2021/9/17

「頭も悪くなった」〜横滑りする頭脳 パート?   人生


 昔から思考が横滑りで、同音異義語が混乱することが多かった。
 それが最近さらに昂じている
 自分が分からなくなるだけならいいが、
 しばしばその不謹慎に呆れる。

という話。 
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(写真:フォトAC)


【同音異義語が切り替えられない】
 同音異義語に関する切り替えが――早すぎるのか遅すぎるのかよくわかりませんがしばしば混乱する、という話は以前、何回か書きました。

2020/9/17「深刻なことにまともに向かい合えない頭脳の話」〜ドコモ口座とコロナ感染
2020/7/13「横滑りする思考」〜ダジャレ頭がサビついて困っている
2019/3/18「横滑りする頭」〜正の転移、負の転移  

 その混乱は今も昂じています。そして普通のひとがなぜ混乱しないのか、もしかしたらしているけれど言わないだけなのか、そのあたりもよくわからなくなってきています。

 例えば先日の東京オリンピックで男子が金、女子が銀のメダルを取った空手の形、テレビで見ていたのですが画面の左上に出ていた「空手 形」の表示は、半角程度の空白は開いているものの、どうしても金融の「空手形(からてがた)」としか読めず、違和感に苦しんでいました。
 そんな人は世の中にどれくらいいるのでしょう。まさか私一人ということもないと思うのですが、苦になりっぱなしで誰か苦情を入れてくれないかとイライラしていました。


【夏休み中の混乱】
 オリパラと言えば、パラリンピックでは小中学生を招待して観客席に入れるかどうかでしばらく問題になりました。その議論の中で繰り返される「感染」と「観戦」、かなりの程度は聞き分けられるのですが、ちょっと気を許すと混乱する――。
感染対策を十分にした上で感染する――」
 感染対策を十分にしたなら感染なんかしないはずだと、反射的に思ったら負けです。しかし負けます。
感染対策を十分にした上で観戦する」のは当然のことで、普通のひとはやはり間違えないでしょう。

 夏休み中の大雨で、私の住む県では土砂崩れのため通止めになった場所がありました。ニュースで見ていると河川事務所かなにかの人が、
ウカイのできる人には、ウカイをしていただいています」
と説明していました。

 土砂崩れがあったのは岐阜県ではありません。仮に岐阜県だとしても鵜飼いのできる人なんてほとんどいないはずですし、土砂崩れのあとでのんびりと鵜飼いなどしていられないでしょう――と、もちろんこれは「迂回」なのですが、「鵜飼い」の方が先に浮かびました。もっとも妻も不安そうな目でこちらを見たりしましたから、同じ思いだったに違いありません。

 あとから考えると「ウカイ」とか「ウカイ」とかいったふうに助詞をつけるからいけないので、
「ウカイできる人には、ウカイしていただいています」
と言ってもらえば間違わずに済んだのかもしれません。いずれにしろつまらないことでアタフタしました。


【混乱の原理】

 同音異義語は何もかも混乱するというわけではありません。
「時短要請に応じない飲食店には――」を、「時短陽性に応じない――」に聞き違えることはありません。なぜなら「陽性に応じない」は普通の日本語にないからです。
 同じように「感染」と「観戦」は発音も用法も同じですから混乱しますが、「汗腺」や「艦船」はそれぞれ違うところがありますから一緒になりません。つまり同音異義だけではなく、用法や発音が近いほど混同しやすいというのは一応の法則と言えます。

 ところが逆に、類似性がなさ過ぎて、つまりあまりにも異質なためにかえってハマってしまうこともあるので厄介です。
 例えば、
「川が雑炊する」
災害」

 雑炊については京に向かう一寸法師のイメージも入り込んでいるのでしょう。しかしこの不謹慎な連想は、事態の深刻さと同音異義語の軽さというアンバランス、つまり不謹慎だからこそすんなり落ちてしまうのです。
 私は深刻なもの、生真面目なものを茶化して遊ぶような人間ではありません。それだけにまったく困ったものです。頭が悪くなっているに違いありません。

