2021/9/24

「怖れが現実となり、願いがかなってしまう因果」〜ハンス・アスペルガーは何をしたのかB   教育・学校・教師


 才能を持ち、役に立ちそうな自閉症児をこよなく愛したアスペルガーは、
 一方で、“役に立たない命”には冷淡だった。
 そうした子どもたちは次々と殺されていく。
 第二次大戦後、彼が責任を問われることはなかったが、その死後、
 業績にふさわしい絶賛と凄まじい非難の時が訪れる。

という話。 
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(写真:フォトAC)

【ナチスの浸透、ウィーン大学病院の堕落】
 アスペルガーが治療教育診療所に配属された1年後、隣国ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を握ります。するとアスペルガーが父とも慕うハンブルガーもナチスに入党。そのハンブルガーの指示で、アスペルガーはドイツで研修を受けることになります。そして新生ドイツの迫力に圧倒されるのです。

 当時のドイツは優秀な者だけを選別し遺伝的に劣っていると考えられる人間を排除する優生学に基づいて、力強い民族共同体を生み出そうとしていました。「民族共同体を生み出す」というのは要するに国境を越える、あるいは新たな民族国家(単一民族で構成された国家)をつくるという意味です。
 それを見たアスペルガーは日記にこう記します。
「民族全体が熱狂的にひとつの方向に向かう。献身的で熱意に溢れ、厳しい鍛錬や規律を伴い、ものすごい力を秘めている」

 ウィーンに戻ったアスペルガーはハンブルガーの意向で28歳の若さで診療所の所長に抜擢されます。ハンブルガーは政治的に信頼できない人物を積極的に排除していましたから、この昇進はいかにアスペルガーがナチ党員ハンブルガーの信頼を得ていたのかを示すものです。

 1938年になるとドイツはオーストリアに侵攻し、オーストリアもナチス国家の一部となります。ウィーン大学医学部も様変わりし、ナチスに懐疑的な医師は職を失い、残った者の半数は入党します。アスペルガーは入党せず、そのことがのちの彼を救うことになりますが、医療部門のナチとも呼ばれる「国家社会主義ドイツ医師連盟」を始めとする、ナチスとかかわりの深い団体には次々と加入しました。
 その年、アスペルガーはウィーンの医療従事者に向けた特別講演を行います。そこで彼はこんなふうに語るのです。
「新しい帝国の『全体は部分より大きい』という考えのもとでは、国家が個人より優先されなければなりません。そのためには遺伝病を予防し、優生学を浸透させることです」
「精神的に異常な児童への支援に専念することが、国家への最良の奉仕になります。民族の役に立つように、これを成功させなければならないのです」

 つまり自閉的な子どもたちを教育し、ナチスに貢献させようと高らかに宣言したわけです。

 1939年9月1日。ナチスはポーランドに侵攻。第二次世界大戦がはじまります。ナチスはすでに1933年から障害のある者に強制的に不妊手術を行う「断種」を行っていましたが、ポーランド侵攻を期に民族浄化をさらに進め、「安楽死作戦」へと移行します。障害のある者に子孫を残させないだけでなく、今ある障害者そのものを取り除こうとしたのです。
 対象者は子どもにまで及び、ウィーンではシュピーゲルグルント児童養護施設がその舞台となりました。表向きは教育不可能と診断された子どもたちの専門病院でしたが、その実、子どもたちは医師や看護師によって薬物を注射され、ゆっくりと殺されて行ったのです。死因のほとんどは「肺炎」と記録されました。


【第二次世界大戦後のアスペルガー】
 1945年5月、ナチスは連合国軍に無条件降伏しました。
 その一年後、シュピーゲルグルント児童養護施設に関わる医師たちも「安楽死作戦」の責任を問われますが、大半はヒトラーの命にしたがっただけだということで刑を免れることができました。アスペルガーもその一人です。
 1946年、アスペルガーはウィーン大学小児病院の院長に就任し、その後キャリアを積み重ねて終身医院長まで昇り詰め、1980年に74歳で急逝します。

 世界的には戦後300本ほどの論文を発表しましたが、ほとんどは子育てや教育に関するもので、医学的な論文というよりは発育環境や親の愛情といったテーマに関するものばかりでした。自らが発見した自閉的な子どもたちに関する研究は、二度と再開されなかったのです。

