2021/1/14

「ボヘミアンK氏を探して」〜年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様B  思い出


 ネット検索で昔の知人の住所と電話番号を知った。
 さっそく電話し、不在だったために改めてかけると言ったきり、
 躊躇していたらいくらもしないうちに相手の電話が外されてしまった。
 つまらないためらいのために、好機を逸することなりそうになった。

という話。
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(ミュシャ「スラブ叙事詩」より『故郷のスラヴ人』《部分》)

【ネット上に先輩の名前を発見した】

 私のような歳になると人間関係は狭まる一方で、したがって年賀状も減ることはあっても増えることはありません。しかし今年は1枚だけ、例年にはない賀状を出しました。
 まだ教員になる前、学習塾の管理会社に勤めていた時の先輩というか上司のKさんです。年賀状はおそらく初めて、連絡すること自体が三十数年ぶりです。

 なぜそういうことになったかというと、話は3年前、何となくKさんの名前でネット検索をしていたところ、Google先生の5〜6ページくらい進んだところにKさんの住所と電話番号を見つけたのです。
 私は無類の検索好きですから、それまでやったことがないはずはないのですが、そんな先まで見ることはなかったということでしょう。

 ありふれた名前ではないものの、それでもと思って今度はGoogleEarthに住所を打ち込んで、ストリートビュー(実際にその場に行ったように360度の画像が見られる)に入ると、確かに一度だけ行ったことのあるKさんのご自宅でした。

 三十数年前、Kさんは父親の建てた家を3000万円で売ってさらに1500万円の借金を重ね、その家を購入したのです。私は引っ越しの手伝いがてらお邪魔して、一晩泊めてもらった記憶があります。
 ただ、その家は私の田舎の実家の三分の一ほどの土地に半分ほどの床面積で建っていて、一台分の駐車場を除けば箱庭程度の庭があるだけでした。しかも主要な鉄道駅からバスで30分もかかる場所にあり、なによりも道一本を隔てて高速道路が走っているのが苦になりました。二階の窓から目の前を走る車の運転手が見えるのです。鉄道なら夜中は止まりますが、高速道は24時間です。うるささはハンパではありません。
 Kさんは1500万円の借金で済みましたが私だと全額自前です。それだけ背負ってもこの程度の家かと思ったら、それが東京を離れる理由のひとつになりました。
(当時は世間知らずでしたから4500万円全額を借りるつもりでいましたが、いま思えばそんな多額の借金ができるはずもなく、高速道のすぐ脇どころか高速道路の上にしか家を建てるところはなかったのかもしれません――冗談です)


【つまらないためらいが、のちのち後悔を生むことになった】
 とっくに失ってしまった番号が改めて手に入ったところで、私は恐る恐る電話をかけてみることにしました。3年前の10月のことです。恐る恐るというのはKさんがもう死んでいるかもしれないと思ったからです。

 後で詳しく書きますが、私より5歳ほど年上のKさんはとんでもない大酒のみで、家系的にも短命とか、常々「私は60歳までは生きていないだろう」と予言していたからです。しかし住所や電話番号を知ってしまった以上、亡くなっていたなら亡くなっていたで確認しないわけにはいきません。私は運命論者ですから天の声を無視することができないのです。

 で、電話をかけるとほどなく年配の男性が出て来て、しかしKさんのようには思えず、
「私は三十数年前に○○社でKさんのお世話になったTと申しますが、Kさんはおられるでしょうか」
と訊ねたのです。すると先方は、
「ああ、Kは今、散歩に出ています」
 それで私はどっと疲れてしまいました。「Kは死にました」という答えに対する言葉を山ほど考えていたので、思いのほか緊張していたのかもしれません。そこで、
「では後ほど改めて連絡させていただきます」
と返して――実はそれきり電話をしなかったのです。
 安心したというよりも、あまりにも緊張していたのでかえって恥ずかしくなり、何となく照れてすぐにはかけられなかったのです。

 次にかけるのは翌年、つまり一昨年の3月まで下ってしまいます。今度は落ち着いてかけられました。ところが電話の向こうの声は若い女性で、
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめのうえ、おかけ直しください」
 携帯の住所録からかけているのですから間違えるはずがありません。しかし改めて数カ月前に検索したのと同じやり方で電話番号を調べてかけ直しても同じ。
 わずか4〜5カ月の間に異変があったに違いありません。
 
 Kさんのお父さんはずいぶん前に亡くなっているはずですから、あのとき電話口に出たのはたまたま訪ねて来ていた親戚か何かで、Kさんはこのわずかな期間に亡くなってしまったのかもしれない、散歩というのもリハビリだったのかもしれない、そんなふうに思いました。


