2021/1/15

「ボヘミアンK氏の生き方」〜年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様C   人生


 電話を介して三十数年ぶりにKさんと話しながら、
 遠い遠い昔のことを思い出す。
 そのうち私は、なぜあれほどKさんと会いたかったのか、
 Kさんに“その後の私”を知ってもらいたかったのか、
 ようやく理解することになる。
 遠く及ばないにしても、私もKさんのように生きたかったからだ、

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(ミュシャ「スラブ叙事詩」より『ルヤナ島のスヴァントヴィト祭』《部分》)

 ネット上で見つけた昔の先輩の住所と電話番号。一度、電話したところ留守で、すぐにかけ直せばよかったものを数カ月おいたら電話自体がなくなってしまっていた。そこで年賀状に自分の電話番号を記して出したところ、1日も2日にも連絡がなく、もう亡くなったのかもしれないと諦めかけていたら、4日になって本人から電話があった、そういうお話をしています。


【年賀はがきが遅れた事情】
 1日か2日には電話連絡か宛先不明の年賀状が戻ってくるに違いないと思っていたのに、4日になって初めて連絡があったことには、次のような事情がありました。

 Kさんは30年ほど前に結婚して(そのこと自体は噂で知っていた)、その際、実家を出て、職場に近い別の住宅に住み始めていたのです。実家には独身の弟さんとお母さんが二人で住むことになりました。

 私がネット検索で得た番号に電話をかけたのが3年前の10月、その際に電話口に出たのが弟さんで、その弟さんは電話があったことをKさんに伝えることなく、翌月、急死してしまったのです。残された当時97歳のお母さんはKさんが引き取ることになり、実家は電話を切って閉じられることになります。私が電話をかけて「おかけになった電話番号は現在使われておりません〜」に衝撃を受けたのはその時期です。

 そのあと1年近く、家は放置されときどきKさんが管理のために行ったついでに郵便物を回収していたようです。しかしそれも面倒で、昨年、正式に住所変更の手続きを取ったのです。したがって私の賀状はいったん実家近くの郵便局に運ばれ、そこから転送手続きをへてようやく4日にKさんの手元に届いたのです。

 危ういところでした。
 これが一年遅れていたら年賀状も届きません。運命はちゃんと働いています。
 もらった電話でかれこれ小一時間も話し、最後はおそらく相手側のスマホの電池切れで終わりましたが、たくさんの思い出話ができました。


【ボヘミアンK氏の生き方】
 Kさんというのはたいへん魅力的で不思議な人です。
 田舎育ちの私でも聞いたことのある有名都立高校を卒業して、これまた誰もが知っている有名国立大学を出ています。きちんと聞いたわけではないのですが司法試験のために正式な就職もせず、そのまま塾産業に居ついてしまったようです。
 当時、学習塾の講師のアルバイトは時給がべらぼうに良くて拘束時間も短いので、司法浪人、小説家志望、俳優志望といった人々がウジャウジャいたのです。 ただし実働が1日わずか3〜4時間ですからそれだけで生活は成り立たず、時がたつにつれてその世界から足を洗うか会社そのものに飲み込まれるか、道は二つにひとつでした。
 
 Kさんが司法浪人として真面目に取り組んだ期間がどれくらいだったか私は知りません。しかしそんなに長くなかったように思います。私が知っているKさんは無類の酒好きで、アルコール抜きで長時間の勉強ができるような人ではなかったからです。

 酒臭い息をしながら出社することは日常茶飯事でした。着ているものも持ち物もいつも同じで、噂によると背広のまま寝てそのまま出社するのだそうです。
 その噂は職員旅行で箱根に行った際、他のメンバーが全員普段着なのにKさんだけが背広姿で参加したことで確かめられます。このときは早朝の出発だったので新宿集合に間に合わず、一本遅い特急での現地合流になりました。
 詳細は覚えていないのですが、箱根のどこかで会社として名刺を残していく必要ができたのですが、持っていたのはKさんだけ。いつもの姿で来るので自然とそうなるのです。
 稀に上着だけハンガーにかけることもあるらしいのですが、慣れないことをすると失敗もあるもので、出社してどうも背中が痛いというので見たら肩にハンガーが入ったままだったという伝説まであります。

 バレンタインデーに同僚からリカーチョコ(何種類ものアルコールを一つひとつ酒瓶型のチョコレートに入れたもの)を贈られ、しばらくすると内線で、
「あのう、空瓶はどうしたらいいのでしょうか?」
と訊ねてくるような人です。遅刻も失敗も少なくなく、ふた月に一遍くらいは午後出社になったりします。

 あるとき腹に据えかねた社長が懇々と説教したらしいのですが、社長室から戻って来たKさんは険しい表情で、
「ねえTさん(私のこと)、いま社長からずいぶんと叱られ、仕事に差し支えるなら酒を辞めろと言われたのですけど、私、飲むために働いているのであって、仕事に差し支えるから辞めるってのは本末転倒だと思うのですけど、いかがでしょう」
 いかがでしょうと訊かれても私は年齢も地位も下ですので何か言える立場ではありません。しかし本末転倒という表現はこんなふうにも使えるんだと感心はしました。

