2022/6/17

「“置き勉はできないので、重いランドセルで帰ってください”と先生は言った」〜ランドセルの何が悪い!A  教育・学校・教師


 小学生の使うバッグとして、ランドセルほど完璧なものはない。
 悪いのはランドセルではなく、置き勉を許さない学校なのだ。
 しかし学校にも言い分がある。
 置き勉って、どうやったらできるのですか?

という話。
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(写真:フォトAC)

【ランドセルは完璧な通学バッグ】 
 1887年(明治20年)に伊藤博文が当時の皇太子(のちの大正天皇)に贈って以来135年、ランドセルは改良しつくされた完成品です。素材以外ほとんど改善の余地がありません。それだけ優れたもので、これを上回る完成品はコルト45くらいのものでしょう。何が優れているのか――。

 まず丈夫だということ。
 多くが数万円もする高価なものだけあって、6年間、修理しなければならないことはめったにありません。普通の小学生がランドセルをどんなふうに扱っているか、下校途中の公園で観察すればその丈夫さが驚異的であることは一目瞭然です。

 バッグとしての機能も完璧です。
 とりあえず自立するということ。ビジネス用もそうですが、自立しないバッグは置いておくのに不便、ものを探すのに不便です。エコバッグから何かを取り出そうとしたら、一方の手で持ち手を必ず引き上げていなくてはなりません。しかし自立するバッグだと両手を突っ込んでものが探せます。
 ランドセルの場合は硬さがありますから、寝せたかたちでも出し入れができます。そんなことのできるバッグは簡単には見つかりません。

 学用品に特化したものですのでA4の教科書やノートがピッタリと収まります。大型のビジネス用バッグの中には書類が内部でずれて扱いにくくなるものがありますが、ランドセルでは考えられないことです。またポケットが学用品に合わせていくつもついているので、整理もしやすいし、出し入れが簡単。

 ベルトが幅広で十分な緩衝材が入っているので肩が痛くなりにくい。かなりしっかりしたつくりなので、カバン本体を背中の高い位置で保持しやすのも特徴です。
 「さんぽセル」の開発途中で、ランドセルの重さを実感する実験の様子が写真で紹介されていました。水を一杯に入れた2リットルボトル19本をつなげて、大人が背負う写真です。しかしその姿からすぐに違和感をもつのは、ボトルのほとんどが背中の下半分からお尻を覆うように繋がっていることです。かつて都会の女の子たちがファッションで背負っていたバッグと同じ扱いです。

 しかし登山の専門家やバッグパッカーはあんな背負い方は絶対にしません。重い荷物はできるだけ背中の高い位置に背負うのです。だから転ぶときは前に倒れ、両手をつくことになります。背負うというよりは“尻負う”といった方がいいほどの低いところに置けば、重くてしかたがない上、よろけて転ぶときはうしろです。危険極まりない。


【安全装置としてのランドセル】
 ランドセルは高い位置に置くのが前提ですから、後ろに転んだときに後頭部を打つ心配がありません。人間は前頭部や側頭部を地面に当てて転ぶことは稀なのです。手は自然に出ます。しかし後ろに転んで手で防げる人はいません。
 ランドセルを背中の高い位置に置くと少し前かがみになりますから、もともとうしろには転びにくいのですが、何かの事故で後ろに倒れたときは、ランドセルが緩衝体になるとともに頭を打つ危険からも守ってくれるのです。

 さらに意外かと思いますが、ランドセルは中にものが入っていても水に浮きます。背中のものですから水の中でうつぶせになりがちになります、高学年の子ならうまく利用できるでしょう。
 また流れの速い川などに落ちた場合は、ランドセルが目印になって大人が追いやすい。これも優れた能力と言えます。

 ランドセルは完璧です。もしその重さが問題だとしたら、中に入れるものがいけないのです。


【置き勉ができない二つの理由】
 脱ゆとりで学習内容が増えたという説明もありますが、これはもう小学生の教科書がB5版からA4版に変わったことが一番でしょう。その際に文字のポイントは大きくなり、図版も増え、ドラえもんが走ったりするようになりましたからページ数は減っていない。もともと重かったランドセルの中身がさらに重くなったのです。
 それなら必要のない教科書やノートは学校に置いておけばいいじゃないか、というのが当然の理の帰結です。これを「置き勉」と言います。しかし学校はやらない――。

