2019/9/17

「祭りの準備に船頭が多すぎた話」〜敬老の日に重ねて  人生


 地区の祭りの準備に行ってきた
 参加者は老人がほとんど しかし口は多い
 船頭多くして何とやら
 なかなか面倒くさいが 年寄にはそれが必要なのだ

というお話。
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(写真ACより)


【祭りの準備に行ってきた】
 地区の神社が秋の大祭で、その準備に行ってきました。4年に一回、私の町内班は幟(のぼり)立てが仕事です。
 高さ十数mの大幟で、前回までは旗をつけた後で木の柱を立てるという危険かつ重労働だったのですが、今年行ってみると金属のポールが立っていて、天辺の滑車から下げられたロープに横棒を括りつけ、そこから幟を吊るして引き上げればいいだけのものに替わっていました。
 とは言ってもただ吊るせばいいというのではなく、旗の一辺はポールに針金の輪で括り付けなくてはいけません。つまり多少の工夫は必要みたいなのですが、初めてのことで、そのあたりのあんばいがよく分かりません。

 そこでみんなで思案しながら始めたのですが、午前6時から始まった田舎の作業は御多分に洩れず年寄ばかり。ごくわずかの若者(と言っても40〜50代)に作業は任せて、口ばっかりの旗奉行が何人も出てきます。


【船頭ばかりの幟立て】
「そこのロープはそんなに長く取ってもいいもんかい?」
「ほら、ほら、ほら、まず最初にそっちのネジを外すってもんじゃあねえかい?」
「誰か、そこに乗っかって、上から見てみろや」
 そうしたアドバイスのいちいちが間違っていたりトンチンカンだったりで、そのうち、
「いや、やっぱその紐は長すぎる」
とか言ってせっかく縛った旗の先の紐をほどこうとしたり、針金の輪のために垂直にしか引けないロープを苦労して引き下ろしていると、「そんなモンは斜めに引っ張るのが楽なんじゃ」とか言って、手を出して人の邪魔をしたり、次から次へと変なアドバイスや余計な手が出てくるのです。
 私はもう呆れるとか怒るとかを通り越して、ほとんど可笑しくてしょうがなくなりました。
 みなさん、分かってなくてもこんなに堂々と意見が言えるんだ――。

 考えてみるとそこに集う老人たちは皆、“昔はひとかどの人物”ばかりです。
 企業の経営者もいれば部長さんもいる、工場長もいれば支所長もいる。個人経営者も町会長も――。これといった社会的な肩書はなくても、大部分は“お父さん”として家庭で幅を利かせていた人たちです。
 しかし今は誰からも顧みられない。

 意見も求められないし、さして尊重もされない。もちろん尊敬などされるはずもない。邪険に扱われるわけではないが頼りにもされない――年寄りとはそういうものです。

 だから何か言えそうなときには言いたくてしょうがない。少しでも考えがあれば我慢できずについ口を挟んでしまう。それでもすごくいいことが言えればいいのですが、自分の土俵でないからしばしばトンチンカン。それでなおさら煙たがられる。悪循環。

 鬱陶しいと言えば鬱陶しい。受け入れてあげたいけれども間違っている。誰も聞いていないのにしゃべる姿が痛々しい。
 しかしこんな機会でもなければ人間的な会話すら乏しい人たちかもしれません。微笑んでみてあげましょう――そんな気持ちで小一時間の作業を終えました。


【家に帰って】
 家に帰って、妻にその話をすると、「分かる、分かる、その感じ」と同調したあとで、
「で、あなたはその“多すぎる船頭さん”の外で、静かにしていられたわけ?」

 私はちょっと考えます。しかし――、
 そんなことあるわけねぇだろ。こちとらは元教員だ、黙っていられるはずがない。
 少し離れたところでちょっとした講習会が始まるのを目ざとく見つけると、走って行って説明を聞き、取って返して「ここはこう」「あそこはこう」といちいち指図し、ほとんどは正しかったがいくつかの点で間違いを犯して迷惑をかけ、小さく尖った視線を何回か浴びたのは実はこの私だ!

