2018/9/14

「見ない人、逃げる人」〜ひとの生き方と死に方(最終)  人生


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(ギュスターヴ・クールベ「オルナンの埋葬」)

 義姉夫婦は病気が発見された当初からネットや書籍でがんについて調べることをしませんでした。もちろんそういうやり方がないわけではありません。
 特にネットの世界は玉石混交、偽情報もあれば体験談と見せて広告でしかないサイトやブログがいくらでもあります。
 そういうものに惑わされることなく、病院を信頼し、医師とともに病気に立ち向かっていく、それも方法のひとつでしょう。その意味で、義母が亡くなった際に少しトラブルのあった地元の病院を離れ、大学病院に拠点を移したのは悪くない選択でした。
 少しでも信頼できそうな病院の方がいい――。
 ただしそれとて限度があります。


【医師淡々と、患者淡々と】
 昨年6月になっていよいよ抗がん剤がどれも効かなくなった時、医師は日本中の治験(治療の臨床試験)を探して通えそうなところを紹介してくれました。しかしそれは病院でなければできないことではなく、医師自身が教えてくれたように一般人でも調べられるサイト(例えば国立がん研究センター>がん情報サービス>)から選んでくれただけで、あとの手続きは患者本人がしなければならないのです。

 私にとってそれはある程度衝撃的なできごとでした。県内随一の大学病院の医師が一般向けサイトで情報を探している、つまり医師同士の特別な情報網といったものはなく、すべては私たちの手の届くところにあるということです。
 そしてその“すべて”を、私はすでに調べつくしているのです。何しろ義姉に適応しそうな治験は二つしかないのですから。

 医師はそこからひとつ選び、「こちらに連絡してみてください。書類は用意します」と告げます。けれど義姉が診察を受けたわずか一週間後、その治験は重大な副作用が生じて中止になります。
 続いて医師はもう一つの治験の可能性を示します。私にはそれが中止になった治験と同じものを別の病院でやっているだけのように思えましたが、医師はためらわず紹介し、義姉夫婦は3時間の列車旅で東京に出かけ、2時間の待ち時間を経て15分の診察で空しく帰ってきます。適応外との説明だったようです。

 医師は続いて、「私の患者でNK療法を受けた人がいます。こちらに連絡してみたらどうでしょう」と県内の病院を紹介します。
 そういうことの繰り返しが4カ月あまりも続きました。

 私は多少イライラしていました。いくら医師を信頼するにしても、こんな素人でも調べればわかることに毎回1時間もの通院時間をかけ、医療費を払うことはないと思ったのです。
 しかしだからといって別の助言ができるわけでもありません。標準治療以外のさまざまな道についてはすでに話をしてあります。

 あとはただ本人の気のすむまで同じことを繰り返し、様子を見ていくしかありません。それにそのころには「義姉は奇跡の人なのかもしれない」と思い始めていたので、事が進まないこともあまり苦にならなかったのです。このまま空回りしているうちにがんは治ってしまうかもしれない・・・・。


【恨み、つらみ、繰り言】
 しかし黄疸が出て、病気が目に見える形になってくると状況は一変します。このころから義姉はさかんに医者や病院の悪口を言うようになるのです。

 以前にも書きましたが勝ち気でがらっぱちで、まるで男にしか思えない雰囲気もある人で、決して素直だったり従順だったりする人ではないのですが、それまで不思議と自分のかかる医者と病院には文句を言わなかったのです。それがここにきてさまざまな不満を口にします。直接面と向かってではありませんが、義兄や私の妻や長姉に対して、繰り返し訴えます。

「(大学病院の主治医は)レントゲンが読めないんだって、だからこういう見立て違いをするのよ」
「せっかくステントを入れたっていうのに3カ月ももたないってどういうこと?」
「この(地元の)病院、何か雰囲気変よね」
「前の病院で入れたステントは3か月もったのに、どうして今度は1か月ももたないの?」 

 がんの発見から1年数カ月、医者に対して全く質問せず問い詰めもせず、ただ言われるままに抗がん剤治療をし、治験のために東京に出かけ、ここ(大学病院)よりも地元の病院と言われて傷ついても、まったく批判しなかった反動のように不満は一気に噴出します。
「私はがんのことはもうどうでもいいの、治らなくても構わない。でも黄疸だけは何とかしてほしい、医者だったらそれくらいして当然でしょ?」
 問い詰められても私たちには答えようがありません。
 黄疸はがんの結果ですからがんの治らない状況で黄疸だけをなくすというわけにはいかないのです。

 最後の東京行きから戻って歩くのもままならないのに、
「看護師に歩く練習をさせられた」
といって怒っています。
「あれきっと病院を追い出すつもりだよね。家に帰っても歩けるように今からリハビリさせられた・・・」
 しかしものの本には書いてあるのです。
「末期の患者はそれでもトイレだけは自分の足で歩いていきたい。トイレにも行けなくなったらいよいよ死を覚悟しなければならないから歩けることは大切です」
 好意的に考えれば、トイレに歩いて行ける期間(絶望しなくて済む時間)を1秒でも伸ばしてあげようという配慮だったのかもしれません。
 それなのに義姉はいちいち悪く解釈する。
「食事がまずい」「扱いが悪い」「痛み止めがまるでダメで全然効かない」