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2021/9/10

「ニーバーの祈り、私たちが変えられるもの」〜日本人の自立と不羈についてA  人生


 新型コロナが現実の問題となってはや1年数カ月。
 人々は既に耐え難くなっている。
 だからといって決定的に優れた別の道があるわけではない。
 誰かのせいにすべきでもない。
 変えられるのは自分だけ、自分を置いて他にない。

という話。 
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(写真:パブリックドメインQ)

【私たちが育ててしまった子たち】
 最近の話ではありませんがひところ、緊急事態宣言下の渋谷のスクランブル交差点あたりで遊びに来た若者にマイクをむけると、
「感染対策もしっかりしているし、若いから重症化しないと思って遊びに来ました」
とか、
「見ればたくさんの人が来ているし、ずうっと自粛してきたからもう我慢できなくなって――、ロックダウンでもしてもらわないと、どうしても出て来たくなっちゃう」
とか平気で答えている場面が見られました。
 これが私の子だったらその日のうちに実家へ強制送還、その場で切腹を命じるところです。

 前者でいえば、
「オマエが感染するかどうか、重症化するかどうかは世の中にとってどうでもいいことだ。問題は感染しても絶対病院に行かず、医療にも友だちにも迷惑をかけず、家の中でひとりで過ごせるか、無症状の時期も含めて、“絶対に誰にもうつさずに他人の命を守る”と断言できるのかということだ」
ですし、後者については、
「オマエ、『私は他人に流される人間です』『もう自分で自分が制御できませんから、どうぞ牢屋にでも入れてください、いや一人で入るのはイヤですからロックダウンで全員閉じ込めてください』と、そんな恥ずかしいことを全国放送でよくも言えたものだ、我が家の恥だ、家族の顔に泥を塗った、だから腹を切って家族とご先祖様と全国にお詫びしろ」
という話です。

 もちろん我が家の二人の子はそんなアホを言うようには育っていませんが、私も元教師です、渋谷でアホを語っているあの子たちも広い意味では教え子で、あんな子どもを育ててしまった私こそ切腹すべきかもしれません。心から恥じ入ります。
 しかしどうしてあんなふうになってしまったのか――。


【文明人は政府を許さない】
 それはひとつには彼らが文明人だからです。
 文明というのは人類がそれまで個人として、あるいは家族など小さな集団として担ってきた苦痛や苦労を、機械やシステムや、他の誰かに担ってもらう仕組みです。昔は川や井戸のそばで自分が手でやっていた洗濯を、洗濯機に任せたり、病気やけがで働けなくなったときに最低限度の生活を保障してもらったり、食料を生産し、運んでもらい、場合によっては調理までやってもらうのが文明生活です。だから人間はどうしても幼児化します。
 面倒なことは誰かがやってくれるはずだ、苦労は誰かが担ってくれるはずだ、危機は誰かが取り除いてくれるはずだ――。

 したがってコロナ禍においても、自粛などというとんでもない困難を自分に押し付けて、1年半も解決できない政府が許せません。私のためにやるべきことをやっていないからです。
 ネットで見ていますと“コロナは誰がやってもうまくいかなかった”という意見に対して、
「誰がやってもうまくいないなら誰でもいい、菅だけは辞めてもらいたい」
と書き込む人までいて、その怒りはハンパではありません。
 さらにそれを煽る人たちもいます。


【マスメディアが煽る不満】
 昨日来たばかりの月刊「文芸春秋」(10月号)には『コロナ無責任報道をしかる』という記事があり、その冒頭はこうです。
 コロナ下の新たな日常で困りもののひとつは、お籠り生活の中、仕方なく新聞を開きテレビに目をやる時間が増えてしまうことだ。晴れるどころか、さらに鬱々とした気分になるのは筆者だけではあるまい。
 まるで駄々っ子の言い草だ。緊急事態宣言など強力な措置を求めておきながら、いぎ実行されると経済活動が行き詰まるぞと当たり前の影響をあげつらう。思い悩めば後手だと叩き、結論を出すと拙速だと責め立てる。政権が社会を分断したと決め付けるが、そもそもは自分たち既存メディアが政権擁護と政権叩きとで両極に分かれ、実は分断させた側に立つことの自覚が微塵もない。

