2021/7/21

「アスリート・ファーストの『ア』の字もない」〜それでも私はオリンピックを応援したい  政治・社会・文化


 とにもかくにもオリンピックは始まる。
 今日まで何も言わず、ひたすら耐えてきたアスリートたちが、
 静かに表舞台へ出てくる。
 私は彼らを心から応援したい。

という話。
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(写真:フォトAC) 

 開会式まであと二日しかないというのに、東京オリンピック、まるで盛り上がりが感じられません。もっとも23年前の長野オリンピックのときもまったく盛り上がらず、スピードスケートの清水宏保が男子500mで金メダルを取ったとたん、一気に雰囲気が変わりましたからそんなものかもしれませんが。

 ただし、これほど「やめろ」「今すぐ中止せよ」といった声の中で開かれるオリンピックもそうはないと思います。私にはそれが切ないのです。


【選ばれし人々の背負ってきたもの】
 世の中には異常に足の速い人や泳ぎの得意な人、身体機能に優れた人が大勢います。
 つい先日の「チコちゃんに叱られる」では、運動神経は天賦のものではなく、だれでも訓練によって高めることができると言っていましたが、100mを16秒かかる人間が15秒に縮めることはできても、9秒台で走れるようには絶対にならないでしょう。
 可能性ゼロとは言いませんが、私の2歳になったばかりの孫のイーツを、誰かに預けたら確実にオリンピックのメダリストにしてくれるとか、東大に入れてくれるとかいったこともなさそうです。

 昔の人の話ばかりで恐縮ですが、水泳の岩崎恭子は小学校4年生の時の全校マラソンで5・6年生を抑えて一着になっていますし、ミカン農家の息子のゴン中山こと中山雅史は父親が忘れ物をするたびに、ミカン山と自宅とを何往復でもできたと言われています。
 栴檀は双葉より芳しいのです。超一流のアスリートたちはとりあえずアスリートとして生まれることが大事で、凡才から育てられるものではありません。

 しかしだからと言って、彼らが幸せかというと別問題です。才能のある人の前にあるのは、永遠の希望と競争と挫折と迷いだからです。

 子どものころはクラスで一番足が速かったりサッカーがうまかったりして意気揚々としていたかもしれませんが、すぐに次の段階の力を試されます。
 中学校の部活で早々に諦めさせられた人はむしろ幸せなのかもしれません。高校の有力校から誘われてそちらに行った人は全国の強豪と競わされえることになり、そこで敗れて諦めざるを得なくなった人の中には、見方によれば“勉学に励めばよかった3年間を、ただ運動に明け暮れてしまった”という場合もあるはずです。
 高校から大学、大学からプロ、あるいは実業団、その間も希望に引きずられ、競わされ、挫折や失望を繰り返してやがて振り落とされていく。最後に残るのは真に天才的なごく一部だけです。

 そうした希望や不安に耐え、それでも競技を続け、自分を投げ込み続けてきた彼らには、ほんとうに頭が下がります。投入された時間とエネルギーと資金、無限の努力、ご家族の支援は、途方もないものだったはずです。


【誰も選手を祝福しない、アスリート・ファーストの『ア』の字もない】
 考えてみるとこの一年間の、アスリートたちの辛苦は想像して余りあるものがあります。
 1年延期になったことでピークを維持できなかった選手がいます。昨年だったら予選通過できたのに今年になったのでできなかった誰かです。
 逆に延びたことで救われた選手もいました。池江璃花子選手も救われた一人で、リレーでの出場に道を開きました。しかしそのことで、昨年だったら出場できたはずの誰かが押し出されたことになります。もちろんそれも織り込まなくてはならないアスリートの運です。

 めでたく出場を果たした人たちは運の強い人たちですが、無限の喜びをもってオリンピックに参加するわけではありません。池江選手のSNSに辞退を促す書き込みがあったように、オリンピックが中止または再延期になればいいと考えている人は、朝日新聞によると国民の83%にも上るのです(2021年6月3日)。