「もっと光を!」はゲーテの最期の言葉とされていますが、義姉の最期の言葉は「もっと薬を!」でした。痛みに耐えかねてより多くの鎮痛剤を要求し、それが命を縮めたと私は思っています。
 痛みに耐えるといったことも苦手な人でした。


【後悔、運命の分岐点と角度】
 市川海老蔵夫人だった小林麻央さんは亡くなる前年9月のブログに、こんなふうに書いておられます。
私も
後悔していること、あります。

あのとき、
もっと自分の身体を大切にすればよかった
あのとき、
もうひとつ病院に行けばよかった
あのとき、
信じなければよかった
あのとき、、、
あのとき、、、


 義姉にもがんが発見されてから亡くなるまでの1年10か月間に多くの節目がありました。

 長姉の言う通り、発見された当初からNK療法のような代替治療を受けておけばよかった、
 無意味な二度目の治験なんか行かなければよかった、
 眠っているがん細胞を起こすような強い代替治療をしなければよかった、
 無理をして東京の“権威”に診てもらうようなことをしなければよかった、
 医者を信じるなら最後まで信じ、穏やかな気持ちで入院生活を送ればよかった。
 運命を受け入れ、家族に感謝の気持ちを伝え、早い時期から事後の算段をつけておけばよかった。

 各々の運命の分岐点で義姉は常に悪い方を選び続けた、角度にしてわずか5度くらいしかない選択の幅の中で、選んではならない方を選び続けた――私はそんなふうに考えています。
 しかしなぜそんな選択しかできなかったのか――。

 実はその答えも分かっているのです。
 義姉が病気に対してあまりにも無関心だった、一番近くで支援すべき義兄も一緒に無関心だった、それが原因です。


【見ないようにしていた】
 大きな病院に行くと必ずあちこちにリーフレットスタンドが置いてあって、入院の手引きやら受診の仕方など手に入れることができます。その中に「家族ががんだと言われたら」とか「各種がん 受診から診断、治療、経過観察への流れ」といったがん専門のものもあって、試しに 国立がん研究センターのものをめくってみると一番最初に出てくるのは「あなたに心がけてほしいこと」です。項目がふたつあって、そのひとつは「情報を集めましょう」、もうひとつは「病気に対する心構えを決めましょう」です。

 きちんと情報を集めれば、発見された段階で相当な覚悟を決めなければならなかったこと、治療の選択肢は少なく、大学病院へ行こうと国内最高の権威にかかろうと結果に大差はなかったこと、代替療法は初期にこそすべきなこと、それでもどんな状況でも奇跡はあり得ること、医師や看護師は基本的に患者のために労苦をいとわないこと――、そういうことも分かっていれば、あんなに嫌な思いも苦しい思いもせずに済んだのかもしれません。

 あの賢い義姉や義兄がなぜあそこまで無関心でいられたのか――。それについても葬儀の後で義兄から直接聞くことができました。
 とにかく怖くて先のことを考えたくなかった。目の前だけを見て、そこにあることだけに対処して今日まで来た・・・。


【逃げる人】
 昨日、私は、
 経験上、がんに打ちひしがれる人と戦う意欲満々の人は死ぬのです。どちらも強烈なストレスですから。
 そうではなくノホホンとした人、何とかなると思っている人、何とかならなくても仕方がないと気楽に構えられる人、そういう人たちは生き残ります。私はそう信じています。

と書きました。
 ここでは三種類の人間が想定されています。「打ちひしがれる人」と「戦う人」、そして「気楽に考えられる人」です。しかしなぜ私は「逃げる人」のことを考えてこなかったのでしょう。

 昔いた「ヒデとロザンナ」という夫婦デュエットのヒデは、結腸がんのために47歳という若さで亡くなりますが、亡くなるギリギリまでがんが怖くて病院に行かなかったそうです。
 つい先日もあるテレビ番組で、「がん検診に行かないのはなぜか」という調査の一番多い答えが「がんが見つかるのが怖いから」という矛盾したものであることを紹介していました。

 最初の一年間の義姉夫婦の不思議な無関心や落ち着きも、安定した心理状態だったのではなく、現実を見まいとする必死さから来るものだったのかもしれません。

 私がしばしば疎まれたのも、そんな努力に水を差すからです。義姉は時々私のことを、妹である妻に「Tさんは分かっていない」と言い、私も妻もその意味が分からなかったのですが今こそ分かります。がんに関する情報なんて持ってきてほしくなかったのです。考えることも向き合うこともいらない、みんなで一緒にしらばっくれていること、それが一番よかったのです。

 最終末にあれほど医師や看護師を憎んだのも、結局は病気を見せつける人、がんを体現している人たちだったからに違いありません。
 それを理解してあげなければいけなかった。

 この1年10カ月の間に気づいたのは、義姉の思わぬ弱さと依存性でした。
 本当は弱くて頼りない人が、精一杯肩肘を張って生きてきたのです。それが死を前にして生の姿を見せるようになった。それが人間の生き方であり死に方なのだと、手遅れになったいま、初めて私は理解するのです。

