2021/3/2

「私はほんとうにバカになったのかもしれないと思った瞬間」〜今年最初のドッキリ!  人生


 雛人形について長年の疑問があり、
 それについて調べながら書く中で、適当なウンチクも加えようと考えた。
 そして最後の下調べとして自分のブログを確認したら――、
 とんでもない事実が判明した。

という話。
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(写真:フォトAC)

【記事を書く上での計画】 
 このブログも17年目、長期休業を除けば週日はほぼ毎日書いますが、一方で手慣れて早くなるとともに一方でネタ枯れで、すんなり進むときとえらく困難なときに両ぶれします。しかし今日の記事ついては3日前から構想が固まっていて、ものすごく速く進む感じがしていました。

 昨日の「3月になりました」をもとに、今日は桃の節句の前日だから「お雛様」について書く。材料としてはつい先日見たNHK「チコちゃんに叱られる」に出てきた「内裏雛はなぜ男雛が左?」の答え「大正天皇がそう決めたから」と、これまた最近ネット記事で読んだ「『右に同じ』は、日本語で縦書きの場合、右から左へ行を並べていくために同じ記載が続くときは『同右(右に同じ)』で省略する」という知識。

 文の流れとしては、
1. 内裏雛は男雛・女雛どちらが右でどちらが左か、長年の悩みだった。
2. 写真で見るとどちらの並びもありそうだ。
3. しかし全体として男雛が左の方が多いし、今上天皇の即位の儀でも天皇は明らかに向かって左にいた。
4. だから男雛は左でよさそうだが、左大臣と右大臣では左大臣が向かって右にいる。官位としては左大臣の方が位は高く、実際に雛人形では年長者に見える。
5. そうなると内裏雛では(男尊女卑社会では)偉いはずの男雛が向かって左にいて、大臣は偉い方が右にいるという明らかにおかしな状況にあるわけだ。これはどういうことか。

6. ところで日本語には「右に同じ」という言葉がある。つまり並んだ状態で右の方が上席、つまり向かって左が上席なのだから内裏雛が正解で大臣の方が間違っていることになる。
7. いやそんなはずはない。間違っているのは解釈の仕方だろう。

8. そこでかつて私は、「雛飾りというのは実は特別な場面を切り取ったものだ。それは宮中の大広間で、左右大臣、三人官女、五人囃子などが拝謁している最中、一番うしろにいた絵師が今でいう「ハイ!記念写真を撮りますよ〜」みたいなことを言って、そこで男雛・女雛以外の全員が一斉にうしろを向いた――その状態を絵に描いてやがて雛飾りにした。だから男雛は左のままだが、左右大臣は振り向いたために格上の左大臣が右にいるようになってしまった」といった珍説をぶち上げた。

9. ところが先日、NHKの「チコちゃんに叱られる」を見ていたらこの問題が取り上げられていて、チコちゃんの説明によると、本来は向かって右が上席で、古い雛人形および今日でも「京雛」と呼ばれる人形では古式を守って男雛が右にいる。実際の内裏でも古来ずっと天皇が向かって右(皇后は左)だったが、明治以降、日本が近代化されると西洋に倣って男性を左に置く必要が出てきた。
10. それを初めて行ったのが大正天皇で、以来、雛人形の世界にもそれが取り入られるようになったのだ。
11. なお、左右大臣は男性同士なのでこれを変えなかった。また私のこだわった「右に同じ」も実は文筆上の約束事で、実際の人間の位置関係に適用されるものではなかった。
12. 私はなんと愚かだったのだろう。
――と、こんなふうになる予定だったのです。

 さらにもうひとつダメ押しの小話をつけて、
「ついでですが、替え歌で有名なシンガー・ソングライターの嘉門タツオさんが童謡『ひなまつり』の曲に乗せて、『アサリを入れましょ、ボンゴレに〜』と歌ったことがあり、以来、ボンゴレはミートソースとナポリタン以外で、私が唯一どんなものか説明のできるスパゲティとなりました」
で締めくくる予定だったのです。
 ところが――


