2021/6/15

「昭和はさほど、昔じゃない」〜私たちの青春時代と今の若者の、それぞれの”30年前″を比べてみた  思い出


 平成、令和と改元が2回もあり、昭和はずいぶん遠くなったように思える。
 しかしあんがい生活は変わっていないのだ。
 私たちが明治・大正を見たのと同じような目で、
 若者たちが昭和・平成を見ているわけではないと思う。

という話。
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(写真:フォトAC)

【昭和:パソコンもスマホもない時代】

 どういう話の流れだったか覚えていないのですが。先日妻がこんなことを言いだしました。
「いまの若い人にとって『昭和・平成・令和』って、私たちの『明治・大正・昭和』っていう感じになるのかしらねえ」
 かつて自分が明治の人を見ていたような思いで、昭和生まれの自分は見られているのかしら、という方向に進んでいく話でした。
 
 妻は昭和30年代生まれなので、まだ「若い人」だったのは昭和50年代。そう考えると「明治・大正・昭和」は「65年以上前、50年以上前、現在」に相当します。
 ただし「今のひと」といっても令和生まれは最高齢でも3歳ですから、この子たちの時代感覚を問うわけにはいきません。そこで現在20歳の人を基準に考えると、この人たちにとっての「昭和は30年以上前、平成は3年以上前、令和は現在」。つまり私たちの「明治・大正・昭和」とはずいぶんずれがあります。もっとも明治も終わりではなく初年まで遡れば私たちの青春時代から100年前、昭和も元年まで考えると今の若い人たちの94年前ですから大差ないとも言えます。

 ただしそれは数字で示せる範囲のことで、主観的な時間となるとまたどうなるか分かりません。なにしろ昭和のころは、現代の必需品“携帯電話”はスマホどころかガラケーもなく、パソコンもかろうじて昭和の最晩年に、わずかに登場しただけです。それもプログラムを自作で走らせる高級なおもちゃで、ロクなソフトもなく(たいていは素人のつくった簡易ゲーム)、インターネットもありませんでした。


【21世紀は思ったよりも進んでいなかった】
 時代は変わったものですと、そんなふうに書きながら、現在が昭和とどれくらい違うのか、ざっと部屋を見回すと意外と変化の少ないことに気づきます。
 液晶の薄型大画面テレビはありませんでしたが、たぶんに意識の問題で、55インチのテレビを消して、途中から24インチのパソコンモニタで続きを見てもあまり苦になりません。昔の30インチテレビで見る世界も、そんなに小さなものではなかったような気がします。

 昭和には台所のIHレンジもなければLEDの照明もありませんでした。しかしガスレンジも蛍光灯もあり、妻などはIHになってから大胆な調理ができなくなったと嘆きますから、必ずしも進歩が良いとばかりは言えません。
 同じことは運転についても言えて、マニュアル車の、カーブの入り口でブレーキを踏みながらクラッチを切ってシフトレバーを忙しく切り替え、出口で繋いでアクセルを思い切り踏み込んで加速する、あの感じは失わずに済むものならそのままにしておきたかったものです。

 映画やアニメでは2001年には背広姿で宇宙旅行をし(「2001年宇宙の旅」)、2003年には胸に超小型原子炉を入れた人型ロボットがバンバン空を飛んでいる(「鉄腕アトム」)はずでしたから、それに比べると文明はまったく進まなかったことになります。

 しかしそんなものでしょう。
 近未来映画に描かれる風景はたいていが大都市ですが、「マイノリティ・リポート」や「AI」「エクス・マキナ」で描かれる郊外の風景は、21世紀であろうと22世紀であろうと現在とあまり変わりありません。それはそうでしょう。開発から取り残される地域は当然ありますし、太陽と水の恵みがある限り、農産物のすべて工場に移す理由はどこにもありません。

 私の住む田舎の風景で昭和と違うものあるとすればおそらく24時間営業のお店だけです。
 コンビニの24時間営業は1975年(昭和50年)に始まると言われていますが、全国に広がるにはけっこう時間もかかったのです。私など、昭和60年代に入っても遅くまで仕事をすると夕飯が食べられずに困った記憶があります。しかしそれ以外はほぼ昔のままです。
 都会でも、スカイツリーもお台場海浜公園もありませんでしたが、新宿副都心の超高層ビル群はありましたし目を低く置いたままだと、30年間、全く変わらない風景はいくらでもあるでしょう。


