2021/12/16

「ドラマはプロデューサー・脚本家・演出家で選ぶ」〜ドラマの正しい選び方  芸術・音楽


 二日に渡ってテレビドラマの悪口を言ってきたが、もちろん秀作もある。
 マンガを原作としたものはほぼ間違いない。
 「一に脚本、二に役者、三に演出」ともいう。
 しかしプロデューサーも含めたヒット・スタッフ・セットというのもあるのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【NHKの底力、民放の底力】
 マンガを原作としているテレビドラマには、いちおう挨拶をしておくことにしています。実写にして魅力の薄れるものも少なくないみたいですが、そもそも原作の方を読まないので私には分かりません。ただ、すでにマンガで定評を得たものを実写にするわけですから、一定以上の作品には仕上がっているはずです。今年で言えば夏のドラマ『ハコヅメ〜たたかう!交番女子〜』が面白い作品でした。
 ところがこの『ハコヅメ〜』、第4話が放送されたところで主演の永野芽郁さんが新型コロナに感染。2週間に渡って特別編を放送することになったのです。第3話放送時点ではまだ感染は明らかになっていなかったのですから、実際には放送できるストックが1週間分しかなかったわけです。
 これと対照的なのがNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』で、これは2020年4月1日に撮影中止が発表されてから6月第一週(7日)まで、何と2ヵ月1週(全11回)分ものストックがあったのです。NHKの巨大な予算と時間を物語るものですが、逆に言えば、民放には低予算で次々と作品を出す底力があるという見方もできそうです。
 ちなみに「ハコヅメ〜」主人公の勤務する町山交番の、外観は生田スタジオ敷地のオープンセット、内部はスタジオ内。町山警察署の外観は東村山市役所を借りたと言います。俳優のギャラにはそれほど差はつけられそうにありませんから、民放もそれなりに頑張っているということでしょう。


【プロデューサーや脚本家・演出家で作品を選ぶ】
 それが一般的かどうか分からないのですが、私の家のビデオレコーダーは予約しなくても新しいドラマを次々と録画してしまう機能がついています。したがって何の予備知識もないのに第一回を見落とさずに済む、ということが可能になります。この秋、おかげで出会うことができたのがTBS『この初恋はフィクションです』です。深夜0時過ぎの放送ですので、VTRの機能がなければ見ることのなかった番組です。

 「TBSスター育成プロジェクト」というオーデション番組で選抜された若者が中心の学園ものラブコメディで、知っている役者さんはほとんど出て来ません。直前まで素人同然だった俳優ばかりで、時々ぎこちない演技もあったりしますがそれも初々しく、妻などは、
「ババア(自分のこと)がキュンキュンしてしまう」
などといってBGD(バックグランド・ドラマ)ではなく、テレビの前で正座してみています。
 私は、なにも最初からこうした若者向け番組を見ようと思ったわけではありません。ただ番組紹介に「秋元康 原案・企画」という一行があり、しばらく前のテレビ東京『共演NG』がやはり「秋元康 原案・企画」が面白かったので見る気になったのです。

 そんなふうに、タイトルや出演者によって見るのではなく、プロデューサーや脚本家・演出家が誰かによって作品を選ぶことは少なくありません。「一に脚本、二に役者、三に演出」と言いますから正しい見方でしょう。
 私が好きな脚本家は(倉本聰・山田太一といった大御所を除けば)宮藤官九郎・北川悦吏子・野木亜紀子・中園ミホ・奥寺佐渡子・金子茂樹といったところです。


【ヒット・スタッフ・セットによる、この秋一番の『最愛』】
 この秋、そうしたスタッフの観点から選んだのが、吉高由里子主演のTBSドラマ『最愛』でした。
 プロデュースが新井順子、脚本が奥寺佐渡子・清水友佳子、演出は塚原あゆ子、音楽が横山克という組み合わせは、かつて『Nのために』『リバース』を仕上げたチームで、このメンバーから脚本家を野木亜紀子に代えたのが『アンナチュラル』のメンバー。いずれの作品も音楽に特徴があり、作品のどこにも破綻のない良質の推理ドラマでした。