 可哀そうなことをしました。ほかにやり方はいくらでもあったのに。


                               (この稿、終了)



5

2018/9/13

「不思議な無関心」〜ひとの生き方と死に方 5  人生


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(フランシスコ・デ・ゴヤ「魔女の宴」)

【すれ違い】
 義姉の闘病生活はまるで病気に見えなかった1年間1か月と、黄疸が始まって死に至る9カ月からなっています。その間、義姉夫婦と私たち(妹である私の妻と私、三姉妹の長姉にあたる義姉夫婦)の間に大きな感情のずれがありました。

 私は生来の“調べ魔”ですし種類は違うもののかつてのがん経験者ですから、義姉が胆管がんと聞くとさっそく昔買い揃えた本を持ち出し、ネットでも検索を重ねてあれこれ調べまくりました。長姉もまたさまざまに手を尽くし、通常の治療以外の何か良い方法はないかと模索し始めます。
 その結果長姉はNK療法に期待を寄せ、私は逆に先端医療から遠い漢方や食事療法、さらには加持祈祷に近いものに心傾いていきます。
 ステージWの胆管がんという最悪の状況に対して、現代科学はほとんど戦う術を持たない。だから全身状況を整え、心理的に余裕をもって前向きに生きることが奇跡を呼び起こす唯一の方法だと信じたからです。

 しかしどんなに熱心に勧めても申込書類を目の前に置いてさえ、義姉夫婦は言を左右にしてまったく動こうとはしませんでした。もちろん何もしなかったわけではなく、セカンドオピニオンとして県内随一の大学病院の診察を受け、車で5分の地元の総合病院から1時間以上もかかる病院に転院してより良いと思われる医療の道を探ったりもしました。
 しかし標準治療以外のどんな治療にも興味を示さず、“ガン封じ”といった神社仏閣へのお参りさえしません。先祖の墓参りすらしたかどうか疑わしい状態です。

 最初の一か月間、それこそ八面六臂の働きで資料を用意したり問い合わせた私はまったくの拍子抜けでしたが、やがて“それもいいかな”とい気持ちに落ち着いてもきます。

 経験上、がんに打ちひしがれる人と戦う意欲満々の人は死ぬのです。どちらも強烈なストレスですから。
 そうではなくノホホンとした人、何とかなると思っている人、何とかならなくても仕方がないと気楽に構えられる人、そういう人たちは生き残ります。私はそう信じています。

 ですから姉妹・義理の兄弟がうろたえて走り回っている間も、ただ標準治療に期待をかけ穏やかに過ごしている義姉夫婦の様子を見て、それもいいんじゃないかな、そういう対処の仕方もある、と思い直したのです。


【不可思議な無関心】
 それにしても義姉たちの落ち着きぶり、精神的安定というのは不思議でした。それは私が主としてネットの中で知っているがん患者やその家族の姿と全く異なったものです。

 先に自分のことを「生来の“調べ魔”」と書きましたが、ネット空間に入ると私なんかは赤ん坊レベルとしか思えない凄腕の “調べ魔”がいくらでもいます。それががん患者やその家族だったりすると、さらに尋常でなくなります。

 そのブログやサイトを覗くと、さまざまな治療法の検討はもちろん、自分あるいは自分の家族の症状を細かく観察し、腫瘍マーカーの数値には敏感で、抗がん剤も何を何ミリグラムと細かく記帳しながら、現在の症状や状況を正確に把握しようと努めています。
 常に見通しを立てながら、今後をどうしようか、最悪の場合はどう対処しようかと、思案するのにいとまがありません。

 もちろんネットに情報発信しようという人たちですから平均的な人ではなく、特に情報に敏感な、傾斜のかかった人たちです。しかしそれにしても多かれ少なかれ、がん患者やその家族は血眼になって情報を探す時期があるはずです。ところが義姉夫婦は違った――。

「腫瘍マーカーはどうなっています?」と訪ねても、「いや、それは聞いてない」。
「レントゲンやCTの結果はどうでした?」と聞いても、「良くない」で終わる。

 私は内心「良くないにもいろいろあるだろう」とイラつきますが実の兄弟ではないのでさらに突っ込んでは聞けない。

 あまり思い詰めることのない私でさえ、当初は真剣に状況を知ろうと努めたのに、義姉夫婦はなぜああも平然と無頓着でいられるのだろう――。


【驚くべき言葉】
 やがて私自身も義姉たちの無頓着に慣れ、流れるままに日常を過ごし始めたころ、そしてそれは抗がん剤治療ができなくなって都会の病院の治験(治療の臨床試験)にも参加できなくなった秋口のことです。ある日たずねて行った私たち夫婦を急いでテーブルに招き寄せ、義姉はとんでもないことを言い出したのです。
「ねえ、ねえ、知ってた? 胆管がんは5年だって、5年!」
 
「5年」を義姉がどういう意味で使ったのかは分かりません。しかし「5年」はがんについて勉強し始めた時、一番最初に出会う数字です。

 がんの発見・治療から5年を経過して転移・再発していなければ以後症状の出ることはほとんどない、つまり一応治ったと考えていい、その割合が「5年生存率」です。
 前立腺がんの5年生存率は98.4%だから死ぬ確率は極めて低い、すい臓がんは10.0%しかないから本当に難しい。
 同じ肺がんでもステージTだと83.8%だから希望が持てる、ステージWだと4.8%だからかなり厳しい。
 そんなふうに見て今後を考える最も基本的な数字です。それを義姉は知らなかった。数字は知っても誤って捉えている。

