2022/1/28

「格言は学校に溢れている」〜意外と子どもたちの心に残るかもしれない  教育・学校・教師


 御嶽海が 大関昇進の口上に
 中学校時代の石碑の言葉を引用した
 ずっと心に置いていたという そんな人は意外と多いものだ
 そして学校には 都合の良い格言がいくらでもある

という話。
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(写真:SuperT)

【御嶽海の口上】
 一昨日(26日)、日本相撲協会は初場所で3度目の優勝を果たした御嶽海の大関昇進を決めるとともに、伝達式を行いました。
 注目の口上は面倒な四字熟語を使わないあっさりとしたもので、以下のようになっています。
「謹んでお受けいたします。大関の地位を汚さぬよう、感謝の気持ちを大切にし、自分の持ち味を生かし、相撲道にまい進してまいります」
 素直な良い文だと思いました。

「大関の地位を汚さぬよう」と「相撲道に邁進します」はいわば定番みたいなものですが、間に挟まった「感謝」と「持ち味を生かして」には、特別なものがあったようです。
「感謝」は中学校時代の恩師の教えで、「感謝の気持ちを忘れないで相撲をとりなさい」というのを、大学に行ってもプロになっても言われ続けため、恩返しのつもりで晴れ舞台の言葉に選んだそうです。
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 また「持ち味を生かし」は第28代木村庄之助(故人)の言葉で、御嶽海の母校に今もある石碑には「自分の持ち味を生かせよ」という言葉で彫られているそうです。相撲部が全国大会で団体優勝したときの記念として建てられたもので、相撲部員は毎朝練習の前に、これを磨いてから稽古を始めると言います。
 自分の揮ごうした言葉が、ずっと御嶽海を支え続けたと知ったら、天国の木村庄之助さんもさぞかし満足でしょう。


【意外と心の中に生きている格言】
 こんなふうに学校で覚えた名言・格言を、生涯の座右の銘とする児童生徒は案外と多いものです。
 私自身の話ではありませんが、教え子の厄年の同窓会に招かれたとき、学年主任のクラスだった元生徒が、実行委員長挨拶としてこんな言葉をさしはさんだことがありました。
「『蓬(よもぎ)、麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し』(*)という先生の教えは、今も私たちの・・・」
 原稿も見ずに滔々としゃべる姿を見て、私は心の中で小さく「しまった」と呟きました。私自身はこうした格言の大切さを知ったのがずっと後で、自分のクラスにはそうしたものを授けてこなかったからです。
*くねくねと曲がりやすいヨモギも、まっすぐに生え育つ麻の中で成長すればおのずからまっすぐに育つ。それと同じように、みんなで支え合うことが、よりよく育つことに繋がるものであるという意味。「麻中之蓬(まちゅうのよもぎ)」も同じ。


【格言は学校に溢れている】
 考えてみると人が成長するうえで大切な格言というのは、学校の敷地内に満ち溢れています。それらは御嶽海と同じように石碑の形で、あるいは扁額の形で、さらには学校教育目標の中に忍ばせる形で、いくらでもあるのです。
 ちょっと調べただけでも10や20は上げられそうですから、全国の学校を当たれば相当な数になるはずです。

 私は教員生活の最後の方で、異動するたびに石碑や扁額の意味を調べるのを常としました。先生も子どもも忙しい日常を送っていて、意外と見ていないからです。また私にも読めない文字があったりして、誰かが調べないと忘れ去られてしまう、ということもありました。

 読み方や意味を調べて小さくまとめ、美術館の作品横にある説明書きのように掲示しておくとのちのちまで役に立ちます。
 担任の先生はそこまではしなくてもいいと思いますが、校内にある格言のひとつかふたつ、調べて子どもたちに教えておくと、御嶽海のように生涯たいせつにする子も出てくるかもしれません。

(参考)今、ちょっと思い浮かべたり調べたもの
・ 格物致知(かくぶつちち)
  物事の本質を追求し、知識や学問を深める。
・ 韋編三絶(いへんさんぜつ)
  何度も繰り返し本を読むこと。また、熱心に学問すること。
・ 蛍雪之功(けいせつのこう)
  苦労しながら学問に励むこと。また、苦学した成果。
・ 切磋琢磨(せっさたくま)
  仲間同士でお互い励まし合い、学問や仕事に励むこと。
・ 百花斉放(ひゃっかせいほう)
  学問・芸術が盛んに行われること。
・ 温故知新(おんこちしん) 
  昔の事をたずね求め(=温)て、そこから新しい知識・見解を導くこと。
・ 質実剛健(しつじつごうけん) 
  かざりけがなく、まじめで、強く、しっかりしていること。
・ 花意竹情(かいちくじょう) 
  花のように気高く優しく、竹のようにしなやかで 真っ直ぐな心を持つこと。
・ 耐雪梅花麗(ゆきにたえ ばいかうるわし) 
  厳しい雪に耐えてこそ、可憐に匂い立つ梅の花は美しく咲く。
・ 和顔愛語(わがんあいご) 
  和やかな顔と思いやりある言葉で人と接しましょう。
・ 一期一会(いちごいちえ) 
  その人と会っているこの日この時は二度と来ない、そういった覚悟をもって人と接しなさい。
・ 日日是好日(にちにちこれこうじつ) 
  毎日が良い日である。そんなふうに日々を受け入れて行きなさい
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2022/1/20