 これについては教師が頑固だとか、体を鍛えるためにそうさせているのだとか、たくさんの悪意に満ちた推論が出回っていますが、実はひとつには「必要なものだけ持って帰させる」ということが至難だということがあります。

 小学校で子どもたちが理科室や家庭科室に移動するときの様子を見たことがありますか? 普通の先生は点呼と持ち物チェックをして、それから列をつくって特別教室に移動するのです。そうしないと誰かが必ず忘れ物をする、場合によっては子ども本人が行方不明なる。それが小学校なのです。

 ですから置き勉も帰りの会で
「さあ、今日持ち帰るものを集めますよ。まず算数の教科書とノート、それを机の上に置いてえ〜。次は国語、行きますよ。まず教科書、漢字ドリル、出したかなあ〜」
とかやって全部机の上に揃ったらもう一度確認して、全部をランドセルに入れさせます。そういうことを毎日しなくてはなりません。
 大した手間ではありません。ものの5分でもできることとも言えます。けれど帰りの会では持ち帰りチェックの前にやらなくてはならないことが山ほどあるのです。その5分はとても負担になります。

 置き勉のできないもうひとつの理由は、具体的でしかも決定的。とにかく置き勉を置く場所がないのです。

 机の中に入れると重くて掃除ができない。
 教室うしろのロッカーはランドセルや給食着、体操着でいっぱい。冬場はコートが入りにくいほどです。おまけに時期によっては絵具セットや裁縫セットも入っていますから、そう簡単に空間を生み出すことはできません。置いたとしても、普通の子どもの整理能力では中はたいへんなことになってしまいます。

 解決策としては、とにかくロッカーを増やすこと。できれば高さがA4サイズで整理しやすいものを設置するしかありません。このさいですから絵具セットや裁縫セットも置けるようにしましょう。 
 私は児童館の仕事をしているときに20人分のロッカー(といっても間口60cm四方の棚)を発注したことがありますが、価格は30万円でした。40人分だと50万円程度でしょうか?
 全国には小学校だけでおよそ2万の学級があるそうですから100億円程度で済む話です。ただし窓辺の設置だと落下防止の安全柵も置かなくてはなりません。ロッカーの上に乗って窓から落ちそうになる子は、いつか必ず出ます。また、そもそも教室に設置する場所のない学校だってあります。そうした学校ではロッカールームの設置から考えなくてはなりません。

 そんなことより宿題をなくせば教科書などの持ち帰りはしなくて済む、という考え方もできます。給食を廃止すれば給食着を持ち帰って洗濯をする手間もなくなり、子どもの負担も減るでしょう。いっそのこと勉強自体をなくしてしまえば、教師も子どもも気楽だなと、二日連続でイライラしている私は思います。

(この稿、終了)
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2022/6/16

「結局、何をやっても教師がアホ、教師が悪い」〜ランドセルの何が悪い!@  教育・学校・教師


 「さんぽセル」という不思議な道具がメディアを闊歩している。
 ランドセルがキャリーバッグになるのだという。
 ネット上は議論百出・百花斉放。
 そして結局、学校が悪いのだという結論に至った。

という話。
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(写真:フォトAC)

【「さんぽセル」の話】 

 私はそれほど気の短い方でも苛立つ性格でもないと思うのですが、それでも年に数回、自分の気持ちが抑えられずに、数時間イライラを続けて苦しむことがあります。梅雨入りもあってのことか、今日はそうした珍しい一日で、部屋で一人、何かを投げつけたい気持ちでじっと我慢していました。

 直接のきっかけはランドセルです。
 栃木県の小学生がタイヤの着いた二本のスティックをランドセルに装着し、キャリーバッグのように軽く運べる装置を開発・発売、それがYahooニュースに掲載されたところ、1000件を越える大人に批判が寄せられた、というのが事の発端のようです。
 そうした批判にマスメディア・ネットメディアは激しく反発し、尾木ママだのマツコ・デラックスだの安藤優子だの千原せいじだのを次々と繰り出して、ランドセルに固執する人々を「日本では未だに、根性論でしょうか? 情け無い限りですね」(尾木)などと揶揄する状況が生れました。
 それでもランドセル派は屈せず、賛否両論の応酬を繰り返すうちに、議論はそもそもランドセルが重すぎる、いや重いのはランドセルの中身で、あんなものは学校おいておけば(置き勉)いいのに、教員たちは昭和の堅物ばかりで一向に改革の意思を見せない、いったいどうなってるんだ、という方向へ進んで、現在は学校と教員が矢面に立って「さんぽセル」賛成反対両派からの攻撃を受けている始末です。


