2019/12/16

「マネ『フォリー・ベルジェールのバー』の不快と愉しみ」  芸術


 東京都美術館にマネを観に行ってきた。
 以前から気になっていた「フォリー・ベルジェールのバー」に会うためだ。
 今はデジタル画像がいくらでも手に入る時代だが、
 実物を観て初めて分かることも多い。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(マネ「フォリー・ベルジェールのバー」)

【コートールド美術館展】
 新しく登録した買い物サイトの使い勝手を確認したいということで、妻が上野の森美術館の「ゴッホ展」のチケットを買ってくれました。で、せっかく東京まで行くのだからとあちこちの美術館を調べていたら、ふと目についたのが上の絵、「フォリー・ベルジェールのバー」でした。東京都美術館「コートールド美術館展 魅惑の印象派」に展示されている一枚です。

 コート―ルドというのはイギリスの実業家で、人絹(人造絹糸=レーヨン)で財を成した人物です。そのコート―ルドが独自の審美眼で買い集めた作品を中心に設立されたのが、現在はロンドン大学の付属施設になっているコート―ルド美術館。正式にはコートールド美術研究所というのだそうです。

 私は絵の分からない人間なので、偉大な収集家の集めたコレクション展だとか〇〇美術館展とかが苦手です。一人の画家の成長だとか、○○派といった美術的傾向の発生と変化だとかいったまとまったテーマがないと、作品単独では価値が見えてこないのです。
2019/9/19「『芸術の価値の分からない人間』の芸術的価値について」 

 ですからだいぶ前からこの展覧会のことは承知していたのに、「コート―ルド美術館展」というタイトルだけでパスしてしまって、中身についてはまったく気に留めていませんでした。
 ところが今回、ここに「フォリー・ベルジェールのバー」が展示されていることを知って、“この一枚を観るだけでもいいな”という気持ちで出かけることにしました。
「フォリー・ベルジェールのバー」は昔からそれくらい気になっていた一枚だったのです。


【「フォリー・ベルジェールのバー」】
「フォリー・ベルジェールのバー」はフランス印象派のマネの油絵で、1882年にサロン・ド・パリに出品された作品です。

 画題のフォリー・ベルジェールはパリのミュージックホールで、現在も営業されているそうですが全盛期は19世紀末から20世紀初頭にかけて、いわゆる世紀末文化の匂いのプンプンする時代です。
 フォリー・ベルジェールのバーは劇場の一角にあったアルコールを提供するカウンターで、中に立つバーメイドは高級娼婦の一面もあったと言われています。

 私がこの絵に魅かれる一番の理由は、中央に描かれたバーメードの物憂げな美しさのせいですが、同時にこの絵の持つ不可解な居心地の悪さ、なんとも言えない不快感のためです。
 とにかく右奥の二人の人物が気に入らない。描き方が雑で立ち位置も定まらない。
 二人の人物のすぐ下のオレンジや花を挿したグラス、ビール瓶などの緻密さと比べると、雑さはいっそう際立ちます。

 私はのちに、中央の女性が大きな鏡(手首のあたりに金色の縁がある)を背に立っていて、右に描かれている後ろ姿の女性の方はその鏡像だと知るに至るのですが、そうなると不快感はさらに増します。実像と鏡像の位置関係が狂っている――。


【どこまで行っても不快】
 その点についてWikipediaは、
「この絵は、発表直後から、多くの批評家を困惑させた。鏡の位置の不確かさ、バーメイドの後姿が右へずれていること、バーメイドが応対している紳士が手前には存在しないこと、カウンターに置かれたビンの位置と数に相違がある、等である。だが、2000年に復元された劇場で撮影された写真により、この絵の不自然ではないことが判明している。バーメイドは紳士とは向き合っておらず、紳士は画面の左側にいるために描かれていない。鑑賞者はバーメイドの正面ではなく、すこし離れた右側に立っている。したがって、バーメイドは少し左を向いている」
と書いていますが、本物を見ればWikiの説明がまったく通用しないことはすぐにわかります。

 バーメードは多少左に体をねじりながらも正面を向いており、後ろ姿の女性は男性と数十cmの近さで向き合っています。その間にカウンターのテーブルがあることを忘れさせてしまうほどの近さです。