 明日最終回となる『最愛』にしても、よく見直すと実に細部が丁寧。例えば番組後半で問題となる所有者限定のペンは、第一回でも第二回でもさりげなく映像に残されていますし、あとで回収されるべき伏線らしきものがあちこちに散りばめられています。主人公の父親が殺人現場に出くわした時、陰で動いている人影のようなものは何なのでしょう?
 私はこうした丁寧で誠実な仕事が大好きです。



(以下、私と娘のシーナがLINEで交わした『最愛』の推理物語。ハズレたら削除します)
         ↓
 推理を外しましたので、予定通り削除しました。

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2021/12/14

「重いテーマを淡々と、あるいは軽々しく」〜ドラマの中で浪費される人々の苦悩@  芸術・音楽


 テレビ・ドラマは社会の重いテーマをどのように扱うことができるか。
 同じ清原伽耶を主人公とする「透明なゆりかご」と「おかえりモネ」
 脚本家も同じ安達奈緒子なのだが、
 描かれ方はまったく違う。

という話。
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(写真:フォトAC)

【「透明なゆりかご」〜重苦しいことを淡々と】

 昨日の話の中で、清原果耶という優れた女優さんについて少し触れました。私が字幕付きで見て感心したのは、NHK朝の連続ドラマ「おかえりモネ」でのことです。
 ただしこの人に注目したのはこれが初めてではなく、2年前のNHKドラマ「透明なゆりかご」で主演をしたときのことです。発達障害のある見習い看護師の役で、不器用で誠実で、いつも薄く不安を抱えているような揺れる心をうまく表現していました。当時まだ17歳でした。

 ドラマの原作は、漫画家の沖田✕華(おきた ばっか)さんの「透明なゆりかご 産婦人科医院 看護師見習い日記」。作者の実体験に基づいた物語で、主人公が小さな産院で働きながら、生まれてくる命の重さや大切さに気づいていくという内容です。

 私は沖田さんの作品はひとつも読んでいないのですが、発達障害を扱ったテレビ番組にたびたび出演していて、自身の主観に世界がどういうふうに映るか、どういった点にこだわりがあり、どのようにして社会と折り合いをつけているのか――そういったことをとても分かりやすく説明できる人で、聞いていてとても勉強になります。いわばマンガ界の草間彌生やムンクみたいな人なのです。

 その沖田✕華さんの原作を清原伽耶さんという将来を約束された女優さんが演じ、さらに脇をマイコ、水川あさみ、原田美枝子、安藤玉恵、平岩紙、モトーラ世理奈 、角替和枝、イッセー尾形といった一癖も二癖もありそうな俳優さんたちで固めるわけですから、面白くないわけがありません。

 脚本は安達奈緒子という人でした。この人が再び清原伽耶を主人公に据え、オリジナルに書いたのが「おかえりモネ」という構図になります。NHKの朝の連ドラですからほかの出演者も豪華キャストになるのは明らかです。当然、大きく期待して、VTRながら夫婦で毎日見始めたのです。ところがそれはとんでもない期待外れ、途中からは腹が立ってまじめに見ることもやめてしまいました(妻が見続けたので、私も最後までお付き合いはしたのですが)。


【「おかえりモネ」〜重いテーマを軽々と】
 何がいけなかったかというと、物語の中にちりばめられたエピソードが多すぎるのです。
 宮城県気仙沼市の亀島(架空の島)に生まれ育ったモネは、高校を卒業すると登米市山中の森林組合に就職し、そこで気象予報士になる決心をして受験。3回目で合格すると東京のテレビ局に就職。数年勤めたあとで気仙沼に戻ってコミュニティFMの天気予報担当になります。
 もともと東日本大震災に心の傷をもつモネは、高校を出てから森林問題・海洋資源問題、後継者問題、あるいは地域医療の問題等に深く悩み、東京に出てからは各地で頻発する災害に心を痛め、妻を亡くした友人の父親の問題にも触れ、両親の過去の恋愛話あり、本人の恋愛ありと全く盛りだくさんです。