【子どもたちに持たせてみればいいのだ】
「やっぱりな」
と私は思います。教育に関する論争は最後は学校と教育委員会と文科省を批判して終わりにすれば、万民が矛を納めて納得してくれます。

 私に言わせれば「さんぽセル」なんて、さっさと普及させておしまいにすればいいようなものです。
 あんなもの、日本で一番、坂や階段の多い長崎の市立小学校で使わせればあっという間にケガ人続出です。重いキャリーバッグで階段を上り下りすることがいかに大変かは、一度でもあれで旅行した人ならすぐに分かるはずです。かと言って長崎市内の通学路すべてにエスカレーターやエレベーターをつけるわけにも行かないでしょう。

 そもそも小学生があんなものを好きになるはずはないのです。なにしろ走れませんから。走ろうとすればすぐに振り回されてしまいます。
 直線だけならまだしも、激しく右左に動かなければならない場所でしかたなく重いバッグを抱きかかえて走った経験のある大人だって少なくないでしょう。子どもは走るのが大好きですから、キャリーバッグなんて好きになるはずがないのです。

 背負いカバンにもなるツーウェイ方式だそうですが、歩道橋を昇るたびにスティックを収納してカバンを背負い、下りたらまたキャリーバッグに戻すといった小まめなことを期待する人は、子どもを知らなすぎです。もしかしたら背負う子もいるかもしれませんが、その時はスティックを立てたままで、どこかに引っ掛けて転ぶのがオチでしょう。

 さっさと持たせて、さっさと終わりにしてしまいましょう。どうでもいいことです――と言いながら、どうでもよくないのは「昭和の堅物、いつまでも根性論に縛られるアホ教師」の問題です。


【結局、教師が悪いというところに話を持って行く】
どんな場合も、結局、教師が悪いというところに持って行って話を納めるのがメディアの常套です。

 元々は教師の働き方改革、過剰労働の軽減といったところから始まった部活の地域移行問題も、今や、
「担当する競技に何の経験もない教員が顧問になることで、過剰な練習やそれによるケガ、体罰・いじめが横行する。そうした危険、過剰労働による教師の疲弊にも関わらず部活動がなくならないのは、結局、部活をやりたくて教師になったBDK(部活大好き教師)が抵抗勢力となって拒んでいるからだ」
という教員分断、同士討ちみたいなところへ進んでいます。BDKが日本の中学校の部活文化を創り固執している、中でもBDK上がりの校長が最も始末が悪い――。

 そこには部活動をやりたくてしょうがない生徒の姿も、部活で子どもを輝かせようと熱心な保護者の姿もありません。部活のおかげでよい人生が送れるようになったという大人の声も、部活を足掛かりに日本の競技スポーツを支えてきたと自負する人々の声も、全く聞こえてこないのです。部活動は今や”悪“そのものです。
 したがって部活動の地域移行は、危険で高圧的な教員から子どもたちを守り、健全な青少年スポーツへ移行させようという問題になっています。
いいでしょう。地域にそれを担えるプロが何人揃えられるか、見ていましょう。


【とりあえず教師はアホだというところから話を始めよう】
 思えば教育問題は常に思い込みとアホ教師論によって弄ばれてきました。
 
 私が教員になった1980年代、国語科の教師は、
「いまだに明治以来の音読に固執するアホ教師たち。今の日本のどこに声を出して文章を読む世界があるのだ。なぜ黙読の時間を削るようなことをするのだ?」
などと批判されたものでした。2001年に齋藤孝著「声に出して読みたい日本語」が出版されてベストセラーになるまでは、です。
 ところがしばらくしたら、
「学校はなぜ日本語の音のすばらしさを教えようとしないのだ。『声に出して読みたい日本語』では〜」
となり、きちんと音読させない教師はアホ扱いとなりました。

 最近では「三角食べ」です。
 食器ごとひとつひとつ始末するように食べる片付け食い(ばっかり食い、ばっか食い)が問題になると急に「三角食べは日本古来の食べ方」だとか「すべての食材をまんべんなく食べられるためバランスがよい」とか「口の中でお米と副菜が混じり合うことで味のバリエーションが広がる」とかいって持ち上げられようになりましたが、つい最近まで教師の暴力の代表格でした。今日現在(2022.06.16)でもWikipediaには「三角食べの方法は過度の指導により管理教育につながっていた」とか「具体的には、パン → 牛乳 →おかずなどのような一方向のみに食べることが児童生徒に強制された。従わない子には体罰も行われ、管理教育の手段にもなった」とあります。
 *Wikipedia「三角食べ」