【結論:昭和はさほど昔ではない】
 一方、私たちが青春時代を送った昭和50年代から30年遡ると、戦争中だという点は覗いても、とんでもない生活の差があります。
 テレビはない、炊飯器もない、冷蔵庫もなければ煮炊きは薪。洗濯機もない自家用車もない、コンビニもないうえスーパーもない、ふろ場がない、トイレが外、場所によっては水道もない――これではタイムマシンで戻っても生活自体ができそうにありません。

 私たちにとっての「明治・大正・昭和(初期)」はたいへんな“昔”でした。敗戦と高度成長期が挟まりますから、風景自体がまったく異なるのです。
 今の若者からみる「昭和(後期)・平成」は、それに比べたら“ちょっと昔”くらいなものでしょう。そう結論して、夫婦の会話を終えました。

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2021/1/14

「ボヘミアンK氏を探して」〜年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様B  思い出


 ネット検索で昔の知人の住所と電話番号を知った。
 さっそく電話し、不在だったために改めてかけると言ったきり、
 躊躇していたらいくらもしないうちに相手の電話が外されてしまった。
 つまらないためらいのために、好機を逸することなりそうになった。

という話。
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(ミュシャ「スラブ叙事詩」より『故郷のスラヴ人』《部分》)

【ネット上に先輩の名前を発見した】

 私のような歳になると人間関係は狭まる一方で、したがって年賀状も減ることはあっても増えることはありません。しかし今年は1枚だけ、例年にはない賀状を出しました。
 まだ教員になる前、学習塾の管理会社に勤めていた時の先輩というか上司のKさんです。年賀状はおそらく初めて、連絡すること自体が三十数年ぶりです。

 なぜそういうことになったかというと、話は3年前、何となくKさんの名前でネット検索をしていたところ、Google先生の5〜6ページくらい進んだところにKさんの住所と電話番号を見つけたのです。
 私は無類の検索好きですから、それまでやったことがないはずはないのですが、そんな先まで見ることはなかったということでしょう。

 ありふれた名前ではないものの、それでもと思って今度はGoogleEarthに住所を打ち込んで、ストリートビュー(実際にその場に行ったように360度の画像が見られる)に入ると、確かに一度だけ行ったことのあるKさんのご自宅でした。

 三十数年前、Kさんは父親の建てた家を3000万円で売ってさらに1500万円の借金を重ね、その家を購入したのです。私は引っ越しの手伝いがてらお邪魔して、一晩泊めてもらった記憶があります。
 ただ、その家は私の田舎の実家の三分の一ほどの土地に半分ほどの床面積で建っていて、一台分の駐車場を除けば箱庭程度の庭があるだけでした。しかも主要な鉄道駅からバスで30分もかかる場所にあり、なによりも道一本を隔てて高速道路が走っているのが苦になりました。二階の窓から目の前を走る車の運転手が見えるのです。鉄道なら夜中は止まりますが、高速道は24時間です。うるささはハンパではありません。
 Kさんは1500万円の借金で済みましたが私だと全額自前です。それだけ背負ってもこの程度の家かと思ったら、それが東京を離れる理由のひとつになりました。
(当時は世間知らずでしたから4500万円全額を借りるつもりでいましたが、いま思えばそんな多額の借金ができるはずもなく、高速道のすぐ脇どころか高速道路の上にしか家を建てるところはなかったのかもしれません――冗談です)


【つまらないためらいが、のちのち後悔を生むことになった】
 とっくに失ってしまった番号が改めて手に入ったところで、私は恐る恐る電話をかけてみることにしました。3年前の10月のことです。恐る恐るというのはKさんがもう死んでいるかもしれないと思ったからです。

 後で詳しく書きますが、私より5歳ほど年上のKさんはとんでもない大酒のみで、家系的にも短命とか、常々「私は60歳までは生きていないだろう」と予言していたからです。しかし住所や電話番号を知ってしまった以上、亡くなっていたなら亡くなっていたで確認しないわけにはいきません。私は運命論者ですから天の声を無視することができないのです。

 で、電話をかけるとほどなく年配の男性が出て来て、しかしKさんのようには思えず、
「私は三十数年前に○○社でKさんのお世話になったTと申しますが、Kさんはおられるでしょうか」
と訊ねたのです。すると先方は、
「ああ、Kは今、散歩に出ています」
 それで私はどっと疲れてしまいました。「Kは死にました」という答えに対する言葉を山ほど考えていたので、思いのほか緊張していたのかもしれません。そこで、
「では後ほど改めて連絡させていただきます」
と返して――実はそれきり電話をしなかったのです。
 安心したというよりも、あまりにも緊張していたのでかえって恥ずかしくなり、何となく照れてすぐにはかけられなかったのです。