 まったく同感です。とにかく国民の不満を掻き立て煽り、政権を叩き、政策をバカにする。菅義偉がダメなのはかまわないが、だったら誰がよかったのか。
「アンケートによれば――」
 いや国民の意思を問う前に、私はオマエの意見が知りたい。どういう目算があって菅内閣を潰そうとしたのか、誰が良かったのか、岸田か、石破か、枝野だったのか。
 自民党総裁選挙が難しくなればコロナ対策が手薄になるということも、素人ですら分かることなのに――と思うのです。


【ニーバーの祈り、私たちが変えられるもの】
 私は最近「ニーバーの祈り」という美しい文章の存在を知りました。これはアメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892-1971)が作者であるとされるもので、アルコール依存克服のための組織や、薬物依存や神経症の克服を支援するプログラムで採用され、広く知られるようになったと言われています。
 その最初の行はこうです。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。


 新型コロナ禍という状況は個人で変えられるものではありません。変えられるのは“私”だけで、私たちは“自分自身”を変える勇気を持たなくてはいけないのです。それは不要不急の外出を避けるとか、飲みに行かないとか、許可されたコンサートでも三密やマスクといった感染対策を十分にして騒がない、とかいったことです。

 この国は、アメリカで個人に支援金を渡したと聞いて10万円の特別給付金を出し、ヨーロッパでは企業や営業主に給与補償をしていると聞いて休業支援金や雇用調整助成金、持続化給付金などを出す、つまり二重三重に補償を行う国です。それは確かに実際の支払いが遅れているのは事実ですが、それも公務員を極端に減らして予算を他に回したからです。

 保健所の職員も足りなければ国立公立の病院も少なく、政府が一括して新型コロナ病床を増やしたり患者を振り分けたりといったこともできません。それも私たちが望んだことで、医療制度改革が遅れ、国立病院だらけの状況を解消できないでいたイギリスやドイツとは決定的に違うところです。

 80年以上も前、私たち日本人は政府の言うことに唯々諾々と従ってあの不幸な戦争を止めることができませんでした。しかしだからといって政府の言うことにいちいち逆らうことが正しい道とは言えません。
 変えられないものと変えるべきものを区別する賢さをもち、政府や地方公共団体が「あれもしてくれない、これもしてくれない」と嘆く前に、まず自分たちで何ができるかを考え、実践できるような、自立的で不羈の気風に溢れた人間を育てたいものです。
 それが私の願いです。


(付録:「ニーバーの祈り」全文)
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。

これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

アーメン


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2021/9/7

「独りぼっちでは死なせない」〜日本人の死生観A  人生

 肉体は黄泉と現世をつなぐ手がかり、
 みんなで大切にすべきもの、
 だから独りぼっちでは死なせない。
 人が最後に見る風景は幸せなものでなくてはいけない。
という話。 
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(ウィリアム・アドルフ・ブグロー 「死の前の平等」:パブリックドメインQ)

【今ある身体を大切にする】
 日本人、そしておそらく東アジアの多くの人々にとって、肉体は「魂を乗せる船」ではありません。それは先祖から脈々と受け継がれた賜物であり、死んでから後は黄泉の国と繋がる手がかりです。したがって身体を傷つけることには強い抵抗感があり、若いうちはビアスだのタトゥーだのと身体装飾に抵抗のなかった人も、いつかそれを疎ましく思うようになります。それが今でも普通です。