 教師からすれば「バッカ食い」の子どもたちは多くが最後にご飯を残す、味の薄いご飯だけでは食べられない(私だって食べられない)ので、結局給食を残すことになる、栄養士がきちんと計算した栄養価が摂れない、それが嫌だっただけのことです。バッカ食いの子は家では最後にご飯にしょう油や塩、ふりかけなどをかけて食べています。学校は障害や病気でもない限り、そうしたことで特別扱いはしません。

 こうしたことでは教師がいくら正しいことを訴えてもダメです。同じことを大学教授や外国メディアが行って初めて、正しいことが正しくなるのです。

 さて、ランドセルです。
 なぜあれはあんなにも重くなったのか。そしてなぜ学校は「置き勉」許さないのか――。

(この稿、続く)
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2022/6/11

「更新しました」〜キース・アウト  教育・学校・教師


学校での銃乱射事件があったばかりのアメリカで、日本の学校の「不審者対応訓練」が注目されているという。それはそうだろう。こんな安全な国で大真面目な訓練を20年以上も続けているのだから。しかし本音を言えば、やめることができないから続けているだけなのだ。安全教育は増えこそすれ、減ったりなくなったりすることは絶対にない。
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2022/6/3

「部活指導、好きでやっているわけじゃない」〜やたら熱心な教師たちの本音  教育・学校・教師


 部活動にやたら熱心な教師たちが、揶揄されたり煙たがられているらしい。
 本業をおろそかにした上、長時間練習や体罰に走りやすいのだそうだ。
 しかし部活がなくなるならまだしも、
 目の前に子どもがいて、それで手を抜けるのか?

という話。
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(写真:フォトAC)

【部活のBDKは仏教伝道協会ではない】 
 部活動のことをあれこれ調べていたら「BDK」という言葉が出てきて、意味が分からないので調べたら、出てきたのは「仏教伝道協会」。何か話が合いません。Wikipediaには他に「ブラック&デッカー」という電動工具メーカーもありましたが、これも違うでしょう。
 私が探しているのは部活に関わるもので、生き生きと清々しいものではなく、揶揄や嫌悪感をもって使われる言葉です。

 そこ出Google検索にかけたら、出てきました。元文部科学事務次官の前川喜平氏による「手抜き授業をする『部活大好き教師』は辞めよ〜前川喜平氏が示す『部活動改善』の方策とは?」(2018.09.19東洋経済ONLINE)という文章の中にあったのです。

 けっこうな長さの文ですが、表題にある「部活大好き教師」が出てくるのは最後の十数行だけ。そこではこんなふうに説明されています。
 学校の教師の中には、「BDK」すなわち「部活大好き教師」「部活だけ(しかしない)教師」と言われる人たちもいる。この類いの教師はもともと部活動が好きだから、いくらやっても負担感がない。そのため、生徒たちを過度の長時間練習や体罰などで肉体的・精神的に追い詰めてしまうことも起こり得る。
 一方で、本来の仕事である授業への取り組みはおろそかになりがちだ。


 現在SNS上では、「部活を守るために教員の働き方改革に抵抗する『守旧派』『抵抗勢力』『獅子身中の虫』みたいな扱いをされているのがBDKです。「課外活動なんだから、部活はやりたい人がやればいい」というときに想定されているのもBDKです。


【こうして私はBDKモドキとなった】

 私がこれに引っ掛かるのは、現職時代の私も、もしかしたらBDKに見えたかもしれないと思ったからです。
 ただ、当時の私が“部活、大好き”だったかというと、決してそうではありません。職務だと思ったからやったまでのことで、教科指導や生徒指導や道徳教育に一生懸命取り組んだからといって、大好きだからやったのではないのと同じです。ただ、部活については、それ以外に“生徒たちに惨めな負け方をさせたくない”という強烈な動機付けがあったのも事実です。それには部活に対する考え方を、根本的に変えるような思い出がありました。