【年賀状を書くことを思いつく】

 その後、東京に住む娘のところを訊ねるたびにKさんの家に行ってみようという気持ちもあったのですが、先ほど書いた通り実に行きにくい場所にある家で、わざわざ切ない思いをするために行くこともないといった気持ちもあって、ついに訊ねることなく2年近くが過ぎてしまいました。
 ところが先月、年賀状を書きながら、ふと、分かっている住所に年賀状を出してみたらどうかという考えが浮かびました。それまで手紙を書くというアイデアがなかったわけではありませんが生存確認のための一筆というのも気が重く、実際に行うに至っていなかったのです。しかし年賀状だったら自然です。

 こちらの電話番号を書いておけば1月1日か2日には連絡が来るでしょう。すでにだれも住んでいなければ私の年賀状自体が返送されてくるはずです。それで諦めがつきます。

 ところが2日になっても3日になっても反応はなく、
「ああ、やはり亡くなっていて、親族が丁寧なお手紙でも書いているのだろう」と思い始めた4日になって、なんとKさん本人からの電話がきたのです。
(この稿、続く)

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2020/7/9

「彼女に捧げる四暗刻(スーアンコウ)」〜カラオケと麻雀、昔の学生・今の老人@  思い出


 畑をやって、本を読んで、文章を書いて――、
 それで私の一日は終わる。
 冬は畑の代わりに樹木の剪定といった仕事もある。
 しかし畑も果樹もない都会の老人たちは、
 どうやって時を過ごしているのだろう?
 その答えの一部が分かった。

というお話。
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(「麻雀卓を囲んで麻雀を楽しむ人たち」フォトACより)

【半年ぶりの飲み会】
 一カ月おきに会っている仲間と、半年ぶりの飲み会をしてきました。
 基本的には奇数月の開催でそれぞれ月当番が決まっているのですが、1月の新年会だけは年当番が扱うことになっていて、今年の場合その年当番に自覚がなく、周囲も急かさなかったので実施が2月にずれ込んでしまったのです。そこにコロナ禍がかぶさって中止。3月、5月の例会もできず、ようやく今月になって実施ができたわけです。

 全員が参加すれば11名ですがたいていは5〜6人しか集まらず、時には3人といったこともあります。高校時代の同級生が中心で、卒業して一緒に東京に行った仲間に同居の兄や弟が加わり、その友だちまで来るようになってと、そんな感じで続いているけっこう緩い関係です。その緩さと、集まれる者だけが集まればいいといったいい加減さが、50年も継続できた秘訣でしょう。

 緩いので半年ぶりの再会だというのに何の感慨もない。変化の少ない生活をしているのでこれといった話題もない。それなのに会話が途切れないのはやはり50年の妙というものでしょう。

「最近の若い連中(と言っても話題になっているのは40代〜50代の後輩のこと)は、平気でベンツだのアウディだの、あるいはレクサスなんかに乗っている、あれってどういうこと?」
と一人が言えば、
「いやいやいや、いま日本中で“家”なんてものが余っているだろう? アイツら親の建てた家に住んでいてローンを背負っていない。住宅ローンがなければベンツやアウディは買えるぜ。フェラーリってわけにはいかんけどな」
と蘊蓄を語り、別の仲間が、
「そういや若いころは将来フェラーリを買って乗り回してと、そんな話をしていたよな」
 そこに私が割って入って、
「フェラーリは無理でも国産のスポーツカーなら買えるだろう。オープンカー。夢だったじゃないか、買えよ、俺はダメだけど」
「どうしてオマエはダメなの?」
「髪が乱れる」
 私以外は全員ハゲなのでこういう会話が成り立ちます。


【カラオケと麻雀、昔の学生】
 次に出てきたのが麻雀とカラオケの話です。
「とにかくオレの周辺でも年寄りたちはみんなカラオケ、麻雀。ものすごくはやっているらしい」

 そう言えば北海道でできた新型コロナのクラスタのひとつは昼カラでした。真昼間から使えるカラオケ店、またはカラオケ設備のある喫茶店などのことです。利用者は昼間から何時間も入り浸って歌っていられる暇人たち、つまり老人です。

 考えてみればカラオケ装置が発明されたのが1970年代、カラオケボックスの登場は1980年代で、ブームをけん引したのは現在70歳前後になっている団塊の世代です。定年退職で暇になって、歌いに行かないはずがない。