 無名だったアスペルガーの名が、突然脚光をあびるようになったのは皮肉にも亡くなった翌年、1981年のことです。
 イギリスの精神科医ローナ・ウイングは1970年代から自閉症と診断された子どもたちの調査を続けていましたが、やがて不思議な子どもたちの存在に気づきました。あの、言語や知能の遅れが見られない自閉症児、アスペルガーが40年近く前に魅了された子どもたちです。
 ウイングはドイツ語で書かれた古い論文にも気づき、最初の発見者に敬意を表して自分の見つけた子どもたちにアスペルガー症候群という診断名をつけ、論文に仕上げます(「アスペルガー症候群:その臨床報告」)。
 その論文をきっかけにアスペルガー自身も再評価され、彼の偉大な発見は16年の歳月を経て、日本の片隅の1997年の私の元にも訪れたのです。


【ハンス・アスペルガーは何をしたのか】
 アスペルガーは死後、その偉大な事実の発見者として、さらにナチスから自閉症児を守った医学界のシンドラーとして瞬く間に有名になります。
 ところが2002年、シュピーゲルグルント児童養護施設の医師の、三度目の裁判を期に改めて「安楽死作戦」が調べられる中で、アスペルガーがかなりの数の子どもたちをシュピーゲルグルントに送っていた事実が明らかになるのです。その数は少なくとも44人。そのうち37人が“肺炎”のために亡くなっています。

 アスペルガー自身は当時を振り返って、「私は子どもたちを引き渡すことを拒みました」と証言しています。事実、安楽死が妥当だと判定したことは一度もありません。彼はただ書類に「教育不可能」と記してシュピーゲルグルントへ送ることを認めただけです。しかしそのシュピーゲルグルントで何が行われていたのか、彼が知らなかったと考えるのはあまりにも初心でしょう。シュピーゲルグルントの初代院長、安楽死作戦の実行責任者は、診療所で彼と5年間同僚だった医師、生粋のナチ党員だったからです。


【怖れが現実となり、願いがかなってしまう因果】
 のちにアスペルガー症候群と呼ばれる障害がすでに1944年に論文にされていたのに、なぜ90年代に至るまで注目されなかったのかという私の疑問は、こうして解けました。

 ひとつは1944年という第二次大戦末期にドイツ語で出版された論文であったこと、そしてもうひとつは戦後、アスペルガー自身が研究を続けず、自らの発見についても語らなかったからです。偉大な業績でしたが世に知られれば知られるほど、アスペルガーの指の間から漏れ落ちた子たちの行方にも注目が集まると分かっていたからでしょう。
 その怖れは彼の死後、現実のものとなります。

 1941年にシュピーゲルグルントでわずか4歳で殺されたアンネマリーには、3歳年上の姉がいました。妹の死の真相を知らないまま、姉はやがて大学に進学し、歴史学と美術の教師となって成功します。その姉が、60年も経ってのちにアンネマリーの送られた場所が安楽死施設だったことを知ります。
 姉はその後10年近い歳月をかけてシュピーゲルグルント研究に没頭し、そこで殺された789人の子どもの名前をすべて特定します(ヴォルトラウト・ホイプル著〔2006〕「シュピーゲルグルントで殺害された子どもの記録」)。

 実は、子どもの頃の姉はアスペルガーと面識があり、「時間があるときはいつも子どもたちに本の読み聞かせをしていた」とか「とても良い小児科医でした」とか、良い思い出ばかりを持っています。それは彼女もまた治療教育診療所でアスペルガーが愛してやまなかった“才能をもった患者”であり、いつか世の中の役に立つだろうと予言した一人だったからです。
 予言は的中し、選ばれた子は70年を経て、アスペルガーを含む医師たちの犯罪を明らかにしたのです。
 アスペルガーの恐れも願いも、ともに彼の死後、残酷な形で実現したわけです。

(この稿、終了)

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2021/9/22

「ハンスの見つけた子どもたち」〜ハンス・アスペルガーは何をしたのかA   教育・学校・教師


 1930年代、オーストリアの医師ハンス・アスペルガーは不思議な子どもたちの存在に気づいた。
 高い言語能力を持ち、知的にも問題の少ない自閉症児たち。
 やがて彼は観察記録を論文にまとめ世に問うた。
 それがいつか忘れ去られた。

という話。 
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(写真:フォトAC)