 二番目に赴任した中学校で、私は最初バレー部の副顧問でした。初任校で学級経営に失敗したという経緯がありましたから、最初から正顧問はムリだと思われていたのかもしれません。
 転任して間もなく行われた市内大会でのことです。第一試合が終わって選手を休ませている間、私は体育館の観客席に上がって前任校の試合を見ることにしました。教科担任として知った子がたくさんいたからです。
 懐かしい顔を見られたのは良かったのですが、試合の方は散々でした。相手が強豪ということもありますが、前任校チームの未熟さは素人にもわかるほどで、まるっきり相手にならないのです。
 負けた選手たちの顔も見られないので、私は遠回りをしてチームの控室まで行こうとしました。ところがどこでどう間違ったのか、負けたばかりの前任校チームと鉢合わせをしてしまったのです。するとその中のひとりが、
「ああ、T先生じゃないの、久しぶり。私たち負けちゃったよ、見てた? メッチャチャクチャ弱かったでしょ」
 そんなふうに言って笑って見せます。泣くこともできない、もう笑っちゃうしかできることがない、そんな印象でした。
 翌年正顧問になることが決まっていた私は、そのとき誓ったのです。
「相手がどんな学校であろうとも、負けるにしても全セット、必ず半分以上の点数を取る。子どもに惨めな思いはさせない」

 しかし後から考えるといかにも素人くさい決心で、市内とは言っても優勝するようなチームから半分以上の点数を取るには、ベスト4以上の実力がなければだめだったのです。かくして私は“部活の鬼”になりました。まさにBDKです。 


【惨敗は許せない。親も許さない】
 信念から、あるいは性格的に、はたまた状況として、部活に熱心に取り組めない(取り組まない)先生がいることは私も知っています。ことさら非難するつもりもありません。
 しかしそうした人たちは、野球なら0−21、バスケットボールなら2−52、バレーボールなら2−25、3−25で自分のチームが負けたとき、生徒たちの顔を見てどう思うのでしょう?

 私の娘のシーナはクラスで一番のチビなのに、中学校のバスケットボール部では選手でした。本人が異常な努力をしたということもありますが、練習試合でひとつ勝って全員が泣くような弱小チームでしたから簡単にポジションを得られたという側面もあります。そして案の定、三年生の大会ではトーナメントの一回戦でぼろ負け、あっという間の敗退でした。

 私は熱心に取り組んでくれなかった中学校の顧問を密かに恨みました。確かに本人は背も低く、基本的運動能力にも欠けるところがあったかもしれません。チームの練習量も圧倒的に少なかったのかもしれません。しかしそれでも2年半、他の子も含めて、子どもたちは必死にがんばってきたのです。決してあんな惨めな負け方をさせていいものではありません。


【好きでやっいてるわけじゃない】
 これは正義の問題ではありません。
部活動は教育課程にない課外活動だとか、部活指導は教師のサービス残業によって支えられているとか、本来は学校のすべきことではないとか――それらは全部正しく、改善は一刻も早くなされるべきだと私も思います。しかしだからといって改善の進まない今、目の前の部員の指導をおろそかにしていいということにはならないと、私は思うのです。

 私は部活顧問なんてちっとも好きではありません。ですから小学校に異動して部活がなくなり、土日が自由に使えるようになると本当に幸せでした。しかし再び中学校に戻っていたら(実際に何度も希望しましたが結局かないませんでした)、以前と同じように部活動に熱心に取り組み、BDKと呼ばれても不思議のない生活を続けたと思います。初任校のバレー部や娘が味わった思いを、教え子にはさせたくからです。

 実際問題として、部活動をするために教員になったり、部活動が好きで好きで何としても続けたいと思ったりしているような真のBDKは、どれくらいいるのでしょう?
 仮に部活動の地域移動が成功して、教員が副業届を出さなければ指導者になれなくなったとき、それでも指導を続けるBDK。もちろん土日のみの民間移動でしかも受け手がいない、といった中途半端な状況では続ける人もいるかもしれませんが、完全移行が進んだら100人にひとり(10校にひとり)も残らないと私は思います。BDKに見えるほとんどの教師は、必要に迫られ、誠意のみで働いているのですから。

 そんな私のような人たちも、前川氏のような人間から見れば、
 もともと部活動が好きだから、いくらやっても負担感がない。そのため、生徒たちを過度の長時間練習や体罰などで肉体的・精神的に追い詰めてしまうことも起こり得る。一方で、本来の仕事である授業への取り組みはおろそかになりがちだ。
ということになる。納得できませんね。
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