 つい先日も迎賓館前に集まった群衆が、「オリンピックより国民の命!」とか叫んで気勢を上げていました。もちろんこの人たちがみんな、アスリートたちの夢がついえればいいと思っているわけではありませんし、選手たちを国民の敵のように見なしているわけでもありません。
 しかし新型コロナ禍さえなければ国民の期待を一身に背負って会場に向かい、何の憂いもなく戦えたはずの人たちが、今回は誰ひとり脚光を浴びることなく、静かに競技場に向かっていくのです。選手の一部には、国民からまったく支持されないオリンピックに参加するという後ろめたさを感じている人も少なからずいるに違いありません。


【アスリートが生み出す最高の感染症対策】
 実際のところ、この一年間はアスリートの気持ちなど誰一人考えていなかったのです。つい数年前は「アスリート・ファースト」という言葉が盛んに使われていたのに、アスリート」の「ア」の字もありませんでした。

 4年、5年、あるいは子どもの頃から数えると十数年もの間、身を焼き尽くすほどに焦がれ努力してきたオリンピックに、なにがなんでも参加したい――そういった選手の気持ちは痛いほど理解できますから、敢えて見ないようにしてきたというのが本当のところでしょう。選手の方も、何か言って叩かれても辛いだけなので黙っていました。
 しかしほんとうは、「誰のためのオリンピックか」と問われて「アスリートのためのオリンピックだ」と答える人がいても良かったのです。

 こうして誰も何も言わずに来ましたが、私は夢をかなえてあげたい。応援したい。
 オリンピック委員会は感染対策をしっかりすると言っていますし、毎日、関係者の感染が発見されると言っても、連日千数百人の感染者の見つかる東京でのことです。守るべきはむしろ大会関係者といった様相すら呈しています。いまさら外国人からの感染流入も恐れるに足りません。

 マスメディが今もオリンピックに反対して選手たちを支えないなら、私たちが支えましょう。毎日テレビをしっかりと見て、家の中で大声で応援すればいいだけのことです(当方、ワクチン接種済みの夫婦一組のみ)。

 選手も雑念を忘れて競技に集中し、存分に活躍してほしいものです。
 国民が静かに熱中し、会社員が飲み屋に立ち寄ることなく、テレビ観戦のために必死に帰宅するとしたら、それこそアスリートが直接的に引き出す強力な感染対策です。

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2021/7/9

「残念だ、残念だ、残念だ!」〜東京都4回目の非常事態宣言、そしてオリンピック無観客実施  政治・社会・文化


 パンデミック下における初めてのオリンピック、パラリンピック。
 日本だからできる、日本だからできたと世界に示す絶好の機会だったのに、
 東京の第4回目の非常事態宣言とオリンピックの無観客決定。
 残念だ、残念だ、残念だ――

という話。
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(写真:フォトAC)

【だんだん気持ちが萎えてきた】
 東京都が4回目の緊急事態宣言だそうで、オリンピックも1都3県(神奈川・埼玉・千葉)の競技会場は無観客になるそうです(他にどこがあるんだっけ?)。ほんとうにがっかりです。
 別にオリンピックファンでもありませんし、大いに盛り上げたいと思っていたわけでもありませんが、2020夏季オリンピックに立候補した6都市、アゼルバイジャンのバクー、カタールのドーハ、トルコのイスタンブール、スペインのマドリード、イタリアのローマ、日本の東京――この中で、コロナ禍にもかかわらず開催できるとしたら日本だけだと思っていたので、少しでもいい状況でと願っていたのですが残念です。

 ほとんどのマスコミはここ数カ月のあいだ「反オリンピック」の論陣を張っていましたから、いざ始まっても取材に行く社は少なく、NHKと外国のメディアをのみを通じて結果やようすを知ることになるでしょう――何とも寂しいことです(と、八つ当たり)。