クリックすると元のサイズで表示します  カウンターテーブルといえば左の方を見るとWikipedia の指摘のごとく酒瓶の種類や本数があっていないばかりか、位置関係も変です。
 テーブル上に置かれた品々から考えると、画家はバーメードの正面で、ほぼ彼女と同じ目の高さから鏡の風景を見ているはずですが、その位置から見たテーブルも酒瓶も、あんなに高い位置にくるはずがありません。
 そしてなにより、背後の小さな人物たちが二階バルコニー席の観客だとすると、カウンターテーブル自体が一階観客席の頭上に浮いているとしか思えない位置にあるのです。客たちも宙に浮かばない限り、飲み物を買うことはできません。
 右の男の居場所の定まらなさも、それに由来することもわかってきます。

クリックすると元のサイズで表示します
 そのほか、バーメイドを挟んでバルコニー席の左と右の人物の描き方に差があって、右は左半分の鏡像ではないかと疑われる点、つまり右半分は鏡の中に描かれた別の鏡に映った像ではないかということ。
 実像を思わせる左半分の観客は明らかに画面の左の方に目を向けていて、そちら側にステージがあること窺わせるのに、左上には空中ブランコに乗る芸人の足が見え、舞台の位置が分からなくなること。再び右を見ると鏡像を思わせる右半分の観客はやはり右方向に顔を向けているように思えてくること。だからやはり右半分は鏡の中に映った別の鏡の像なのかもしれない等々。この絵はだまし絵のように謎だらけです。

 そしてここまできてようやく、私は私なりの結論に達します。


【実物は語る】
 思うにマネは意図的に視点を外して鑑賞者を弄んでいるのです。中央のバーメードとテーブルの品々を極端に写実的に描いて私たちの目をくぎ付けにしておいて、背後で好き勝手を行う。画面のあちこちに不調和や不鮮明を置いてあの“いやあな感じ”つくりだし、私たちをとらえて離さない。
「フォリー・ベルジェールのバー」の妖しい魅力はそこにあるのです。

 絵は大きさ92cm × 130cm。なかなかの大きさです。
 油絵具は劣化が遅いので手前の品々などはつい最近描かれたように美しく光って、その精密なタッチを浮き上がらせています。
 花瓶代わりのグラスの、写真のように鮮やかな写実性など、やはり実物を観ないと分からないことはたくさんあります。ぜひ本物を見てもらいたいところです。

 ただし東京都美術館「コートールド美術館展 魅惑の印象派」は昨日が最終日で、これから行こうと思っておられた方には申し訳ない話です。
 


にほんブログ村
人気ブログランキング
1

2019/9/27

「『永訣の朝』と宮沢賢治三昧」〜記念館と童話村  芸術


 宮沢賢治と聞くと まず胸が苦しくなる
 「決別の朝」に関する苦い思い出があるからだ
 そのことを思い出しながら
 「宮沢賢治記念館」と「宮沢賢治童話村」を回った

というお話。
クリックすると元のサイズで表示します

(「宮沢賢治記念館」玄関にて)

【「永訣の朝」のこと】
 宮沢賢治については手痛い思い出があります。
 恐らく高校生のときだと思うのですが、国語の教科書に賢治の詩「永訣の朝」が載っており、その4行目「(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)」で笑ってしまい、あとで意味を説明されて地の底まで落ち込む感じを受けたのです。

 持ち上げられて落とされるようなものです。
「卑怯じゃないか」
と、そんなふうに思ったのかもしれません。

 「永訣の朝」は賢治の最愛の妹が25歳で死んでいくときのことを書いた詩です。
 今日の記事の最後に全文を引用しておきますが、中で「とし子」と書かれている妹の臨終の言葉は三つ、それぞれカッコのついているものですが、東北弁のため若干の解説が必要です。

「(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」は「雨雪(窓の外に降っているみぞれ)を取って来てください」という意味。
「(Ora Orade Shitori egumo)」は、「私は私で、ひとりで逝きます」の意。
「(うまれで くるたて こんどは こたに わりやの ごとばかりで くるしまなあよに うまれてくる)」は、「再び生まれてくるなら、今度はこんなふうに自分のことばかりで苦しまないように(誰かの役に立つように)生まれてくるね」という意味だと解釈されます。
 
 病床に寄り添って何もできない賢治に「みぞれを食べたい」と言ってせがむ姿は、マリー・ローランの詩の「馬」にも通じるものがあり、それだけでも胸を締め付けられます。看取る者には仕事が必要なのです。
(参考)2019/1/15「マリーの馬」〜詩を書くときの心得

