2021/1/12

「年賀状じまいの話」〜年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様@   生活


 今年も「年賀状じまい」を書き添えたハガキが何枚か届いた。
 お歳や私との関係を考えると無理もないと思う。
 しかし「年賀状じまい」は、“もう出さない”というあいさつであっても、
 受け取り拒否ではないはずだ。
 やはりあの人たちには見ていてもらいたい、だから来年も書くだろう、
 そんなふうに思った

という話。
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【年賀状じまい】
 正月も10日を過ぎると年賀状の返信もなくなりますから、毎年成人の日前後が年賀状整理の日ということになります。

 ここ二十年あまりははがき作成ソフトで住所録を管理していますので受信した年賀状については丸印をつけ、ついでに(普通はそんなことはしないと思うのですが)来年の発信欄にも丸をつけておきます。もらった年賀状の記憶がはっきりしているうちに来年出す相手を決めておくと、年末に迷う必要がなくて便利なのです。
 この先も長く関係を保ちたいと思う相手には自信をもって丸を付け、今年限りだろうなと考える相手の欄は「―」のままにしておく。なんだか互いにだらだらと続けているようなので、とりあえず年末には書かずに様子を見ようという相手の場合も「―」のままです。絶対に出さないという意味で「×」をつけることはありません。
 年末が近づいて改めて住所録を見ると、「あれ? どうしてこの人に出す気になったのだ?」と思う場合もありますが、そこには何か思い出せない特別な理由があるはずで、だからそのまま出すことにします。

 年賀状との取り組みは、おそらく多くのひとがそうだと思うのですが結婚を機にきちんと書くようになりましたから、かれこれ三十数年、毎年同じ作業を続けています。ところがここ数年、今までになかったことが起こっています。それは年賀状じまいです。
 今年は3通ありました。


【それぞれの場合】
 亡くなった父の妹に当たる叔母からは、こんな添え書きのある賀状が届きました。
「私も今年で八十九歳になりますので、本年をもちまして、失礼させていただくことになりました。今後も変わらず、よろしくお願いします」

 この人は私が生れた六十数年前にわずか二間しかない市営住宅に一緒に暮らしていた、母にとっては小姑に当たる人です(姑も一緒にいた)。若いころは大変な美人でスタイルも良く、田舎ではありがちですが、そのままお淑やかだったりすると周囲から浮いてしまうので、かなり明け透けでがらっぱちな性格に育った人です。
 覚えていないのですがとてもかわいがってもらったようで私その叔母が大好きで、4歳か5歳のころ、結婚して横浜に行ってしまったときには泣いて新郎に襲いかかったといいます。
 そんな叔母から「年賀状はもういいよ」と言われるのはかなり引っ掛かりますが、89歳にもなれば何かと面倒なのでしょう。93歳の母を見ていれば分かります。

 あとの2通は職場の先輩。
 一人は二回目に赴任した中学校の教頭先生、もうお一方は初めて小学校の教員になったときにお世話になった学年主任の先生です。

 学年主任の方は添え書きのない印字だけの賀状で、
「私、高齢となり、今年をもって年賀のご挨拶を卒業させていただきたく存じます」
 教頭先生の方は普通の賀状の添え書きとして、
「身辺の整理のため、本年をもって賀状でのご挨拶を失礼させていただきたく、お願いいたします」
とありました。

 前者については、
「ああ、賀状を通じた関係の全部を切ってしまうのか」
と一瞬、天を仰ぐような気持ちになります。詠嘆とも感嘆とも言える、何とも説明のできない気持ちです。
 しかし後者については解釈が必要でしょう。

 最後のお別れくらい自筆で書こうとお考えになったのか、引き続き出したい相手には出すものの私はその人選に漏れたということなのか。けれどあとの方だったとしても悲観的になる必要もありません。なにしろお別れしてから30年以上も経つというのに、その間に顔を合わせたのは共に在籍した学校の校長先生の葬儀のときだけ、私の方が不躾だったわけですから。


【さてどうする】
 ふと思いついたのですが、「年賀状じまい」という言葉、いつごろから聞かれるようになったのでしょう?
 私の記憶だとここ数年に限ったことで、実際にもらったのは3年前が初めてです。それ以前はなかったように思うのです。