 次はもっとうまくやる、きっとうまくできるはず。ただし次も4年後だから、それまで覚えていられるかどうかが問題だ――と、私ももう立派な、口うるさい、見捨てられた老人です。





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2019/6/25

「『腐女子、うっかりゲイに告る』が残したもの」〜ネタバレだらけ  人生


 4月スタートのドラマが ここにきて続々と最終回を迎えた
 今回は特に心打たれる物語があり
 私は人生をもう一度考え直した

というお話。
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【4月スタートのドラマが終わる】
 4月スタートの連続ドラマのいくつかが最終回を迎えました。
 私は特にこの二か月間、さまざまに忙しかったためにテレビもきちんと見られなかったのですが、NHKのドラマ10『ミストレス〜女たちの秘密〜』と夜ドラ「腐女子、うっかりゲイに告る」、そしてフジテレビの「ラジエーションハウス〜放射線科の診断レポート〜」の三つだけはしっかり見ようと、VTRまで撮って最後まで見続けることができました。

 「ミストレス〜」はイギリスでつくられ、その後アメリカ・ロシア・スロバキア・韓国でリメイクされたという鳴り物入りのドラマで、「ラジエーションハウス」は放射線技師が主人公という医療物としては今までない視点からのドラマ、そして「腐女子〜」は主演の藤野涼子さんが女優としてかなり期待している人なのでと、それぞれ違った理由からの選択です。

 終わってみるとどれもなかなか良かったのですが、「ミストレス」は最後があっけなさ過ぎて、「ラジエーションハウス」は細部で脚本に納得できない部分があり、結局、中で一番良かったのは「腐女子、うっかりゲイに告る」だったかな、と感じています。


【腐女子、うっかりゲイに告る】
 これは浅原ナオトという人の『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を原作とした物語で、ゲイをひた隠しに生きる18歳の高校生安藤純(金子大地)と同級生で腐女子(ボーイズラブ《BL》と呼ばれる男性同士の恋愛を扱った小説やマンガを好む女性)の三浦紗枝(藤野涼子)を中心に、ある時はコメディ風に、ある時はシリアスに、高校生の性と恋愛と同性愛者の世界を描いた青春ドラマです。

 タイトルの通り、腐女子の紗枝は純が同性愛者だとは知らずに恋をして、“うっかり”告白してしまいます。本来なら断るべきなのに、純は「自分はいつでも普通になれる、みんなと同じように生きることができると自分に証明したい」という欲望に駆られてこれを受け入れてしまうのです。

 しかし純が同性愛者であることは紗枝の知るところとなり、さらにひょんなことから全校に知れ渡って、純は校内で孤立することになります。

 6月1日の第7回の放送は、終業式の表彰の場を借りて、紗枝が純の苦悩を全校に知らせる場面が中心となりました。そこで紗枝はこんなことを語るのです。


【壁の向こう側で】
 彼はいつも自分の目の前に透明な壁をつくっています。壁の向こう側から私たちのことを見ている。
 でもそれは自分を守っているんじゃなくて、私たちを守っているのです。

“ぼくがここから出たら、君たちはきっと困ってしまう。(物理の授業で)摩擦をゼロにするように、空気抵抗を無視するように、ぼくをなかったことにしないと、世界を簡単にして解いている問題を解けなくなってしまう。だからぼくはこっち側でおとなしくしているよ”
 そう言ってるんです。

 彼は自分が嫌いで、私たちが好きなんです。
 でも私は、彼のことが本当に好きです。

 “ああ、その通りだ”と私は思います。
 それは私の良く知っている世界でしたが、言葉にされて初めて、しっかりと摑まえることのできたことです。

 人が障害や問題を隠そうとするのは、もちろん幼いころは恥ずかしいということもあるかもしれませんが、ある程度の年齢になると違う。その秘密が暴露されると相手の心が乱れてしまい、どう対応したらよいのか困ってしまう。それが誠実な人間であればあるほど悩みは深くなる、それを避けたいのだ。大切な人たちをそっとしておきたいのだ、だから壁のこちら側にいる。孤独でいる。

 私はそういう生き方があることを知っていましたし、ある時期までは私自身がそうでしたからよくわかるのです。しかし紗枝の言葉を聞いて初めて、その「分かること」は、意識の中にしっかり定着します。