 麻雀も、これは私たちおよび私たち世代以上の学生にとっては、流行というよりは一種のたしなみでした。ドストエフスキーとサルトルを読んで、麻雀を打って政治を語るのが大学生――そう思い込んでいたのです。コンピュータゲームもスマホもない時代ですから日常に大して面白いこともなく、貧乏な学生にとって遊びと言えば屋外はパチンコ、屋内だと麻雀以外考えられなかったのも事実です。
 最近、賭けマージャンで検察を追われた黒川弘務さんも1957年生まれの63歳で完全にその世代です。

 ブームの火付け役の一人は作家の色川 武大(阿佐田 哲也、井上 志摩夫、雀風子)で、1965年〜75年に『麻雀放浪記』をヒットさせると、伝説の深夜番組「11PM」の麻雀コーナーでも腕を振るって麻雀を世間に知らしめ、日陰の遊びから日向へと引きずり出したのです。
 ブームが去ったのはおそらく室内遊びとしてコンピュータゲームが幅を利かせるようになったからでしょう。「ファミコン」と呼ばれるニンテンドーの「ファミリーコンピューター」が発売されたのが1983年。90年代には麻雀をする学生もかなり少なくなったと思われます。
 ただしそれまでの学生は、昼夜をたがわず牌を打ち続けたものでした。


【彼女に捧げる四暗刻(スーアンコー)】
 私が自分自身について印象深く覚えているのは、南の島へ1週間も海水浴に行ったというのに、島での時間の大部分を麻雀に費やしたことです。せっかく来たのですから泳ぎにも行きたいのに、仲間に言わせると、
「目の前に海があるのになんで泳がにゃならんの? いつでもできるじゃないか」

 いつでもできるのは麻雀も同じだと思うのですが、とにかく起きたら麻雀を打つ、朝食を食べたら麻雀を打つ、海へ行って少し泳いで帰って麻雀を打つ。夕食を食べて浜へナンパに出て、女の子とビヤガーデンでビールを飲んで帰って麻雀を打つ――そんな生活を1週間も続けたのです。行きも帰りも揺れる船の中でも打ち続けました。

 そんなにやったのだからさぞかし強くなったと思われるかもしれませんが、私は最後まで弱かった。なかなか勝つことができない。
 賭け事は全部ダメで、パチンコは『悪魔の仕掛けるビギナーズラック』で最初の一カ月間、勝ちに勝ちまくってその勝ち分を一週間で吐き出し、以後10年間は負け続け。最後は誘われてどうしてもつき合わなくてはならないときにだけ、千円札を握りしめて「これだけ負けたらやめる」と決めて取り掛かることにしました。そして負ける。競馬はいつも「鼻毛の差」の負けでした。
 
 そんなに弱い癖になぜか麻雀牌のセットを持っていて、おかげで私のアパートがたまり場になる。やがて私の部屋で役満が出るとそれを記録するようになります。

 当時はB4用紙が一般的でしたのでそれを縦に二つ折りにして、
「〇月〇日 午前2時15分。〇子(つき合っている女の子の名前)に捧げる四暗刻(スーアンコー) 〇〇〇〇(達成者の名前)」
と書いて鴨居に並べるのです。

 おかげで私の部屋は好きな女の子を連れて来られない部屋になってしまいました。私の掲示もあって、そこには達成当時につき合っていた女の子の名前が書いてあったからです。
 仲間のKはカードに書いた女の子の名前が毎回違うのに平気です。自分の部屋でないのは有利だな、と変にひがんだものでした。

(この稿、続く)


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2019/12/4

「ウサギの夢を見る」〜この夢にどういう意味があるのだ?  思い出


 最近、寝付きもよく 夜中に起きてもまたすぐに眠れるようになった
 そしてたくさんの夢を見る
 不思議な夢ばかりだが
 それぞれどんな意味があるのだろう?

という話。
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(「月光/山からの月」PhotoACより)

 最近、肉体的に確実に違ってきたことのひとつは、二度寝ができるようになったことです。
 つい2〜3年前まで、いや1〜2年前までかもしれませんが、夜中にいったん目が覚めるとそれが2時であろうと3時であろうと、はたまた1時であっても二度と寝なおすことができず、結局丸一日寝不足のままウツラウツラと過ごすことが多かったのです。

 ところが最近は夜中に起きてトイレに行っても、布団に戻るとストンと眠れるのです。考えてみると二度寝どころか、最初の寝付きもとてもよくなっています。
 このまま眠る時間が増えて、やがて永眠ということになるのでしょう。

 ただし睡眠を二度にわける分、質は悪くなっているのかもしれません。夢をよく見ます。二度寝ですからふたつもみっつもみることがあります。しかも昔見た夢と同じものを何度も見たりするのです。