 年賀状というのは続くべき相手とはいつまでも続き、そうでない人とは自然消滅する、それが普通だと思うのです。この人とはもうそろそろだなと思って返事を出さずにいると、相手もそれと察して寄こさなくなる、それにもかかわらず出し続ける人にはそれなりの理由がある、だからただ受け取っていればいい、それが年賀状の妙だったような気がするのです。

 実際、私にも返事をもらえないまま何年も出し続けている恩人がいます。それは小学校時代の恩師だったり、特にお世話になった先輩、校長先生、教頭先生、同僚だったり――そうした人たちには私が元気で気持ちよく生きていることを知っていてもらいたいのです。言葉のやり取りが必要なわけではなく、私が先方のことを覚えていて、いつも心にとめていると知ってほしいのです。返事がもらえるかどうかは二の次です。

 そう考えたら、今年「年賀状じまい」をもらった人たちへの対処の仕方も見えてきました。
 来年は、その方たちにはいつにも増して丁寧な近況報告を加えた年賀状を出しましょう。その上で、上に書いた通り、私はいつまでも見ていてもらいたいのです、返事はいりませんから黙って手元に置いてやってくださいと、そんなふうに添え書きをすればいいのです。

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2020/11/27

「岩手県ですらダメだ。食事中は黙って食べろ!」〜感染拡大第三波の憂いと覚悟C   生活


 あれほど長く感染者ゼロを続けていた岩手県が、今たいへんなことになっている。
 日本で感染者が少なかったのは単なる偶然だったのかもしれない。
 もはやこの国で誰も、枕を高くして眠ることなどできないのだ
 三密を避け、五つの小を守り、飲みたい人は10日に一度。
 そして思い出したのだが・・・黙って食べろ!

という話。
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(写真:フォトAC)

【岩手県はどうしている?】
 昨日までの新型コロナウイルス感染者数を47都道府県別に並べると、人数の少ない方から5県は鳥取(57人)・秋田(83人)・山形(111人)・香川(135人)・島根(144人)の順になります。
「あれ?」
と思われた方もおられると思いますが岩手県がありません。

 岩手県と言えば、日本中が怯え震え上がっていた第一波感染を難なくすり抜け、第二波も感染者の増加が天井知らずで、一日の感染者が間もなく1000人を越えようという7月28日になって、ようやく最初の2名が報告された奇跡の県です。全国に比べて異常なゼロ続きでしたから、初めて感染者が出たときはかえってホッとしたのではないのかと思われたほどです。自分が第一号にならずに済んだのですから。

 その7月28日以降も、県外で感染して帰って来ただけと思われる感染者がチラホラ散見されるだけで、今月8日に至るも、感染者はわずか30名、全国最少だったのです。ところが9日にひとり、10日に二人と報告され、11日に8人が報告されると瞬く間に数が増えて16日には鳥取・秋田両県を抜き、昨日夕方の時点では175人の感染者ということになっているのです。

 盛岡市内の消防分署、飲食店、そして最近では福祉施設内でもクラスターが発生し、「直近一週間の人口10万人あたりの感染者数」も昨日までで6・36人と三重・宮崎に続く17位にまで上昇しています(NHKまとめ)。

 特に心配なのは11月9日以降、感染者ゼロの日が一日もない点で、岩手県は新たな局面に入ってしまったことを伺わせます。


【誰も無事ではいられない】
 国際的にみると、これまで岩手県のように新型コロナ防疫の模範と呼ばれる国がいくつもありました。今となってはブラックジョークとしか思えないのですが、フランス・ドイツ・スウェーデンがその代表です。
 韓国では文大統領が「K防疫は世界標準となった」と高らかに宣言し、日本でも安倍前総理が「日本モデルの成功」を声高に叫んだものです。しかし今はどちらの国でもそんなことをいう人はいないでしょう。負け組とは言いませんがかなり怪しい雰囲気になってきました。

 先日からお話している、ニュージーランドや台湾、そして多くのアフリカ諸国も現在はうまいこといっていますが、最後までそうであることが保証されているわけではありません。
 今、感染者が極端に少ないのは「極端に少ないから少ない」という自同律みたいな理由からかもしれません。新品の洗濯機や新しい住宅の風呂がカビにくいのと同じで、いったん入り込まれて一時的にしろ占拠されると簡単になくすことができないのかもしれないのです。それができるのは、中国のようなIT大国かつ強権国家だけです。