 だからそうした人間のそばには誰かがいてやらなければならない。無理に壁から引き出すことはないが、彼の孤独に寄り添って、いつでも声をかけてやれるようにしなければならない――それが今の私に言えることです。
 私はそういう人間になりたい。


【もう一つの大切なこと】
 第7回の「腐女子〜」にはもうひとつ重要なセリフがありました。
 それは言うべきことをすべて語った紗枝が、ステージ上で涙を流しながら立ち尽くしている姿を見て、純が心の中で叫ぶ言葉です。

 世界を簡単にする。
 たったひとつ、大事なことを残す。
 大好きな女の子が泣いているのだ。


 そうして純はステージに向かって走り出します。

 そうです。世の中は複雑で人の心は判断が難しい。しかしそれを簡単に解く方法がある。それは純が言う通り、「最も大事なことを残し、あとを捨てること」です。

 私の残りの人生は、自分自身がそれを生かすほどは長くはありませんが、人に伝えるには十分だと思います。
 世の中には自分で壁をつくって、みんなのためにひとり孤独に沈んでいくような人がいる、だから誰かが彼の傍らにいなくてはならない。
 世界は複雑かもしれないが、それを解くカギはある。それは大切なものを残し、あとは捨てることだ。

 その二つを。





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2019/6/11

「わが家の五月危機」〜孫のハーヴに見る4歳児の成長2  人生


 人生は不思議なもので なぜか忙しいときに新たな仕事が入り
 長いことなかった冠婚葬祭がまとめて一気に押し寄せ
 電化製品はしばしば同時に壊れる
 2019年5月 なぜかわが家に看過できない事件が続いた

というお話。
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(ピーテル・ブリューゲル《父》 「聖マルティヌスの日の葡萄酒」)

【世間知の学習・第二章】
 事件のひとつは、息子のアキュラの突然の転勤です。その顛末については以前書きました。
2019/5/22「世間知の学習2」〜引っ越し編
2019/5/23「世間知の学習3」〜最も大切な人生の知恵について考える編

 とにもかくにも最低限の持ち物を宅配便で送りこんで、アキュラはいったん九州に赴任し、2週間後、あらためて本引っ越し・アパートの引き払いということになりました。しかし書いた通りのバカ息子ですから、やはりただではすみません。

 引っ越し業者から三日前に最終確認の電話があって、そこで当日、朝一で積み込みに来ることが知らされます。朝一で来られるとアキュラの乗る予定の飛行機では間に合いません。慌てて前日の飛行機を探したのですが花の金曜日でチケットが取れない。

 危機管理の「さしすせそ」の最初の「さ」は、「最悪の事態を考えて」です。しかし業者が朝一で来るなどは最悪というほどのことでもありません。当然織り込んでおくべきです。
2007/5/16危機管理の『さしすせそ』

 アキュラは私に対していちおうの誠意を見せようとしたらしく、当日の第一便を予約し直すのですがそれでは新居から空港までの足がなく、仕方がなく前夜出て、空港の近くの温泉施設で一夜を明かしたようです。何たる弥縫策。
 だったら前の晩の新幹線の乗り継ぎだとか夜行バスだとか、他に考えられることはあったはずだと思うのですが――。

 いずれにしろ結局父親頼みになってしまい、引っ越し業者との対応や荷物の送り出しは私が行うことになりました。甘い父親ですが昨日も申し上げた通り、男の子は“バカなのでいつまでたっても可愛い”のです。

 この“アキュラが引越しに間に合わず、私が対応しなくてはならない”という事態は、実はあとから考えると、かなり――というより相当に――危険な状況だったのです。


【婿殿、入院する】
 話をいったん5月の月初めに戻します。我が家の五月危機の始まりがゴールデンウィークにあったからです。

 超大型と言われた今年のゴールデンウィーク。私たち夫婦は何の計画もなく畑仕事などして過ごしましたが、アキュラは引っ越しのことも考えずに瀬戸内に釣り旅行、娘のシーナも家族と箱根に出かけていました。