【ここがロードス島だ、ここでお前たちが跳べ!】
 今は「自閉症スペクトラム障害」の中に含められて「アスペルガー症候群」という言葉は忘れ去られようとしていますが、かつてこの言葉が表す概念が、教師に与えた衝撃と希望はここ数十年で最大のものであったに違いありません。「ああこれであの子たちが理解できる」「この知識を使ってあの子たちを助けることができる」と、教師たちは本気で信じたのです。
「あの子たち」というのは長い教員生活で何度かで出会ってきた分かりにくい子どもたち――教師や親の制御がなかなか効かず、わがままで尊大、人の気持ちがわからない上に平気で人を傷つける、プライドが高いくせに何もしない、そういう子たちのことです。

 保護者との面談でも助言のしようがないので「躾が不十分でしたね」とか「愛情不足ではないでしょうか」とか、言ったところで何の改善策も示せない無意味な発言をして、相手を怒らせたり悲しませたりすることもままありました。
 しかしこれからはそうではない。私たちがしっかり勉強して知識と経験を蓄えれば、子どもと親の両方を同時に救うことも可能だ――そんなふうに感じたのです。

 ところが実際に学習し始めると、基本的な内容は理解できても、具体的な「その子」の分析の仕方とか対処法とかいった部分はまるで空洞なのです。事例があまりにも少なく、何をどうしたらいいのかまったく分からない。
「概要は示した、あとは自分たちで何とかしろ」と言われているようなものです。

 オーストリアの精神科医ハンス・アスペルガーが“その子たち”を発見して論文に仕上げたのは1944年のことです。それから半世紀もの間、研究者や医師たちは何をやっていたのでしょう? あんなに困っていた私たちの手元に、この素晴らしい知識が届かなかったのはなぜなのでしょう?――それが昨日の最後に示した疑問です。


【ハンス・アスペルガー】
 先週水曜日(9月15日)のEテレ「フランケンシュタインの誘惑」には「ナチスとアスペルガーの子どもたち」という副題がついていました。
 この番組は、科学的欲求のために墓場から死体を掘り出して怪物を創り上げたフランケンシュタイン博士の物語にちなみ、学問のために道を踏み外した科学者たちを中心に扱うもので、そこにハンス・アスペルガーが登場したわけです。

 番組の冒頭はこうです。
 ナチスの時代、ヒトラーは民族浄化の名の元、生まれつき重い障害のある子どもを安楽死という名目で殺していた。ナチス統治下にあったウィーンでは、ドイツが降伏するまでの5年間で、少なくとも、789人の子どもたちが殺された。そんな中、子どもたちを安楽死作戦から守ろうとしたとされる一人の医師がいた。ハンス・アスペルガー、ウィーン大学で障害のある子どもたちに特別な才能を見出した小児科医、社会適応は難しいが、優れた能力を持つ発達障害の子どもたち、その才能は生涯必ず役に立つと訴えた。
(中略)
 戦後、この発達障害は発見者の名を取りアスペルガー症候群と名づけられる。アスペルガーは良心の医師、医学界のオスカー・シンドラーとして一躍有名になる。だが――、
 近年、衝撃の研究報告が発表された。
 実はアスペルガーには全く別な顔があったというのだ。



 ハンス・アスペルガーは1906年、オーストリアのウィーンで生まれました。学歴のない父親に厳しく育てられたハンスは成績も優秀で、19歳でウィーン大学医学部に進学します。しかし折り悪しく世界恐慌の真っ最中で、卒業後は就職に苦労しました。その時声をかけてくれたのが、ウィーン大学小児科医院の医院長、フランツ・ハンブルガーで、アスペルガーはこの人を父親のように慕い、生涯その支配下にはいります。フランツは後にナチスに入党する人です。



【アスペルガーが見つけ出した子どもたち】

 1932年、26歳のときアスペルガーは小児科医院内の「治療教育診療所」に配属されました。そしてそこで驚くべき光景を目にします。
 当時、心に問題を抱えた子どもは病院で日夜ベッドに縛り付けられ、テストや検査を繰り返されるのが一般的でしたが、治療教育診療所では子どもたちを自由に遊ばせ生活者として扱っていたのです。
 医師たちは子どもたちの遊び方、食べ方、話し方などをつぶさに観察し、週一回の検討会では一人ひとりについて討論を重ね、あらたな治療と教育の方針を決めていくのです。
 そうした世界中でウィーンにしかなかった画期的な治療法に携わりながら、やがてアスペルガーは不思議な子たちの存在に気づいて行きます。