 極めつけは同僚数人と高尾山に行った時のことです。私は参加しなかったのですが後から聞くといつもの通りの背広姿で、いつも通り自動販売機があるたびに缶ビールを買っては飲み、飲んでは買いながら山歩きをしていたところ、崖から滑り落ちてもうダメだと思ったところで鉄条網に引っ掛かって止まったのだそうです。鉄条網ですよ。
 私の覚えているのは翌日、フランケンシュタインの怪物みたいになって出社したKさんの姿だけです。それだけたくさんの刺し傷を作りながら、当日は酔っているので痛みをまったく感じないらしく、いやがる運転手を説得して乗せたタクシーの中でも大騒ぎだったようです。

「お酒さえ飲まなければいい人なのに」
が定評で、しかし酒だけが欠点だと思い込まされて実は別の欠点だらけということもありますから、ほんとうにそうなのか、しばらく観察していたことがあります。
 でも、やっぱり良い人でした。


【K氏に魅かれる理由】

 三十数年ぶりの思い出話に花を咲かせながら、突然私は、なぜKさんのことがあれほど気になったのか、改めて理解することができました。連絡のつかなくなった恩人はいくらでもいますが、Kさんには人生の本質的な部分で教えられたことがあるのです。

 それは電話口でKさんと別れたたあとの私の人生について、簡単に紹介していたときのことです。
「いやあ、それはきちんとした人生を送られましたな。私なんか本当にいい加減なまま過ごしてきてしまいましたから――」
 それで思い出したのです。
ああそうだ、この人はほんとうに「いい加減」というか、「良い加減」の人です。過去を語らず未来を言わず、その日その日を十分に生きて、仕事のために酒を辞めるのは本末転倒だと考えるような人です。

 十代の後半から二十代前中盤にかけて、私はどうしようもなく神経質な青年でした。自分を天才だと思う高慢さと、社会はそんな私を一捻りできるくらいに強大で恐ろしいものだといった不安で、オロオロしながら過ごしていたのです。そんな私に人生なんて思いつめて歩むものではないと、身をもって教えてくれたのかKさんなのです。

 私も30歳を過ぎてからはかなり柔軟に生きられるようになりましたが結局「きちんとした人生を送られましたな」と評されるレベルのものでした。性分ですから仕方ないのです。とてもではありませんがKさんのように生きられるものではありません。

「お酒はその後どうですか」
と訊くと、
「いやはや糖尿病になってしまいましてね。だいぶ飲まなくなりましたがそれでも誘惑に負けてビール一本程度・・・」
 確か30代前半では極めて珍しい「痛風」になって、医者にビールを止められたのはKさんだったはずですが、懲りない人です。
 しかしそんなところがいいのです。
 


にほんブログ村
人気ブログランキング
3

2020/12/10

「馬齢を重ねてここまで来た」〜なにも成し遂げずに終わる人生も悪くない  人生


 今日は坂本龍馬の命日。31歳の若さで亡くなった。
 私の半分以下の年齢だ。
 それに比べて自分は何をして来たんだとずっと思っていたが、
 いまは少し落ち着いていられる。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(写真:フォトAC)

【昨日・今日・明日に亡くなった人たち】
 昨日、「1916年(大正5)は夏目漱石が『明暗』を書いた年です」と書いたのに、その昨日(9日)が漱石の命日だということをすっかり見落としていました。『明暗」が未完の絶筆だということも忘れていました。胃潰瘍のための49歳の死だったそうです。
 49歳――。

 罪滅ぼしみたいな気持ちもあってWikiで調べると、昨日が命日の有名人(私の知っている範囲で)は次のようになります。
1641年―ヴァン・ダイク、画家(42歳)
1806年−5代目市川團十郎、歌舞伎役者(65歳)
1989年―開高健、作家(59歳)
2014年―堀内護、ガロのメンバー(65歳)
2015年―野坂昭如、作家・作詞家(85歳)

 私としては最後の野坂昭如に至ってホッとします。

 ついでですので今日(10日)が命日の人も列挙しましょう。
1867年―坂本龍馬、幕末の志士(31歳)
1896年―アルフレッド・ノーベル、化学者(63歳)。だから今日が授賞式。
1967年―オーティス・レディング、名曲「ドック・オブ・ベイ」の歌手(26歳)、航空機事故。
1991年―山本七平、評論家(69歳)
2011年―市川森一、脚本家(70歳)
2012年―小沢昭一、俳優(83歳)
2013年―ジム・ホール、ジャズギタリスト(83歳)

 私より年上が5人いますが、うち二人は近接です。

 さらに明日(11日)まで調べると、
1950年―長岡半太郎、物理学者(85歳)
1992年―岸洋子、歌手(57歳)