 シーナは臨月直前であと一カ月もすれば出産。そうなると最低一年は遠出できません。そこで無理をして宿泊料最大の時期の箱根旅行となったわけです。
 ところがそんな贅沢の罰が当たったのか、行ったその夜のうちに婿のエージュに猛烈な腹痛。翌朝は朝食も取らずに出発して主治医のいる東京の病院へ。着くなりそのまま入院してしまいました。
 エージュには厄介な持病があって、死に至るようなものではありませんが無理をすると強烈な腹痛に襲われ、その後は数日の絶食治療になるのです。もちろんその間も栄養は摂取しなくてはなりませんから点滴入院です。

 私が孫のハーヴを連れて「プラレール博」に行ったのは、父親が入院で母親が身重、それなのに保育園も長期休業ですっかり煮詰まったハーヴを救援するためでした。
2019/5/20「良い子・悪い子・普通の子」〜黄金週間、池袋のプラレール博に行ってきた


【シーナの危機=アキュラよ、これが人生だ】
 書きませんでしたが池袋の翌日は別の場所でやっていた“一緒に遊べるプラレール大会(公民館行事)”にも行き、三日ほど遊んでやってエージュの退院を見届けてから、今度は自分へのご褒美で上野の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」を鑑賞。
2019/5/15「東京都美術館のクリムト」〜二つのクリムト展を観てきた 1
 いったん田舎に帰って週末にアキュラの仮引っ越しのため再び上京。ブログに書いたような一連の騒動のあと、今度は新美術館で「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」を鑑賞。
2019/5/16「国立新美術館のクリムト」〜二つのクリムト展を観てきた 2
 さらに一週休んでその間に母が骨折し(2019/5/21「世間知の学習1」〜病院編 )、やれやれあとはアキュラの本引っ越しだと思っていたら、そこにとんでもない報せが入ってくるのです。

 引越し3日前の水曜日の夜、9時過ぎ、まず普通は考えられないことですが家の固定電話にシーナから連絡が入って、
「破水したかもしれない。尿漏れかもしれないけど」
とのこと。一瞬、凍りつきました。

 その後は深夜までLINEで五月雨式の連絡。
 息子のハーヴも乗せて婿のエージュの運転でかかりつけの産院へいったものの、医者からは完全破水で一両日の自然分娩になるはずだが月齢が満ちていないのでここ(かかりつけの産院)では対応できない、大病院を探す、と言われてそのまま家族全員と当直医とで救急車に乗車。
 いくつかの病院に断られた挙句、自宅からは20kmも離れた大学病院でようやく引き受けてもらったのが12時過ぎ。シーナを残してエージュとハーブが自宅に戻ったのは午前1時半過ぎだったようです。

 連絡を受けると妻は「すぐに出かけましょう」というのですが、自家用車で3時間以上かけて東京に行っても何かができるわけでもなく、翌朝一番で私が行くこといなり、その晩は落ち着かないまま眠りにつきました。
 そこで思い出したのがアキュラが引越しする土曜日は、エージュの勤務する学校の運動会だということです。つまり明日は前々日準備、明後日は前日準備、とてもではありませんが休んではいられない。とりあえず明日のハーヴの送り迎えは誰がするんだ?
 やはり妻が言ったように、その夜のうちに出かけるべきだったのかもしれない、そんなふうに思い悩みながら、しかし案外簡単に寝つくことはできました。

 週末には本引っ越しとなるアキュラよ、これが人生だ。
 だから今日すべきことを明日に回してはいかんのだ。


                   (この稿、続く)

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2019/5/23

「世間知の学習 3」〜最も大切な人生の知恵について考える編  人生


 どうしようもないバカ息子にキレて・・・
 しかしそれでも私の人生はうまく回る
 それとは別に
 この慌ただしい一週間の経験を通して
 一番大切な人生の知恵は こういうことだったと
 改めて思うことがあった

というお話。
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【トボケた息子に父親がキレる】
 粗大ごみは直接持って行けば無料で処分してくれる。しかも処分場はアキュラのアパートのすぐ目の前だ。

 その素晴らしい情報を急いで報せ、
「今夜中に申し込んでください」
といった私の依頼を、アキュラは5日に渡って放置しました。その間二回ほど催促したのですが、
「今、歓迎会に出ているので帰ったら対応します」
「申し込んだら携帯からのWeb申し込みはできないそうです」
「仕事中で電話をかけることができませんでした」等々はかばかしくない。