 次にかけるのは翌年、つまり一昨年の3月まで下ってしまいます。今度は落ち着いてかけられました。ところが電話の向こうの声は若い女性で、
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえ、おかけ直しください」
 携帯の住所録からかけているのですから間違えるはずがありません。しかし改めて数カ月前に検索したのと同じやり方で電話番号を調べてかけ直しても同じ。
 わずか4〜5カ月の間に異変があったに違いありません。
 
 Kさんのお父さんはずいぶん前に亡くなっているはずですから、あのとき電話口に出たのはたまたま訪ねて来ていた親戚か何かで、Kさんはこのわずかな期間に亡くなってしまったのかもしれない、散歩というのもリハビリだったのかもしれない、そんなふうに思いました。


【年賀状を書くことを思いつく】

 その後、東京に住む娘のところを訊ねるたびにKさんの家に行ってみようという気持ちもあったのですが、先ほど書いた通り実に行きにくい場所にある家で、わざわざ切ない思いをするために行くこともないといった気持ちもあって、ついに訊ねることなく2年近くが過ぎてしまいました。
 ところが先月、年賀状を書きながら、ふと、分かっている住所に年賀状を出してみたらどうかという考えが浮かびました。それまで手紙を書くというアイデアがなかったわけではありませんが生存確認のための一筆というのも気が重く、実際に行うに至っていなかったのです。しかし年賀状だったら自然です。

 こちらの電話番号を書いておけば1月1日か2日には連絡が来るでしょう。すでにだれも住んでいなければ私の年賀状自体が返送されてくるはずです。それで諦めがつきます。

 ところが2日になっても3日になっても反応はなく、
「ああ、やはり亡くなっていて、親族が丁寧なお手紙でも書いているのだろう」と思い始めた4日になって、なんとKさん本人からの電話がきたのです。
(この稿、続く)

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2020/7/9

「彼女に捧げる四暗刻(スーアンコウ)」〜カラオケと麻雀、昔の学生・今の老人@  思い出


 畑をやって、本を読んで、文章を書いて――、
 それで私の一日は終わる。
 冬は畑の代わりに樹木の剪定といった仕事もある。
 しかし畑も果樹もない都会の老人たちは、
 どうやって時を過ごしているのだろう?
 その答えの一部が分かった。

というお話。
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(「麻雀卓を囲んで麻雀を楽しむ人たち」フォトACより)

【半年ぶりの飲み会】
 一カ月おきに会っている仲間と、半年ぶりの飲み会をしてきました。
 基本的には奇数月の開催でそれぞれ月当番が決まっているのですが、1月の新年会だけは年当番が扱うことになっていて、今年の場合その年当番に自覚がなく、周囲も急かさなかったので実施が2月にずれ込んでしまったのです。そこにコロナ禍がかぶさって中止。3月、5月の例会もできず、ようやく今月になって実施ができたわけです。

 全員が参加すれば11名ですがたいていは5〜6人しか集まらず、時には3人といったこともあります。高校時代の同級生が中心で、卒業して一緒に東京に行った仲間に同居の兄や弟が加わり、その友だちまで来るようになってと、そんな感じで続いているけっこう緩い関係です。その緩さと、集まれる者だけが集まればいいといったいい加減さが、50年も継続できた秘訣でしょう。

 緩いので半年ぶりの再会だというのに何の感慨もない。変化の少ない生活をしているのでこれといった話題もない。それなのに会話が途切れないのはやはり50年の妙というものでしょう。

「最近の若い連中(と言っても話題になっているのは40代〜50代の後輩のこと)は、平気でベンツだのアウディだの、あるいはレクサスなんかに乗っている、あれってどういうこと?」
と一人が言えば、
「いやいやいや、いま日本中で“家”なんてものが余っているだろう? アイツら親の建てた家に住んでいてローンを背負っていない。住宅ローンがなければベンツやアウディは買えるぜ。フェラーリってわけにはいかんけどな」
と蘊蓄を語り、別の仲間が、
「そういや若いころは将来フェラーリを買って乗り回してと、そんな話をしていたよな」
 そこに私が割って入って、
「フェラーリは無理でも国産のスポーツカーなら買えるだろう。オープンカー。夢だったじゃないか、買えよ、俺はダメだけど」
「どうしてオマエはダメなの?」
「髪が乱れる」
 私以外は全員ハゲなのでこういう会話が成り立ちます。