 11日には知っている人があまりいませんでしたが1勝1敗――失礼、勝ち負けの問題ではありませんよね。


【馬齢を重ねてここまで来た】
 ムダに齢を取ることを「馬齢を重ねる」と言います。
 なぜ馬なのかは分かりませんが、競走馬などを見ていると、活躍できる年齢よりも後の年数の方がずっと長いですからそういうことなのかもしれません。
 それにしても坂本龍馬31歳、オーティス・レディング26歳を見ると、それぞれ暗殺だった事故死だったりするにしてもへこみます。私はその年齢の2倍以上生きてなお、歴史のどこにも業績を残していないのですから。

 特に竜馬の31歳にはこだわりがあって、私はほぼ同じ年齢の時に教員になり、ようやく腹を括って人生を送ろうとし始めていたのです。大事を果たして死ぬのとではたいへんな違いです。このことにはずっと引っかかっていて、このブログでも繰り返し扱っています。

例えば、
 (吉田松陰は)1830年生まれで1859年刑死、享年29歳でした。私自身の29歳を思うと、暗澹たる気持ちになります。
 ちなみに高杉晋作は享年28歳、坂本竜馬は31歳、久坂玄瑞24歳、橋本左内は25歳で死んでいます。
 ついでに大政奉還のあった1867年、歴史の偉人たちが何歳であったかを調べたら次のような結果でした。
 木戸孝允34歳
 江藤新平33歳
 後藤象二郎29歳
 福沢諭吉32歳
 伊藤博文26歳
 一橋慶喜30歳。
 そうとうに高齢だった印象のある西郷隆盛ですら39歳。
 大久保利通が37歳。
 幕府方の立役者である勝海舟は44歳、
 朝廷の岩倉具視は42歳です。

2008/8/4「晩熟の時代」

 明治維新というのは、私たちの世代で言えば全共闘、現代で言えば香港やタイの民主派青年のもとに突然政権が転がり込んだようなものですから討幕側が若かったのは理解できます。しかし一橋慶喜の30歳や勝海舟の44歳、岩倉具視の42歳にはやはり驚かされます。
 それに比べて、私は30歳の時、42歳の時、44歳の時。それぞれ何をしていたのか、いま何をしているのかとずっと思ってきたのです。


【無事、これ、名馬】
 ただし現在の私は以前よりずっと落ち着いてこの状況を見ることができるようになっています
 大事を成して若く死ぬのと何事も成し遂げずに長生きするのと、どちらに価値があるのかは意外と議論の対象になるのかもしれません。
 生きていること自体が価値、存在すること自体が価値ということだってある――そんなふうに思えるようになってきているのです。
 何も成さずに死んで行くのも悪くない――。
「無事、これ、名馬」と言うでしょ?

 アレ?また馬だ。
 そう言えば竜馬も馬でした。

にほんブログ村
人気ブログランキング
3

2020/10/29

「肉体労働者、職人教師、職業作曲家、映画やコンサートを支える人々」〜私のアリアナ体験C  人生


 世の中には自分の領域を狭く限定し、
 その中で完璧を期すプロフェッショナルがたくさんいる。
 彼らすべてが一流であるわけではないが、
 彼らすべてが誇りをもって仕事にあたっている。
という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(写真:フォトAC)

【肉体労働者:生頼範義】
 昨日、イラストレーターの生頼範義に話が及んで、
 生頼範義については2年前に詳しく書いたのでこれ以上触れませんが、
と記して2018年1月23日の記事
「生頼範義という生き方」〜展覧会場で思い出したこと
にリンクをつけておきました。
 気になることがあって、夕方、改めてリンク先の記事を読んだら、我ながら酷い引用をした悪い記事だと気づいて本当に悔やみました。

 そこでは、
 私はおよそ25年の間、真正なる画家になろうと努めながら、いまだに生半可な絵描きにとどまる者であり、生活者としてはイラストレーターなる適切な訳語もない言葉で呼ばれ、うしろめたさと恥ずかしさを覚える者である。
という文章を引用して、
 この文章は30年以上も前に書かれた書籍にもあった言葉で、当時の私が激しく心を揺らされたものです。その小さな自己卑下と自嘲、自戒、ある種の決意と誇りは、当時の私の置かれていた状況をよく説明してくれるものだったからです。
と書いているのです。

 よく読めば1980年ごろ、当時20代後半でまだこころ揺れ動いていた私が、生頼の文章を読んで自分の状況をよく理解し決意した――と分かるのですが、一読しただけだと“生頼範義もまた人間的に未熟なままであった”みたいな捉え方をされかねない、それこそ未熟な文です。

 昭和を代表する偉大なイラストレーターの文章から引用するなら、その誇り高い部分こそ記しておかなくてはなりませんでした。若い時期の私がこころ動かされ、“自分もまたかくありなん”と決意した文章なのですから、落としてはいけなかったのです。
 それは例えばこんな部分です。

クリックすると元のサイズで表示します 寄せられる仕事は可能な限り引き受け、依頼者の示す条件を満たすべき作品に仕上げようと努力する。私に描けるか否かは、発注の時点で検討済みであろうし、その期待を裏切るわけにはいかない。主題が何であれ、描けないと云うことは出来ない。生活者の五分の魂にかけて、いかなる主題といえども描き上げねばならない。