【結局、ムリだった】
 当初の予定ではワクチン接種は2月に始まると聞いていましたから、いくら何でも5カ月もあれば希望者の大部分に接種が終わり、7月には無事開幕、と考えていたのですが、どういう事情か遅れに遅れ、7月いっぱいで何とか高齢者に打ち終えるのがやっとということになってしまいました。

 しかしそれでも日本国民が頑張って感染を広げないようにすれば、外国の観客は来られなくても、日本人の観衆でスタジアムを半分程度は埋め、それなりに盛り上げて・・・と思った時期もあるのですが、4月から5月にかけて爆発的な感染拡大をしてしまった近畿・中京・北海道・福岡県あたりは急速に感染を減らしたのに対して、肝心の首都圏はあまりにも頑張りが足りなかった、というか4月5月に頑張りすぎて他の道府県ほど感染を拡大させなかった分、いまごろになって燃え差しに火がついたのかもしれません。

 しかしその予兆はあったのです、というかあまりにもあからさまでした。繁華街の人出が急速に増えつつあったからです。ダメだよ、ダメだよと言えば言うほどいけない方向に進んでしまうのは、小中学校の一部の子にありがちなことです。
 しかし1万人にひとりかもしれない小学生のような「酒がどうにも我慢ができない人」が、首都圏には3400人〜3800人余りもいるのです、この人たちが夜な夜な繁華街に出てどんちゃん騒ぎをし、家庭や職場に戻って感染を広げるわけですから止まらないわけです(原因を酒飲みに限定しているのも八つ当たりです)。

 私は普段は飲まない人間なので、飲まずに済ませることのできない人たちには本気で苛つきますが、それでも笑って許して差し上げましょう。そういう子どもはたくさん見て来たし、ほかの面では私自身にも「わかっちゃいるけどやめられない」(スーダラ節)ことはたくさんあるのですから。


【それでも日本はよくやっている】
 しかし悪いことにばかりに目を向けるのはやめましょう。この1年半余り、私たちはよく戦ってきたのです。
 ここまでの人口10万人あたりの感染者数はおよそ643人。他の先進国と比べると合衆国の6・2%、ドイツの14%、イギリスの8・5%、フランスの7・0%にしかなりません。
 死者は10万人あたり11・8人。同じ計算で合衆国の6・3%、ドイツの10・7%、イギリスの6・1%、フランスの6・9%です。

 もちろんお隣の韓国や台湾、少し南下してシンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどは日本よりずっと成績が良いですし、始まりの中国は10万人あたりの感染者数で日本の1割、死者は2・8%しかありません。実数でも死者は昨年4月18日以来、1年3か月で4人増えただけです(ホントかな?)。
 意外なことに、南アフリカ共和国と地中海沿岸の国々を除くアフリカ諸国には、日本が足もとにも及ばないほど成績の良い国がいくつもあるのです(エボラ出血熱のような最悪の感染症に何度も襲われているため、むしろ感染症対策が徹底されているからと言われています)。

 しかしそれぞれにはそれぞれのやり方や「運」があるのです。日本は一都市まるまる見殺しにするような厳しいロックダウンも、普通の意味でのロックダウンもせずにここまで来ました。感染者の通った経路を監視カメラやクレジット・カードの使用履歴、特殊なアプリによって追跡することもなく、マスクの義務化・罰金制度などは噂にもなりませんでした。
 ファクターXなど結局なかったのです。みんな日本人の民族性と自覚によって勝ち取ってきました。

 日本の感染状況は、オリンピックの観客席にひとりも入れられないほど酷いと報道されていますが、エンゼル・スタジアムで大谷翔平選手の32号のホームランを目撃した、マスクも付けないアメリカ人の観衆は、昨日も単位人口当たりの感染者数で日本の3・4倍、死者数が5・1倍もの国に住んでいるのです。サッカーの欧州選手権で大騒ぎのイギリスは、既に感染の危機を脱したかのように言われていますが、一昨日の統計で日本の15倍の感染者と2・4倍の死者を出しています。