 確かに5カ月間(120回)に及ぶ長丁場ですから、場所を変え、手替え品替えあれこれやらなくてはならないのも分かりますが、その扱いが悪い。
 例えばのちの婚約者の、「死期の近い患者に寄り添えない医師の悩み」というのはそれだけで1本の長編映画ができそうな重い内容なのに、深く悩んで軽く扱われる。車いすのアスリートを気象の側面から支えるというテーマは、これも十分に重いが2週間足らずで克服。シェアハウスの住人には長期のひきこもりもいるというのに、姿の見えないまま思わせぶりだけ残して消える。
 さらに東日本の大震災の避難の際中、担任するクラスの児童を置き去りにして自宅の様子を見に行こうとしてしまった女性教師だの、津波避難に応じない祖母を見捨てて逃げた孫娘だの、どう言葉をかけたらよいのか分からないほど重苦しい問題も、何の解決もなく数日で終了。何もかもあっけなく通り過ぎて行きます。

「それが人生だ、人の苦しみなど他人にとっては単なる人生の一挿話に過ぎない」と言い切る覚悟があってのことならいいのです。
「おかえりモネ」に続く「カム・カム・エブリバディ」では太平洋戦争の末期に主人公の周辺の人々が、これでもか、これでもかというほど死んでいきますが、「それが戦争の実相だ」という明らかな主張があり、あっけない死はそれ自体に意味があります。ところがモネの場合、すべてが軽やかで何もなかったように過ぎていくのです。
 清原伽耶を始めとする一流の俳優たちの熱演がありながら、これではあまりにもお粗末です。

(この稿、続く)
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2021/5/19

「My favorite song is “My Favorite Things”」〜私の好きな曲は「私のお気に入り」  芸術・音楽


 ふとしたことから、むかし好きだったジャズの名曲を思い出した。
 ジョン・コルトレーンの“My Favorite Things”だ。
 それとともにいくつかの別の“My Favorite Things”にも出会った。
 今日はその総ざらい――
という話。

(ジョン・コルトレーン“My Favorite Things”)

【ジョン・コルトレーン“My Favorite Things”】

 昨日は絵画の話でしたが今日は音楽です。というのはつい最近、古くからの友人がSNS上にジョン・コルトレーンの“My Favorite Things”について触れていたからです。
 彼とこの曲について話した記憶はないのですが、1960年に発売されたアルバムに収められていたこの曲は、息の長い人気を誇り、私たちが大学生だった1970年代でも、あちこちで繰り返し出会うことができたのです。彼と一緒ではないにしろ、同時代を生きた者として、どこかで親しんでいたのでしょう。

 私は特別なジャズファンでもありませんし知っている曲もわずかです。しかしジャズには屈折した思いがあって、それは、
「ジャズは知的で高級な人間だけが理解でき耽溺するものであって、しかし自分には分からない」
というものでした。私の劣等感を強く刺激するもので、憧れと卑屈を交互に押し付けてくるのがジャズです。
 そんな私にとって、コルトレーンの“My Favorite Things”はようやく差し出された希望の綱でした。これによってわずかに高級な世界と繋がれたからです。
 演奏者は偉大なコルトレーン、けれど原曲は映画「サウンド・オブ・ミュージック」の「私のお気に入り」ですから分からないわけがない。そしてコルトレーンの“My Favorite 〜”のおかげで、逆にミュージカル映画の「私のお気に入り」も見直したのです。

(私のお気に入り 《My Favorite Things》 - サウンド・オブ・ミュージック 《日本語字幕》 Youtubeで視聴します)


【もうひとつの“My Favorite 〜”】

 しばらくして、私はもうひとつの素晴らしい“My Favorite 〜”に出会います。ダイアナ・ロス&シュープリームスです。
 どこで出会ったかというと、覚えていないのですがおそらくラジオで、それも聞いたのは一回だけ。今とは違って曲名と歌手も分かっているからまたすぐに聞くことができるという時代ではありませんでした。 
 レコードはとても高価でおいそれとは購入できませんでしたし、ラジオにリクエストしてもかかる可能性は極めて低かったからです。
 やがて私はダイアナ・ロス&シュープリームスの“My Favorite 〜”を忘れ、再び会うこともありませんでした。つい最近までは――。
 それが数十年ぶりに出会うことになったのは、アリアナ・グランデのおかげです。