 知性も教養もない人なら何も言いません。しかしネット依存の激しい私と比べればはるかに多くの本を読む人です。新聞にも隈なく目を通します。義兄は何かあるとすぐにスマホを開いて調べる私と同じ“調べ魔”です。その夫婦がこの段になってまだ「5年生存率」も知らなかったなんて――。

 私は何か暗然とした気持ちになりました。


                             (この稿、続く)




3

2018/9/12

「死の勝利」〜ひとの生き方と死に方 4   人生


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(ピーテル・ブリューゲル(父)「死の勝利」)

【不可解な提案】
 胆管がんの権威から言われた「まず黄疸を消してから、そのあと抗がん剤治療を始めましょう」という言葉は義姉に希望と勇気を与えます。さらに言えば自身の力で調べ、渡りをつけ、勝ち取った成果ですから高揚感も少なくありませんでした。
 しかしそれを聞いた私は、少なからぬ衝撃を感じていたのです。姉のがんを聞いてから一年以上、たとえネット情報ばかりだとはいえ、胆管がんについては調べつくした気持ちでいたからです。

 実績のある抗がん剤についてはすでに1年近く前に効かなくなっています。全国の治験(治療の臨床試験)一覧も確認しましたが、胆管がんを対象とした新薬の研究というのもありません。それをこの段になって、まだ可能な抗がん剤治療というのはどういうものなのか、全く想像できなかったのです。
 同じ疑問は当然、地元の病院の医師たちももちます。しかし相手はこの病気の権威なのです。何か特別なことがあるのかもしれない――。

 一週間後、新しいステントを入れるために東京に向かう義姉に対して、地元の医師たちも「どういう治療をするのか、よく聞いてきてくださいね」と丁寧に送り出してくれます。


【杖を失う】
 しかしやはりそれは何かの間違いだったのです。
 東京での二度目の診察は“権威”の部下に当たる医師たちに引き継がれていました。医師たちは地元の病院から託された多くの書類を精査し、前の週に撮ったCT画像などを見ながら、もう新たなステントの入れられる状況でないことを説明します。

 残された方法は多くありません。その中から「経皮経肝胆道ドレナージ」という方法が選択され勧められます。これは脇の下から直接肝臓に管を差し込み胆汁を体外に排出する方法で、これだと毎日採集される胆汁の量から肝機能の観察ができますし、管が詰まった場合、繰り返し掃除ができますからもう黄疸の心配はいりません。

 実は地元の病院でも強く勧められていたのですが、ガーゼ交換・消毒といった手間が面倒なことや胆汁を入れておくパックを吊り下げていなければならないこと、そして何よりも入浴ができなくなるということで義姉が頑として受け付けなかったものです。

 しかし今度は国内最高の“権威”のいる病院です。そこで宣告されれば選択の余地はありません。義姉はしぶしぶ受け入れ、さらに一歩階段を降りて病人らしいさを増すことになります。
 これで黄疸は大いに緩和されるはずだと言われて、それではとばかりに抗がん剤の治療はいつから始めるのかと訊ねると、医師は“その話は聞いていない。抗がん剤の治療はできない。それは去年の6月ですでに終了しているはずだ”と説明します。
 国内最高の“権威”いる病院の宣告です。これも受け入れざるをえません。


【自宅に帰る】
 黄疸が消えてから抗がん剤治療を始めるという話がほんとうにあったかどうか、今となっては確かめようがありません。

 ”権威”が義姉を「がんに罹ってから初めて病院というところにきた患者」と勘違いした可能性もないわけではありません。胆管がんの多くは黄疸が出て初めて発見されますから、その場合は「まず黄疸を消してから、そのあと抗がん剤治療を始めましょう」が普通の流れになります。
 あるいはそうではなく、義姉たちが“権威”の長い長い話の中から、都合の良い部分だけをつぎ足してそうした理解になった可能性もあります。
 しかしいずれにしろ、義姉は希望の杖を失い、胆汁パックを肩から下げて迎えに来た息子の自家用車で自宅に戻ってきました。
 それから二十日ほどは穏やかな日々を過ごしていたようです。

 私は義姉の病気が奈辺にあるのか分からなくなっていました。すでに「奇跡の人」でないことは理解していましたが、胆汁が体外に排出されて肝臓の腫れも引いたせいか、黄疸が消えていくとともに一時少なくなった食欲も戻ってきました。ひどく痩せ始めたとか足がむくみ始めたとか、がんの末期についてよく聞く症状はまったく出てきません。

 また、宣告からすでに1年9カ月。私はこの病気で2年間生き残ったら死なないと思っていましたから1年9カ月は理解できない年月です。あと3か月以内に亡くなるとはとても思えないのですが、それを越えて完全に治ってしまうとも考えられません。