 その結果5日目に申し込んだところ、
「土日ともすでに予約でいっぱいで別のところを紹介された。そちらは土日にやっていない。父に行ってもらってもいいんだけど、区民でないとだめだしなァ」

 私の中で何かがプチンと切れる音がしました。
 脳の血管かと思って一瞬心配しましたが切れたのは堪忍袋の緒で、以降15分に渡って電話口に向かってガンガン怒りの言葉を投げつけ、引っ越しが決まって以来、腹にため込んだ数十トンの怒りのマグマを吐き出したのです。
 アキュラをそんなふうに怒ったのは10年ぶりでした。

 オマエがしないからオレがやっているオマエの仕事に、
 オマエが不熱心で、不熱心のためにしでかしたオマエの不始末を
 尻拭いしているオレの仕事をオマエがあざ笑うとは何事だ
ということです。

 しかし怒りに任せて怒鳴り散らして電話は切ったものの、粗大ごみ問題は宙に浮いたままです。もう息子にやらせる分を残していたら何も進みません。幸い怒りのエネルギーは十分残っていましたからその勢いで処理センターに電話して、なんとか頼み込んで引き取ってもらうしかない、たとえベッド1台だけにしても・・・


【閉じた道の脇に道が見える】
 そう決心して電話した処理センターの女性は、事情を話してもケンモホロロで付け入る隙がありません。そんな申し入れは、これまでもいくらでもあったからでしょう。

「処分券を購入して家の前に出すという方法がありますが、回収日をお調べしましょうか」
 もちろんそのやり方は知っていますが、どうせ日にちが合うはずはありません。アキュラの不作為のためにタダで済む粗大ごみ処理を、数万円かけて業者に頼む不合理に茫然としながら、電話を切るのも失礼なので聞くともなく聞いていました。すると女性が小さく叫びます。
「Tさん(私のこと)、息子さんの地域の回収日、日曜日になっていますよ!」
 え?
 
 私はどこまでも運のいい人間です。家族が何回足を引っ張っても、そのつど道が見えてくる。日曜日の自宅前回収ならほとんど問題ない――。


【私は息子の育て方を間違ったのか】
 そのことを妻に話して愚痴ると、
「仕方ないじゃない、そういう子に私たちが育てたのだから」
と言います。
 そうだろうか?

 仕上がりを見れば確かに不出来で、作品の不出来は制作者の責任ということになるのが通例ですが、しかし私は責任をとりたくない。そんな子どもに育てるつもりはなかったからです。
 つもりはなかったのにそんなふうに育ってしまった――なぜか。

 野菜だったらそれは生産者の腕前だけでなく、天候や苗の問題もあります。
 料理を、レシピ通りグラム単位で測ってストップウォッチまで持ち出してつくって、それで味が悪かったら素材を疑うべきです。

 物の出来不出来は、制作者の腕だけで決まるわけではありません。特に子育てには絡む要素が多すぎて、制作者(親)の意図が十分に果たされることは稀なのです。
 思った通りに子は育たない――それが普通の姿で、そうである以上私が全責任を取ることはない!――と、妙に建設的な言い訳を考えながら、最後にたどり着いた答えは
「欠陥は多々あるものの、全体として自分はいい子育てをしたな」
と、自分自身とアキュラを受け入れなければならないということです

 私が過保護だからアキュラの自立性が不十分なのか、もともと自立性の乏しい因子を持って生まれてきたから親が過保護にならざるを得なかったのか、それは分からないことです。しかし過保護でなければ育たなかった“良き性格”だってきっとあるはずです。
 お坊ちゃま育ちですら人を妬んだり羨んだり、騙したり傷つけたり、追い詰めたりしません。それだけでも私の子として、十分、満足いく出来だとも言えます。

 足らぬところは、それを補ってくれる配偶者を見つけることで補ってもらいましょう。


【もっとも大切な人生の知恵】
 母に話を戻します。
 骨折をしたその晩に大病院の救急救命センターに行ったわけですが、そこにはさまざまな患者がいました。
 乳幼児にありがちな急な発熱のために来た人から、救急車で運ばれてきた瀕死の重病かもしれない人まで――対応で言えば小児科も外科も、消化器内科も脳外科も、ありとあらゆる病人が次から次へとやってきます。
 そこまですさまじい多様性は、救急救命センター以外に考えられません。