【アリアナの仲介】
 私は家の中にいる間はたいてい、Amazon Primeで何かしらの音楽をかけています。いろんな曲を聴きますが昨年の前半にハマっていたのは、アメリカのリズム&ブルースで、中でも気に入ったのはアリアナ・グランデ。今でも毎日、どこかで彼女の声を聴くようにしています。そのきっかけとなったのが一昨年のヒット曲「7rings(セブン・リングス)」でした。

 聞けばすぐに分かる通り、これは“My Favorite 〜”をアレンジしたものなのです。

(Ariana Grande - 7 rings (Live From The Billboard Music Awards / 2019))

 原曲とまるで違う歌詞もなかなか良くて、大金持ちのクソ生意気な女の子が「欲しいものは何でも手に入れる」「あれもこれもみんな手に入れた」と歌えば歌うほど空しい気持ちになっていく感じがいいのです。

 そして“7rings”を聞くうちに数十年前のダイアナ・ロスを思い出し、Youtubeで調べるとさすが現代です、すぐに見つかって聞くことができました。

(The Supremes - My Favorite Things (Video) Motown Records 1966)


【その他の“My Favorite 〜”】
“My Favorite 〜”はもしかしたら世界で最もカバーされた曲なのかもしれません。コルトレーンと並んで有名なのはビル・エバンスの“My Favorite 〜”()。レディー・ガガが歌っている“My Favorite 〜”などといったものもあります。中でも私の好きなのはペンタトニックスとゴンチチです。
 よかったら聞いてみてください。

([OFFICIAL VIDEO] My Favorite Things - Pentatonix)


(GONTITI My Favorite Things)



(Bill Evans - My Favorite Things /Easy to Love /Baubles, Bangles, & Beads)


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2021/5/18

「マネ以前の裸の女性は皆、女神」〜人生にもっと勉強しておくことがたくさんあった  芸術・音楽


 長く美術館巡りをしてきて、さまざまに調べてきたこともあったのに、
 たったひとつの知識がなかったばかり、行き届いていないことがあった。
 今からでも遅くはないが、
 人生に、もっと勉強しておくべきことがたくさんあった。

という話。
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(エドゥアール・マネ「草上の昼食」1862年〜1863年)

【私の絵画鑑賞】
 新型コロナ禍のためにもう一年以上も行っていませんが、ここ10年余りは毎年東京の美術館に行って大型の美術展を観るようにしてきました。
 基本的にジャンルは問いませんが、日本人は印象派が好きですから自然と印象派展を観る機会が多くなっています。美術館に通い始めるきっかけが1982年のモネ展(国立西洋美術館)でしたから,、私自身も嫌いなわけではありません。

 絵画の中には描かれた中身に知識がないと分からないものもあって、例えばボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」に描かれた6人の男女にはきちんとした名前があり、それぞれの仕草や表情には特別な意味があります。もちろん知らなくても鑑賞はできますし、真に鑑賞力のある人にはむしろ邪魔なものかもしれませんが、金銭に意地汚く、入場料の元だけは取ろうといった卑しい性根の人間(例えば私)にとっては、知識はなくてはならないものです。
 またそれとは別にパッと見で良さがさっぱりわからない絵(私にとっては例えば「モナ・リザ」)についても、やはり情報がないと何の感動も感慨もなく帰ってくることになりかねません。クリックすると元のサイズで表示します
(ボッティチェリ「春《プリメーラ》」1477年〜1478年頃)

 そこでたいていの場合、500円ほどの追加料金を払って解説の音声ガイドを借り、ヘッドフォンを頭に乗せながらの鑑賞ということになるのですが、印象派の場合は知識がないと決定的に困るということはありません。ただ鑑賞すればいい、説明されなければだめなようでは印象派ではない、といった感じがあります。