 ただし大雑把な見通しは分かります。
 このあとがん性悪液質によって腹水が溜まり始める、腹水との戦いがしばらく続く、やがて意識の混濁が始まって一日の大半を穏やかに、半分眠りながら過ごす。そして静かに亡くなる。
 その時間を、私たちは少しでも気持ちよく過ごさせたい、そんなふうに見通しをもっていました。


【最後の入院、最後の夢】
 7月に入ってまた、義姉は地元の病院に何度目かの入院をします。聞けば発熱と何とも言えない気分の悪さのためだと言います。何のことか分からないので週末を待って見舞いに行くと、胸水と腹水が溜まり始めたということでした。いよいよです。

 ただし義姉はまだ諦めていなかったようで、「ドレナージ」後の一か月検診で“権威”の医師に診てもらうことに大きな期待をかけていました。あわよくばそのまま東京の病院に入院してしまおうという腹もあったようです。とにかく日本一の医師です。何か持っているに違いない。そんなふうに考えていたのかもしれません。

 東京へは民間救急タクシーで出かけました。私は内心“そんな大げさな”と思ったのですが、当日びっくりしたのは病室からストレッチャーに乗せられてそのまま車に乗り込んだことです。もうタクシー乗り場まで歩くのもつらい状況だったのです。

 そうした症状の進展は東京の病院でも予想外だったようで、家族は医師から「こんな状況で東京まで連れてくるなんて」と半ば非難されたと言います。入院させてほしいと言っても「できる治療がない」と遠回しに拒否されます。
「一か月以内に意識が混濁して眠る時間が長くなります。このままだと余命は一か月か二か月、そんなふうにお考え下さい」
 入院となれば家族もホテル住まいですから1カ月以上はなかなか耐えられるものではありません。幸い送り出してくれた病院が引き受けてもいいと言ってくれたので、義姉はまた、長い長い距離を空しく救急タクシーで帰ってくることになりました。


【あっけない死】
 余命は1〜2カ月と言われて私たちはなんとなく1カ月は保つと考えていました。
 医師の伝える余命は、「同じ症状の患者の生存期間の中央値だ(短い人から長い人まで並べて真ん中の人が亡くなるまでの期間)」という話がありますが、私の印象だと短めにいう医師が多いようです。
 「余命三カ月」と宣告して一か月で亡くなれば家族の中に医療事故を疑う人も出てくるかもしれません。しかし「余命一カ月」と宣告して三か月生きれば感謝されます。
「余命半年と言われたのに1年以上も長く生きしました」
といった話はむしろ多いくらいです。

 そんな思い込みから私は1か月が保障されたように思っていたのですが、わずか半月後に義姉は亡くなってしまいました。
 東京まで長い車旅を往復したのがいけなかったのかもしれません。痛みに弱い人で、最後は「もっと強い薬を」と要求し続け、それが心臓を弱らせたのかもしれません。
 いずれにしろ、その最期はあまりにもあっけないものでした。

                                (この稿、続く)


3

2018/9/11

「終わりの始まりと希望の杖」〜ひとの生き方と死に方 3  人生


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(ウジェーヌ・ドラクロワ「ダンテの小船」)

【代替療法】
 がんが発見された翌年の2017年の暮れを、義姉は何事もなかったかのように終えようとしていました。
 9月・10月といくつかの代替療法を検討しましたがいずれもうまく行きません。
 ひとつはNK療法で、これは本人の血液から免疫細胞のナチュラルキラー(NK)を取り出して増殖させ、身体に戻そうというものです。しかし抗がん剤のなどの標準治療と併用してこそ効果があると聞いて断念しました。義姉の三つ年上の長姉が早くからこだわっていた療法でしたから、やるなら1年前にすべきでした。

 もうひとつは重粒子線治療で、こちらは放射線の中でも特に重い粒子を集中的に患部に当ててがん細胞を破壊しようというものです。けれど問い合わせたところ、胃のように自律的に動く部位や管状の患部には不適応ということでこれも諦めざるを得ませんでした。
 ただし私は、それでいいという感じも持っていました。

 もともと代替療法に対しては砂漠にダイヤモンドを探すようなものだという思いがあります。効かないわけではないが特殊な場合にしか効かないといったいった印象です。さらに全身療法であるNK療法はまだしも、がん細胞に直接働きかける重粒子線治療については本能的な恐れもあったのです。

 義姉はその間ずっと元気でした。もしかしたらがん細胞は眠ろうとしているのかもしれません。そんなときに直接がんに働きかけてそれで目を覚ましたらどうするんだ、そんな気持ちです。

 これは科学の問題ではなく一種の信仰ですが、今年の2月7日のブログタイトルに書いたように、「うまくいっているときは余計なことはしない」というのが私の基本的な考えなのです(2018/2/7 「うまくいっているときは余計なことをしない」〜義姉の病気と日本の教育と)。
 最悪の胆管がんで丸一年も症状が出ないのだから、そして肺の転移巣は縮小しているのだから、そこには何かいい条件が働いているに違いない、だとしたら何もいじってはいけない――。
 しかし義姉夫婦は肺の転移巣が縮小した10月にも、あらたな代替療法を探し始めます。


