが二人しかいないということは、私のクラスの多くの生徒がランクの階段を一段下がって進学しているということになります。
 これには私も参りました。たくさんの子どもたちが「挫折」から高校生活を始めるのです。

 「受験は団体戦」という言葉を知ったのはそのころでした。
 私自身が受験生だった頃は「友だちを蹴落としてまでも」みたいな言い方が流行しましたが、高校は全県、大学は全国が相手ですから隣のひとりを引きずり降ろしても何にもならないのです。それよりは隣と競い、力を合わせ、問題を出しあい、教え合う方がよほど有利です。
 勉強の苦しい夜、あと一問が解けないときも、
「オレも苦しいがアイツらも頑張っている」
「明日、会って恥ずかしくないようにもう少しがんばろう」
 そんな自分に対する言い聞かせがどれほど力になるか、想像に難くありません。スポーツもそうですが、独りで戦うより、みんなで戦う方がずっと楽なのです。

 当時は3年間クラス替えなし、学級担任も変わらないのが普通で、初任の私はそのうちの二年半をウカウカと過ごしてしまいましたが、もしかしたらベテランの先生たちは最初から「受験という団体戦」に向けて、行事を通して周到に集団性を高めていたのかもしれません。いや、きっとそうです。


【良き受験生をつくる】
「中学高校は、つまるところ良き受験生を作る場だ」
 そう言ったら抵抗があるでしょうか? もちろん「受験」の中には就職試験も入ります。

 私の言う「良き受験生」とは、簡単に言えば計画性があって目的追求力が高く、忍耐力と集中力、安定した情緒や思考力、判断力、決断力などをもった人間です。それだけだと人間性や社会性で不十分な面も出てきそうですが、受験を団体戦として戦う受験生はその点でも力をつけています。
 つまり目標は「良き受験生をつくる」こと、しかしその目的は人格の形成という意味です。

 団体戦を勝ち抜くためにはチームの統一性が必要です。学級旗をつくったり統一した色の鉢巻を用意したりといったことも大切かもしれません。
 そこに数人、茶髪やピアスをしたグループがいるのは、やはり困るのです。

(この稿、次回最終)

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2021/4/7

「学校のアカデミズム;子どもは学校に来てはいけない」〜「わけの分からない校則」にもわけがあるB  教育・学校・教師


 学校には苦しい勉学を支える雰囲気が必要だと考える教師、
 学校は生活の一部であり、青春そのものだと感じている生徒たち、
 その間に横たわる溝は深く、長い。
 しかし児童生徒諸君! それにもかかわらずキミたちは、
 最終的には高い学力や技能が欲しかったと言い出すのではないか?

という話。
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(写真:フォトAC)

【それぞれの学校観が違う】

 つまるところ、「ブラック校則」の問題は関わる人々の学校観・教育観による違いから生じるのではないかと思っています。

 教師は学校を、「子どもたちに学ばせ、鍛え、育て、それぞれの持っている能力の最大限を引き出す場」としか考えていません。しかし子どもにとっての学校は、日中のほとんどをそこで過ごす生活の場なのです。生き生きと楽しく、充実した日々を送ることが最大の目標となります。
 保護者の多くは、教師と子の両方の立場に片足ずつを置いています。ひとこととで言えば「自由に伸び伸びと過ごし、いざというとき(受験期や就職期)はしっかり勉強して学力をつけてもらいたい」とそんなふうに考えているのです。
 政治家にとって、学校は自らの活動の成果を示す場であり、日本国、あるいは薩摩の国や尾張の国と言った意味での「国」の、国威発揚の場でもあります(学校に臨時講師の予算をつけたのは私だ、wi-fi環境を用意したのも私だ。そして我が町の全国学テの成績は、県内トップクラスだ!)。


【教師は学校を勉学の場としてしか考えていない】
 教師が子どもたちの能力を伸ばすことに熱中するのには理由があります。法律や学習指導要領に書いてあるからです。それで給料をもらっているとみんな思っています。
 しかし法令を持ち出すまでもなく、目の前に100の能力があるのに70に甘んじている子がいたり、さまざまな事情によって半分しか力のつけられない子がいるとしたら、教師でなくても手を差し伸べたくなるでしょう。

 運動が得意でプロスポーツの選手にもなれそうな子がそこそこの成績で満足していたり、そこまではいかずとも、運動を生涯の趣味として活躍できそうな子がいい加減な練習で済ませていたら、私なら怒ります。せっかく才能を持っていながら生かさないのは、私のような才能のない人間を小バカにしているのと同じです。私がどんなに望んでも手に入らないものを、その子は平気で棄てようとしているのです。
 では才能のない子はそのままでいいのかというと、それも不可能でしょう。天才がないのならなおさら、半歩でも、ごくわずかでも、より高い学力や技能を身につけて卒業させることは、その子にとって絶対に大切なことだからです。