【カラオケと麻雀、昔の学生】
 次に出てきたのが麻雀とカラオケの話です。
「とにかくオレの周辺でも年寄りたちはみんなカラオケ、麻雀。ものすごくはやっているらしい」

 そう言えば北海道でできた新型コロナのクラスタのひとつは昼カラでした。真昼間から使えるカラオケ店、またはカラオケ設備のある喫茶店などのことです。利用者は昼間から何時間も入り浸って歌っていられる暇人たち、つまり老人です。

 考えてみればカラオケ装置が発明されたのが1970年代、カラオケボックスの登場は1980年代で、ブームをけん引したのは現在70歳前後になっている団塊の世代です。定年退職で暇になって、歌いに行かないはずがない。

 麻雀も、これは私たちおよび私たち世代以上の学生にとっては、流行というよりは一種のたしなみでした。ドストエフスキーとサルトルを読んで、麻雀を打って政治を語るのが大学生――そう思い込んでいたのです。コンピュータゲームもスマホもない時代ですから日常に大して面白いこともなく、貧乏な学生にとって遊びと言えば屋外はパチンコ、屋内だと麻雀以外考えられなかったのも事実です。
 最近、賭けマージャンで検察を追われた黒川弘務さんも1957年生まれの63歳で完全にその世代です。

 ブームの火付け役の一人は作家の色川 武大(阿佐田 哲也、井上 志摩夫、雀風子)で、1965年〜75年に『麻雀放浪記』をヒットさせると、伝説の深夜番組「11PM」の麻雀コーナーでも腕を振るって麻雀を世間に知らしめ、日陰の遊びから日向へと引きずり出したのです。
 ブームが去ったのはおそらく室内遊びとしてコンピュータゲームが幅を利かせるようになったからでしょう。「ファミコン」と呼ばれるニンテンドーの「ファミリーコンピューター」が発売されたのが1983年。90年代には麻雀をする学生もかなり少なくなったと思われます。
 ただしそれまでの学生は、昼夜をたがわず牌を打ち続けたものでした。


【彼女に捧げる四暗刻(スーアンコー)】
 私が自分自身について印象深く覚えているのは、南の島へ1週間も海水浴に行ったというのに、島での時間の大部分を麻雀に費やしたことです。せっかく来たのですから泳ぎにも行きたいのに、仲間に言わせると、
「目の前に海があるのになんで泳がにゃならんの? いつでもできるじゃないか」

 いつでもできるのは麻雀も同じだと思うのですが、とにかく起きたら麻雀を打つ、朝食を食べたら麻雀を打つ、海へ行って少し泳いで帰って麻雀を打つ。夕食を食べて浜へナンパに出て、女の子とビヤガーデンでビールを飲んで帰って麻雀を打つ――そんな生活を1週間も続けたのです。行きも帰りも揺れる船の中でも打ち続けました。

 そんなにやったのだからさぞかし強くなったと思われるかもしれませんが、私は最後まで弱かった。なかなか勝つことができない。
 賭け事は全部ダメで、パチンコは『悪魔の仕掛けるビギナーズラック』で最初の一カ月間、勝ちに勝ちまくってその勝ち分を一週間で吐き出し、以後10年間は負け続け。最後は誘われてどうしてもつき合わなくてはならないときにだけ、千円札を握りしめて「これだけ負けたらやめる」と決めて取り掛かることにしました。そして負ける。競馬はいつも「鼻毛の差」の負けでした。
 
 そんなに弱い癖になぜか麻雀牌のセットを持っていて、おかげで私のアパートがたまり場になる。やがて私の部屋で役満が出るとそれを記録するようになります。

 当時はB4用紙が一般的でしたのでそれを縦に二つ折りにして、
「〇月〇日 午前2時15分。〇子(つき合っている女の子の名前)に捧げる四暗刻(スーアンコー) 〇〇〇〇(達成者の名前)」
と書いて鴨居に並べるのです。

 おかげで私の部屋は好きな女の子を連れて来られない部屋になってしまいました。私の掲示もあって、そこには達成当時につき合っていた女の子の名前が書いてあったからです。
 仲間のKはカードに書いた女の子の名前が毎回違うのに平気です。自分の部屋でないのは有利だな、と変にひがんだものでした。

(この稿、続く)


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2019/12/4

「ウサギの夢を見る」〜この夢にどういう意味があるのだ?  思い出


 最近、寝付きもよく 夜中に起きてもまたすぐに眠れるようになった
 そしてたくさんの夢を見る
 不思議な夢ばかりだが
 それぞれどんな意味があるのだろう?