【終わりの始まり】
 11月末になって再びがん細胞を殺す代替療法に挑戦することになり、さすがにこのときは私も黙っていられず、やめた方がいいと助言して義姉との関係を少し悪くしました。

 しかし無理もないのです。私自身がかつて当事者でしたからそれもよく分かるのですが、がん患者にとって「何もしないで待ち続ける」というのもけっこう大変なのです。「座して死を待つなんてできない」といった感じでしょうか、とにかく何かをしていないと気が済まない。それも分からないではありません。
 病気は本人のものですし私は義理の弟にすぎません。もうそれ以上のことは言わず、私は見守るしかありませんでした。

 結局義姉は11月の末から2週間おきの治療に取り掛かりました。しかしその治療もわずか2回受けただけで終わってしまいます。
 3回目の治療日、病院に行って事前検査をしたところ、黄疸が出ていると言われ代替治療は中止となります。そしてそれきり、二度と同じ病院に行くことはありませんでした。

 最初、白目の薄い濁りにしか見えなかった黄疸はすぐに全身に広がり、それまで全く病人らしいところのなかった義姉がいかにもがん患者らしい姿となって、以後闘病の日々が始まります。
 それが終わりの始まりでした。

【黄疸】
 胆管がんの「胆管」というのは肝臓でつくられた「胆汁」を十二指腸に運ぶ長さ10〜15cm、太さ0.5〜1cmほどの管です。
 胆汁は脂肪の消化を助ける消化液で1日に600mlほど分泌されると言われています。色は 肝臓で生産されたときには薄い黄色で、胆嚢(胆汁を一時溜めておく臓器)で濃縮されると粘液が混って黄褐色あるいは濃い緑色になります。大便の黄褐色はこの胆汁の色です。

 がんが大きくなって胆管が潰されると、胆汁は十二指腸に流れなくなります。便は白くなり、行き場を失った胆汁は肝臓の中に滞留して血液に吸収され、全身に広がります。それが爪や眼球の白目の部分を黄色くし、やがて全身を黄色に染めます。がんによる閉塞性黄疸と言います。

 黄疸で全身が黄色のなるとは聞いていましたが、まさかあそこまで濃い黄褐色になるとは思ってもみませんでした。アメリカのパフォーマンスグループ、ブルーマンのまさに黄色版です。
 若いころから美しくあることに金も時間も手間もかけてきた義姉、それにふさわしい素地を持った義姉、そんな人が真っ黄色の体になって入院するのはほんとうに痛ましいものでした。
 本人はそれでも気丈でしたが、周囲の者たちがむしろ心折れていきます。


【ステント】
 がんによる閉塞性黄疸の場合、治療は姑息的な(根本治療ではない一時的な)ものになります。潰された胆管の中に網状の金属の筒を差し込んで押し広げるのです。
 その筒をステントといい、折りたたんでチューブに入った状態のものを、そのまま内視鏡によって十二指腸まで運び、胆管に挿入します。そしてチューブだけ抜き取り、あとは時間をかけてステントを広げるのです。
 胆汁は元通り胆管の中を流れ、黄疸は1か月ほどで完全に抜けてしまいます。

 しかしがんはその後も増殖し、網目の間から内側に侵襲して再び胆道を塞いでしまいます。義姉の場合はそれまでが2カ月間でした。そしてまた黄疸が出ます。
 一度入れた金属ステントは回収できないので今度はその中にさらに細い金属ステントを入れることになります。その2度目のステントも、今度はわずか一か月で閉塞してしまいます。

 義姉はつごう4回のステント挿入を行い、最後はカバーのついたステントを入れて網目からがんが入り込むのを抑えようとしました。ただしこの段階になると管が極端に細くなります。
 10mmの胆管に2度・3度とステントを追加して最終的に6mmのステントが入ったとして、流れる胆汁が10分の6になるわけではありません。胆汁の流量は管の断面積に比例するので10の二乗分の6の二乗、つまり36%にまで落ちてしまうのです。すると今度は入り口で胆管が詰まるようになります。胆汁自体が粘液を含んでいますし、がん細胞から浸出する粘液もそこに加わるからです。
 こうしていよいよステントによる黄疸の緩和にも限界が見えてきます。

 やってもやってもうまくいかないステント挿入に嫌気をさした義姉は、ここで思い切った手段に出ます。この種の手術で権威と言われる医師をネットで探し出し、直接連絡をとったのです。主治医を見限ったような行為ですが、こういうことに関しては怯えの少ない人でした。


【希望の杖】
 全国的にも著名な医師の診察を電話一本で受けられたのは、まったくの幸運としか言いようがありません。大学教授でもノルマとして行わなければならない一般診察の枠が、たまたま空いていたのです。

 義姉は背に羽をつけて飛ぶように東京に向かい、5回目のステント挿入手術の計画を立ててきます。新たな主治医から「まず黄疸を消してから、そのあと抗がん剤治療を始めましょう」と言われ、それが義姉の希望の杖となります。さすが胆管がんの権威、まだまだがんに対する直接的な治療の策を持っていたのです。


                                   (この稿、続く)

3

2018/9/10

「奇跡の人」〜ひとの生き方と死に方 2  人生


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(ロバート・ベイトマン「ベトザタの池」)