 私は肉体労働者であり、作業の全工程を手仕事で進めたい。定規、コンパス、筆、ペン、鉛筆とできるだけ単純、ありきたりな道具を使い、制作中に機械による丸写しや、無機質な絵肌を作ることを好まない。一貫して、眼と手によって画面を支配したい。習練を積むことで手は更にその働きを滑らかにし、女の肌から鋼鉄の輝きに至る無限の諧調を描きわけてくれるだろうし、眼はその手の操作を充分に制御してくれる筈だ。この事と眼に対する絶対信頼は原始的信仰の如きものであり、過酷な時間との競争、非個性的な作業の連続を耐えさせてくれる。

 

【職人教師:私】 
 いま改めて読むと、職業人としての私は、思いのほかこの文章に支配されていたのかもしれません。
 実際に教員になってからは仕事を断るということはありませんでした。ほとんどの仕事は私にできると判断されてから来るのです。それを「できない」と断るわけにはいきません。どんなに忙しい時でも「その忙しさの中でできるはずだ」と思っていただけるから来る仕事です。
 稀に“誰もやりたがらないから”という理由で私のところに回ってくるものもありますが、それは私の能力ではなく男気に期待してくれてのことでしょう。ですからどんなにつまらないものでも断ることはできなかったのです。

 与えられた仕事はできるだけ丁寧にやろうと心がけました。それが私にとって精一杯だったからです。
 教員のなかには天才的な人がたくさんいて、芸術的な授業を展開できる人もいれば野性的な勘と行動力で生徒指導の神様みたいな扱いをされる人もいます。大したことをしているように見えないのに生徒の心をしっかりつかんで見事な学級経営を行う先生もいれば、全校集会などで一瞬にして全員の目と耳をくぎ付けにできる人もいます。具体的なことを言えば、部活動で全国大会に行くような先生は皆、どこか神懸っていました。
 しかし私はそのいずれでもありません。普通の教師で、できることには限りがありました。

 もっとも教職には職人芸に似た側面があって、よほど才能に欠ける人でない限り、誠実に努力を続けていけば到達できる領域というのがあるのです。私はそれをめざしました。
 生頼の言う、
作業の全工程を手仕事で進めたい
一貫して、眼と手によって画面を支配したい

という気持ちで向き合うにふさわしい領域です。

 具体的には、引き継ぎ書類だけは完璧なものをつくろうとしました。書類づくりの全行程を自分の手仕事で進めたい、自分の力だけで引き継ぎ書類全体を支配したい――。
 以前も申し上げましたが、翌年おなじ仕事を割り振られれば引継ぎ相手は自分、したがって楽ができます。そうではなく他人に引き継がれるようなら、きっと誉めてもらえます。


【職業作家:筒美京平】
 こうした「自分の領域を狭く規定してそこから一歩も出ず、しかしその内部を丁寧に耕す」という生き方はけっこうあります。
 例えば先日亡くなった作曲家の筒美京平もその一人で、彼の決めた領域は「裏方」「職業作家」でした。

 Wikipediaにも、
 匿名性が比較的強い作曲家であり、その生前にマスメディアに登場することはあまりなく、プロの職人として裏方に徹するというスタンスを貫いた
とあるようにほとんど表に出て来ませんでしたから、記録としての生き方や言動があまり残されていません。

 それでもやはりネット社会、調べると出てくるものです
 70年代は、1つの作品をリリースするまでには作る人と売る人の役割分担がはっきりしていて作詞家、作曲家、アレンジャー、売り手が一体となって、一つの「会社」みたいな感じでやっていましたね。一人でやる方よりもチームワークでやった方が何倍も強いものだったんですよ、不思議ですけど。当時はよく冗談で言っていましたが、僕らは「日本歌謡会社」に勤めているサラリーマンなんですよ、って(笑)。

 とにかく曲をつくる時は、中ヒットであろうが大ヒットであろうがベスト10に入らないといけないと思っている

 ポップ・ミュージックを作るには街とかメディアにアンテナをはって自分の音楽と人の音楽が闘っているみたいな緊張感を持っていないとダメなんです。僕らみたいな職業作家は自分の好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット商品を作るのが使命ですから。

作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー

 自分の使命は好きな歌をつくることではなく、ヒット曲をつくること――そこにひとつのプロの在り方が示されています。もちろん、だからと言って同じ生き方をしても誰もが筒美京平ほどのヒット曲をつくれるわけではありませんが・・・。


【映画やコンサートを支える人々:無名士】
 私は映画館でエンドロールを最後まで見る人間です。ただ眺めているのではありません。できるだけ読もうとします。
 それは一本の映画が制作されるためにどれほどたくさんの人がかかわっていて、その一人ひとりに人生があり、意気があり、誇りがあることを感じたいからです。