【同じ夢を何度も見る】
 一昨日見たのは次の三つです。
1. 大学の階段を上りながら、このままでは単位が足りず、卒業できないことを思って怯えている。
2. 学食の隅のテーブルで、私を含む数人が「T君(私こと)が嫌われる理由を考える」という座談会をやっていて、最後に女友だちのひとりがひとこと、「T君、目をぎょろっとしてこちらを見ることがあるでしょ? あれがいけないと思うんだ」。およそ本質的でない発言に私が大いに傷つく。
3. 男友達たちと山奥の、しかし湯治客の大勢いる温泉で宴会をしてくつろいだ。

 一番上の「大学の卒業単位が足りない」というのは、卒業して40年以上になるというのに繰り返し見る夢で、そのたびに物語が異なり、ある時は試験を受けている最中に「これを取ってもまったく足りない」と分かったり、卒業式当日の朝に単位不足に気づいたりと、時期やパターンを変えて何度も出てくるのです。
 現実の私は3年生までに単位の大部分を取り終えていて、最終年は週に2日、それぞれ1時間の講座に出るだけで卒業ができたのです。なのになぜあんな夢を繰り返し見るのか。

 何度も同じ夢といえば、「東京に解約していないアパートの部屋があってそれを整理に行く」という夢も40年間、同じように繰り返し見ます。
 こちらの夢はいつも長編で、カフカの『城』のようにさまざまに道を探ってもなかなかたどり着けなかったり、逆に行ったはいいが東京駅に戻れない、いくつもいくつも電車を乗り換えているのに何回でも同じ駅を通り過ぎ、ある駅で降りて歩いてまた別の駅から乗って――といったことが繰り返されます。不思議なことにこの夢の場合は、目覚めても内容をよく覚えているのです。
 通った道の周囲の様子、アパートの内部、何度も配置替えした部屋のいちいち、それらは実際に私の済んだ部屋とは全く異なるのに、数年前に見たものと同じ光景が何度も出てきて、今も思い出すことができるのです。
 もちろん解約していないアパートなどはありません。

 高校生のころ、夢占いのようなものだと思って買ってきたフロイトの「夢判断」が、えらく難しくて途中で投げ出したことがありましたが、私の見る夢をフロイト先生だったらどう判断するのでしょう?


【♪そこへウサギが飛んで出て♪】
 一昨日の最後の湯治場の夢は、「千と千尋の神隠し」に出てきた『湯屋』みたいな旅館の一室で宴会をした後、私は友人と風呂に入ります。それが大昔の家庭風呂みたいな汚く小さな浴室で、洗い場の隅の床50センチ四方くらいが、穴の開いた網の乗っかった便所になっていたりするのです(気持ち悪いな)。
 すると後から入ってきたウサギが一直線に走って行って網の穴にはまってしまい、糞尿まみれになってしまう。
「やれ、やれ」
 私はそう呟いて便槽の中からウサギを救い出し、洗い場で丁寧に洗ってやります。ふと気づくと浴室の扉を薄く開けて、娘のシーナが心配そうにこちらを見ているのです。

 この夢の理由はわかります。10日ほど前に死んだ飼いウサギのことが気になっているのです。

 私はそのウサギをそれほど可愛がっていたわけではありません。
 娘の大事にしたウサギだったので丁寧に面倒を見ただけで、抱きしめたり頬ずりしたりするような可愛がり方はしたことがないのです。そもそも動物が好きということもありません。

 それでも7年間、一緒に暮らしたという重みなのでしょう。
 最近やや気持ちがふさいでいるのもそのせいかもしれません。


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2019/4/12

「わが青春の『ナチチャコパック』」〜2019年春の蓋棺録3  思い出


 今から50年前
 当時の若者には ラジオの深夜放送が文化の発信基地だった。
 ラジオの深夜放送が 心の支えだった
 「ナチチャコパック」は私の青春そのものだった

という話。
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【深夜放送全盛時代】
 1970年前後というのはラジオの深夜放送の黄金時代で、当時の若者はここから集中的に情報を得ていました。男の子の場合、あとは「平凡パンチ」だとか「プレーボーイ」といった雑誌が頼りでしたが、高校生がそのたびに気軽に買える値段ではなく、また書店でそれをレジに持って行くことはかなり勇気のいることでしたから、結局、ラジオを通して入る情報が主流といって良かったと思います。

 ニッポン放送の「オールナイトニッポン」、文化放送の「セイ!ヤング」、そしてTBSの「パック・イン・ミュージック」の三つの番組が、互いをけん制し合って覇を争っていた時代です。