【新型コロナ感染の三つの局面】
 コロナ感染にはまず「ほとんど感染者がいないから感染が広がらない」という時期が最初にあり、次に「特定の場所で繰り返し感染者が現れ、なかなか消えない、しかし大きくは広がらない」という時期があって、第3の局面では「場所を選ばずウイルスが常駐し広がる」時期があるということになっているのかもしれません。
 それぞれに臨界があり、一定の状況が生れないと次の局面に進まない――そんなふうに思えるのです。
 そして今や日本も第三の局面に入っているのかもしれない――それが私の憂いの正体です。

 今年の2月〜3月、韓国とイタリアで爆発的な感染が始まったとき、日本が例外であったのは花粉症の時期でマスクをしていた人がやたら多かったから――その程度の理由かもしれません。
 4月11日を頂点とする第一波を大型連休に観光地どころか職場にも行かないという準ロックダウンによって収め、6月末からの第二波もお盆休みと夏の換気の良さ、そしてなによりも発生場所が「夜の歓楽街」という狭い範囲であったことによって回避できたものの、今回の第3波はどこにも好条件がない、だからヨーロッパ並みに蔓延する、そんなふうにも思えます。

 鬼滅の刃ではありませんが、鬼はすぐ隣にいるかもしれず、また、私自身がすでに鬼になっているのかもしれないのです。


【黙って食べろ!】
 何かよいアイデアがあるわけではありません。
 三密を避け、手洗い・マスクをきちんとして、飲むなら家飲み。

 どうしても外で飲みたい人は「10日に1度月3回」(MEDIAN TALKS『東京都医師会長が年末年始に向け呼びかけ「飲み会は10日に1度、月に3回で」』)。
 五つの小(「少人数」「小一時間」「小声」「小皿(に取り分ける)」「小まめ(な手洗いやマスク着用)」)

――突然思い出したのですが、子どものころ、食事の時間に父親が一番うるさく言ったのが、
「食事中は黙って食べなさい!」
でした。
 昔はそういう道徳があったのです。

「いただきます」と言ったからには私たちのために命を投げ出した動物や植物たち、それらを育てるために汗水流した生産者たち、それらが食卓に並ぶまでに関わったすべての人々に感謝し、心を込めて味わいなさい――そういうことです。

 いまさらの道徳観ですが、コロナ禍が去るまでのしばらくの間、我が家でも励行してみようかと思います。一部の学校ではすでに行っていることですから。
 日本をヨーロッパや南北アメリカのようにしてはいけない。

(この稿、終了)

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2020/11/19

「台所革命は女性を幸せにしたのか」〜モノによってもたらされる幸せD  生活


 水と火の支配、冷蔵庫と洗濯機が台所革命の肝だ。
 母の世代はそれをわずか十数年で完成してしまった。
 そこで浮いてきた時間はおよそ6時間半
 果たして母たちはそれで幸せになったのだろうか

という話。
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(写真:フォトAC)

【台所に水道が入る】
 火と水と洗濯機と冷蔵庫が台所に革命を起こす――。
 この中で最初に我が家に入ってきたのは水でした。どう変わったのかというと、逆に現代の家屋から水道が一切なくなることを考えてみてください。水洗トイレがボットントイレ、出てきたところの手洗いは溜め水、もうこの段階で「む〜〜り〜〜」という人も多いでしょう。
 風呂の水は、もちろんポンプ付きの屋内井戸でもあればいいのですが、そうでなければ外から窓越しにバケツで一杯一杯投げ込む、または風呂自体を屋外に出すしかありません。もっとも私の家は銭湯通いでしたからそうした苦労はありませんでしたが。

 しかし何といっても台所に水道がないのは致命的でしょう。
 流し(シンク)の横に高さ1mほどの大甕が置いてあって、外(そと)水道からバケツで汲み移しそれを使っていたのです。ご飯のお釜に水を入れるのも味噌汁を作るのも、そこからヒシャクで一杯ずつ。手を洗うにも右手を洗ってからヒシャクを持ち換えて左手を洗う(あれ? 洗ったきれいな手で汚いヒシャクの柄を握っていないか?)。ですから台所に蛇口のついたのはまさに革命的だったのです。水を流しながら食器洗いができる。

 ところで流しの横の大甕は用がなくなってもしばらくそこに置きっぱなしになっていたのですが、いつも甕の縁に体を寄りかからせて母に甘えながら語り掛けていた私は、もう水がなくなって軽くなっていることを忘れて寄りかかり、そのまま手前に倒して割ってしまいました。私が土間に落ちるのと同時に甕が被さるように落ちてきたのですが、鮮やかに被ったらしくケガひとつしませんでした。