 コンサートのビデオを観るときも、ダンサーやコーラスの一人ひとりに目を凝らし、あるいはステージバックのあちこちに目をやり、大道具や小道具、照明や衣装の一つひとつに心を寄せてその背後にいる人間を思い浮かべると、漫然と眺めるのとはまた違った楽しみが発見できるものです。
 ビデオだったら何度でも観ることができますから、そのつど観点を変えてみるのも一興です。





にほんブログ村
人気ブログランキング
3

2020/10/16

「具体性がなくて冗長で閲覧数の減ったブログをどう立て直すか――よりも大切なことがある」  人生


 作家の林真理子さんがエッセイの連載1665回でギネスに登録された。
 私のブログは今日で3565回。
 ギネスとは言わないが、もう少し読んでもらえてもいいじゃないかと、
 愚痴が出そうになる時もある。しかし――、

という話。
クリックすると元のサイズで表示します

【嫉妬:林真理子、ギネス世界新記録に認定される】
 林真理子さんがギネス世界記録だとか。
「週刊文春」に掲載中のエッセイ「夜ふけのなわとび」が7月2日時点で1655回を記録し、「同一雑誌におけるエッセイの最多掲載回数」としてギネス世界記録に公式認定されたというのです。
 おめでとうございます。

 しかし全くの同世代、若いころから相当に意識してきたこの人の活躍に、私はやや素直になれない自分を感じています。林さんが1665回なら、私のブログは今日で3565回です。数だけなら2倍を優に超えています。才能に差はあるにしても、一生懸命書いているのですから年に2〜3回くらいは、自身も「ちょっと良かったかな?」程度には書けているものもあるのです。もっと評価されてもいいのじゃないか――ふとそんな気にもなります。

 「夜ふけのなわとび」は過去34冊が文庫化され、累計部数は426万部に達しているといいます。印税ってどのくらい入ってくるのでしょう?
 実は印税なんてどうでもよくて、我が家はドケチの家庭ですからいくら大金が入ってきても使えないので同じです。しかし462万人が(たとえ1行でやめる人もいたにしても)読んだというところは羨ましい。本来の「週刊文春」で読んだ人も含めると、延べ何百万人が彼女のエッセイに触れたのでしょう。


【具体性がなくなって冗長になって、閲覧数が減った】
 もとは自分の勤務校で学級新聞ならぬ職員室新聞みたいな形で書いていた文を、そのままブログに投稿していたものです。そのころは現場にいましたから話題も新鮮で、情報も早く、なにより児童生徒・先生・保護者を見ながらでしたので具体性に富んだ文章が書けていました。そのうえ今ほど暇ではなかったので、原稿用紙3枚以内で収まる程度の内容しか書けませんでした。その分、読む方も楽だったのです。

 それが定年退職となってさらに第二の仕事も辞めてしまうと、好きなだけ考えて、好きなだけ調べて、好きなだけ書いていればいいのです。その代わり子どもや学校の具体性はなくなり、文はひたすら長く、だらしなくなります。さすがに原稿用紙15枚分以上になると自分自身読み直すのが嫌になります。
“いわんや、お客様をや”です。

 一時期は250近くもあった閲覧数はいつの間にか半分以下に減ってしまい、書くために費やす時間やエネルギーは倍以上になっているので、さすがに割に合わないと、本気で対応を考えるようになりました。


【閲覧数を増やすためにしてきたこと】
 そこでまず始めたのがブログランキングへの参加。「にほんブログ村」と「人気ブログランキング」に登録して、記事にリンクを張るようにしました。
 おかげで新しいお客様も何人かみえましたが、それで閲覧数が飛躍的に増えるわけではありません。
 考えてみたら、ブログランキングからこちらの記事に来られる方の大部分はご自身も登録しておられる。この人たちは私と同じように「自分のブログの閲覧数を増やすのが目的で、自身のブログの充実に忙しく、他の人の記事まで熱心に読んでいる暇のない人たち」なのです。
 ブログランキングで閲覧数を増やすのは、どうやら正道ではないみたいです。

 続いて行ったのはツイッターへ更新情報を流すこと。
 これもよく考えたら、
「ツイッターのユーザーは短い文でバシッと訴えられるのが好き。うっかりブログに誘導されてそこで長ったらしい文章に出会ったら二度と来てくれない」
という原則があります。
 #(ハッシュタグ)をつけたコメントを入れたりさまざまに工夫したのですが、フォロワーが「9人」のままではどうしようもありません。
(ついでですが、本名でやっているフェイスブックの「友達」は54人、インスタグラムはフォロワー数4。長く日記として使っているミクシィは非公開と言うこともあって「友達」ゼロ。最近は出なくなりましたがかつては「現在、お友達が0人です」と繰り返し表示され、何か人格に問題があるみたいで、情けなくて泣きたくなりました)

 もしかしたらteacupのブログからツイッターへの投稿はノー・イメージ(記事中の写真がアイコンにならない)になってしまうので印象が薄いのかもしれないと考え、あれこれさんざんためした挙句、結局teacupではムリということになりHatenaBlogへの移行を考えました。それでノー・イメージの問題は解消しました。