 もちろん片目を失った伊達政宗が己の不孝を恥じて生涯、隻眼の肖像画を許さなかったという逸話の先には、身体障害をよしとしない思想が待ち構えています。古事記でもイザナギとイザナミの最初の子は3年経っても立つことのできなかったために、葦の船に乗せられ海に流されています。日本の信仰の体系はやがてその子が兵庫の浜に漂着してえびす神となり、人々に福をもたらしたという形で決着をつけるのですが、パラリンピックの終わった今はなおのこと、身体を大切にすることと不慮の事故等で機能を失うこと、障害をもって生まれることとの間に折り合いをつけておく必要があるでしょう。
 それはたいして難しいことではありません。今あるものを大切にするだけのことです。


【独りぼっちでは死なせない】
 日本人にとって肉体は「船」でないばかりか、死後、現世と繋がるための重要な手がかりです。したがって生涯最後の瞬間をどう迎えるかはとても重要な問題です。
現在進行形のコロナ禍においても、病院で死ぬことと、自宅待機の中で家族に見守られながら死ぬことと、独りぼっちで死ぬことの間には違いがあります。もちろん自分の死についてはそうですが、他人はなおさら孤独に死なせてはならないと私は思います。
 その死に際して、家族や社会が精いっぱいのことをして送り出してくれた――それが死者にとっても残された人間にとっても大切なのです。どんなに手を尽くしても悔いが残り、だからこそ葬儀の席では互いに「お悔やみ申し上げます」と言い合って悔いを共有するのがこの国のやり方です。
 それは毎日のように死に触れている医療者も同じで、だからこそ臨終の場では医師も看護師も深々と首を垂れ、大勢の患者が待っているにもかかわらず丁寧に湯灌を行い、遺体を整えるのです。
 そこには欧米のエンバーミングとは全く異なる思想と信仰があります。


【日本人にはできないこと】
 欧米と日本で、どちらが良いとか正しいとかいった問題ではありません。またコロナ治療の最前線で実際に高齢者が優先されているのか、はたまた何なる順番の問題なのか、それも知りません。
 しかし重症病床を持つ病院の医師が、
「最後かもしれないけど受け入れるよ」
というとき、ひとの最後の瞬間を、最良の状況で迎えさせたいという思いがあることは間違いありません。
 どうせ死ぬのだから、より生き残る可能性が高い若い重症者を先に入院させるべきだというのも一つの正義です。
 しかし日本人にはなかなかできないことです。

(この稿、終了)

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2021/7/27

「競技場には魔物がいる」〜東京2020オリンピック・メモA  人生


 13歳のゴールド・メダリストが誕生した。
 競技場には魔物がいて、しばしば人の運命を好き勝手に動かすようだ。
 それが苦しいこともあれば、失敗が面白すぎる場合もある。

という話。
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(写真:フォトAC) 

【13歳の金メダリスト】

 いよいよ13歳10カ月のゴールド・メダリスト誕生だそうで、まずはおめでとうございますと言っておきましょう。メダリストは少年少女に夢を与えると言ったりしますが、13歳では身近過ぎて、世の中を舐めるような子どもが続出しても困るなあなどと余計なことを考えたりもしています。もちろん冗談です。

 他のアスリートたちが臥薪嘗胆・精励刻苦する中でようやくたどり着く高みに、おそらく楽しんで面白がっているうちにたどり着いてしまったのでしょう。西矢さんが破るまで記録を持っていた競泳の岩崎恭子さんが、ゴールのタッチパネルを叩いて顔を上げたときのびっくりしたような表情が思い出されます。
 もっともあれから30年近く過ぎた今も、岩崎さんが世間から注目され、しばしば私生活まで監視され暴かれている事実を考えると、西矢椛さんの臥薪嘗胆はこれから始まるかもしれません。
 親御さんの喜びも緊張も、ひとしおかと思います。どうかいま以上に大切にお育ていただきたいと思います。