【私はほんとうにバカになったのかもしれないと思った瞬間】
 記事を書くに当たって最後の下調べとして、自分が何年か前に書いた『雛飾り=記念写真説』を探したところ、2014.03.03「桃の節句」が当たりました。そして愕然としたのです。
 なんと2014年の文の後半は、今日私が書こうと思っていた1〜12にまったく同じだったのです。
 違っていたのは男雛が左に変わったのは「明治から」と「大正天皇から」と、情報源が「チコちゃん〜」でなかったこと、それくらいです。嘉門タツオさんの「アサリを入れましょ〜」まで入っていました。

 つまり7年前、私は長く抱えていた疑問をきちんと解いてブログに残したのに、その後どこかで文字通り“洗脳(=脳みそを洗い流す)”してしまい、すっかり忘れて今ごろになって、新鮮な話としてそっくりな文章を書こうとしていたわけです。

 ああ! 

 私はほんとうにバカになったのかもしれません。
 過去によく知った、あの、同じ話をさも初めてのように重々しく語る「じっ様」の仲間入りです。


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2021/1/15

「ボヘミアンK氏の生き方」〜年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様C   人生


 電話を介して三十数年ぶりにKさんと話しながら、
 遠い遠い昔のことを思い出す。
 そのうち私は、なぜあれほどKさんと会いたかったのか、
 Kさんに“その後の私”を知ってもらいたかったのか、
 ようやく理解することになる。
 遠く及ばないにしても、私もKさんのように生きたかったからだ、

という話。
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(ミュシャ「スラブ叙事詩」より『ルヤナ島のスヴァントヴィト祭』《部分》)

 ネット上で見つけた昔の先輩の住所と電話番号。一度、電話したところ留守で、すぐにかけ直せばよかったものを数カ月おいたら電話自体がなくなってしまっていた。そこで年賀状に自分の電話番号を記して出したところ、1日も2日にも連絡がなく、もう亡くなったのかもしれないと諦めかけていたら、4日になって本人から電話があった、そういうお話をしています。


【年賀はがきが遅れた事情】
 1日か2日には電話連絡か宛先不明の年賀状が戻ってくるに違いないと思っていたのに、4日になって初めて連絡があったことには、次のような事情がありました。

 Kさんは30年ほど前に結婚して(そのこと自体は噂で知っていた)、その際、実家を出て、職場に近い別の住宅に住み始めていたのです。実家には独身の弟さんとお母さんが二人で住むことになりました。

 私がネット検索で得た番号に電話をかけたのが3年前の10月、その際に電話口に出たのが弟さんで、その弟さんは電話があったことをKさんに伝えることなく、翌月、急死してしまったのです。残された当時97歳のお母さんはKさんが引き取ることになり、実家は電話を切って閉じられることになります。私が電話をかけて「おかけになった電話番号は現在使われておりません〜」に衝撃を受けたのはその時期です。

 そのあと1年近く、家は放置されときどきKさんが管理のために行ったついでに郵便物を回収していたようです。しかしそれも面倒で、昨年、正式に住所変更の手続きを取ったのです。したがって私の賀状はいったん実家近くの郵便局に運ばれ、そこから転送手続きをへてようやく4日にKさんの手元に届いたのです。

 危ういところでした。
 これが一年遅れていたら年賀状も届きません。運命はちゃんと働いています。
 もらった電話でかれこれ小一時間も話し、最後はおそらく相手側のスマホの電池切れで終わりましたが、たくさんの思い出話ができました。


【ボヘミアンK氏の生き方】
 Kさんというのはたいへん魅力的で不思議な人です。
 田舎育ちの私でも聞いたことのある有名都立高校を卒業して、これまた誰もが知っている有名国立大学を出ています。きちんと聞いたわけではないのですが司法試験のために正式な就職もせず、そのまま塾産業に居ついてしまったようです。
 当時、学習塾の講師のアルバイトは時給がべらぼうに良くて拘束時間も短いので、司法浪人、小説家志望、俳優志望といった人々がウジャウジャいたのです。 ただし実働が1日わずか3〜4時間ですからそれだけで生活は成り立たず、時がたつにつれてその世界から足を洗うか会社そのものに飲み込まれるか、道は二つにひとつでした。
 
 Kさんが司法浪人として真面目に取り組んだ期間がどれくらいだったか私は知りません。しかしそんなに長くなかったように思います。私が知っているKさんは無類の酒好きで、アルコール抜きで長時間の勉強ができるような人ではなかったからです。