【義姉が亡くなりました】
 8月の中旬に差し掛かるころ、妻の二番目の姉、私にとっては義姉に当たる人が亡くなりました。

 さすがに60代も半ばを過ぎて容色も衰えましたが、それでも死化粧をして棺に納められた姿は50代前半にしか見えません。
 若いころは大変な美人で、実の娘と歩いているとよく姉妹に間違われたりしていました。そしてしばしば世の美人たちがそうであるように、勝ち気でがらっぱちで、まるで男にしか思えない雰囲気もありました。
 印象で言えば「ドクターX」の外科医・大門未知子です。もちろんそこまでの美人というわけではありませんが。

 その美しい義姉を死に導いたのはがんの中でも最悪のひとつ、「胆管がん」でした。発見された時はすでに肺への転移があり、それだけでステージWという判定です。手術もできない。
 それが亡くなる1年10カ月前のできことです。

 身内の深刻な病気ですからむやみに口外すべきものではないし、匿名で運営しているブログ上でもそれは同じだろうと自粛していたつもりですが、改めて調べてみるとなんと5回も取り上げています。それだけ強い想いもあったのでしょう。
 そうした“想い”も含めて、記事に従って死に至る経緯を辿りたいと思います。


【死に至る道】 
 最初のブログ記事は昨年2月22日の『「死を恐るるなかれ」A〜運命の日』です。
 ここで私は義姉を紹介し、「胆管がん」という病気についても書きました。患者やがんの性質について知ってもらう目的もありましたが、それよりも書きたかったのは闘病の始まりが案外悪いものではなかったことです。
 長い不摂生のあとではがんになるのは仕方ないとして、義姉は意外と幸運の持ち主かもしれない、そんなふうに思ったのです。

 義姉のがんは人間ドックで再検査となったことで発見されますが、その再検査の前日、義姉の母親(私にとっては義母)が亡くなります。そのころのすでに危険な状態が長く続いており、いつ亡くなっても不思議ではない状況でした。ですから義母の死は、一日遅れて義姉の再検査の日に重なるということもあれば、一日早くて葬儀が重なるという可能性もあったわけです。そうなれば検査はキャンセルせざるを得ず、葬儀後のあれやこれやに奔走させられているうちにぐんと遅れてしまったかもしれません。
 義母の死が再検査前日だったおかげで病院にも行けましたし通夜には間に合いました。ある意味で絶妙なタイミングだったわけです。

 第一回目のブログ記事では、私はまるで義母が自ら死の時を定め、
「明日を通夜にするから予定通り病院に行ってきなさい。通夜だったら午前中は空いているでしょ」と指示するかのような死でした。
と書いています。


 2回目のブログ記事は1回目の続きで(2017/2/27「死を恐るるなかれ」C〜一期一会)抗がん剤治療を始めたものの副作用はほとんどなく、病気を感じさせる症状もまるでない義姉の元気な様子を記しています。
 ただし今読み返して気づいたのは、
「(腫瘍マーカーの)数値が上がっているのよ」
と少し嘆いたという記述です。それなのに当時の私は「薬がまったく効いていないのかもしれしれない」といったとらえ方はしなかったのです。
 そういった見落としは私のひとつの傾向ですが、これについては改めて記します。


 3回目の記述はその8か月後、ステージWの判定を受けてちょうど1年目くらいの頃です(2017/10/31「ガンという病の分水嶺」〜誰が生き残るのか分からない)。

 宣告以来続けてきた抗がん剤治療も6月には効かなくなってしまい、7月・8月と都会の大病院の治験(治療の臨床試験)に応募しても、治療の始まる前に問題が発見され、次々中止になってしまいます。
 NK療法、重粒子線治療といった最新の治療も適応外で漢方薬で体内を整えるくらいしかやることがなくなったその時期、実は私の中にはある種の確信が芽生えていました。
 それは「義姉は奇跡の人ではないか」というものです。


【奇跡の人】
 抗がん剤をやめてから顔色もよくなり、化粧の乗りがいいと本人も喜んでいました。食欲も旺盛、体重も増加傾向で「太って困る」と嘆かなければならないほどです。黄疸といった深刻な症状はなく、発熱や倦怠感、からだのかゆみといったものもありません。

 ステージWの胆管がんの5年生存率(一応治ったと考えられる人たちの割合)は2009年の全国調査でわずか1.5%です。最初の1年間で83.6%が亡くなってしまう最悪の状況です。それを義姉はまったく症状のないまま1年目を終えようとしているのです。

 私は20年前に自分自身ががんを患って以来、この病気に関して注意深く情報を集めてきたつもりですが、がんには奇跡みたいな話がいくらでもあるのです。

 がんにかかると放っておいても、さまざまな治療法が集まってきます。
 ある人はプロポリスがいいと言い別の人はアガリスク茸が効くといい、ビタミンCだのゲルマニウムだの、あるいは丸山ワクチンを勧める人もいればラジウム温泉を推奨する人もいる。怪しげな加持祈祷や除霊の話、霊媒師や魔法使いのような人の話まできます。

 これは医学的根拠に乏しい民間療法がいかに多く世間にはびこっているかということではありますが、同時に、これらの療法で治ったと信じている人がいくらでもいるということでもあります。