 ところが、
 記事は移行できたのですが画像が行かない。しかもかなりの数の記事にレイアウト崩れが起こって改行がまったく行われないものまであったのです。記事は3000以上もありますから、全部読み直して手直しというわけにもいきません。
 その結果Hatenaをミラーブログとして両方を運営する羽目になってしまい、検索から来られる方が一部Hatenaブログの方へ誘導されてしまい、teacupブログのお客様はさらに減ってしまいました。

 ただし悪いことばかりではありません。
 Hatenaブログの方が検索でヒットしやすいのか、そちらの方で閲覧数が多くなり、現在は両方合わせて1日200アクセスほど、結果的には増えたことになりました。


【感謝!:もっと大切なことがある】
 それにしても林真理子さんは文庫本だけでも34冊、累計426万部。それに引き換え私は――と改めて自分のteacupブログのカウンタを見ると49万アクセスほど。Hatenaブログに5万ほどありますから、このド素人の、クソ長い記事を読んでくださる方がのべ55万人近くもいてくださるのです。

 これはやはり感謝すべきでしょう。
 通常の意味でも、語の本来の意味でも「有難い」ことです。

 皆さま、本当にありがとうございます。
 これからは極力、短く書くことを心掛けて頑張りますから、どうぞよろしくお願いします。
 不平不満を言わず、まっすぐ生きていきます。


にほんブログ村
人気ブログランキング
5

2020/9/30

「小柳ルミ子のダモクレスの剣」〜それぞれのコロナ@  人生


 新型コロナ自粛の中で、歌手・小柳ルミ子はいったん引退を決意したという。
 その期間中、誰も小柳ルミ子を思い出さず、誰も仕事をくれなかったらからである。
 しかし芸能人の大半は同じ状況にいたはずではないか。
 小柳ルミ子はなぜそんなふうに思いつめて行ったのか。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(フェリックス・オーヴレイ「ダモクレスの剣」)

【大スター、涙ながらに語る】
 我が家は夫婦の趣味がことごとく合わず、したがって一緒にテレビを見るということがありません。私が見ているときは妻が別の仕事をし、妻が見るときはたいて私はコンピュータに向かって別の仕事をしています。音声がうるさいのでほとんどの場合はヘッドフォンで音楽を聴きながらの仕事です。

 一昨日の夜は妻が「徹子の部屋」のVTRをつけていて、「ああ小柳ルミ子が出ているな」と思いながら特に興味も沸かないでいつもの通りにしていたところ、曲の切れ目に聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、おもわずヘッドフォンをはずして振り返りました。
 こんなことを言っていたのです。
「徹子さんにはわかってもらえるかもしれませんけど、私たち芸能人と言うのは人気商売で、必要とされてお仕事いただけるわけです。で仕事がないって言うことは・・・もちろんコロナのことは分かっています。でも、コロナであっても必要だったら、オファーがいただけると、思うじゃないですか。
 それがもうないということは、ああもう自分に力がないんだな、もう皆さんに楽しんでいただける歌も踊りも芝居も、必要とされてないんだなって思って、もう本当に7月は引退しようと決心して、そしたら――」
 この話の続きは、自分のブログのコメント欄に“サザン・オールスターズの桑田佳祐さんが雑誌で小柳ルミ子さんのことを絶賛していましたよ”という書き込みがあって、さっそく取り寄せて見ると「最高のエリート歌手」だとか「歌がうまい」とかあって、それで再び歌手の道を歩もうと思ったというところに繋がっていきます。

 それもまったくの涙ながらで、何回も声を詰まらせ、何枚ものティッシュ・ペーパーを無駄にしながらの話です。私の心には、幾重もの違和感が降り下りてきます。


【私には理解できない】
 ひとつには「それはそこまで深刻な問題なのか?」ということです。
 この4月・5月・6月を、それこそ身を削り命を懸けて過ごした何百万人もの人たちがこの国にはいるはずです。
 今日の糧が手に入らない、明日の目星がつかない、月末までの資金が用意できなければ社員が路頭に迷う、店を手放さなくてはならない、自宅を失うかもしれない――そんな思いで過ごしてきた人たちです。
 しかし小柳ルミ子さんが失うかもしれないと恐れているものはオファーなのです。

 まさか生きていくだけの蓄えがないということもないでしょう。事務所からの固定給だってあれば、CDや音楽配信の印税だってあるはずです。ファンクラブからの収益だってまだまだ見込めます。いざとなれば借金をしたってコロナ明けにディナーショーを何回か開けば簡単に返せる人です。
 前夫から受け取った1億円の慰謝料はどうなったのでしょう? 小柳ルミ子の前夫という以外に何の取りえもないダンサーが、わずか数年で1億円を返せるのが芸能界です。小柳ルミ子だったら何とでもなるでしょう。