【誰も誉めてくれないなら自分たちで讃え合おう】
 マスメディアは「政府の対策は行き当たりばったりだ」とか「後手後手だ」とか非難ばかりしていますが、早めに決めて頑固に変えなければ、それでいいというわけにもいかないでしょう。
 政府もそれなりにがんばったと私は思っています。官僚は不眠不休で未曽有の国難に立ち向かいました。政権もそこそこ頑張りました。自民党政権でなければもっと素晴らしい対策が打てたと思う人が多ければ、次の衆議院選での政権交代は簡単に進むはずです。見てみましょう。

 ただ、その政府も官僚も、国民を誉めないという点ではマスメディアと同じでした。感謝はすれど誉めることはない。だとしたら、誰も誉めてくれない以上、私たちが互いに誉め、讃えるしかありません。
 よく頑張りました、そして頑張っています。夜明けは目の前です。今しばらく、がんばり続けましょう、お互いに。

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2021/6/24

「弱い者は弱いままでいい」〜声は出さなくてはいけないが、声の大きさは現実を反映しないC  政治・社会・文化


 欧米に比べると日本は昔から弱い者に優しく甘い国だった、
 そこに舶来の強力な人権思想が被さる。
 弱者は徹底的に守られ、保護されなければならい、
 そして弱者は弱者のまま、成長の機会を奪われるのだ

という話。
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(写真:フォトAC)

【日本の子育て:子どもは、7歳までは神のもの】
 日本の子どもはとても甘やかされて育ちます。
「七歳までは神のうち」という言葉もあって、7歳まではいつ死んでも不思議のない存在、半ば黄泉の世界に住んでいるような存在と考えられていたのです。ですから寝ている間も神様に持っていかれないように「子ができて川の字なりに寝る夫婦」と夫婦で囲い込んで守り、「泣く子と地頭には勝てぬ」と子のわがままを許したのです。

 最近ではいつまでも添い寝を続けていると自立心が育たないとかいって、早いうちから子ども部屋のベビーサークルに赤ん坊を置いてしまう家庭が増えているようですが、あれはもともと欧米人が夫婦のナイトライフを楽しむために発明した代物で自立心とは何の関係もありません。日本人は何百年も添い寝の文化を続けてきて何の問題もなかったわけですから、いつまでも添い寝を続けて一向にかまわないと私は思っています。
 この国には美しい四季があると言っても、見方を変えれば冬は寒く、夏は日照りも厳しい。春と秋には長雨もあれば台風も来ます。地震も多く場所によっては噴火被害も少なくない土地柄です。子どものうちに十分甘やかしても、厳しさを学ぶ機会はいくらでもありました。


【アメリカの子育て:そのままだと悪魔になってしまう】
 ところが欧米、特にアメリカの子育ては違います。アメリカを建国したピューリタンたちは子どもを放っておくと悪魔になってしまうと考えていたようで、17世紀の牧師ジョン・ロビンソンはこんなふうに言っています。
「すべての子どもは、程度の差はあれ、本能的に傲慢で頑固であり、それを親は押さえつける義務を負っている。・・・それが成功すれば、謙虚さ、御しやすさ、従順さが生まれ、その結果、子どもは有徳なる人格を身につけることが出来るのである」


 そんな調子ですからアメリカでは伝統的に子どもたちは厳しく育てられました。昔の学校を扱った映画を見れば明らかなのですが、教室にはムチが置かれ、悪さをした子どもたちはそれでお尻を叩かれるのが常でした。まさに教師は「教鞭」を取っていたわけで、そうした体罰容認の姿勢は20世紀まで続きました。調査によると1970年代に至っても、ニュージャージーを除くすべての州で体罰が許可されていたのです。