 そこでまず私の目を引いたのは、車椅子で受付に来た30歳前後と思われる女性です。体を前に折り曲げて今にも車椅子から堕ちてしまいそうです。もちろん手続きをしているのは本人ではなく、私と年恰好の似た初老の男性です。父親なのでしょう。
 手続きが終わると女性は車椅子も辛いようで、結局待合室のシートに横たわってしまうのですがそれを介助する父親の様子があまりにも落ち着いています。きっと初めてのことではないのでしょう。

 しばらくすると、驚いたことにまったく同じ年頃の女性が再び車椅子でやってきます。背後に立つのは、今度は夫婦です。

 私の娘のシーナも30歳が目前に見えてきましたが、手元を離れて10年、結婚して5年です。過保護の私が背後にいるとはいえ、一義的にシーナを保護すべきは夫のエージュです。
 しかしシーナが私の元にもどりエージュもなくて、しかも今、車椅子で私がここに運びこんでいるとしたら、
「それはかなり辛いな」
と思いました。

 他人の困難を見てわが身の幸福を確認するというのは後ろめたい行為ですが、救急の父娘が私たちとほぼ同じ年齢であることを考えると、思わず重ね合わさざるをえなくなるのです。

 良いも悪いも、優れるも劣れるも、すべて等身大の自分や家族を受け入れ、手に入らなかったものを数えるのではなく、今、手の中にあるものを数えて大事に握り閉めて生きる――。

 この一週間の慌ただしい経験を通して、一番大切な人生の知恵はそういうことだと改めて確認しました。

                                                            (この稿、終了)


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2019/3/5

「長く生きることの大変」〜母を見ながら考えた  人生


 長命な家系です
 うっかりすると80歳・90歳 
 あるいは100歳を越える人生というのもあるのかもしれない
 そう考えたら少しビビった・・・

という話

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【長命な人々】
 とりあえず、私たちは親戚の多い世代です。
 私の場合、父が4人兄妹、母が5人姉弟ですので、叔父叔母だけで14名いました。私の両親を入れると総勢16名です。

 20年ほど前に私の弟が遅い結婚をしたときは16名中15名が生存していて、それは壮観でしたが、やがて一人、二人と抜けていき、今は叔父が1名、叔母が6名。91歳の私の母を入れて8名が生存者です。
 全員が85歳以上、内3名は90歳を越えていますから気が気ではありません。心配で式服をクリーニングにも出せないのです。明日、葬式が合っても不思議ない。

 特に昨年の暮れに亡くなった叔母の場合は、朝、玄関で倒れ、午後、病院で持ち直し、夜、元気よく家族を家に帰して、深夜に亡くなるというあっけなさで、家族の誰も、予想すらしていなかったのです。

 その鮮やかな死を、私の母などは羨ましがります。ピンピンコロリが一番いいと言うのです。しかし人の死に方は、生き方以上にままならないものです。

 ピンピンコロリで逝くためには、とりあえずピンピンしていなければならない。母にはそう言って働かせようとするのですが、最近はあれこれ億劫みたいで、やたらとサボりたがります。
 サボっておいて、
「はやくお迎え、来ないかねえ。お父さんは何をしてるんだろうね」
と息子には答えにくい愚痴を繰り返し言い、しかし一方で、96歳と94歳の二人の姉より先に逝く気はないみたいで、地震が来ると怯え、老女殺人事件みたいなニュースを聞くと施錠を確認に行ったりもするのです。


【元気なのに不満も多い】
 人は70歳を越えると年の取り方に差が出ます。

 教員時代、何回かボランティア老人ホームに生徒を引率したのですが、そこで会うお年寄りはよぼよぼの70歳もいれば今にも走り出しそうな90歳まで、千差万別です。
 総じて呑気で明るいタイプは若く、陰気な感じの人は老けています。しかし必ずしもそれがすべてではありません。

 病気の有無は決定的で特に内臓に問題を抱えていない人は長生きするようです。内臓以外にはけっこう問題があって、あちこち腰だの膝だの痛い痛いと文句を言いながら、それでも生きていく人たちです。
 私の母がそういうタイプで、事故以外で入院をしたことがありません。