 酒臭い息をしながら出社することは日常茶飯事でした。着ているものも持ち物もいつも同じで、噂によると背広のまま寝てそのまま出社するのだそうです。
 その噂は職員旅行で箱根に行った際、他のメンバーが全員普段着なのにKさんだけが背広姿で参加したことで確かめられます。このときは早朝の出発だったので新宿集合に間に合わず、一本遅い特急での現地合流になりました。
 詳細は覚えていないのですが、箱根のどこかで会社として名刺を残していく必要ができたのですが、持っていたのはKさんだけ。いつもの姿で来るので自然とそうなるのです。
 稀に上着だけハンガーにかけることもあるらしいのですが、慣れないことをすると失敗もあるもので、出社してどうも背中が痛いというので見たら肩にハンガーが入ったままだったという伝説まであります。

 バレンタインデーに同僚からリカーチョコ(何種類ものアルコールを一つひとつ酒瓶型のチョコレートに入れたもの)を贈られ、しばらくすると内線で、
「あのう、空瓶はどうしたらいいのでしょうか?」
と訊ねてくるような人です。遅刻も失敗も少なくなく、ふた月に一遍くらいは午後出社になったりします。

 あるとき腹に据えかねた社長が懇々と説教したらしいのですが、社長室から戻って来たKさんは険しい表情で、
「ねえTさん(私のこと)、いま社長からずいぶんと叱られ、仕事に差し支えるなら酒を辞めろと言われたのですけど、私、飲むために働いているのであって、仕事に差し支えるから辞めるってのは本末転倒だと思うのですけど、いかがでしょう」
 いかがでしょうと訊かれても私は年齢も地位も下ですので何か言える立場ではありません。しかし本末転倒という表現はこんなふうにも使えるんだと感心はしました。

 極めつけは同僚数人と高尾山に行った時のことです。私は参加しなかったのですが後から聞くといつもの通りの背広姿で、いつも通り自動販売機があるたびに缶ビールを買っては飲み、飲んでは買いながら山歩きをしていたところ、崖から滑り落ちてもうダメだと思ったところで鉄条網に引っ掛かって止まったのだそうです。鉄条網ですよ。
 私の覚えているのは翌日、フランケンシュタインの怪物みたいになって出社したKさんの姿だけです。それだけたくさんの刺し傷を作りながら、当日は酔っているので痛みをまったく感じないらしく、いやがる運転手を説得して乗せたタクシーの中でも大騒ぎだったようです。

「お酒さえ飲まなければいい人なのに」
が定評で、しかし酒だけが欠点だと思い込まされて実は別の欠点だらけということもありますから、ほんとうにそうなのか、しばらく観察していたことがあります。
 でも、やっぱり良い人でした。


【K氏に魅かれる理由】

 三十数年ぶりの思い出話に花を咲かせながら、突然私は、なぜKさんのことがあれほど気になったのか、改めて理解することができました。連絡のつかなくなった恩人はいくらでもいますが、Kさんには人生の本質的な部分で教えられたことがあるのです。

 それは電話口でKさんと別れたたあとの私の人生について、簡単に紹介していたときのことです。
「いやあ、それはきちんとした人生を送られましたな。私なんか本当にいい加減なまま過ごしてきてしまいましたから――」
 それで思い出したのです。
ああそうだ、この人はほんとうに「いい加減」というか、「良い加減」の人です。過去を語らず未来を言わず、その日その日を十分に生きて、仕事のために酒を辞めるのは本末転倒だと考えるような人です。

 十代の後半から二十代前中盤にかけて、私はどうしようもなく神経質な青年でした。自分を天才だと思う高慢さと、社会はそんな私を一捻りできるくらいに強大で恐ろしいものだといった不安で、オロオロしながら過ごしていたのです。そんな私に人生なんて思いつめて歩むものではないと、身をもって教えてくれたのかKさんなのです。

 私も30歳を過ぎてからはかなり柔軟に生きられるようになりましたが結局「きちんとした人生を送られましたな」と評されるレベルのものでした。性分ですから仕方ないのです。とてもではありませんがKさんのように生きられるものではありません。