 妹のためにしてあげることのできた賢治は、それこそ鉄砲玉のようにみぞれを取りに病院の外に出て、鉛色の空を見上げるのです。

 なんど読んでも嗚咽が漏れそうになる詩です。


【宮沢賢治記念館】
 宮沢賢治については不勉強で知るところは多くありません。読んだものと言えば今の「永訣の朝」、有名な「雨ニモ負マケズ」、「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「よだかの星」「やまなし」「銀河鉄道の夜」くらいなもの。しかも「注文の多い料理店」と「銀河鉄道の夜」以外はすべて教科書で習ったか教えたものです。

 ただ「永訣の朝」と「雨ニモ負マケズ」は一時期そらんじるほど読み込みましたし、「銀河鉄道の夜」は夢中になって読んだ上に(よせばいいのに)クラスの子に読み聞かせなどしてしまい、5時間余りの授業を潰してしまったことがあります(さすがに子どもたちはゲンナリしていました)。
また「やまなし」は今でも最も好きな物語で、情景描写のお手本のように考えています。

「雨ニモ負ケズ」と「やまなし」についてはこのブログでも何回か扱っています。
2007/5/30 水族館にて

2011/4/15 雨ニモ負ケズ 

2017/7/19「あなたのように」〜私はかくありたい

2007/8/22 このごろ巷(ちまた)に流行るもの 

 ただこの程度の知識では「宮沢賢治記念館」を十分楽しむことはできません。

 1982年(昭和57年)に開設され最近大改修されたばかりという記念館は、広い展示室の壁面に詩、童話、教育、農業、科学の5分野に分類した資料がびっしり展示され、中央ではスクリーン映像やさまざまな工夫でイーハトーブの世界を表現しようとしています。

 賢治の傾倒した仏教関係の資料や鉱物の話、農業の話、さらには本人が書いたとされる楽譜など、そもそもそんなものがあることすら知らない私には、新鮮であると同時に酷くガッカリさせられるものでした。もっとしっかり勉強して来れば夢中になって巡ることのできる空間だと思ったからです。
 事実、つい最近ここを訪れた知り合いの元教師は「3時間いてもきっと飽きないよ」とか言っていました(私はもちません)。
 中学生くらいの子に、死ぬほど勉強させて連れて来れば、きっと涙を流して見学するだろう――そんなことも考えながら小一時間、読み易いものを選んで、丁寧に見ながら回りました。

 なかなかいいものです

次は「宮沢賢治童話村」


【宮沢賢治童話村】
 花巻市の観光案内には
 宮沢賢治童話村は、今にもジョバンニや又三郎、山猫がでてきそうな賢治童話の世界で楽しく遊ぶ「楽習」施設。
 童話村は、「銀河ステーション」、「銀河ステーション広場」、「妖精の小径」、「天空の広場」、「山野草園」、そしてメインの「賢治の学校」があり、賢治の学校の中は「ファンタジックホール」、「宇宙」、「天空」、「大地」、「水」の5つのゾーンに分かれています。
 また、ログハウス展示施設「賢治の教室」も見どころ満載です。

とありました。

「賢治の学校」は五つのゾーンに分かれた大きな建物。中は15分程度で回れます。「賢治の教室」は七つのログハウスからなりそれぞれ「動物の教室」「植物の教室」「星の教室」などと名付けられ、宮沢賢治の世界の簡単な学習ができるようになっています。

 わざわざ遠くから来て訊ねるほどの施設ではありませんが、「宮沢賢治記念館」を見学したあとだと非常に気楽に楽しめます。入場料も2館共通券で550円、安いものです。
 私はとても良かった。
 
 詳しく説明するほどのものでもありませんので、付録として「永訣の朝」の下に写真だけ張っておきます。
                       (この稿、続く)


(付録1)

永訣の朝
                 宮沢賢治

けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から
みぞれは びちょびちょ ふってくる
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

青い蓴菜(じゅんさい)の もやうのついた
これら ふたつの かけた 陶椀に
おまへが たべる あめゆきを とらうとして
わたくしは まがった てっぽうだまのやうに
この くらい みぞれのなかに 飛びだした
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

蒼鉛(そうえん)いろの 暗い雲から
みぞれは びちょびちょ 沈んでくる
ああ とし子
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ
ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

はげしい はげしい 熱や あえぎの あひだから
おまへは わたくしに たのんだのだ

銀河や 太陽、気圏(きけん)などと よばれたせかいの
そらから おちた 雪の さいごの ひとわんを……

…ふたきれの みかげせきざいに
みぞれは さびしく たまってゐる

わたくしは そのうへに あぶなくたち
雪と 水との まっしろな 二相系をたもち
すきとほる つめたい雫に みちた
このつややかな 松のえだから
わたくしの やさしい いもうとの
さいごの たべものを もらっていかう