 健康で元気なのだから文句を言わなければいいのにやたらうるさく、「デイサービスで“いつも元気だ”と馬鹿にされた」(?)と怒ってみたり、誰も同情してくれないとブー垂れたりします。

 同じセンター仲間の補聴器自慢に傷ついて、自分も最高級の補聴器を買おうと張り切って眼鏡屋に行ったのですが、測定したら耳にはまったく問題がなく売る機械がないと言われまた傷つきます。

 そういえば深沢七郎の「楢山節考」にも、歯が丈夫で全部揃っていることに傷ついた老婆が、自ら折って村人の前に出てくる場面がありました。
「ワシもようやく歯の抜ける年になった」という意味らしいのですが、口じゅう血だらけでヌッと出てくるわけですから村人の怯えることこの上ない、そういう話でした。

 買う補聴器のなかった母は、仕方がないので必要もないのに安売り店では最高額の眼鏡を新調して帰って来ました。ちょっと斬新なデザインですから値段を言わずに自慢することでしょう。


【今のままでいい】
「おまえだって“お袋、もうそろそろ死んでくれ”と本気で思うこともあるだろう」
などと嫌なことを言うときもあります。しかし私は一度だってそんなふうに考えたことはありません。
 自分自身にとって今が幸せの絶頂だと思っていますから、自分の周辺で駒が一つでも動くのは嫌なのです。
 今のままで十分けっこうです。

 ただ母を見ながら考えるのは、長生きというのは案外、幸せなことではないのかもしれないということです。
 もちろん不幸ではありません。ただとても退屈そうなのです。

 私は昔から“退屈”が苦手です。
 父は86歳まで生きました。母は今91歳です。そう考えると、長命な家系ですから私もまた90歳・100歳と生きる可能性があるわけです。

 その意味でも“そこそこ動けて退屈ではない今のまま”がずっと続けばいいのですが、そういうわけにもいきません。




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2018/12/20

「様式からはみ出ることの胡散臭さと必要性」〜冠婚葬祭の経済学3  人生



同棲は無責任、式も披露宴もしないというのは逃げ――そう考える人たちがいる。
しかし時代とともに考えなくてはならないこともあだろう。

というお話

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(ブレア・レイトン 「登録簿へのサイン」)
 
【同棲の経済学と倫理学】
 娘のシーナが結婚式を決める1年ほど前、こんなことを言ってきたことがあります。
「前に話したエージュと、同棲したいんだけど、どう思う? その方が経済的に凄く助かるんだけど――」
 私の答えは簡単でした。
「経済的に助かるなんて百も承知だ。しかしその上で、ダメ!」

 女性にとって“同棲”がどういう意味を持つか分かりませんが、男にとっては天国です。
 多少の制約はあるにしても経済的に楽で、食事付きセックス付き、責任だけが“なし”、いざとなったら乗り換え可、ですからこんないいことはありません。結婚という形式を取らずに“同棲”で済ますのは、簡便さとともにこの「乗り換え」カードを手放したくないからではないかと、密かに疑っています。

 私の知っている中にも、何年も同棲生活を送って女性の方が“もう、そろそろ”と思っているのに、男の方が言を左右にして首を縦に振らない例がいくらでもあります。
 父親として同棲を許すというのは、その長い長いアリ地獄に娘を送り出すことですから、絶対に許可できないのです。
「同棲するくらいなら結婚しなさい。その方がさらに経済的だ」

 私は人生に踏ん切りをつけない人間と無責任な人が嫌いです。いつも心の隅に言い訳や猶予を残し、逃げ出せる準備をしておきながらだらだらと見通しもなく安穏な日々を送る人々、そういう人間は信用ならないと思っています。――自分自身がそうでしたから。

 同棲の話が出たころはあまりエージュのことは知りませんでしたから、それが向こうの方から言い出したものならシーナの眼鏡違いで、案外つまらない男かも知れないな、と思ったりもしました。
 幸い話は蒸し返されることはなく、三か月ほどすると正式に結婚の申し入れに来てくれましたが。