「『考える力』より『考えなくてもできる力』の方が大事ダロ」〜東大前刺傷事件、高校の分析から(追補)  教育・学校・教師


 一人前の大人になるために
 昔よりずっとたくさんの知識や技能が必要になっている
 しかしだからといって 道徳や人間関係の学びを犠牲にして
 何の学校教育だ

という話。
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(写真:フォトAC)

【何かを入れるとき、代わりに何を犠牲にするか】

 今週火曜日(18日)のNHK「視点・論点」は「金融教育のすすめ」というテーマで、泉美智子(子どもの環境・経済教育研究室代表)という方が語っておられました。
 内容は大雑把に言って、
「私たちの日常生活はお金と切っても切れない関係にある。それなのにお金について学ぶ機会が、非常に少ないのが日本の現状である。来年度入学生から高校家庭科では家計管理の一部として、『資産形成』が追加された。それ自体は喜ばしいのだが、高校に来ていきなり預金・株式・債券・投資信託・民間保険などなどさまざまな金融商品への理解を深め・・・などと言われても戸惑うばかりである。やはりほかの教科同様、易から難へ、小中学校のうちから時間をかけて学ぶことが大切である・・・」
という話です。

 ここまで聞いた段階で、血の昇りやすい私は頭の中で、
「そりゃあいいが、いつやるのよ。これ以上の追加教育がどこにはいるのよ? 
小学校も中学校もやること満載で、時間割もズタズタな状態。何かを始めるなら何かを壊さなくちゃいけないのだが、金融教育のために何を減らすのだ?
 性教育か? 環境教育か? コンピュータ教育か? それとも数学か? 英語か? 体育か?」

と速射砲のように言葉が浮かんだのですが、泉先生の主張は比較的穏当で、小中学校の社会科の、経済を学ぶ場面でより金融に比重をかけろ、といったものでした。もちろんそれでも、債券だの投資信託だのを入れた分、犠牲にすべきは為替か? 納税か? 雇用や労働の問題か?といった問題は残りますが――。


【学校で学ぶべきこと】
 こうした「◯○教育を充実(新設)させろ」という話の大半は聞き流していてもいいものですが、ときに「総合的な学習の時間」や「小学校英語」や「プログラミング学習」のように実現してしまうものもあるので、注意深くしなくてはなりません。
 特に消費者教育と金融教育はかねてから噂のあるもので、これらを入れようという動きがあったら、代わりに何を外すのか、問い続ける必要があるでしょう。

 しかしそれにしても、こうした新たな教育の提案は、なぜこうも簡単に次々と出されてくるのか――そう考えたとき、ヒントとなる言葉が泉先生の言葉自体にあることに気づきました。
 泉先生はこう言ったのです。
「学校での教育の目的は何かというと、将来一人前の大人として暮らして行くための、必要な知識と考える力を身につけさせることです。一通りの漢字が読めないと、あるいは四則計算ができないと、生活にあれこれと不便が生じます。理科や社会で学ぶ知識や考える力も、必ず生活で役立つはずです」
 
 先生は知らないのです。学校が最も心血を注ぎ、時間もたっぷりかけているのは「必要な知識と考える力を身につけさせること」ではありません。それも大切ですが、もっと大切なのは「考えなくてもできる力」なのです。


【考えなくてもできることを増やす】

 例えば、車いすの人が踏切を渡れなくて困っているとき、それを支援するにはいくつもの力が必要になります。
 まず初めに、そこに困っている人がいると気づくこと。
 第二に、声をかける勇気。
 第三に、安全に踏切を渡す技術(段差の乗り越え方など)
 その中で最も難しいのが1番です。あとの二つは知識があったり考える力があったりすればなんとかなりますが、「気づく」というのは相当な訓練を経ないと身につかないものです。