わたしたちが いっしょに そだってきた あひだ
みなれた ちやわんの この 藍のもやうにも
もう けふ おまへは わかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)

ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ

ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ

この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ

(うまれで くるたて
  こんどは こたに わりやの ごとばかりで
   くるしまなあよに うまれてくる)

おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ


(付録2)
《入場口「銀河ステーション」》
クリックすると元のサイズで表示します

《妖精の小径》
クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

《賢治の学校(外観)》
クリックすると元のサイズで表示します

《賢治の学校(内部)》
クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

《賢治の教室(内部)》
クリックすると元のサイズで表示します

《タクシー乗り場付近》
クリックすると元のサイズで表示します


クリックすると元のサイズで表示します

にほんブログ村
人気ブログランキング
4

2019/9/19

「『芸術の価値の分からない人間』の芸術的価値について」  芸術


 国立西洋美術館に「松方コレクション展」を観に行ってきた
 そこで自分がいかに芸術の分からない人間か痛感してきた
 しかしそんな私でも
 役立っていることがあるに違いない

というお話。
クリックすると元のサイズで表示します

【国立西洋美術館「松方コレクション展」に滑り込む】
 国立西洋美術館に「開館60周年記念松方コレクション展」を観に行ってきました。
 今週末が最終というギリギリのタイミングです。

 夏休みに息子のアキュラが行ってきて、「けっこうよかったよ」と報告があったのでその気はあったのですが、なかなか機会に恵まれず、今日まで引っ張ってきてしまいました。今回、たまたま娘のシーナからヘルプコールがあったので、そのついでに上野まで足を運ぶことにしたのです。

 ただ、この展覧会、行って少しがっかりするところがありました。展示内容が悪かったというのではありません。以前からうすうす感じていたのですが、私に芸術がわからないということが、今回、本当にあからさまになったような気がしたからです。


【松方コレクション】
 松方コレクションというのは、総理大臣も勤めた松方正義の息子で明治の資産家、神戸の川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)を率いた松方幸次郎(1866−1950)が、莫大な資産に任せて集めた、モネやゴーガン、ゴッホからロダン、近代イギリス絵画、中世の板絵、タペストリーにいたる大量の西洋美術品、さらには日本のために買い戻した浮世絵約8000点を含む全1万点以上の収集品のことをいいます。

 この1万点は単純に日本にもたらされたものではなく、多くはフランスで保管されたまま長く海を渡れず、現地で換金されたものもあればフランス政府に接収されたもの、あるいは火災によって消失するものも多数ありました。また運良く日本にたどり着いた作品の中にも、川崎造船の破綻によって売却、散逸したものもすくなくありません(その一部は倉敷の大原美術館にある)。

 しかし戦後、日本政府の熱心な働きかけによってフランスは一部の重要な作品を除く370点を、美術館を建てることを条件に返還します。そしてつくられたのが現在の国立西洋美術館なのです。

 したがって今回の展示作品の中には、西洋美術館の常設展でしょっちゅう観ている作品がかなり多く含まれていました。それもがっかりした点のひとつです。しかしもっと大きな問題は個人の所蔵展にはテーマがない、この人が収集したという以外の何の共通性もない、したがってどう観たらいいのか分からないということです。


【美術館展、収集家展の難しさ】
 これまで私は、最低でも年1回は東京に来て、大きな美術展を鑑賞するようにしてきました。たいていは「ゴッホ展」「ピカソ展」といった個人を扱った展覧会、あるいは5月に新美術館でやっていたような「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」のような強いテーマ性をもった美術展です。「エルミタージュ美術館展」みたいな美術館展や個人の所蔵展はまず行きません。

 個人展の場合は、その画家がどのように育ってきたか、どういう必然性でそうした作風になったのか、同時代の中でどういう位置を占めるのか、そして後代にどんな影響を与えたのか、そうしたことが観点になります。時代を追って観ていくととてもよく分かるのです。

 「ウィーン・モダン 世紀末への道」のような展覧会は、もうこれは主催者が明確な観点を示してグイグイ押してきますからそれに乗っていればいいだけです。

 ところが美術館展や個人の所蔵展だと、どう観たらいいのか分からない。
 今回の松方コレクション展にしても、ルネッサンス以前絵画がポンと1枚出て、その良さを感じ取れなくてはならいない。その横に藤田嗣治があってもルノワールがあっても、それぞれ何かを感じ取れなくてはならない――私の場合、そこがまったくダメなのです。「全体」とか「流れ」とかいった“枠”がないと、作品の良さが分からないのです。