「お酒はその後どうですか」
と訊くと、
「いやはや糖尿病になってしまいましてね。だいぶ飲まなくなりましたがそれでも誘惑に負けてビール一本程度・・・」
 確か30代前半では極めて珍しい「痛風」になって、医者にビールを止められたのはKさんだったはずですが、懲りない人です。
 しかしそんなところがいいのです。
 


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2020/12/10

「馬齢を重ねてここまで来た」〜なにも成し遂げずに終わる人生も悪くない  人生


 今日は坂本龍馬の命日。31歳の若さで亡くなった。
 私の半分以下の年齢だ。
 それに比べて自分は何をして来たんだとずっと思っていたが、
 いまは少し落ち着いていられる。

という話。
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(写真:フォトAC)

【昨日・今日・明日に亡くなった人たち】
 昨日、「1916年(大正5)は夏目漱石が『明暗』を書いた年です」と書いたのに、その昨日(9日)が漱石の命日だということをすっかり見落としていました。『明暗」が未完の絶筆だということも忘れていました。胃潰瘍のための49歳の死だったそうです。
 49歳――。

 罪滅ぼしみたいな気持ちもあってWikiで調べると、昨日が命日の有名人(私の知っている範囲で)は次のようになります。
1641年―ヴァン・ダイク、画家(42歳)
1806年−5代目市川團十郎、歌舞伎役者(65歳)
1989年―開高健、作家(59歳)
2014年―堀内護、ガロのメンバー(65歳)
2015年―野坂昭如、作家・作詞家(85歳)

 私としては最後の野坂昭如に至ってホッとします。

 ついでですので今日(10日)が命日の人も列挙しましょう。
1867年―坂本龍馬、幕末の志士(31歳)
1896年―アルフレッド・ノーベル、化学者(63歳)。だから今日が授賞式。
1967年―オーティス・レディング、名曲「ドック・オブ・ベイ」の歌手(26歳)、航空機事故。
1991年―山本七平、評論家(69歳)
2011年―市川森一、脚本家(70歳)
2012年―小沢昭一、俳優(83歳)
2013年―ジム・ホール、ジャズギタリスト(83歳)

 私より年上が5人いますが、うち二人は近接です。

 さらに明日(11日)まで調べると、
1950年―長岡半太郎、物理学者(85歳)
1992年―岸洋子、歌手(57歳)

 11日には知っている人があまりいませんでしたが1勝1敗――失礼、勝ち負けの問題ではありませんよね。


【馬齢を重ねてここまで来た】
 ムダに齢を取ることを「馬齢を重ねる」と言います。
 なぜ馬なのかは分かりませんが、競走馬などを見ていると、活躍できる年齢よりも後の年数の方がずっと長いですからそういうことなのかもしれません。
 それにしても坂本龍馬31歳、オーティス・レディング26歳を見ると、それぞれ暗殺だった事故死だったりするにしてもへこみます。私はその年齢の2倍以上生きてなお、歴史のどこにも業績を残していないのですから。

 特に竜馬の31歳にはこだわりがあって、私はほぼ同じ年齢の時に教員になり、ようやく腹を括って人生を送ろうとし始めていたのです。大事を果たして死ぬのとではたいへんな違いです。このことにはずっと引っかかっていて、このブログでも繰り返し扱っています。

例えば、
 (吉田松陰は)1830年生まれで1859年刑死、享年29歳でした。私自身の29歳を思うと、暗澹たる気持ちになります。
 ちなみに高杉晋作は享年28歳、坂本竜馬は31歳、久坂玄瑞24歳、橋本左内は25歳で死んでいます。
 ついでに大政奉還のあった1867年、歴史の偉人たちが何歳であったかを調べたら次のような結果でした。
 木戸孝允34歳
 江藤新平33歳
 後藤象二郎29歳
 福沢諭吉32歳
 伊藤博文26歳
 一橋慶喜30歳。
 そうとうに高齢だった印象のある西郷隆盛ですら39歳。
 大久保利通が37歳。
 幕府方の立役者である勝海舟は44歳、
 朝廷の岩倉具視は42歳です。