 しかし能力を限度いっぱい伸ばすというのは、そう簡単なことではありません。
 その子の今の力を100とするなら、いつも120程度の負荷をかけておかなければ体も心も知能も衰えてしまうからです。だから教師は子どもたちの前に繰り返しハードルを置いて、さあ跳びなさい、こんなふうに跳ぶんだよ、ガンバレ! と応援するのが仕事と心得ているのです。

 そうした事情のため、必然的に学校は禁欲的にならざるを得ません。教師が華美や奢侈を嫌うのはそのためです。明るく華やかで浮かれた気分で、苦しい勉学に耐えるというのは困難だと思うのです。
 教師は、苦しい勉強を支えるためには学校に「勉強の雰囲気」がなくてはならないと考えます。静かで穏やかで冴えた空気、教師に「さあ支えるぞ」という気概があり、児童生徒に「学ぶぞ」という意志がある――私はそれを「学校のアカデミズム」と呼んでいます。
 教育評論家の諏訪哲司は、
「子どもは学校に来てはいけない。来ていいのは児童生徒(学ぶ意志を持った者)だけだ」
と言ったことがありますが、おそらく同じ意味なのでしょう。
 しかし世間はそう考えません。


【彼我の溝は深い】
 私がたびたび引用する教育研究家の妹尾昌俊氏は、
 スカート丈から下着の色の指定、髪の毛を染めさせることまで、なぜ、学校にはわけの分からない校則があるのか、なぜ直そうとしないのか。
と言いますが、「学校のアカデミズム」だの「子どもは学校に来てはいけない」だの、そういった立場の私たちからすれば、「茶髪だのパステルカラーの下着だの、学問の世界にそんなものダメに決まっているじゃないか」ということになります。

 妹尾氏はまた、
「よく校則違反をする生徒が『いや、これは誰にも迷惑をかけていないし』と言うのは、結構本質を突いている話ですね」(2019.07.30「毛染め強要あるいは禁止から考える、校則はなんのため?【もっと学校をゆるやかにしよう】」
などとおっしゃいますが、学校にアカデミズムを作り上げなんとか維持しようとする私たちからすれば、それはとんでもない迷惑行為です。葬式にウェディングドレスで出かけてきて「誰にも迷惑をかけていない」と言われても困ります。
 人権派の教育評論家と私たち、彼我の間にはとんでもなく大きな溝があります。
(ただし私は妹尾氏の考え方を、「わけが分からない」といった言い方はしません)

 子どもたちの大半は、勉強をするために学校に来ているわけではありません。友だちに会って話したり、一緒に遊んだりするために来ているのです。小学生ならドッジボールや追いかけっこ、中学生以上だとゲームの話をしたりファッションの話をしたり、あるいは恋バナに花を咲かせバカを言い合うために学校に来ているのです。
 ですから学校を窮屈に感じるのは当然で、ここでもやはり「学校を勉学の場としてしか考えない」教師との溝は深いと言えます。

 では多様化の進む現在、私たちの方から子どもたちに近づいていけばいいのでしょうか? 学校をもっと明るく楽しい場にして、苦しい勉強から解き放ってやればいいのでしょうか?


【結局、勉強をさせておかなければかわいそうじゃないか】
 正直言って、私は世間の言うほど子どもや保護者の価値観が多様化しているようには思いません。多様化しているとしたらなぜ中学3年生の秋、子どもや保護者は高校に進学しないとか、普通科より実業科の方がいいとかいった選択をしないのでしょう。もちろん以前よりはずっとよくなっていますが、大半の子が、実力不相応な普通科への進学を希望します。平たく言えば「ひとつでも上の高校」をめざすのです。

 保護者の多くは「自由に伸び伸びと学校生活を過ごし、いざというとき(受験期・就職期)はしっかり勉強してほしい」などと言っていますが、1・2年生の間ずっと「自由に伸び伸びと過ごしてきた子」に、3年生になって突然、「さあ今日から勉強を頑張ろう」といっても無理なのです。突然フルマラソンに出る決心をして、その決心がどれほど強くても、翌日から毎朝10kmずつ走るということができないのと同じで、勉強は意欲だけでできるものではなく、精神的体力と習慣がなければ続かないのです。

 結局、最後に「勉強をしておくことが必要」という場に戻るなら、最初から私たちと一緒に学校のアカデミズムの枠の中にいればいいじゃないか、そうすればキミの志望校だって実力不相応なものにはならなかったはずだ、
――それが私の最終的な思いであり、希望をかなえさせてあげられなかったという意味での、恨みです。
 そしてそうした経験を繰り返してきたからこそ、どんなに世間にバカにされても、学校を勉学の場とすることにしがみつくのです。

(この稿、続く)

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