【火の支配】
 次に入ったのがガスコンロです。今でもバーベキューなどで引っ張り出されてくる、あのプロパンガスのボンベと鋳物のコンロの組み合わせです。
 実はその前に調理に特化した石油ストーブみたいな「石油コンロ」というものがあったのですが火力弱く、ご飯を炊いたり炒め物をするにはまったく不向きでした。そのためごく短い期間でお役御免になったと記憶しています。

 また、ガスコンロが入ってから間もなく、今度は「電気炊飯器」というものも導入され、これでご飯を炊きながら調理するというマルチ・タスクが可能になりました。
 もう薪のお世話になることもなく、新聞の切れ端から次第に火を大きくして、炊き終わったあとは灰や燃えさしの始末をするという面倒もなくなりました。
 それで母が節約できた時間はざっと1時間。やがてタイム・スイッチというものを購入すると、夜のうちにセットしておいて母はご飯の炊ける匂いとともに目を覚ますことができるようになったのです。
 ほんの数年前まで、ご飯の匂いで目覚めることのできたのは家政婦を雇える身分の女性だけだったはずなのに――。


【冷蔵庫と洗濯機】
 そのどちらが先に入ってきたかについて記憶がありません。しかし負担軽減という観点からすると「母さんは川へ洗濯に」行かなくて済む洗濯機の方だったように思います。
 今もある二槽式洗濯機から脱水機をなくしたのと同じ大きさの水流式で、洗濯槽の端に二本のローラーを上下に重ねたような装置がついていました。その間に洗濯ものを挟み、取っ手を回して反対側に押し出す仕組みになっていたのです。要するに洗濯物をスルメ状態して水分を絞り出す仕組みです。

 住宅が建てられた時にはまったく予定されていない(そもそも存在さえ知らなかった)機械です。だから置き場所に困って、我が家では狭い玄関の三分の一も占有させて設置しました。夏場はまだ小さかった弟の行水にも使われ、けっこう面白がったものです。もちろんスイッチを入れて弟を回したり、ローラーに挟んでスルメにしたりはしませんでした。
 これで母は2時間近い時間を節約することになったのです。

 冷蔵庫の方は当初、今ほど重要な装置ではありませんでした。というのはそもそも冷凍食品というものがありませんでしたし、肉や魚、野菜などの生鮮食品はどんな田舎にも専門店があったからです。
 我が家に冷蔵庫が入ってうれしかったのは真夏に冷たい水が飲めることくらいで、母の労働時間が決定的に削減されるということもありません。しかしやがて各地にスーパーマーケットができるようになり、人々は少し距離はあっても安いそちらで買い物をするようになると、近隣の肉屋だの魚屋だの八百屋だのが次第に潰れていき、毎日買い物というわけにはいかなくなります。買い貯めが必要になると冷蔵庫の重要性はゆっくりと高まって行ったのです。
 毎日の買い物をしなくなって母が稼いだ時間は、およそ2時間でした。


【台所革命は女性を幸せにしたのか】
 火の支配で朝夕2時間、洗濯で2時間、買い物で2時間、あれやこれやで30分――30歳代で母が節約することのできた時間はざっと6時間半になります。しかし、それでは勤めに出ようとなると最低9時間は必要です。
 そこから「家事だけで過ごすには時間があまりすぎる、働きに出るには足りない」というジレンマが生れ、その状況は今も変わっていません。女性の多くがパート労働にしか就けないのは、こうした中途半端な台所革命のせいだとも言えます。

 しかしだからといって一家の中で一番早く起きて竈に火を入れなければいけない生活、かなり寒くなるまで川で洗濯をしなくてはならない生活、毎日買い物をしてそのたびに鮮度や買う量を検討しなくてはならない生活、そんなものに戻った方がいいはずもありません。
 世の中にはもちろん金で買えない幸せもありますが、金で買える幸せは数的にはずっと多いのです。必要なところには金を使い、手に入れるべきものは手に入れればいいのです。

 さて、ここで私は母たちの二番目の30年間(30歳〜60歳)で、日本人の生活に決定的な影響を与えた機器についてまだ説明していなかったことに気づきます。
 テレビです。

(この稿、続く)