 同じように、「与えられた仕事に誠実に当たる」とか「分担されたことはきちんとやる」とか、法令順守だとか、弱者救済だとか、協働・協力とかは、知識や考える力の問題ではありません。茶道の所作や舞踊やスポーツのように、「考えなくてもできる」ことを増やしていかないと人間としての発展がないのです。


【日本人を「日本人」に育てる】
 私たちが道徳と呼ぶものの大部分には「考えなくてもできること」が期待されています。考えずとも正しいことができるようになる、すべきことができるようになる、美しい行いができるようになる――そのためにはたいへんな量の経験が必要です。
 学校教育では教科教育や総合的な学習の時間の中でさえ、道徳的な価値の追求が行われます。順番を守りましょうとか、ルールに従って発言しましょうとか、友だちを信頼して大声で歌いなさいといったことです。日本では、それを義務教育だけでも9年、幼保育園から高校まで含めると13年以上も使って育てているのです。そうやって「日本人」は創られます。

 金融教育より道徳教育が優先されるのは、人間関係をうまく回す技術が資金をうまく回す技術よりはるかに尊く重要だと、教師たちが考えているからです。
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2022/1/19

「コロナ禍に育つ子どもたちは放置されていた」〜東大前刺傷事件、高校の分析からB  教育・学校・教師


 東大前刺傷事件の容疑者少年は 
 高校入学の日から今日までを ひたすらコロナ禍に耐えてきた
 友にも会わず大声で語ることもなく さまざまな行事に青春を燃やすこともなく
 しかしそんな高校生は彼だけではない

という話。
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(写真:フォトAC)

【容疑者少年の立場】
 東大前で3人を襲った少年は、名古屋の混合型中高一貫校(中学校から入学した内部生と高校から入学した外部生を混合する一貫校)の外部生組だったようです。いわば外様で、普通でも溶け込みにくい立場ですが、この子たちにはさらに高い隔壁がありました。
 なぜなら現在の高校2年生は、コロナ感染のために中学校の卒業式さえ満足な形でやってもらえず、高校入学も一カ月以上遅れてそそくさと済ませ、多くをリモート学習のために家庭で過ごさなくてはならなかったからです。登校しても友と大声で話すことなく、また、本来はそれをきっかけに仲良くなり団結を深めるべき学校行事からも遠ざけられていました。
 それでも彼は、良くあろうと生徒会の役員に立候補したり、一生懸命勉強したり、それなりの努力をした様子も見られます。しかし社会はそんな個人の努力ではどうにもならないところで動いていました。


【孤立を深める子どもたち】
 若者に最も必要なものは勉強でもスポーツでも遊びでもなく、友だちです。友だちがいるから辛く苦しい受験勉強やスポーツにも耐えられるし、友だちがいるから遊ぶのも楽しい。ほとんどの児童生徒は友だちに会うために学校に来ているのであって、勉強するためや先生に会うために来ている子は稀です。そもそも勉強だけなら、わざわざ学校に来ることもないのです。
 思ったような成績を取れなかったとき、それを慰め励ましてくれるのも友だちなら、一緒にドロップアウトしてくれるのも友だちです。友だちさえいれば、最後は何とかなります。
 ところがその部分が、特に今の高校1〜2年生はうまく行っていない。ちぐはぐなまま2年間が過ぎてしまったのです。
 
 その意味で、容疑者の在籍する高校が発表した謝罪コメントの次の部分、
個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
はまったく妥当なものと思うのです。

 もちろん私は容疑者に同情しているわけではありません。
 背中を刺された二人の受験生も、同じ時代を同じように過ごしてきた、広い意味での“仲間”です。その仲間を裏切り、その未来を奪おうとした行為は許せるものではありません。


【コロナ禍に育った子どもたち】

 今回のことで一番思い知らされたのは、世間が児童生徒の学習を心配している間に、子どもたちの経験の網目から漏れ落ちた、とんでもなくたくさんのものがあったのではないかということです。

 オミクロン株が出現するまで、新型コロナは大人の感染症でした。それにもかかわらず子どもが厳しい感染対策を強いられたのは、彼らがペストのネズミのごとく、ウィルスに汚染されて各家庭に持ち帰ることを怖れたからです。いわば子どもは大人を守るために耐えてきたのです。それなのに大人たちは、彼らが失ったもの、経験し損ねたものに対してあまりにも無頓着でした。

 彼らはやがて「コロナ禍に育った子」と呼ばれるかもしれません。「ゆとり世代」だの「Z世代」だのと言った軽すぎるネーミングの得意なマスコミは、すぐに簡便な名前を付けてくれるでしょう。しかし内容は重い。