【芸術の価値のわからない人間の価値】
 今回の「松方コレクション」にはフランスが返してくれなかったゴッホの「アルルの寝室」(オルセー美術館)が出展されていました。
 この作品には逸話が残っていて、Wikipediaによると、
 矢代(美術評論家矢代幸雄)の伝えるところによれば、画商ポール・ローザンベールのところで見かけたゴッホの『ファンゴッホの寝室』とルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち』の2作は希代の傑作なので、ぜひ購入するよう、矢代は松方に熱心に勧めたという。矢代があまりしつこく勧めるので、松方は買わずに店を出てしまった。「あの傑作の価値がわからないのか」と憤っていた矢代が、しばらくしてから松方の所を訪れると、『ファンゴッホの寝室』『アルジェリア風のパリの女たち』の2作とも買ってあったという。これは、画商に手の内をみせて、絵の値段を吊り上げられないようにという、松方の計算もあったのではないかと言われている。
ということです。つまり八代幸雄は『ファンゴッホの寝室(アルルの寝室)』の価値を一発で見抜いたわけで、美術評論家だから当然とはいえ、そんな鑑識眼を持った人は世の中にゴマンといるわけです。
 しかし私には全く分からない。ゴッホという文脈の中ではかろうじて分かりますが、単独で出されると分からない。だからモナリザも分からない、ミロのビーナスも理解できない。もっと勉強すればいいだけのことでしょうが、もしかしたら本質的な感性の問題かもしれません。

 実は松方コレクションの松方幸次郎も「私には芸術が分からない」と言っていたようです。しかし西洋の一流品を集めて美術館をつくることには高い価値があると信じて買い続けたのです。
 同じように、もしかしたら本当は芸術なんか分からない私のような人間が足しげく通うことで、美術館は生き残り、レベルの高い美術展も繰り返しやってくるのかもしれません。
 それを頼りに、また足を運んでみることにしましょう。



にほんブログ村
人気ブログランキング
3

2019/6/24

「今日はドレミの誕生日」〜ドラミちゃんの話じゃないよ  芸術


 今日は音階「ドレミ」の誕生日
 そこでドレミのウンチクと
 その周辺について語ろう

というお話。
クリックすると元のサイズで表示します
(ローレンス・アルマ=タデマ 「サッポーとアルカイオス」)

【ドレミの誕生日】
 今日、6月23日は「ドレミの誕生日」だそうです。
「今日は何の日?? カレンダー」によると、
 イタリアの僧侶ギドーがドレミの音階を定める(1024)
とあります。
 
 ドレミについては30年近く前に「どういう意味か」と生徒に聞かれ、それなりに一生懸命調べたのですが手がかりさえ見つかりませんでした。
 書店に行っても図書館を訪ねても、音楽のコーナーは極端に狭く、「ドレミの意味は?」みたいな基本的なのに特殊な質問に、答えてくれる書物に出会えなかったのです。音楽の先生に訊いても、
「そんなの・・・意味あるの?」

 しかしネット時代はあっという間です。「ドレミの意味」で検索すると即座にとんでもない量のページがヒットします。
 私がネットで初めて「ドレミの意味」を調べたのはだいぶ前のことですが、昨年4月にNHKの「チコちゃんに叱られる」で扱われてからはかなり数のページが追加されたみたいで、さらに検索しやすくなっています。
 それらによると、


【ドレミの成り立ち】
 11世紀にいたるまで、西洋音楽は主として耳で覚え、次から次へと伝承するものであって楽譜に書かれることはなかったようです。長年、不便を感じる人も多かったのですが、誰も解決策を見つけることができませんでした。
 ところが1024年、イタリア人の僧侶グイード(ギドー)・ダレッツィオは200年以上歌い継がれてきた「聖ヨハネ賛歌」の中に、素晴らしい秘密を発見するのです。

 それは曲の各小節の最初の音が、今で言う「ドレミファソラ」に一致して一段ずつ高くなっているという事実です。
 その「聖ヨハネ賛歌」の歌詞は以下の通り(別に読めなくてけっこうです)。

Ut queant laxis 
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve polluti
Labii reatum
Sancte Johannes

 そこでグイードはそれぞれの小節の最初の音「Ut」「Re」「Mi」「Fa」「So」「La」で音階を表す方法にたどり着くのです。6音しかありませんが、当時は基本的に6音階の中で曲がまとめられていたので7番目の「シ」は必要なかったのです。実際「聖ヨハネ賛歌」の7行目「Sancte Johannes」は「シ」ではなく「ファ」の位置から始まっています。