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2020/11/18

「昔の生活:毎日が屋内キャンプ」〜モノによってもたらされる幸せC  生活


 母の第2のひと世代(30歳〜60歳)、
 その大きな変化を知るために、まず世代の始まり部分を見てみよう。
 それは私が5歳くらいまでの時期の、
 日本の田舎にありがちな風景なのだが・・・。

という話。
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(写真:ソザイング)

【アウトドアの何がいいの?
 空前のアウトドアブームとかで、最近では山林ひと山買ってマイキャンプ場にしてしまう人までいるそうです。理解できないことです。

 息子がボーイスカウトに入っていた関係でキャンプは何回も経験しているのですが、アウトドアの生活はとにかく朝から晩まで食事の世話をしている、そんな感じなのです。もちろん子どもたちはその間にネイチャーリングだのラフティングなどと体験活動を楽しんでいるのですが、残された親たちはかないません。
 朝、起きて薪を焚き、飯盒でご飯を炊いて食事の準備、朝食が終わると食器や調理用具を洗い、しばらくするとまた昼食の準備なのです。米粒の張り付いた飯盒などは水を貼って残り米をふやかし、洗うと同時に次の米を入れて炊き始める感じです。

 いま流行りの単独キャンプ、経験がないので分かりませんがボーイスカウトでやっていたあれを一人でやるとなると、ただ「作って」「食って」「洗って」「作って」「食って」「洗って」の無限ループにはまり込んでしまうと思うのですがどうなのでしょう?
 昭和20年代の主婦の生活はそれに似たところがありました。


【昔の炊事=室内で行うアウトドア】
 朝、起きて薪を焚いて――と、まずここが一苦労。今のようにガスバーナーとか固形燃料とかがあるわけではありませんから、新聞紙の切れ端に火を着けて竈(←この字が今の人はほとんど読める、鬼滅の刃)の中に入れ、その上に使用済みの割りばしを数本乗せる、そこに小さく折った枯枝を乗せ、様子を見ながら薪を小さいものから順に積んでいく。
 それができないと何も始まりません。
 (ちなみに「使用済みの割りばし」というのは中華料理屋やレストランから集めたものが販売されていたのです)

 竈に火が入るとそこから飯を炊きます。「はじめちょろちょろ、中パッパ」というあれです。ご飯を炊いている間に野菜を切ったり魚を開いたりします。
 先ほどの続きで、「プチプチいったら火を落とし」ですから、米の入ったお釜がプチプチいい始めたら竈から薪を掻き出し、「火消し壺」と呼ばれれる壺に入れていったん鎮火させます。
「赤子が(お腹が空いて)泣いてフタ取るな」で、お釜はそのまま放置。

 次に火消し壺から燠(おき:薪の燃えさし)を取り出し、七輪に移します。アリアナ・グランデが「七つの指輪」と間違えた調理用具です。燠を入れて上に鍋を乗せたり網を乗せたりして調理するのです。そこで味噌汁をつくったり魚を焼いたりします。
 ここまでを1時間以内に収めることができたら立派な主婦です。


【水道があれば文化的】
 朝食が済んで夫や子どもを送り出すと後片付け。
 昨日も話したように水道の蛇口は屋外に隣家と共有のものが一つあるだけで、日常遣いの水は台所の流し(シンク)の横にある大甕(おおがめ)に溜めておいて、必要に応じてヒシャクですくって使います。皿洗いは、左手で水をすくってかけながら、右手一本で行います。
 何かものすごく旧式めいていますが、「水道の水」と書いただけですでに文化程度が1ランク上なのです。私と同い年の友人の中には朝の最初の仕事が井戸の水くみだという人だっていますし、昭和40年代でも箱膳(はこぜん)で食べていたという強者だっていたのです。

 箱膳というのは一辺30pほどの箱にご飯茶碗と什器、そしておかずを乗せる小皿を置いて行う食事で、食べ終わると湯の入ったやかんが回ってくるのでそれで食器を次々と軽くすすぎ、洗った湯は飲みほして食器は箱の中に戻します。脂っこいおかずのほとんどない時代ですから水洗いでも十分だったのです。
 ここまでくるともほとんど江戸時代と言ってもいい状況です。
 