 ところが稀に、何が描かれているのか知る必要があり、解説を聞いてもさっぱりわからないことがあります。聞かなければむしろサラッと通り過ぎることができたのに、中途半端な説明を聞いたばかりに身動きが取れなくなる絵――その代表的なのが冒頭に掲げたマネの「草上の昼食」です。


【何を今さら不道徳】
 とりあえずピクニックの最中に、三人の男女のうちの女性だけが裸になっている――という絵柄が理解できません。しかも昼食時です。少し後ろにいる女性も半裸なのですが、手前の男性二人がそこそこの厚着で、真夏というわけでもなさそうなのになぜ裸なのか? 
 そのうえ解説で、
「1863年のサロン(官展)に出品したが、『現実の裸体の女性』を描いたことが『不道徳』とされ落選。その後、同サロンに落選した作品を集めた落選展にも展示されたが、同様の理由で批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした」
と聞かされると頭の中が「?マーク」で埋まってしまいます。今さら何の不道徳でしょう?

 西洋絵画に見られる裸の女性なんて小学校高学年のころ、図書館の美術全集で胸をときめかせて以来、ずっと見続けてきたものです。今さら不道徳と言われても、ずっとそんな不道徳な気持ちのまま鑑賞してきた私には、さっぱり理解できないのです。

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 確かにボッティチェリの「春(プリメーラ)」も「ビーナスの誕生」も描かれている女性は全員女神で「現実の裸体の女性」ではありませんが、モネが「草上の昼食」で下敷きにしたというティツィアーノ(ジョルジョーネ)の『田園の合奏』(右)だって、着衣の男性の傍らに二人の裸の女性がいる。
 同じくマネの代表作「オランピア」は、これも下敷きにしたティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』と何が違うのか――。


【マネはサロン(官展)に裸を投げつけた】
 ところが最近知ったのですが、Wikipedeiaでティツィアーノの『田園の合奏』を調べると、
 2人の女性は、男性たちの幻想と霊感から具現化した理想美の化身である。おそらく、ガラスの水差しを手にした女性は悲劇的な詩歌の女神であり、フルートを手にした女性はのどかな田園を詠った詩歌の女神である。
とあるのです。
 さらに先ほどの「ウルビーノのヴィーナス」と「オランピア」ですが、「ウルビーノ〜」が女神なのは当然として、それにそっくりの「オランピア」が「現実の女性」かと言えば、サンダルを履いて首にリボンを巻くという姿が女神にありまじきものであるばかりでなく、そもそも「オランピア」という題名自体が当時のパリにおける娼婦の通称だったというのですから間違いなく「現実の女性」です。
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(左:「ウルビーノのビーナス」、右「オランピア」)

 最初に戻って「草上の昼食」では、左手前のバスケットの横に脱いだ服が置かれていることから、女性が女神ではないとされます。

 なるほど、マネは暗示的ではなく、あからさまに当時のサロン(官展)に反抗し、作品を投げつけていたわけです。


【人生にもっと勉強しておくことがたくさんあった】
 マネ以降、現代に至るまで、人間の裸は美術の重要なテーマです。描かれるのは女神ばかりではありません。しかしそうなるとマネ以前の絵画に現れる裸の女性はみんな女神か、ということになりますが、それで唐突に思い出したのが「民衆を導く自由の女神」です。
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(ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」1830年)

 フランス七月革命の民衆を描いたドラクロワの傑作ですが、私はずっと昔から、なぜこの女性が胸をはだけているのかわからなかったのです。騒乱の中で肩ひもが落ちてしまったということもないわけではなさそうですが、絵画なのだからムリに出すこともないだろうに、と思ったのです。しかし今、分かりました。

 これは象徴的に「自由の女神」と呼ばれる実在の(あるいは実在のように描かれた)女性ではなく、本物の女神なのですね。「民衆を導く自由の女神」は目に見えない本物の女神、「現実の裸の女性」ではないから裸を描いてもマネのようには問題にならなかったのです。逆に言えば裸で描くことで、女神だと示したわけです

 そんなことを今ごろ知っても意味がないとは言いませんが、20年、いや10年前でもいい、そのころから知っていればもっと違った目で見られる絵もたくさんあったはず。
 なかなか残念な人生です。

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