 「シ」は16世紀になって音楽の幅が広がってから必要に迫られて作成されました。その際「聖ヨハネ賛歌」の7行目の「Sancte Johannes(サンクト・ヨハネ)」の頭文字「Sj」の異体字「Si」をあてて「シ」と発音させるようにしたと言います。
 またイタリア人には発音しにくい「Ut」に替えて、「主」を表す「Dominus」の最初の音「Do」をあてるようにしたともいいます。


【音名ハニホとツェー・デー・エー】
 私たちはまた、階名の「ドレミ」以外に、「ハニホヘトイロ」で表す“音名”についても勉強させられました。「ハ長調」とか「ト短調」とかいうアレです。
 「イロハ」が使われているところから明らかなように日本独自の表現ですが、では諸外国はどうしているのかというとアルファベットで表しているのです。

 高校生のころ、女子にモテたい軽薄な男の子たち(もちろん私を含む)はみんなギターに手を出し、「C(シー)で始めようか?」とか「E(イー)マイナーの曲っていいよね」とか言っていましたが、クラシックの素養があってバイオリンの弾ける子などは「ツェー」だとか「ハー」だとか訳の分からない音名を使って私たちを混乱させていました。しかしこれは彼らの方が正しい。

 日本の「ハニホヘトイロ」にあたる「CDEFGAB」は「ドイツ音名」と呼ばれるようにドイツが発祥の地で、したがってドイツ語で読まれるのが正しく、(たぶん)そちらの方がカッコウ良かった。ドイツ語では「C(ツェー)」「D(デー)」「E(エー)」「F(エフ)」「G(ゲー)」「A(アー)」「H(ハー)」となります。
 そういえば有名なバッハの「G線上のアリア」は「ゲーせんじょうのアリア」と発音するのが正しいようで、NHK・FMなどでそう発音しているのを聞いたことがあります。

 だからこう私たちはこう言うべきでした。
「C(ツェー)で始めようか?」「E(エー)モルの曲っていいよね」
 たぶん知っていてもやらなかったと思いますが。


【ドの音はどの音?】
 そうなると次に出てくる疑問は「なんで階名と音名のふたつが必要なの?」ということになりますが、これは「階名は可変」「音名は不変」で説明します。

 例えば、
「C(日本音名では『ハ』)の音を出してください」
と言われれば世界中の音楽家が一斉に「ハ長調のド」にあたる音を鳴らします(不変)。
 しかし「ドの音を出してください」と言われたら、それぞれが好き勝手な「ド」を出してくるかもしれません。

 たった今「ハ長調のド」と言ったように、「ト短調のド」とか「ヘ長調のド」とかは全部音が違うのです(可変)。つまり「ドの音を出してください」と言われると音楽家は「どの音?」と迷うことになるのです。

 もともとが歌詞の最初の音ですので「ドレミファ」階名は口で歌うのに便利、しかし音名の普遍性も捨てがたい――そこで両方が同時に使われるようになった、ということなのかもしれません。


【さらに深まる謎】
 ここまでくると次に出てくるのは当然、
「子どものころ『シャープもフラットもつかないのはハ長調とイ短調』って教えられてこれが基本だと思うんだけど、どうして基本のハ長調やニ短調の『ドレミ』は『ハ(C)』から始まるの? 『イ(A)』から始まらないのはなぜ?」
という疑問ですが、これについてはさらに話が複雑になるので機会があれば改めて考えたいと思います。

 

にほんブログ村
人気ブログランキング
1

2019/5/16

「国立新美術館のクリムト」〜二つのクリムト展を観てきた 2  芸術


 国立新美術館の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」は
 クリムトが時代と社会からどういう要請を受けて生まれてきたかを提示する
 そこには悲劇の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が生み出した新生ウィーンの
 たくましく発展する姿が重なる 

というお話。
クリックすると元のサイズで表示します
(グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」《右側》部分)

【国立新美術館のクリムト】
 国立新美術館の、「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の何が良かったのか――。
 ひとことで言うとそれは、いかなる理由でクリムトが世に出てきたか、歴史と社会の中で芸術家はいかに育ってくるのか、その2点がとてもよく分かったからです。


【ダ・ビンチとゴッホは違う】
 芸術と言えど時代や社会情勢から自由ではありません。それは当たり前で、私はよく言うのですが「その人はどうやって食っていたのか。その答えが芸術を規定する」のです。