 コロナ禍は短く見積もってもあと半年は続くと思われます。その間もたくさんの行事が中止され、他の世代が当たり前のように享受してきた経験や楽しみを、経ずに大人になってしまう子たちが次々と育っているのです。
 私たちは彼らのことを、もっと大切に考えなくてはならない。
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2022/1/18

「入試という団体戦が、いつの間にか個人戦に変っていた」〜東大前刺傷事件、高校の分析からA  教育・学校・教師


 東大前刺傷事件の容疑者の在籍校は
 極めて優秀な受験生を生み出すシステムを有していた
 それは単純に「仲間づくり」である
 しかしコロナ禍で いつの間にかそれは失われていた

という話。
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(写真:フォトAC)

【入試は団体戦】
 前にもお話ししましたが、タレントのラサール石井は高校3年生の時、成績不十分であるにも関わらず東京大学を受験して失敗しています。成績が足りないのに受けたことについて、彼は「ラ・サール高校というのは不思議なところで、みんなで一緒にホイっとやると、成績不十分な生徒が勢いでポンと合格してしまうことがある。それを狙って受験したのだけれど、やっぱりダメな時はダメでした」と説明しています。わからないではありません。

 ラ・サールのように同じ高校の生徒が大挙して試験に臨むようなら、それだけで有利です。地方の公立高校から独りぼっちでやってきて、雰囲気に飲まれまいと頑張っているようではその分、すでに失点しているも同じです。会場に入った段階で、勝負は半分くらいついています。

 有名進学校の有利さは、それだけではありません。
 昔は「友だちの足を引っ張っても勝ち抜け」みたいな言い方をしましたが、そんなバラバラなことをやっていても勝てるものではありません。敵は外部にいくらでもいるのです。そうではなく、せっかく同じ学校、同じクラスに入ったのだから、お互いに助け合って入試に向かっていく方がいいに決まっています。

 問題の分らないところは参考書と首っ引きになって調べたり、先生のところに行く質問の列の最後尾についたりするより、互いに教え合った方が圧倒的に早い。教え合いが教える側により有利であることは、受験生なら誰でも知っています。
 自宅の部屋で受験勉強に励むときも、すぐに投げ出したくなる自分を励ますのに、「クラスの(学年の)みんなが頑張っているのだから、オレもがんばろう」と友の顔を受かべながらやる方が、よほど力強く励みとなります。
 したがって受験に強いクラス、有名大学に大量の合格者を出すような学校は、必ず生徒同士の仲がいい。中学校で合唱コンクールやクラスマッチに強いクラスは、高校入試でも成績が良いのはそのためです。
 そしてよく経験を積んだ教師たちは意図的に、本来バラバラな生徒たちを「受験が戦える強力な目的集団」に育てようと、さまざまに手を打ち続けるわけです。


【教室あるいは学校を目的集団に組み替える】
 先週土曜に東大前で刺傷事件を起こした高校生の在籍校は、伝統的にそうしたことがうまかったようです。昨日の謝罪コメントでは、
 本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。
と、まるで自主活動が生徒を納得させるための教育の場であったかのように言っていますが、そうではないでしょう。

 学校が生徒を数学や化学のオリンピックに行かせたり臨海学習に参加させたり、あるいは部活や文化祭や演劇祭に熱心に取り組ませたのは、まさに仲間づくり、集団づくりだったのです。生徒たちはそのたびに目標を与えられ、達成するための訓練を積み、友との信頼関係を築いていきます。最終的に「受験に向けて戦う集団」になるにしても、勉学だけで人間をつなぐことができません。そしてそれがうまく行き続けると、
 本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
ということになるのです。

 私がこんなふうに断定的に言えるのは、他の学校――普通の公立の小中学校だって同じことをやっているからです。いや、ほとんどの生徒が有名大学合格を目指して入学してくる等質性の高い一流進学校とは違って、同じ地域の同年齢という以外に何の共通性も持たない公立小中学校こそ、より熱心に仲間づくり・集団づくりに励んでいるとも言えます。そうしないと、いつまでたってもクラスはバラバラです。


【学校は自ら失ったものに気づいていなかったのかもしれない】
 そうした文脈で見ると、謝罪コメントの次の部分も違った見方ができるようになります。
 ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。
 実際に起こっていたことは学校のメッセージが他謳わらなかったということではなく、コロナ禍で学校行事などの自主活動が次々と中止になることで、学校は「受験を戦う集団づくり」が十分に果たせなくなっていた、そしてそのことに教職員は気づいていなかったのです。

 個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
 もしかしたら学校は、自分たちの最大の強みがなにかも、理解していなかったのかもしれないのです。

(この稿、続く)
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