 なかでも有名なのは「オールナイト・ニッポン」で、私が深夜放送に一番ハマっていた69年〜72年ころのパーソナリティを調べると、(月曜日)糸居五郎、(火曜日)斉藤安弘、(水曜日)高岡りょう一郎、(木曜日)天井邦夫、(金曜日)今仁哲夫、(土曜日)高崎一郎→亀渕昭信といった錚々たる面々です。
*“りょう”は「うかんむり」のない“寮”

 とは言っても糸居五郎と高崎一郎以外は筋金入りのファンでないと知る人は少ないのかもしれません。「斎藤アンコウ」や「今仁(いまに)のテッちゃん」は一世を風靡したタレント・アナウンサーでしたし、亀渕昭信と天井邦夫は2005年にホリエモンのライブドアがニッポン放送株の大量買い付けをした際、必死に抵抗した社長と副社長です。

 その「オールナイト・ニッポン」に対抗したのがTBSの「パック・イン・ミュージック」で(月曜日)小島一慶、(火曜日)愛川欽也、(水曜日)北山修、(木曜日)野沢那智・白石冬美、(金曜日)山本コータロー、(土曜日)永六輔と言った布陣になります。

 さらに「オールナイト〜」「パック〜」の2強に割って入ったのが文化放送「セイ!ヤング」で、(月曜日)土井まさる(料理研究家の土井勝とは別人)、(火曜日)はしだのりひこ、(水曜日)みのもんた、(木曜日)野末陳平、(金曜日)落合恵子、(土曜日)加藤泰三といった面々です。

 後に文化人と呼ばれるようになる人も大勢いますし、歌手やタレントとして名を残した人も少なくありません。そういったメンバーが、深夜の1時から3時までを仕切って若者と対峙していたのですから()面白くない訳がありません。
*2部構成で3時〜5時までは別のパーソナリティが担当していたはずですが、そこまではつき合っていなかったのであまり記憶にない。

 ただし3放送局とも全く同じ時間帯の放送ですし、毎晩つき合っていたら身が持ちませんから、自然と1〜2の番組に限られていきます。私の場合それが金曜日の「パック・イン・ミュージック」、野沢那智と白石冬美の通称「ナチ・チャコ・パック」あるいは「金パ」だったのです。
 野沢那智はアラン・ドロンの声で有名な声優さんで劇団薔薇座の主催者、白石冬美さんは昨日お話した星明子です。



【若者文化は深夜ラジオから学んだ】

 「ナチチャコ」についてお話する前に、深夜放送の影響力ということについて少しふれておきます。
 それについてまとまったものを読んだことがないので個人的な感想しか言えないのですが、深夜のラジオ番組ということで「なんでもあり」の雰囲気があり、いろいろな実験的試みが平気で行われた感じがあります。
 アナウンサーがタレント並みの活動をして視聴率を稼ぐというやり方も、深夜放送から始まりました。

 亀渕昭信と斉藤安弘の「カメ&アンコー」はソニーレコードから「水虫の唄」を出して20万枚を売り上げるヒットとなり、50歳を迎えた糸居五郎は「50時間マラソンDJ」などというものを敢行して、後の24時間テレビに先鞭をつけました。
 今仁哲夫と天井邦夫は日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画を立ててすぐに実行してしまいます。とにかく深夜のラジオということで、いくらでも実験的なことができたのです。

 グループサウンズ全盛の時代に「フォークソング」というものを掘り出して流行らせたのも深夜放送でした。
 特に「オールナイト・ニッポン」が見つけて強く推した「フォーク・クルセーダーズ」は、生ギターにウッドベース、タンバリン、ハーモニカ。曲は自作であること、音楽の合間あいまに笑いのあるトークを入れること等々、日本におけるフォークソングの基本的様式を決定づけ他グループでした。

 「ナチチャコパック」の後番組でときどき聞くことがあった「パック・イン・ミュージック」、金曜日第二部のパーソナリティ林美雄(なぜかミドリブタを自称していた)はTBSのアナウンサーでしたが新人発掘に才能と情熱を持っていて、デビュー前のタモリやおすぎとピーコを出演させ、日活ロマンポルノの芸術性に注目して「八月の濡れた砂」を推奨していたりもしました。その「八月の濡れた砂」の主題曲を歌った石川セリは、林に招かれて「パック〜」に出演し、そのときたまたま同席した井上陽水と後に結婚します。 しかし何といっても林の一番の仕事はユーミンの発見です。