 そもそも仕事が来ないのは芸能界が彼女を必要としなくなったからではありません。もちろん最前線の流行歌手としての需要ならとっくに失っていますが、その代わり今は中堅の、安定した歌唱のできる歌手として地方公演やディナーショーなどでは引っ張りだこのはずです。それがライバルというなら同じような人はいくらでもいますが、このコロナ禍のもとで、ほとんど全員が休んでいたはずです。ジャニーズやAKBのような最前線の人気タレントですら仕事がないのに、中堅歌手の出番などどこにもありません。

 芸能なんて主要不急の職業であって、自粛期間中は「だるまさんが転んだ」で鬼に振り向かれたときと同じように、ほぼ全員が一斉に止まっていたのです。コロナが明けたら、鬼が再び「だるまさんが・・・」と言い出すのに合わせて、みんなで一斉に動き出せばいいだけのこと、それまでのあいだに歩みを進めている仲間などいるはずがありません。
 それを、
 もう自分に力がないんだな、もう皆さんに楽しんでいただける歌も踊りも芝居も、必要とされてないんだな
だなんて、ほんとうにコロナに苦しんでいる人たちが聞けば、怒り出しそうです、と悪態をついておいて――しかし「それが人間なのだ」という思いも、私にはあるのです。


【小柳ルミ子のダモクレスの剣】
「徹子の部屋」の録画を最初から見直すと、自粛期間中、小柳ルミ子さんは毎日19にも及ぶコロナ関連の番組を見続け、自らを「除菌オバさん」と呼ぶほどに防疫の腕を上げたそうです。おそらく独り暮らしで、朝から晩まで独りぼっちで新型コロナの情報にたっぷり汚染されていたのでしょう。

 18歳でデビューしていきなりスターダムにのし上がり、以後ずっとその地位を維持してきました。家庭を持たず、芸能以外の仕事に手を出すこともなく、常に健康と体力に気を遣って体形や運動能力の維持のために最大の努力をしてきた。二六時中誰かに見られ、いつも気を張って緩めることもない――そういった 人間が、数カ月に渡って部屋に居ずっぱりで、朝から晩までひとりでコロナと戦っている――。
 その目に映る社会や世界の姿が、歪んでくるのも致し方ないのかもしれません。

 思えばスターダムというのはシラクサの王・ディオニュシオス一世の玉座と同じです。逸話によると、廷臣ダモクレスが王を讃えて羨むと、王は黙ってダモクレスを玉座に座らせ、上を見るように指示します。するとそこには天井から毛髪一本で吊るされた抜身の剣が下がっていたのです。
ダモクレスの剣――玉座のいかに危ういかを示す逸話です。

 芸能人というのは因果な商売です。評価の基準は「人気」という徹底的に他力本願のところにしかありません。努力や実力が単純に反映しにくいのです。そしてそれにもかかわらず、定年のない世界ですから果てしない競争にさらされ続けます。
 一方でルミ子さんより20歳も年上の黒柳徹子さんが最前線で活躍しながら、80歳の老優・藤木孝さんが「役者として続けていく自信がない」と遺書に書いて自殺する世界です。死ぬまで生存競争から自由になれない。
「徹子の部屋」からオファーが来て「やったー!」と両の拳を振り上げたという小柳ルミ子さん狂いは、芸能界全体のものなのかもしれません。

 それは三浦春馬さんや芦名星さんの生きた世界でもあります。

にほんブログ村
人気ブログランキング
4

2020/9/28

「死に逝く者の責務を果たせる者だけが死んでいい」〜女優、竹内結子も逝ってしまった  人生


 女優の竹内結子さんが亡くなった。自殺の可能性が高いという。
 打ち続く芸能人の自殺、
 あるいはそこに共通点があるのかもしれないが、竹内さんは少し違う。
 人には死んではいけないときがある、死ぬことが許されない場合もあるのだ。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(ダフィット・テニールス「聖アントニウスの誘惑」《部分》)

【竹内結子さんの死】
 女優の竹内結子さんが亡くなりました。自殺の可能性が高いとのことです。享年40歳。
 昨年の2月に再婚し、今年1月の末に第二子を出産したばかりでした。長子は歌舞伎役者の中村獅童の子で、今年14歳になるはずです。

 私は竹内さんのファンでも何でもないのですが、4年前のNHK大河ドラマ「真田丸」で演じた狂気の淀君が忘れられません。
 4歳の時に落ちる小谷城に父を残して母や兄妹とともに脱出し、14歳で北の庄城に母を残して二人の妹とともに秀吉の軍門に下り、その側室となってからは最初の子の鶴松を死なせ――と、わずか20年余りの半生の間に、家族の大部分を次々と亡くすような体験をした女性は、きっとこうなるだろうと強く思わされる演技でした。

 結局、最後には豊臣家を亡ぼして両親の復讐を果たした――そう考える見方も多くありますが、竹内結子さんの演じた淀君にとっては豊臣家も浅井家も、天下統一も復讐も何もかもどうでもいいことで、常にその場その場を生きていた――ただそれだけのことだったのかもしれない、それこそがほんとうの淀君の姿かもしれない、そう思わせるだけの素晴らしい演技でした。