 家庭における暴力は日常茶飯事でしたし、2014年の米国保健省の資料では全米の児童虐待相談件数は年間約360万件、そのうち虐待を受けたと認定された子どもの数は70万人以上、虐待死も年間約1500人で一日平均4人以上の子どもが保護者による虐待で亡くなっているのです。
 ちなみに2011年のアメリカ疾病センターの調査によるとアメリカ人女性の5人に1人が強姦被害に、4人に1人がDV被害に遭い、パートナーによって殺される女性の数は1日平均11人を上回るといいます。
 合衆国はもはや人権という思想で枠を示し、刑罰をもってがんじがらめにしないと子どもや女性の命を守れない国なのです。
 ただし私がいま話題にしたいのはアメリカのひどい現状ではなく、もともと子どもや女性に甘いに我が国に、アメリカの厳しい人権思想が被さるとどうなるのかという問題です。


【弱者が徹底的に守られる世界】
 いわゆる児童買春児童ポルノ禁止法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律)は、児童売買春の買い手のみが処罰されるという、売春を一種の商取引と考えた場合には偏頗な法律です。これは買われる側の児童(18歳未満の者)を被害者とみなすからそうなったので、ある意味では当然とも言えます。

 しかしここから、男が約束の金額を払わなかったと怒った女子児童(18歳未満の者)が交番に駆け込んだといった悲喜劇まで生れると、考え直さなくてはいけません。
 男性は逮捕されましたが、もちろん逮捕理由は詐欺罪ではありません。一方、女の子の方は虞犯少年として説諭くらいは受けたかもしれませんが逮捕はされなかったようです。そうなると児童買春防止法が守ったのは児童ではなく、性交渉のあとで確実に手に入る対価ということになります。

 別の話をしましょう。
 セクシャル・ハラスメントやパワーハラスメントの被害者のことを考えると、やはり加害者は厳しく罰せられなくてはなりません。しかし上司や同僚が委縮して、仕事以外の話はしない、飲み会にも誘わない、間違っても体が触れないようまるで汚物を扱うかのように自分を避けて通っていく――そんな状態が若い社員に幸せなはずもありません。あからさまに仕事から外すことはないにしても、遠慮から言葉がけを毎日ひとつずつ落とすだけでも、1年を通したらとんでもないのけ者扱いです。
 あるいは結婚に関しても、うるさく「早くしろ」と言われるのもかないませんが、誰も言ってくれない、だれも友だちや知人を紹介してくれもしない世界が、いいものだとは限らないはずです。

 学校に話を戻せば、すぐに「イジメられた」と大人社会に通報するような子は誰からも相手にしてもらえません。校則が撤廃されたと喜んでツーブロックにしたり柄物の下着をつけて登校したら他の生徒たちからすっかり不良扱いされて、となったとき、マスコミを動かし、教師を働かせて「外見でひとを判断してはいけない」といった人権教育を拡充してもらうのでしょうか。

 商売が思い通りに行かないとき、自分以外の誰かに責任があって、その人(または組織)が責任を取るべきだと考えるのは自営業者として正しい態度なのでしょうか。


【弱者は弱者のままでいい】
 社会的弱者が悪いと言っているわけではありません。
 世の中を強者と弱者に二分し、弱者の側につくふりをして強者に噛みつき、それで鬱憤を晴らしたり儲けたりしている人たちがいるということです。弱者の側に立つことは一義的には正義ですから居心地がいいし何でも言えます。

 彼らにとって弱者が弱者のままでいることは利益です。したがって弱者が成長することも満足することも望んでいません。「子どもは弱いものだ」「女性は弱いものだ」「小規模経営者は弱いものだ」と極めつけて、徹底的に守ろうとする――。
 もちろんそれで弱者が幸せになればいいのですが、そのために成長の機会を奪われ、社会から疎んじられるとしたら、それこそ本末転倒です。

(この稿、続く)

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2021/6/21

「断頭台と東京の居酒屋」〜声は出さなくてはいけないが、声の大きさは現実を反映しない@  政治・社会・文化


 フランス革命の際、断頭台の王侯貴族は毅然として死に向かった――
 しかしそのことが事態の深刻さを見誤らせることになった。
 21世紀の日本では、必ずしもみんなが黙っているわけではない。
 しかし声の大きさと現実は、必ずしも一致しないのだ。
という話。
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(「マリー・アントワネットの処刑」)