 私はミドリブタの紹介で、当時まだ高校生だった荒井由実の「ベルベット・イースター」を聞き、バックバンド「キャラメルママ」(細野晴臣・松任谷正隆・鈴木茂・林立夫)の凄さとユーミンの天才ぶりに心底驚いたのを覚えています。
 貧乏学生のくせに半年の間にアルバム「ひこうき雲」を3枚も買って次々と聞いてもらいたい人にプレゼントして回ったのもそのころです。レコード店に買いに行くと「荒木ミミ(のちにプロレスラーになったアイドル歌手)ですか?」と訊かれた時代でした。

 私は田舎の人間でしたので、そういったものを通して都会の若者文化に触れて行ったのです。



【わが青春の『ナチチャコパック』】

 「ナチチャコパック」は、しかしそうした文化の発信というのではなく、孤独な若者を言葉で結びつける集合の場という役割を負っていたように記憶しています。

 最後の30分間は内外の古典(「好色一代男」や「金瓶梅」)のラジオドラマでしたが、番組の大半は聴取者の手紙を読んで感想を言い合う形で終始し、私たちはそこで自由に――というか好き勝手に発言できたのです。いわば聴取者がつくる番組のハシリでした。

 一通り短い手紙が読まれ、合間あいまに音楽を聴いた後で、「お題のコーナー」(確かそう言ったと思う)が始まります。
 毎週、歌謡曲の題名から採った課題が出されていて、聴取者はそれに応える形で手紙を送ってくるのです。短い手紙が採用されやすい番組の中で、そこだけは一本一本がかなり長い文で、面白おかしく、時にはじっくりと考えさせられるものだったりして「ナチチャコパック」の一番のウリでした。

 当時は今ほど多様性のある時代ではなく、中高生あるいは大学生たちはかなり似通った生活をしていましたから他の人の話もよく分かります。平凡な日常の中でときに突飛な事件があり、間抜けな行いがあり、呆れた失敗がある、そうした、今で言う「あるある話」を聞きながら、自分の境遇だってまだまだ捨てたものじゃない、そんなふうに思ったりしたものです。

 高校3年生の秋、私は一度だけ「お題」に投稿し、読んでもらったことがあります。読まれた瞬間は布団の中で快哉を叫び、あとは心臓をパクパクさせて聞いていました。
 それなのに翌日、学校に行って自慢するようなこともありませんでした。受験が目の前だというのに勉強もしないでそんな長い文章を書いていた、それがバレるのが恥ずかしかった、そんなふうに考えられる初心な高校生だったのです。その時の「お題」は美川憲一の「お金をください」でした。

 Youtubeに「ナチチャコパック」終了に関するニュース映像がありましたので埋め込んでおきます。
 私の青春を支えてくれた、チャコちゃんの冥福を心よりお祈りします。



(この稿、終了)


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2019/4/11

「昔の高校生は何をして遊んだのか」〜2019年春の蓋棺録2  思い出


 ショーケンの亡くなった同じ3月26日
 声優でタレントの白石冬美さんが亡くなった
 ショーケンと違って 発見が二日遅れたという
 顔の見えないタレントさんだったから
 それもまたこの人にふさわしい 
 私には特別の思い出がある

という話。

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【昔の高校生は何をして遊んだか】
 歴史の勉強をしていて案外むずかしいのが庶民史です。

 政治史とか経済史というのは研究が進んでいて、書籍も入門書から高度な専門書まで一通りそろっています。しかし例えば“文化文政期の庶民の生活”――町人は何時ころ起きていつごろから働いたの? とか、朝食は食べたの? 食べなかったの? 食べたとしたらメニューは? たとえば大工さんは朝から仕事場に向かったとして、その奥さんは一日どうやって過ごしたの? とかいったこまごまとしたことを本気で調べようとすると、なかなか厄介です。

 今はインターネットがありますから、情報の量や質の問題は残るにしてもまったく手掛かりがないということは少なくなっています。しかし私の若いころなどはどうでもいいことのために図書館で一日すごして、しかも何も見つからないといったこともけっこうあったのです。

 そこで問題ですが、50年前の一般の高校生高校生――つまり若いころの私たちは、何をして遊んだのでしょう? 想像してみてください。

 吉幾三ではありませんが、

 スマホはない、ゲームもない
 ネットもなければ 電話もない
 テレビはあっても局がない

 デジカメない Youtubeない
 MP3もCDもない
 ステレオあるけど 持っていけない

 お金がない 彼女がない
 マンガはあるけど 週刊誌
 ファッション誌を読んでも 生かせない(田舎だから)