【買い物は毎日】
 朝食の片づけが終わったら昨日お話しした「母さんは川で洗濯に」ですが、ひとしきりして終わると、河原に脱水機や乾燥機があるわけではないので濡れてすっかり重くなった洗濯物とたらいを担いで戻り、庭の物干にかけます。
 いま思い出したのですが現代のように10連の洗濯ハンガーだのピンチハンガーだのいったものはなく、洗濯物は全部、物干竿に通すか掛けるかしました。ですから一家で使う物干竿の数も増え、上下二段になって4本以上。高い段に竿を移すサスマタみたいなY字型の棒が、どこの家にも必ず置いてありました。
 
 だいたいここまでで午前中の作業は終了。母は冷えたご飯とおかずで簡単に昼食を済ませると内職に向かいます。
 2〜3時間仕事をすると買い物の時間。冷蔵庫のない時代ですから特に夏場は、その日必要なものを必要な分だけ毎日買わなくてはならなかったのです。
 夕飯の準備は朝と同じように竈に火を着けるところから始めます。

 言い忘れましたが私の家では清掃は父の仕事で、朝、母が食事の用意をしている間に行いました。冬のどんなに寒い日でも窓全開で埃を外に掃き出します。その前に布団を畳まなくてはならないのですが、いつも寝坊の私は埃と一緒に布団から転がし出されたものでした。

 さて、こうやって並べてみると、台所革命はどこで起こせばいいのかすぐに分かってきます。要するに火と水、そして洗濯機と冷蔵庫なのです。

(この稿、続く)

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2020/11/17

「母さんは川へ洗濯に、子どもたちは風呂に水を運んで」〜モノによってもたらされる幸せB  生活


 二世代(60年)遡るとこの国の中に別の世界が現れる。
 若い人たちは親である私たちの世代までしか知らないだろうが、
 もう一つ上の人々、祖母たちが働き盛りだったころは、
 半ば江戸・明治期と変わりないところから、生活を始めていたのだ。

という話。
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(写真:ソザイング)

【私の家から家族の家へ】
 昨日、「昭和27年に私の両親が結婚したとき、父が持ってきたのは小さな文箪笥ひとつだった」という話をしましたが、平成元年に私が結婚したとき、妻が持ってきたのは布団一組と巨大なワープロセット(業務用)、そして自分自身の仕事道具だけでした。しかし私の両親の場合とは異なります。結婚が遅かったこともあって、当時借りていた私の教員住宅には基本的なものはすべてそろっていたのです。あえて持ってくるほどの何ものもありませんでした。

 私からすると室内の雰囲気はまったく変りないまま新婚生活が始まったわけですが、自身の仕事に夢中になって手元ばかり見ていると、視界の隅で妙な動きをする見慣れないものがある、そういうときはたいてい妻でした。それだけが異質なものだったのです。
 そんな「私の家」は、「二人の家」になるまでには結構時間がかかりました。正確に言えば「二人の家」になる前に子どもが生まれましたから「三人の家」になってしまったわけですから、「私の家」から一気に「家族の家」になってしまったわけです。
(誤解のないよう言っておきますが、最初の子は平成2年生まれですから計算は合います)

 母たちは違いました。
 何しろ6畳と4畳半の二間に文箪笥しかないところからの出発ですから、ひとつひとつ、すべてを買いそろえて行かなくてはならなかったのです。


【母さんは川へ洗濯に】
 話をいったん現代に戻します。
 つい最近のことですが、家族ぐるみで付き合っているご家族の三番目の娘さんのところに赤ちゃんが生まれ、出産祝いを届けるとともに抱っこさせてもらいに行きました。私は乳飲み子を抱くのが大好きなのです。

 その席でこのあいだ娘に洗濯機を買ってやった話から、昔、私の母の世代では川に洗濯に行くこともあったとそんな話に花を咲かせたのです。

 ウソではありません。
 私が生まれ育った家は一級河川の堤防下の市営住宅で、洗濯物とたらいをもって5分も歩けば川に行けたのです。一級河川と言っても河口から何百qも離れた山間の盆地ですから川幅も狭く、石もゴロゴロしています。そこにたらいを並べて、近所のおかみさんとムダ話をしながら洗濯をするのです。

 洗い終わった水はそのまま川に流しています。すすぎは2〜3歩川の中に入ってジャブジャブゆすぐだけです。
 今ほど環境保護にうるさくはありませんでしたし、合成洗剤ではありませんから「三尺下ればただの水」になってしまうわけです。
 もちろん薄氷の張る冬場はできませんので、台所で大量の湯を沸かし、庭で水道の水と合わせてたらいで洗います。「庭で水道の・・・」というのは、隣家と共有の蛇口が庭にひとつあるだけだったからです。