 例えばレオナルド・ダ・ビンチの最初のパトロンはメディチ家の「偉大な君主」と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチです。次がミラノ公国の君主のルドヴィーコ・スフォルツァ。最後はヴァチカンの教皇レオ10世でした。いずれも第一級の権力者、超お金持ちです。
 そうなるとダ・ビンチの絵は、どんなに大きくても小さくてもいい。彼の絵の飾られる教会や宮殿にはさまざまなサイズの部屋がありますから、どっちみち飾る場所に事欠かないのです。。
 注文主が焦れて怒らない限り、完成までに幾日かけても構わない。一枚の絵の代金で数年分の生活費が賄えますから気楽にやっていられます。
 ただし基本的に注文制作ですから好きなものを描いて買ってもらうという訳にはいきません。どうしても描きたいものがあれば、勝手に描いて自分で持っているだけです。有名な「モナ・リザ」はおそらくそうした作品です。死ぬまで側に置いて手を入れていましたから。

 しかしずっと後のゴッホとなるとそういうわけにはいきません。彼の絵は画商を通して小金持ちの邸宅に飾られることが予定されますから、自然とサイズは決まってきます。
 ダ・ビンチの絵の飾られる建物と比べるとずっと小さくなりますが、その分むしろ採光はいい。つまり明るい壁に掛けられる絵ということになります。コントラストを強めにして主人公を浮き立たせるといった工夫はいりません。
 モノクロとはいえ、すでにカメラのある時代です。本物そっくりに写すという点では写真にかないませんから、自然とフォルムは甘くなります。しかしそのことは芸術家をむしろ自由にしました。

 つまりダ・ビンチとゴッホでは、絵画の歴史的な発展以外に、まったく異なった表現を生み出すだけのたくさんの条件があったわけです。

 では、クリムトが世に出てきた歴史的・社会的条件とは何か――。
 国立新美術館の「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の面白さはそこにあります。


【オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世】 
 ウィーンに生まれウィーンに死んだグスタフ・クリムト(1862年-1918年)の生きた時代は、ほぼオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に重なります。
 
 フランツ・ヨーゼフ1世(以下、ヨーゼフ1世)は、フランス2月革命のあおりを受けて起こったオーストリア3月革命の混乱の中で、わずか18歳で叔父から譲位され、86歳で亡くなるまで68年間も皇帝位にあった人です。

 3月革命でいったんは革命派に押し込まれたもののその後盛り返し、新絶対主義と称する新しい絶対主義を打ち立てて自由主義・国民主義を抑圧しました。

 新絶対主義というのは、「民衆への政治的権利を譲渡しない代わりに、皇帝は万人のための近代的な経済・行政・教育システムを完全に保障しなければならない」と理論づけられるもので、一面で開明的ではありましたが、ヨーゼフ1世自身は王権神授説を頭から信じているような古い一面も持ち合わせていました。国民は大いに失望します。

 ただし即位後に繰り返された戦争では常に将兵の先頭に立ち、死を恐れなかったことからまず軍人の信頼を勝ち取り、続いて起きた自らの暗殺未遂事件によって民衆の同情を得ると、次第にオーストリア国民に受け入れられるようになり、やがては絶大な敬愛を受けて「国父」と称されるまでになり、その治世は安定します。

 彼の生涯は戦争には負け続け、聡明で将来を期待された長男には情死(心中自殺)され、国民的人気を誇った最愛の王妃も暗殺されるという不幸なもので、晩年、後継に指名したフランツ・フェルディナント大公は夫人とともに1914年6月サラエボで暗殺されてしまいます。これが「サラエボ事件」で第一次世界大戦の直接の契機となります。ヨーゼフ1世は84歳で宣戦布告の書類に署名し、その終結を待たずに亡くなりました。
 オーストリア・ハプスブルク帝国はその二年後、滅ぶことになります。


【リング通り】
 ヨーゼフ1世の生涯はまったくさえないように見えますが、首都ウィーンに限って言えばむしろハプスブルク家絶頂の感がありました。
 ウィーン市内の人口はすでに18世紀から増え続けていましたが、19世紀前半の50年間だけで倍増し、住まいを求める人たちは20万人にも膨れあがっていたのです。

 当時のヨーロッパの都市は大部分が周囲を壁で囲まれた城塞都市でしたが、ウィーンも例に漏れず、小さな枠の中に自身を押し込めていたのです。それが今や限界となりつつありました。

 またその頃、武器の大型化によって“城壁で都市を守る”ということ自体が意味をなさなくなっていて、ヨーゼフ1世はついに城壁の撤去を決意します。

 壁に沿って続く広い空き地は戦略的に重要なものでしたが、それも整備して全体を道路とします。期せずして巨大な環状道路ができたわけです。これをリング通り(リング・シュトラーゼ)と言います。