2008/8/4「晩熟の時代」

 明治維新というのは、私たちの世代で言えば全共闘、現代で言えば香港やタイの民主派青年のもとに突然政権が転がり込んだようなものですから討幕側が若かったのは理解できます。しかし一橋慶喜の30歳や勝海舟の44歳、岩倉具視の42歳にはやはり驚かされます。
 それに比べて、私は30歳の時、42歳の時、44歳の時。それぞれ何をしていたのか、いま何をしているのかとずっと思ってきたのです。


【無事、これ、名馬】
 ただし現在の私は以前よりずっと落ち着いてこの状況を見ることができるようになっています
 大事を成して若く死ぬのと何事も成し遂げずに長生きするのと、どちらに価値があるのかは意外と議論の対象になるのかもしれません。
 生きていること自体が価値、存在すること自体が価値ということだってある――そんなふうに思えるようになってきているのです。
 何も成さずに死んで行くのも悪くない――。
「無事、これ、名馬」と言うでしょ?

 アレ?また馬だ。
 そう言えば竜馬も馬でした。

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2020/10/29

「肉体労働者、職人教師、職業作曲家、映画やコンサートを支える人々」〜私のアリアナ体験C  人生


 世の中には自分の領域を狭く限定し、
 その中で完璧を期すプロフェッショナルがたくさんいる。
 彼らすべてが一流であるわけではないが、
 彼らすべてが誇りをもって仕事にあたっている。
という話。
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(写真:フォトAC)

【肉体労働者:生頼範義】
 昨日、イラストレーターの生頼範義に話が及んで、
 生頼範義については2年前に詳しく書いたのでこれ以上触れませんが、
と記して2018年1月23日の記事
「生頼範義という生き方」〜展覧会場で思い出したこと
にリンクをつけておきました。
 気になることがあって、夕方、改めてリンク先の記事を読んだら、我ながら酷い引用をした悪い記事だと気づいて本当に悔やみました。

 そこでは、
 私はおよそ25年の間、真正なる画家になろうと努めながら、いまだに生半可な絵描きにとどまる者であり、生活者としてはイラストレーターなる適切な訳語もない言葉で呼ばれ、うしろめたさと恥ずかしさを覚える者である。
という文章を引用して、
 この文章は30年以上も前に書かれた書籍にもあった言葉で、当時の私が激しく心を揺らされたものです。その小さな自己卑下と自嘲、自戒、ある種の決意と誇りは、当時の私の置かれていた状況をよく説明してくれるものだったからです。
と書いているのです。

 よく読めば1980年ごろ、当時20代後半でまだこころ揺れ動いていた私が、生頼の文章を読んで自分の状況をよく理解し決意した――と分かるのですが、一読しただけだと“生頼範義もまた人間的に未熟なままであった”みたいな捉え方をされかねない、それこそ未熟な文です。

 昭和を代表する偉大なイラストレーターの文章から引用するなら、その誇り高い部分こそ記しておかなくてはなりませんでした。若い時期の私がこころ動かされ、“自分もまたかくありなん”と決意した文章なのですから、落としてはいけなかったのです。
 それは例えばこんな部分です。

クリックすると元のサイズで表示します 寄せられる仕事は可能な限り引き受け、依頼者の示す条件を満たすべき作品に仕上げようと努力する。私に描けるか否かは、発注の時点で検討済みであろうし、その期待を裏切るわけにはいかない。主題が何であれ、描けないと云うことは出来ない。生活者の五分の魂にかけて、いかなる主題といえども描き上げねばならない。

 私は肉体労働者であり、作業の全工程を手仕事で進めたい。定規、コンパス、筆、ペン、鉛筆とできるだけ単純、ありきたりな道具を使い、制作中に機械による丸写しや、無機質な絵肌を作ることを好まない。一貫して、眼と手によって画面を支配したい。習練を積むことで手は更にその働きを滑らかにし、女の肌から鋼鉄の輝きに至る無限の諧調を描きわけてくれるだろうし、眼はその手の操作を充分に制御してくれる筈だ。この事と眼に対する絶対信頼は原始的信仰の如きものであり、過酷な時間との競争、非個性的な作業の連続を耐えさせてくれる。

 