【銭湯帰りの戦闘】
 赤ん坊を抱かせてもらいながら、基本的には母親になったばかり娘さんに向けて話していたのですが、驚くその子に向けて、今度は私と同年配の母親(赤ん坊からすれば祖母)が話し始めます。
「そうよ、私の家なんかお風呂が川の水だったのよ」
「五右衛門風呂?」
「そう。川と言ってもすぐ横に小川が流れていて、そこから水を汲んで炊いたの」

 その話を聞きながら、五右衛門風呂でもあるだけで羨ましいと思いました。私の家はずっと銭湯だったからです。しかもけっこうな距離があって、私は父の自転車の後ろに、弟は母の自転車の後ろに乗せられていきました。しかも冬場などはとんでもなく厚着をしていかないと帰りに冷えてしまいますから、だるまさん状態で行って帰ってくるのです。それだけでもひと仕事です。

 けれど厳寒の銭湯行にも楽しみはありました。それは家に帰って弟とするチャンバラごっこです。 わずか15分〜20分程度自転車に乗っていただけなのに、その間に濡れたタオルが凍りついて硬い棒のようになってしまいます。それを刀に見立てて切り合いをするのです。しばらく戦っているとやがて室内の温かさで刀が緩んできます。そこで先に刀が折れた方が負けなのです。たいていは握っている手の部分でクネッとなりますから、いかに強く握らないかが勝負の分かれ目でした。

 何年かすると自宅にも風呂ができましたが、それは私の母の父親――つまり祖父に当たる人がどこからか廃材を集めて建てた掘立小屋の風呂でしたから、冬は寒くて使えず、銭湯帰りのタオルのチャンバラはけっこう大きくなるまで続けられました。


【家庭生活における技術革新、生活革命】
 結局、冬でも入れる風呂は父が家を建てる中3の春まで待たざるを得ませんでした。それでも春から秋にかけて、家で好きな時に入浴できるようになったことは画期的でした。
 しかし――画期的でしたが、今から思うと家庭生活における技術革新、生活革命といった意味での家庭風呂のランキングは、実はかなり低いものだったのです。
 それよりもずっと大切なこと、革命的なことはたくさんありました。
 その製品や機器、道具が入ることによて家族の日常がガラッと変わり、あらゆるものが楽に簡単にできるようになる――そんな体験はまず台所から始まったのです。

(この稿、続く)


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2020/11/13

「瞬間湯沸かし器と電子レンジの生活革命」〜モノによってもたらされる幸せ@  生活


 娘からドラム式の洗濯機を買ったら生活が天国のようになった、
 と連絡があった。
 モノによってもたらされる幸福というのが確かにある。
 私の場合、それは「瞬間湯沸かし器」と「電子レンジ」だった。

という話。
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(写真:フォトAC)

【シーナ、舞い上がる】
 娘のシーナの家について前々から気になっていたのですが、年がら年じゅう洗濯物と格闘していて休むいとまがない。
 何しろ小さいとはいえ汚し盛りの男の子が二人いて、特に下の一歳児は給食やおやつの時間に自分が食べるのと同じくらいの食物をシャツやズボンに浸みこませ、帰りには自分の体重と同じくらいの汚れものを抱えてくるのです。基本的な量が違う。

 自宅は東京の小住宅らしく小さなベランダが東側にしかなく、しかも南に隣家が覆いかぶさっているために洗濯物が陽に当たる時間はほんの数時間、おまけにアレルギーの家系で外に干せない日も多々。部屋の中はいつでも大型のクリスマス・オーナメントのごとき洗濯物に溢れてあちこちにつるされています。全自動洗濯機を持っているのでそれで乾かせばいいものを、量が多すぎて縦型の全自動ではうまく乾せないようなのです。

 そこで今回、ずいぶん昔からほったらかしにしていた貯金のひとつが満期になったのを機に、娘のためにパワーの大きなガス乾燥機を買ってやろうと思ったのです。退職してから気付いたのですが老人というのは本当に金のかからない存在で、私が使わない分を娘に使ってもらおうと思ったのです。