 誰にも教えられていないのに独特な計算方法にたどり着く子、言葉では表現できずとも明らかに理解の進んでいる子――ある少年は毒薬に取りつかれ、極めて特殊な知識を蓄え、毒薬の台コレクションを持ち、中には無邪気に自分で調合したものもあったと言います。また別のある子はのちに大学に進み、ニュートンの論文の過ちを指摘したりもします。

 アスペルガーは観察の結果を次のように記しています。
 非常に狭くて限られた特殊領域は、異常な肥大を見せている、それはものごとの本質を見抜く非凡な眼力を示している。

 アスペルガーはこの診療所で200人に近い子どもの観察を続け、1944年に観察記録をまとめた論文を発表します。これがのちに自閉症の概念を大きく広げることになるのです。
 言語能力に優れた自閉症児の存在――言語や知的な能力の遅れは自閉症の判断基準のひとつでしたから、これは画期的な発見でした。

 アスペルガーは自分の愛する子どもたちを記録した論文の最後に、こう記します。
「医師には、全身全霊をかけてこれらの子どもたちに代わって声を上げる権利と義務がある。ひたむきに愛情をささげる教育者だけが、困難を抱える人間に成功をもたらすことができる」

 しかし番組を見ている私たちは、この段階ですでに、重要なことに気づいています。ハンス・アスペルガーが礼賛してやまないその子たちは、誰かの役に立ちそうな特別な才能をもった一部の自閉症児であって、その目から漏れた大量の子どもたちが別に存在するのです。

(この稿、続く)
 

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2021/9/21

「不思議な少年との出会い」〜ハンス・アスペルガーは何をしたのか@   教育・学校・教師


 二十数年前、私は不思議な児童と会った。
 人の気持ちを逆なでる、妙なしぐさをする、謎のこだわりと集中。
 考えてみると、そんな人間は昔からいたはずだ。
 それらなのになぜ、彼らは長いこと忘れられていたのだろう。

という話。 
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(写真:フォトAC)


【私の出会った不思議な子】
 1998年、私は当時勤めていた小学校の5年生のクラスで、とても奇妙な子に出会います。地方都市のはずれにある、一クラス10人少々のとても小さな学校のことです。
 その子には人の気持ちを逆なでする悪い癖があり、例えば算数の時間に答えを間違えた子がいたりすると、自分もできていないのに大声で「バカじゃねえの?」と叫んでみたり、授業中に臭いオナラをしてみんなが嫌がると「イッヒッヒ」と笑ったりするのです。ちなみに生身の人間が「イッヒッヒ」と笑うの聞いたのは、その子が二人目でした。

 寄り道しますが初めて聞いたのは、そのわずか2年前まで勤務していた学校の校長先生の口からで、マンガの世界でしか知らなかったその独特の笑いを、実際にする人がいると知ってびっくりしました。マンガ家というのは大したものだ、人間観察が徹底的にできていると感心したものです。
 ちなみにその校長先生も人の気持ちの読めない人で、これまたマンガ繋がりですが、幼児以外で地団駄――片足で何度も地面を踏み鳴らす――を実際にする人間を見たのも、その人とその子だけです。今日まで、あとに先にも二人だけでした。
 話をクラスの子に戻します。

 興味に、不思議なこだわりと集中のある子でした。
 5年生の時にはモーツアルトに夢中で、ケッフェル番号も片っ端覚えていて私にああだこうだ言ってきます。校内に相手をしてくれる人が誰もいないからです。
 6年生になるとアメリカの特殊部隊グリーンベレーに興味を切り替え、実際に緑色のベレー帽を買ってもらってそれで登下校していたのですが、あいにくなことに運動がからきしダメで、しかもそのダメさ加減もかなり特殊でした。空間把握ができないのです。


【空間把握の問題】

 ソフトボールで空高く上がったボールの落下点がわからない。グローブをしっかり構えて捕ろうとするのですが、その位置が落下点の5mも前だったりうしろだったりします。跳び箱では踏切板の2mも手前でジャンプしたり、逆に走り抜けて跳び箱自体に激突したりします。
 びっくりしたのはサッカーで、軽く流したボールを直角の位置から走って行って蹴る練習では、ボールのコースを先に横切ってしまうのです。私のような老人だと“あの位置で蹴ろう”と距離を測っても足がついて行かず、ボールまで届かないということはあります。しかし早く着きすぎてボールのコースを先に横切ってしまうことはありません。早く着いたら止まって待っていればいいだけのことです。
 それを彼は走り続けて、自分のうしろを空しく転がっていくボールを見送るだけなのです。同級生も慣れきっていて、笑い者にすらしません。