という話。
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(「月光/山からの月」PhotoACより)

 最近、肉体的に確実に違ってきたことのひとつは、二度寝ができるようになったことです。
 つい2〜3年前まで、いや1〜2年前までかもしれませんが、夜中にいったん目が覚めるとそれが2時であろうと3時であろうと、はたまた1時であっても二度と寝なおすことができず、結局丸一日寝不足のままウツラウツラと過ごすことが多かったのです。

 ところが最近は夜中に起きてトイレに行っても、布団に戻るとストンと眠れるのです。考えてみると二度寝どころか、最初の寝付きもとてもよくなっています。
 このまま眠る時間が増えて、やがて永眠ということになるのでしょう。

 ただし睡眠を二度にわける分、質は悪くなっているのかもしれません。夢をよく見ます。二度寝ですからふたつもみっつもみることがあります。しかも昔見た夢と同じものを何度も見たりするのです。


【同じ夢を何度も見る】
 一昨日見たのは次の三つです。
1. 大学の階段を上りながら、このままでは単位が足りず、卒業できないことを思って怯えている。
2. 学食の隅のテーブルで、私を含む数人が「T君(私こと)が嫌われる理由を考える」という座談会をやっていて、最後に女友だちのひとりがひとこと、「T君、目をぎょろっとしてこちらを見ることがあるでしょ? あれがいけないと思うんだ」。およそ本質的でない発言に私が大いに傷つく。
3. 男友達たちと山奥の、しかし湯治客の大勢いる温泉で宴会をしてくつろいだ。

 一番上の「大学の卒業単位が足りない」というのは、卒業して40年以上になるというのに繰り返し見る夢で、そのたびに物語が異なり、ある時は試験を受けている最中に「これを取ってもまったく足りない」と分かったり、卒業式当日の朝に単位不足に気づいたりと、時期やパターンを変えて何度も出てくるのです。
 現実の私は3年生までに単位の大部分を取り終えていて、最終年は週に2日、それぞれ1時間の講座に出るだけで卒業ができたのです。なのになぜあんな夢を繰り返し見るのか。

 何度も同じ夢といえば、「東京に解約していないアパートの部屋があってそれを整理に行く」という夢も40年間、同じように繰り返し見ます。
 こちらの夢はいつも長編で、カフカの『城』のようにさまざまに道を探ってもなかなかたどり着けなかったり、逆に行ったはいいが東京駅に戻れない、いくつもいくつも電車を乗り換えているのに何回でも同じ駅を通り過ぎ、ある駅で降りて歩いてまた別の駅から乗って――といったことが繰り返されます。不思議なことにこの夢の場合は、目覚めても内容をよく覚えているのです。
 通った道の周囲の様子、アパートの内部、何度も配置替えした部屋のいちいち、それらは実際に私の済んだ部屋とは全く異なるのに、数年前に見たものと同じ光景が何度も出てきて、今も思い出すことができるのです。
 もちろん解約していないアパートなどはありません。

 高校生のころ、夢占いのようなものだと思って買ってきたフロイトの「夢判断」が、えらく難しくて途中で投げ出したことがありましたが、私の見る夢をフロイト先生だったらどう判断するのでしょう?


【♪そこへウサギが飛んで出て♪】
 一昨日の最後の湯治場の夢は、「千と千尋の神隠し」に出てきた『湯屋』みたいな旅館の一室で宴会をした後、私は友人と風呂に入ります。それが大昔の家庭風呂みたいな汚く小さな浴室で、洗い場の隅の床50センチ四方くらいが、穴の開いた網の乗っかった便所になっていたりするのです(気持ち悪いな)。
 すると後から入ってきたウサギが一直線に走って行って網の穴にはまってしまい、糞尿まみれになってしまう。
「やれ、やれ」
 私はそう呟いて便槽の中からウサギを救い出し、洗い場で丁寧に洗ってやります。ふと気づくと浴室の扉を薄く開けて、娘のシーナが心配そうにこちらを見ているのです。

 この夢の理由はわかります。10日ほど前に死んだ飼いウサギのことが気になっているのです。

 私はそのウサギをそれほど可愛がっていたわけではありません。
 娘の大事にしたウサギだったので丁寧に面倒を見ただけで、抱きしめたり頬ずりしたりするような可愛がり方はしたことがないのです。そもそも動物が好きということもありません。

 それでも7年間、一緒に暮らしたという重みなのでしょう。
 最近やや気持ちがふさいでいるのもそのせいかもしれません。


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