 芸能人の自殺については三浦春馬さんや芦名星さんを例につい先日書いたばかりです。
2020/9/18「働いていないことの消耗」〜三浦春馬さんの死とコロナ禍 

 そこで考えたのは、人気俳優としてほとんど休みもなく突っ走ってきたこの人たちが、今回のコロナ自粛で完全に止められてしまった、その働いていないことの消耗についてでした。
 さらに竹内さんの場合は生まれたばかりの赤ん坊を抱えての自粛ですから、育児ノイローゼ的なものも重なっていたのかもしれません。竹内さんに限ったことではありませんが(コロナ感染を恐れて)両親等の助けを一切うけられない養育というのは、これまでほとんどなかったことです。
 いずれにしろ尋常ではない状況下にあったわけで、私には淀君の狂気の演技が記憶に焼き付いていますので、その最後の姿が目に浮かぶようでほんとうにやりきれません。

 ただしそんなふうに思い遣りながらも、三浦さんや芦名さんとは違った思いで竹内さんの死を考える私もいます。それは何と言っても彼女が14歳とゼロ歳の子の母親であり、結婚一年半の、年下の配偶者の妻であることから来ています。


【死に逝く者の責務】
 二十数年前、私が肺ガンの宣告を受けて死を覚悟したとき、娘は小学校2年生、息子はまだ4歳でした。発見の段階でレントゲン撮影の病巣が2×3cmもあって(最終的には8×6×6cm)医者からもVA期かVB期と言われたので、“これはもうダメだな”と諦めるのも早かったのです。それほど悲壮感のあるものでもありませんでした。

 ただ7歳と4歳の子を残して逝くのは忍びない気がしましたし、特に下の子は年齢的に記憶にすら残らないかもしれないと思ってそこには気を遣いました。たくさんの映像とたくさんの文章を残しておこうと、自分のWebサイトをつくったりあれこれ始めたのもこの時です。

 それとは別に、妻や親兄弟のために心がけたこともあります。それはこの人たちが私の元に持ってくる治療や治療もどきのことは、資金の許す限り試してみようということです。困ったことにこの病気になると、頼んでもいないのにあちこちから特別な治療やら栄養食品やらの話がやたらと舞い込んできます。
 私はすっかり諦めつくしていましたからそんな無駄なこと、面倒なことはしたくない気持ちもあったのですが、家族の勧めを断り続けた挙句に結局死んでしまったら、それで切ない思いをするのはその人たちです。
 もっと強く勧めていたら、もっと強引に引っ張って行っていたらと、そうした悔いは人の死にはつきものです。だから私たちは葬儀の席で「お悔やみ申し上げます」と言い合うわけですが、それでもその“悔い”を最小限にとどめるのは死に逝く者の使命だと思ったのです。もちろん何百万円もする治療などお断りですが――。

 しかし私は生き残ってしまいました。どの治療・治療もどきに効果があったのかは分かりません。もしかしたら生きる可能性をさっさと諦めて気楽に病気と付き合ったのがかえって良かったのかもしれません。


【残された人々への哀悼】
 もちろん同じく死を目前にしていると言っても自殺と病気とでは全く違います。自死する人の最後の瞬間はおそらく正気ではありませんから、その人たちに「残される者の気持ちを考えろ」とか「死ぬより大切なことはあるだろう」とか言っても無意味でしょう。しかしそれでも私は思わずにはいられないのです。

 最初にクローゼットの中の遺体を発見した若き夫は、これから長く続く人生をどう生きて行ったらいいのでしょう。最も近くにいて、最も救える可能性のあったのはこの人なのです。 
 14歳の、とてつもなく多感な時期の真っ最中にいる長男は、事態をどう受け止めるのでしょう。彼女は自分自身が演じた茶々(淀君)が母を奪われたのと同い年の息子から、自ら母親を奪ってしまったのです。
 この子に語ってやれる言葉はそう多くはありません。

 ゼロ歳の次男は、もちろん今は何も分かりません。しかしこの自死の原因に育児ノイローゼがあるとして、将来おとなになったとき、その事情をどう消化したらよいのか。
 普通の家の子ではないのです。インターネットで検索をかければ、10年後であっても20年後であっても、母親に関する情報はいくらでも出て来ます。
 ――そう考えただけでも、とてもではありませんが死んで行ける状況ではないのです。

 もちろん、繰り返しになりますが、自死する人の最後の瞬間は正気を失っているはずです。ですから私の想いをもって竹内結子を非難することには、何の意味もないことは百も承知です。
 百も承知の上で、この女性の失われた才能を心から惜しむとともに、たいへんな重荷を家族に残していった恨みを抑えきることもできないのです。

*2020年10月1日追補
 こののちも竹内結子さんについては続報が出ていますが、私の心に引っ掛かったのは竹内さん自身が、14歳でガンのために母親を亡くしているという事実です。14歳、おそろしく因縁めいた話だと思いました。


にほんブログ村
人気ブログランキング
7



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