・・・と言った状況です。そんな状態で高校生たちは何をしていたか――。


【答え=ひたすらつるんでおしゃべりしていた】】
 クラスの中には孤独に勉強に打ち込む者もいれば、ひたすら部活に情熱を傾ける者もいましたが、私と私の周辺の仲間はそうではありませんでした。基本的に暇を持て余してやることがありませんから、とにかくおしゃべりをしていました。

 夏は学校近くの児童公園やチャリで頑張って城山の展望公園に行ったり、冬は仕方がないのでお金があれば喫茶店、なければ友だちの勉強部屋にしけ込んでそこでひたすらしゃべっていました。
 中身は女の子のこと、先生や友だちの悪口、進路の話、テレビのこと、映画のこと・・・。私も含めて女の子にモテたいばかりにギターをやってる仲間も結構いましたから、歌もよく歌いました。

 そして夕飯の時間が近づくと、泣く泣く解散します。その場から携帯で「ちょっと遅くなる」と家に連絡することもできないので、定時には家に着くよう帰るわけです。
 そして以降は、翌日、学校で顔を合わせるまで友だちとは連絡普通です。もちろん大半の家に固定電話はありましたが、大部分は親の耳の届くところに置かれていますから、よほどのことがない限り電話でコミュニケーションを図ろうとはしませんでした。

 では家に帰った後、なにをしていたか?
 夕食、入浴、就寝といったことを別にすると勉強ぐらいしか残っていません。テレビを見るという仕事もありますが、家族で1台を共有しているだけですから、たいていは一日1番組くらいの割り当てになっていてダラダラと楽しむわけにはいきません。

 それに当時は夜9時を過ぎるといきなり危険な場面の出てくる番組が結構あって、おちおち親といっしょに楽しむというわけにはいかなかったのです。ドリフを見て家族全員で笑っていたら、突然女性が裸にされてしまい、親の前でどういう表情をしたらいいのか分からず、兄弟で凍りついたなんてことは再三でした。
 ですから9時を過ぎると勉強でもして、あとは寝るだけです。――いや、おっと、もうひとつ大事なことがありました。
 「早く寝ろ」と言われて布団に入ったふりをして、何とか眠らないように頑張ってラジオの深夜放送を聞くという仕事です。


【白石冬美=チャコちゃん】
 春休み中の3月26日、声優でタレントの白石冬美さんが亡くなりました。82歳だったそうです。
 白石冬美と言えば「機動戦士ガンダム」のミライ・ヤシマや「どろろんぱっ!」の小野小町の声優としてアニメオタクで知らない人はいないと思いますが、一般的には「巨人の星」の星明子の声として有名です。
 つい数年前、「星明子状態(隠れて物陰から必死に見守る)」という言葉とともにプチリバイバルしたあのキャラクターです。しかしだからと言ってそれで白石さんを思い出す人は少ないでしょう。

 白石冬美、愛称チャコちゃんは、私たちの世代にとっては深夜放送のパーソナリティ(今だとMCとでもいうのかな?)としてものすごく愛された、記憶に残る女性なのです。


                     (この稿、続く)




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2019/4/9

「金持ちは喧嘩せず、穏やかに人を育てる」〜40数年ぶりの同窓会にいってきた2  思い出


 当時の大学にはプチエリートの雰囲気があり
 実際のエリートや金持ちの子弟もいた
 だからこそ起こる悲喜こもごももあった
 身分違いといってもいいような関係もあったが
 だからこそ学ぶことも少なくなかった

という話。
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【中途半端なエリートの憂鬱】
 私が入学したころ、4年生大学への進学率は現在(2018年度は53.3%)の半分以下の22〜23%でしたから、今よりずっとエリートでした。
 
 ただしこの“エリート”には多少の注釈が必要で、ひとつには4年制大学に行くだけの価値があると、自他ともに認める程度の学力があること(自薦可)、そしてもうひとつは子どもを未就労のまま4年間過ごさせてなおかつ生活の援助のできる経済力を持った家の子、という二つの意味が重なります。
 もちろん学費も生活費も自分で稼いで爪に火をともして学問をしようという学生もいましたが、高度成長期の頂点を極めようという時期、そういう真のエリートは少数派でした。

 特に私のように田舎から都会に出て私立大学に進学しようとする者の中には、とんでもないお金持ちの子弟がかなりいて(私は違う)、その暮らしぶりには驚くべきものがありませした。

 言ってみればそれは中高生のころに流行っていた、加山雄三主演の映画「若大将シリーズ」のような世界で、田中邦衛の演じる「青大将」が「ボクのパパは社長!」などとうそぶいてオープンカーを乗り回すのと同じ風景です。
 自分専用の自家用車を持っているなど序の口で、学生結婚をして自分の持ち家から通学している学生の噂なども聞こえてきて、文字通り開いた口がふさがらなかったりもしました。