 空間認識が苦手なので絵が描けません。
 まったく描こうとしないので、「このあたりに顔」「この辺りに体を置いて腕はこちら」と説明しながら鉛筆で薄く枠を描いてあげるのですが、それでも描こうとしない。慣れたもので同級生が次々と近づいて「ここはこんなふうにするんだ」とか「こうしたらどうかな」とか言いながら少しずつ手を入れていくので、本人は何もしないのにいつの間にか絵が完成してしまうという不思議さ、それにもかかわらず、彼はまったく平然としています。

 こう説明すると、あまり経験のない先生方でもすぐに「ハハン」と理解してくれると思います。典型的な発達障害、自閉症スペクトラムの子です。


【そんな子は昔からいた】
 ところが、今では誰でも知っている発達障害の特徴が、1998年当時はまったく理解できなかったのです。発達障害という概念がありませんでしたから。
 世の中には、なにかとても風変りな人たちがいるということは経験的に分かっていました。それが大人なら、悪く言えば「変人」、少し好意的に言って「とっちゃん坊や」、さらに好意的な表現である「万年青年」、そういった中にも、同様の人は大勢いたのかもしれません。

 実際にそばにいたりするとかなり面倒くさい人たちで、特に親や教師にとっては頭痛の種だったり激高の火種だったりしますが、その実、私たちはけっこうこういう人たちが好きで、落語の与太郎から始まって夏目漱石の「坊ちゃん」、植木等の演じる「植木等」、フーテンの寅さん、釣りバカ日誌の浜ちゃんもバカボンのパパも、みんな似たような人たちです。

 つまり、私たちは彼らを知っていた、それもかなり古くから知っていて、怒ったり困ったり、頭を悩ませたり愛したりしていたのです。しかしそれを一つの類型として取り上げることは、少なくとも社会全体としてはありませんでした。


【アスペルガー症候群】
 冒頭に紹介した発達障害子どもに会う前の年(1997)、司馬理恵子の「のび太・ジャイアン症候群」が出版されます。これは副題に「いじめっ子、いじめられっ子は同じ心の病が原因だった」とある通り、短気で怒りっぽく粗暴なジャイアンと、引っ込み思案で自信がなく、自己主張のできないのび太が、ともにADHD(注意欠陥多動性症候群)という概念でひとくくりにできることを紹介した、日本で初めての一般向け啓蒙書です。
 私はたまたまそれを初版で読んでいたのですが、本に描かれた子どもと目の前の児童を、同じ枠で考えるまでにはずいぶん時間がかかってしまいました。というのは「のび太ジャイアン症候群」が発達障害全般を扱いながら特にADHDに寄せて執筆されていたのに対し、私の児童はADHDの要素も持ちながら、むしろ(今でいう)自閉症スペクトラムの要素の方が強かったからです。

 彼と出会って1年以上も経ってようやく、私はその子の中のADHDに気づきます。しかししっくりこない。そこで当時たまたま大学の研究室に出入りしていたので、一緒に研究をしていた特別支援畑の教員に相談したのです。すると彼女はこんなふうに教えてくれました。
「直接本人に会ってみないと何とも言えないけど、ADHDとは別にアスペルガーってのもあるよ」
 これが私のアスペルガー症候群との出会いで、しばらく勉強した私は、数年の間、教員の中ではアスペルガー症候群にもっとも詳しい一人だったのです。


【謎】
 以上はすべてが前置きみたいなもので、私が言いたいのは次の1点です。
 
 私はほんの数年しか専門家でいられなかった――つまりアスペルが—症候群に関する知識は燎原の火のごとく、あっという間に全国津々浦々の学校に広がっていった
 それほど重要で有益な知見が、実は1944年のハンス・アスペルガーの論文にすべて書いてあったのに、なぜ、半世紀以上もった1998年まで、日本の教員の耳に届かなかったのか。


(この稿、続く)


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2021/9/18

「更新しました」〜キース・アウト  教育・学校・教師


緊急事態宣言下だというのに、一部の学校では「給食」という名の大規模会食会のために子どもを登校させている。しかも教委も保護者もマスコミも、誰も非難しないのだ。学校は最低限、子どもに飯を食わせていればいい、教師の仕事は給仕だとみんなが思っている。

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