 シーナはもちろん喜んでくれました(こういうことではまったく遠慮することのない娘です)。しかしいざ調べてみるとガス乾燥機はパワーのある分、毎日のフィルター掃除は欠かせず、高い位置なので小柄なシーナには大変だとか、現在手持ちの洗濯機の蓋がまっすぐに立ち上がるタイプで乾燥機に引っかかってしまうとか――後から考えると計略のひとつなのかもしれませんが、結局、ガス乾燥機を諦めて代わりに洗濯機をドラム式に買い替えることにしました。乾燥機としての機能は縦型の比ではないそうです。しかし値段の方もガス乾燥機や縦型全自動洗濯機の比ではありません。

 私の目算だとガス乾燥機は配管排気工事を含めて12〜13万円程度ですが、ドラム式洗濯機だとその倍でもすみません。
 一瞬、気持ちが萎えたのですが、生来の見栄っ張りで“高いのは勘弁してくれ”とは言えず、そのまま買うことになってしまいました。
 けれどそれは案外悪いことではなかったのかもしれません。シーナの感激が半端ではなかったからです。

 とにかく何もかも投げ込んでスイッチを入れれば数時間後にはふっかふかの洗濯物が仕上がってくる。
 濡れた衣類を洗濯機から出す必要がない、ひとつひとつをハンガーやピンチハンガーに掛ける必要がない、屋外や室内の竿に引っ掛ける必要もない、屋内に戻す必要がない、ハンガーから外す必要がない、洗濯ものを畳む必要がない――ということはないけれど、もう天国だと、電話の向こうではしゃぎっ放しです。こんなことならもっと早く買ってあげればよかった。
 シーナの縦型洗濯機は私の家に送られてきて、ちょうど買い替えの時期だったので多少は資金を回収したようなものです。


【瞬間湯沸し器と電子レンジの生活革命】
 シーナは革命的に生活が変わったと言っていましたが、そこでふと、私自身の生活が革命的に変わったのはいつのことだったかと考えたら、40年近く遡らなくてはならないことが分かりました。
 もちろんその間に自家用車を買ったとか家を買ったとか、あるいはコンピュータを何台も買い替えたとかインターネットにつなげたとか、さらには携帯電話を購入したとかスマホに替えたとかいろいろありましたが、たいていは便利と同時に苦労も背負い込んだ感じで、浮き立つような嬉しさというものはなかったように思うのです。

 例えばインターネットのおかげでさまざまなことが簡単に調べられるようになりましたが、同時にいつまでたっても諦めがつかず際限なく調べ続けなくてはならなくなりました。書籍だけが頼りの時代は、市立図書館まで行って調べても分からないことはたいていそれ以上調べても分からないことでした。

 では私の生活に革命的な変化をもたらした道具は何だったかというと、それは「瞬間湯沸かし器」と「電子レンジ」だけです。

 「瞬間湯沸かし器」の方は今はほんとうに見かけなくなりましたが、いくつかのお宅では構造的には同じものが屋外についているはずです。簡単に言うと点火するとガスの力で瞬間的にお湯が出てくる装置です。本当に一瞬でお湯が出て来ます。

 それの何が画期的かというと、瞬間湯沸かし器のおかげでいつでもお湯で食器洗いができるようになったのです。それまでは水で我慢するか、やかんのお湯を右手でゆっくりかけながら左手一本で皿の表面をこするくらいのことしかできませんでした。――ということは、私のようなものぐさは皿を洗わない、ひいては自炊をしないということなのです。それが多少、自炊ができるようになったのです。
 瞬間湯沸かし器でいつでもお湯が出てくる暮らしは、本当に豊かな感じがしました。冬に顔を洗うのも嫌ではなくなったのです。

 電子レンジの便利さは今も大半の人が享受していますから改めて言うまでもありません。しかし初めてこの機器に出会ったときにどういう使い方が一番ありがたかったかというと――案外、理解されていないと思いますが――冷たいご飯がいつでも温められるということでした。
 もちろん当時も炊飯器に保温機能はついていましたが、一人暮らしはいったん炊くと2日くらい残ってしまうのでもたなかったのです。それが電子レンジだと一瞬にして温まる。買ってきた惣菜も作り置きした味噌汁も、すぐに食べられる――。

 電子レンジと瞬間湯沸かし器のおかげでようやく自炊ができるようになり、エンゲル係数のぐんと下がった私は、次第に貯金さえできるようになったのです。
 それはものすごく幸せなことで、以後、モノによってそれほどの幸せを味わうということは、たえてありませんでした。
 しかし実は、さらに遡ればもっと幸せな時代もあるにはあったのです。

(この稿、来週に続く)

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