 本当にその治療法で治ったかどうかは分かりません。
 しかも民間療法に頼る人たちは二つも三つも同時に受けていたりしますから、そのうちのどれが良かったのか、組み合わせが良かったのか、それすらも分からないのです。さらに言えばその人たちは何もしなくても治ったかもしれないのです。
 しかしいずれにしてもステージWといった深刻な状況を乗り越えて長生きをしている人がいる、あるいは完全寛解と思われる人がいる、それも結構な数でいる――そうした事実が私を勇気づけます。

 私はその人たちのことを密かに「奇跡の人」と呼び、20年前に悪性度の高い肺がん(大細胞がん)を乗り越えた私自身も、そして今、胆管がんという最悪に近いがんで症状も出ないまま一年をすごした義姉も、その「奇跡の人」ではないかと思い始めていたのです。

 私は3回目のブログ記事をこんなふうに締めくくっています。
 1年以内に80%以上が亡くなってしまう胆管ガンで、義姉が今も元気だということは、もしかしたらもう危機を脱しかけているのかもしれない、生き残る可能性はグンと上っているのかもしれない。
――もちろん余計な期待を与えないという意味で本人には言えないことですが。

 実際にその翌月、肺の転移巣は次第に縮小し始めたのです。

                       (この稿、続く)


*タイトル画「ベトザタの池」について
 エルサレムには羊の門の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていた。彼らは水が動くのを待っていた。それは主の使いがときどき池に降りて来て水が動くことがあり、水が動いたとき真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていてもいやされたからである。(ヨハネによる福音書5章2〜4節)




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2018/9/7

「ある運命論者の弁」〜ひとの生き方と死に方 1  人生


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(グスタフ・クリムト 「死と生」)

 私はおそらくある種の運命論者です。

 運命論あるいは宿命論というのは、「世の中の出来事はすべて予め決定されていて人間の努力ではどうにもならない」とする考え方です。

 しかしこんなふうに文字にしてみるとちょっと違うなと思うのは、私の考える運命論は人生の細部までガチガチに決まっていて一片の変更もできないようなものではないからです。印象で言えば目の前に角度にして5度ほどの広がりがあり、その中で選択の余地があるといった感じです。

 もう少し詳しくお話ししましょう。


【運命の角度】
 卒業式の時などに言われる「キミたちの前には無限の可能性がある」は、角度にしてたぶん90度くらいの広がりだと思うのです。人生を“道”のように考えた時、目の前に360度の未来が広がっているというのは変でしょう? 後ろには行かないから。

 さりとて分度器のようなものが目の前にあるとして、0度の方向にも180度の方向にも行けませんよね。真横に歩く人生というのも変ですから。だから「無限の可能性」と言っても真正面を中心にして左右45度ずつ、計90度くらいの可能性だと考えるわけです。

 それに対して私の運命論は「左右2.5度ずつ、計5度くらいがせいぜいかな?」といったものです。もしかしたら5度でも広すぎて3度くらいなものかもしれません。それくらい幅が狭い。その中でしか生きられない。

 別の生き方をしようとしても必ずその枠の中に戻されてしまう、大きく逸れたつもりでもいつの間にか枠の中に納まっている、それが私の運命論です。

 ただし運命の左いっぱいで生きるのと、右いっぱいで生きるのとではだいぶ違います。人生は長いのですから5度(あるいは3度)の幅は甚大です。高速道路でも5度左にハンドルを切ったまま走り続けたら、すぐにガードレールにぶつかってしまいます。


【運命の分岐点】
 さらに、私の運命論にはもう一つの特徴があります。それは、
「人生にはたびたび運命を分ける分岐点があって、そのたびに何かを決めなければいけない、それは新しい5度が目の前に置かれることだ」
というものです。

 例えばあるとき目の前にあった5度の角度の左の限界ギリギリを歩いてきたとして、分岐点に差し掛かるとそこに新たな5度が現れます。そこでもう一度選び直すのです。
 もう一度舵を左いっぱいに切ると、2.5度左に向かっていた人生にさらに2.5度重ねるわけですからけっこう左に逸れ、当初とはずいぶん違った風景が見えるはずです。
 左ではなく、今度は思い切り舵を右に切っても以前の道に戻れるわけではありません。前の選択からずいぶん時がたっていますから容易に同じ方向には向かえないのです。

 分岐点はいつ現れるか分かりません。運命ですから。
 5年、10年と間をおいて現れるかと思えば、たった1時間の間に3回4回と重大な決断をしなくてはならないこともあります。人知の及ぶところではなく、努力で変えることもできません。決断を回避しても「回避した」という決断を下したことにさせられてしまいます。

 何か回りくどくて分からないかもしれませんね。


【ある運命論者の弁】
 要するに、
「人生にはいくつかの節目節目があってその時々に人間にできることはごくわずかでしかないが、そのわずかな積み重ねは大きな違いを生み出す」
と、これも文字にしてみるとあまりにも平凡な考え方です。

 
 なぜこんなことを言い出したのか。それはこの夏起きたある大きな出来事について、来週お話しするのに先触れをしておきたかったからです。


                             (この稿、続く)

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