【職人教師:私】 
 いま改めて読むと、職業人としての私は、思いのほかこの文章に支配されていたのかもしれません。
 実際に教員になってからは仕事を断るということはありませんでした。ほとんどの仕事は私にできると判断されてから来るのです。それを「できない」と断るわけにはいきません。どんなに忙しい時でも「その忙しさの中でできるはずだ」と思っていただけるから来る仕事です。
 稀に“誰もやりたがらないから”という理由で私のところに回ってくるものもありますが、それは私の能力ではなく男気に期待してくれてのことでしょう。ですからどんなにつまらないものでも断ることはできなかったのです。

 与えられた仕事はできるだけ丁寧にやろうと心がけました。それが私にとって精一杯だったからです。
 教員のなかには天才的な人がたくさんいて、芸術的な授業を展開できる人もいれば野性的な勘と行動力で生徒指導の神様みたいな扱いをされる人もいます。大したことをしているように見えないのに生徒の心をしっかりつかんで見事な学級経営を行う先生もいれば、全校集会などで一瞬にして全員の目と耳をくぎ付けにできる人もいます。具体的なことを言えば、部活動で全国大会に行くような先生は皆、どこか神懸っていました。
 しかし私はそのいずれでもありません。普通の教師で、できることには限りがありました。

 もっとも教職には職人芸に似た側面があって、よほど才能に欠ける人でない限り、誠実に努力を続けていけば到達できる領域というのがあるのです。私はそれをめざしました。
 生頼の言う、
作業の全工程を手仕事で進めたい
一貫して、眼と手によって画面を支配したい

という気持ちで向き合うにふさわしい領域です。

 具体的には、引き継ぎ書類だけは完璧なものをつくろうとしました。書類づくりの全行程を自分の手仕事で進めたい、自分の力だけで引き継ぎ書類全体を支配したい――。
 以前も申し上げましたが、翌年おなじ仕事を割り振られれば引継ぎ相手は自分、したがって楽ができます。そうではなく他人に引き継がれるようなら、きっと誉めてもらえます。


【職業作家:筒美京平】
 こうした「自分の領域を狭く規定してそこから一歩も出ず、しかしその内部を丁寧に耕す」という生き方はけっこうあります。
 例えば先日亡くなった作曲家の筒美京平もその一人で、彼の決めた領域は「裏方」「職業作家」でした。

 Wikipediaにも、
 匿名性が比較的強い作曲家であり、その生前にマスメディアに登場することはあまりなく、プロの職人として裏方に徹するというスタンスを貫いた
とあるようにほとんど表に出て来ませんでしたから、記録としての生き方や言動があまり残されていません。

 それでもやはりネット社会、調べると出てくるものです
 70年代は、1つの作品をリリースするまでには作る人と売る人の役割分担がはっきりしていて作詞家、作曲家、アレンジャー、売り手が一体となって、一つの「会社」みたいな感じでやっていましたね。一人でやる方よりもチームワークでやった方が何倍も強いものだったんですよ、不思議ですけど。当時はよく冗談で言っていましたが、僕らは「日本歌謡会社」に勤めているサラリーマンなんですよ、って(笑)。

 とにかく曲をつくる時は、中ヒットであろうが大ヒットであろうがベスト10に入らないといけないと思っている

 ポップ・ミュージックを作るには街とかメディアにアンテナをはって自分の音楽と人の音楽が闘っているみたいな緊張感を持っていないとダメなんです。僕らみたいな職業作家は自分の好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット商品を作るのが使命ですから。

作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー

 自分の使命は好きな歌をつくることではなく、ヒット曲をつくること――そこにひとつのプロの在り方が示されています。もちろん、だからと言って同じ生き方をしても誰もが筒美京平ほどのヒット曲をつくれるわけではありませんが・・・。


【映画やコンサートを支える人々:無名士】
 私は映画館でエンドロールを最後まで見る人間です。ただ眺めているのではありません。できるだけ読もうとします。
 それは一本の映画が制作されるためにどれほどたくさんの人がかかわっていて、その一人ひとりに人生があり、意気があり、誇りがあることを感じたいからです。

 コンサートのビデオを観るときも、ダンサーやコーラスの一人ひとりに目を凝らし、あるいはステージバックのあちこちに目をやり、大道具や小道具、照明や衣装の一つひとつに心を寄せてその背後にいる人間を思い浮かべると、漫然と眺めるのとはまた違った楽しみが発見できるものです。
 ビデオだったら何度でも観ることができますから、そのつど観点を変えてみるのも一興です。





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