【敢えて“普通”を避ける男たちの胡散臭さ】
 少し異なりますが、結婚式も披露宴もやりたがらない男というのもなんとなく胡散臭い存在だと思っています(女性について言わないのは想像がつかないから)。
 お金がないからやめておこうねという男も、そんなお金があるならもっと有意義なことに使おうという男も結婚式のメリット・デメリットがきちんと計算できているか首を傾げますし、計算の上で言っているとしたらかなりの曲者です。

 式を計画して連絡して、といったことはやはりかなり面倒なことなのです。がんばればかなりの低予算、さらに言えば収益の上がる式だってあるとお話ししましたが、それとて油断すればすぐに赤字になってしまいます。
 時間もエネルギーも金もたっぷり使って、
「ああ、素晴らしかったね、良かったね。でも二度としたくないね」
 それが結婚式(披露宴を含む)。あんなに大袈裟にやってしまった以上、もう引き下がれない、これで別れたら来てくれた人に顔向けできない――そう思わせるのが蹴婚式の隠れた意味だと私は思っています。
 
 もちろん結婚したら本性を現した悪魔のような配偶者と、死ぬまで付き合えというのではありません。しかし「人生、山あり谷あり」なのです。夫婦関係も良いときもあれば悪い時もあります。その悪いときに簡単にキャンセルしていたら、手に入るはずのものも入りません。

 式を挙げ、派手に披露宴をやってしまったという事実は、そこで踏ん張る人生の徳俵みたいなものです。それがなければ驚くほど簡単に土俵を割ってしまうかもしれません。

 実際、結婚式をしなかった夫婦は有意に離婚率が高いという統計もあります(例えば『離婚率に影響も?!既婚男女600人に大調査!「あなたは結婚式を挙げましたか?」』他)。
 離婚しない人たちがみな世間体を憚ってしないということではありませんが、ストッパーはたくさんある方が有利でしょう。

 どうせ別れるんだからと思えば、挙式も披露宴もばかばかしくてやっていられません。一銭もかけられないところです。
 最初から結婚式をやりたがらない男に胡散臭さを感じるのは、そうした匂いを感じるからかもしれません。覚悟のほどが見えてこないのです。


【葬式の経済学】
 葬儀についてはこれまで何度か書いてきましたから、今さら新しい話はありません。

 ただし“お金がないから葬儀は簡略に”というのは結婚式同様、成り立たないことが少なくありません。
 結婚披露宴とは違って会食費がぐんと抑えられますし、「香典は半返し」という了解がありますから、おおざっぱに「集まった総額の半分が収入」という計算ができます。それで葬儀費用を賄えばいいのです。

 父が死んだときは私も弟も現職でしたから、仕事関係の参列者がかなりいました。それぞれが属する職場の代表者として香典を託されてくる例もありますし、来られた方のほとんどが会食せずに帰りますから、差し引きは大きくプラスになりました。
 参加者が多ければ多いほど収入が増えるという原理は、ここでも働くのです。

 では、今年91歳になった母が死んだときも同じようにするかというと、それが微妙なのです。

 2年前に94歳で亡くなった義母の際は、今流行りの「家族葬」という形式で行いました。
 その娘で今年の夏に亡くなった義姉がこだわったのです。なぜかというとしばらく前にご近所であった高齢の方の葬儀で、普通に執り行ったところ200名も入るホールに参列者が15名しかいなかったというのです。
 確かに90歳を過ぎると友だちもあらかた亡くなって、子たちが片っ端リタイアしていると義理で来る人も少なくなります。

「そんな惨めな葬儀にしたくない」というのが義姉の強い願いで、そこで「家族葬」という形をとったのですがそれがいかに面倒くさい話だったかは、以前詳しく書きました(2016/11/14 「家族葬という形式」@〜)。

 冠婚葬祭は日本人が長い時間をかけてつくり、守り、変化させてきたものです。ですから形式に従っている限り、おおきな間違いや面倒は起こらないようにできています。

 ただしこれだけ高齢化の進んだ社会における葬儀というのはやはり考え直すしかなく、「一定の年齢を越えている場合は家族葬」という方向は今後も広がっていくでしょう。今は過渡期で面倒くさいことも多いですが、少しずつ調整しながらゆっくりと定着させていくべきだと思います。

 母のことは改めて考えることにします。




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