【屈折の原因のひとつ】
 昨日、私は自分の学生生活を振り返って、
なぜあれほどまでに気難しく、屈折した毎日を送っていたのか――
と書きましたが、いくつかある原因のうちのもっともつまらないひとつが、その金持ち問題でした。
 当時8000円の仕送りから4500円のアパート代を払って残りの3500円で生活をしていこうと計画していた矢先、最初のコンパの二次会で会費が2000円もかかったのです。現在の感覚で言えば、一桁上げて計算の合う感じです。

 さらにその二次会で不用意に会話に乗ってしまうと、
「Tくん(私のこと)、車、何に乗っているの?」
とか聞かれてしまい、相手はアウディだのベンツだのといったレベルの話ですから、石丸自転車の「東京号」だとはとても言えず、
「お家は?」
と訊かれて田舎の名を上げると、どうやらとんでもない旧家・大店を思い浮かべられらしく、話がどんどんずれて行ってしまいます。

 それですっかり臆病になって、人と触れ合わず鬱々とした日々を送るようになったのですが、あとから聞けば何かの拍子であまりに場違いなところに行ってしまっただけで、分をわきまえ注意深く相手を選べば何とかなった話だったようです。

 以来、私はできるだけ汚い恰好で大学に出かけ、金持ちに誘われないよう注意深く行動するようになりました。


【絶対値の競争と逆ナンパ】
 ちょうど学生運動がグングン下火になって大学の構内からヘルメット姿の汚い男たちが消え、女子学生の服装もガンガン華美になっていった時代です。男子もVANだのJUNだのと爽やかな服装を好むようになり、しかしその中を私はひとりVAN・JUNならぬ伴淳(伴淳三郎という老俳優のニックネーム)並みの汚さで、ひっそりと通学していたのです。

 これを私は、周囲のプラス方向のファッションに対して徹底的にマイナスを追求する「絶対値の競争」と読んでいましたが、理解する人は少なかったかもしれません。

 ある日、校門を出ようとするとそこに附属小学校の女の子たちが数人並んでいて、「お兄ちゃん」と声をかけます。私はうれしくて「なんだい?」と返します。どうやらずっと待っていてくれたようです。
 そして言います。

「あのね、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんはどうしていつも、そんなに汚い格好しているの?」

――そのくらい目立っていたらしいのです。


【金持ちは喧嘩せず、穏やかに人を育てる(かもしれない)】
 40年余年ぶりの同窓会でそんな思い出話をしていると、けっこうみんな貧乏で、同様の苦労をしてきた話が次々と出てきます。もしかしたら大金持ちの子弟がウジャウジャいたというのは記憶の歪みで、実際のところは私と大差ない学生の方が圧倒的に多かったのかもしれません。
 さらに言えばその日全国から同窓会に集まってきた仲間たちは、ほぼ似たような境遇だったからこそ気が合ったのかもしれないのです。

「だけどなあ――」
と一人が言い始めます。
「あいつら、〇〇とか○○、あの連中はとんでもない金持ちで本当に苦労知らずだったけど、みんな優しくていい奴だったよな」
 すると多くが頷きます。

 そのうち話題は、確認できた中では唯一の物故者であるGの話になります。地方の大都市の材木問屋の息子で、街なかのとんでもなく広い敷地に100坪を越える大邸宅構え、そこに社長としてデンと構えていた30代の様子を、見てきた仲間がいたのです。
 Gがそんな大金持ちだったということは、今回初めて知りました。

 妹のことが好きで好きで、いつも写真を持ち歩いているような男です。気が優しく心配りの行き届いた人物で、顔は鬼瓦みたいでしたがいつも穏やかな口調でゆっくりとしゃべるのが印象的でした。
 5年ほど前に咽頭がんで亡くなったということですが、金持ちの息子だったと知るといろいろなことが腑に落ちてきます。

 もちろん金持ちの子だから幸せ、ということにはなりません。けれどGの場合、金にあくせくすることなく育ったうえに家族にも恵まれたのでしょう。そうでなければあのようなまろやかな人格は育つわけはありません。

 すでに亡くなった人について想うのに、こんな感想も不適切なのかもしれません。しかし少なくとも高校を卒業するまでの間くらいは、人はむやみに苦労することなく、恵まれた暖かな環境の中で育つべきだ、育ってもらいたいものだと、改めて思いました。

 私だってそんなに苦労したわけではありませんが、Gに比べたらずっとさもしく、ひねくれた人生を歩んできてしまったからです。


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