 そのリング通り両側に、ゴシック様式を模した市庁舎や新古典様式の帝国議会、美術館、博物館、教会などが次々と造られます。巨大な兵舎や国防省、警察の中枢――空前の建設ラッシュが始まり、装飾画家のクリムトが縦横無尽に仕事する場がこうして用意されるのです。

(この稿、続く)


にほんブログ村
人気ブログランキング
2

2019/5/15

「東京都美術館のクリムト」〜二つのクリムト展を観てきた 1  芸術


 東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本 1900」を観てきた
 どんな場合も本物を観ることは重要なことだ
 分からなかったものが 鮮やかに理解できることがある
 都美術館では「ベートーヴェン・フリーズ」が圧倒的だった
 壁のあの高さ あの大きさの「ベートーヴェン・フリーズ」は
 展覧会でないと観ることができないからだ
 しかしやや食い足りない面もあった

というお話。
クリックすると元のサイズで表示します
(グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」《正面》)

【東京都美術館の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」】

 グスタフ・クリムトに関する二つの展覧会を、二週連続で二つとも観てきました。

 東京都美術館の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」と国立新美術館の「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」です。

 東京都美術館の方はだいぶ前から知っていて前売り券も用意していたのですが、新美術館の方はタイトルの前半にしか覚えがなく、今回東京都美術館に行くにあたって休館日や開館時刻を調べているうちに突然気がついたのです。

 もしかしたらタイトルの「クリムト、シーレ」の部分は私の調べた時期にはなかったのかもしれませんが、そうではなく、最初からあったものとすれば「150周年記念ウィーン・モダン」と読んだだけで後半を意識から飛ばしてしまったのかもしれません。もともと私は「○○美術館展」とか「○○時代アート展」とかいったものを好まないからです。

 私が好きなのは個人の総合展のようなもので、作家がどういう変遷を成長をたどってきたかを見ることのできるもので――というか、そういう鑑賞の仕方をして初めて「ああ、だからこの芸術家の表現はこうなるのだ」と分かるような気がしているからです。
 美術館や時代で括った展覧会だと個々の作家の作品は数点に留まることが多く、慧眼の鑑賞者ならともかく、私のようなポンコツには理解できません。

クリックすると元のサイズで表示します  東京都美術館の「クリムト展」はその意味で納得できるもので、グスタフ・クリムトの成長と変化の跡はしっかりと見て取ることができました。

 修行時代の自然主義的な作品から装飾画家として独り立ちを果たした時期、初めて金箔を用いた代表作「ユデットI」やいかにもクリムトらしい「女の三世代」「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」など、よく知られた作品が多く並びます。
 中でも「ベートーヴェン・フリーズ」は複製とはいえ、本物が展示されているウィーンの「分離派会館」の室内を模した「コ」の字型の壁に掲げられて圧倒的な存在感をみせていました。
 フリーズと言うのはギリシャ建築などで屋根のひさし下の帯状装飾のことを言うようで、クリムトはそれにベートーヴェンの「第九」とリヒャルト・ワーグナーの第九解釈を表現したといわれています。

 最後の展示室には多くの風景画が掲げられています。
クリムトは風景画にも独特の味わいがあって私は好きなので、その点で今回の展覧会は満足のいくものでした。

 しかしクリムトをクリムトたらしめている女性の肖像が、比率としてはずいぶん少なく、そちらの点では物足りないような気もします。
 名作「接吻」を持って来いとは言いませんが、もう数点、クリムトらしい女性の肖像画があったらさらに良い展覧会になったのにと惜しむ気持ちもありました。

クリックすると元のサイズで表示します
 新美術館の方には「エミーリエ・フレーゲの肖像」が来ています。

 さほど興味のなかった国立新美術館の美術展ですが、クリムトの来日は30年ぶりとか。次の機会に私は生きていそうにありません。そこでエミーリエ・フレーゲに会いに行くだけでも価値はある、そう考えなおして翌週(つまり今週)の月曜日、ひとりで出かけてみたのです。
 他に用事もありましたし。

 ところがやはり新美術館の企画展は凄い。私はすっかり堪能して帰ってきたのです。

                          (この稿、続く)



クリックすると元のサイズで表示します

本文挿入(上から)「ユデットI」「エミーリエ・フレーゲの肖像」「女の三世代」



にほんブログ村
人気ブログランキング
2



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