【競技場には魔物がいる】
 岩崎恭子さんや西矢椛選手が思わぬ金メダルを獲得したように、参加者全員が爪先立ってギリギリを競うような場面では、予想だにしなかったことが次々と起こります。
 先日取り上げた三宅宏実さんの試技直後の感想は
「まさか最後にこれ?」
だったそうですが、レジェンド内村航平選手の鉄棒落下や、自ら「メダルは99・9%確実」といっていた瀬戸大也選手の予選落ちなども同じです。

 外国選手に視野を広げれば、これも昨日取り上げた前回リオデジャネイロの女子柔道52kg級覇者、コソボのマイリンダ・ケルメンディ選手も、金メダル候補といわれながら初戦で敗退してしまいました。女子クレー射撃スキートの世界ランキング一位の選手は、それどころか東京に来てから新型コロナ陽性と判定されて棄権せざるをえなくなり、あるいはそもそも参加資格がなかったことを東京で知らされ、本国に戻らざるを得なくなったポーランドの競泳選手たちもいます。

 ここだけは避けたい、今だけは勘弁してくれと言いたくなる場面で、そのことは起こる――。
 日本の高校野球には「甲子園には魔物がいる」という言葉がありますが、オリンピックの会場にも、魔物が無数、徘徊しているようです。
 あとはその魔物と出会ったときの身の処し方です。

 その点で特に注目したのは内村航平選手でした。鉄棒の予選で落下した直後にネットニュースでは、本人の弁として「ふがいない」とか、鉄棒の代表枠を争って退けた後輩アスリートに「土下座して詫びたい」といったネガティブな発言が流れていましたが、翌朝の新聞を見るとこんな言葉も記録されています。
「これだけやってきてもまだ分からないこと、失敗することがあるんだなあと思うと、面白さしかない」
 前夜見た「土下座して詫びたい」といったしおらしさとは、打って変わったさばさばとした雰囲気――ある意味で清々しいといった感じさえします。


【私も知っているあの爽快さ】
 失敗したにもかかわらず体の内からあふれてくる笑い、さわやかさ、というものについて、規模は遥かに小さいながら、私にも幾度か経験があります。それは研究授業の場で起こります。

 研究授業というのは、いわば教員が協力して一つの理想的な授業を組み立て、
「どうやら普通の公立学校でも、ここまではやれそうだぞ、がんばれ」
と見本を示すようなもので、そのために教師は半年以上(足掛けで言えば数年)をかけて取り組む研究の発表会のようなものです。

 最終的には授業を見てもらって評価を受けるのですが、専門の教員ばかりのまな板に乗るわけですから、気合も半端ではありません。
 子どもたちにどういう資料を見せるのか、どういう反応がありそうか、期待する反応が出なかったら二の矢をどう討つのか、二の矢も外れたらどうするのか――。たった一時間の授業のために数十時間、時には数百時間もかけて検討し、計画案を書きます。

 その計画書を「指導案」というのですが、紙に書かれた数十倍が頭に入っていないと、実際の授業では躓いてしまいます。一種の心理の読みあいですから、私はこの「指導案づくり」がとても好きで、指導案のためならいくらでも時間が使えると思った時期もありました。

 ところがとんでもなく時間をかけ、根を詰めてつくったはずの指導案でも、生徒の信じられないひとことで軽く吹き飛んでしまうことがあるのです。“信じられない”が「論理的でない」とか「的外れ」といったことなら対処の用意もありますが、実に見事に論理的につながってたりすると、その鮮やかさに笑うしかなくなるのです。実に清々しく笑える――。
 何で、私は、その可能性に気づかなかったのか

 どんな仕事も失敗を喜べないようでは長続きしません。しかし「喜べる失敗」は中途半端な追求からは出てこないのです。
 失敗の可能性を潰して、潰して、潰して、潰して、潰した先で改めて全体を見回して「もうどこにも失敗の可能性はないと」確信し、その上で一番重要な時にいきなり現れる“魔物”――かくれんぼうで見つかったときのような、鬼ごっこで逃げ切れなかったような、あの不思議な爽快感が湧き上がってくるのはそんなときです。

 内村航平選手、何となく引退しないような気がします。


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