【みんなデュ・バリー夫人のように】
クリックすると元のサイズで表示します シャルル=アンリ・サンソンはフランス革命期の死刑執行人で、ルイ16世やマリー・アントワネット、エベール、ダントン、ラヴォアジエ、ロベスピエール、サン=ジュスト、シャルロット・コルデーといった著名人の処刑のほとんどに関わった人です。
 大変な人格者で人を分け隔てしない平等論者、執行人でありながら死刑廃止論者、そして医師であり、むち打ち刑などで自らが処罰した罪人の治療も、熱心に行ったと言われています。

 そのサンソンに処刑されたひとりに、デュ・バリー夫人と呼ばれる人がいます。若いころはサンソンと恋人同士だった時期もあったと噂される女性で、ルイ15歳の愛人として、またマリー・アントワネットと厳しく対立した女性としても有名です。しかし何といってもその名を残すことになったのは、彼女が処刑の日、自らの断頭台を直視できなかったただひとりの人であり、泣き叫び、群衆や処刑人に命乞いをし、わめきながら処刑された唯一の人だからです。元々が卑しい家の出で、運と美貌と才覚だけで出世してきた人なので、守るべき家名みたいな面倒なことがなかったのです。
 しかしそんな夫人の様子を見て、その日まで王侯貴族の処刑されるのを娯楽のように楽しみ、囃し立てていた群数は、初めて何が行われているのかを知り、夫人の死に行く姿を粛然と見守ったと言います。

 さすがのサンソンもこのときばかりは手が下せず、息子に代わってもらいました。そしてのちに日記にこう記すのです。
「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び、命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」
 ほとんど同様の文を、18世紀最大の女流画家と言われるルブラン夫人も残しています。
「私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」

 デュ・バリー夫人の逸話が伝えるのは「訴えることの大切さ」です。
 人が人を殺すことの恐ろしさ残虐さは、誰にだってわかりそうなものですが、デュ・バリー夫人が叫びだすまで、数万の群衆の誰一人気づかなかったのです。ほとんど毎日のように公開処刑が行われていたにもかかわらず――。

 しかし私がいま書こうとしているのは、それと正反対のこと、言ってみれば、
声の大きさは現実を反映しない
という話です。


【声の大きさは現実を反映しない】
 私はこの一カ月余り、常に薄くイライラし、思考を空回りさせてきました。
 考えていたことはコロナ禍の問題であり、ハラスメント問題であり、ブラック校則の問題であり、いじめ問題、そして教員の働き方改革の問題などです。
 私の中にはそれらをつなぐ何かがあり、その何かに対してずっとイライラしてきたのです。そしてここにきてようやく正体を掴んだ気がするのです。捕まえてみれば大したことではありません。

 例えばコロナ禍について――
 私はつい最近(2021/6/2)、「『ある自営業者の誇り』〜国や都には感謝していると言える人の美しさ。」という記事を書き、そこでコロナ禍でさっぱり客の来ない居酒屋店主が、
「店がつぶれないってのは、ホントに、お国と東京都には感謝しているよ。」
と話す姿を紹介しました。
「千代田区のひとに訊かれて、いや自分はこういうふうで感謝してますって言ったら、逆に都の職員から、飲食店の方からそのように言われたのは初めてなので、ありがとうと言われたよ」

 一方その直前の5月27日には「『言葉が怒りをつくる。その怒りでつながる人たちがいる』〜マスメディアが生み出す”怒り“」の中で、マスコミが、
 緊急事態宣言下の酒類の提供自粛・営業時短を拒否して、深夜までアルコールを提供している居酒屋店主を登場させ、
「客の入りは300%、儲かっています。けれど(ウチはまだいい方で)給付金をもらいながらドアにカギをかけて営業している店だっていくらでもあります」
などと発言させていた局がありました。

という話もしています。

 もちろん後者のことがあったからこそ、国と東京都に感謝する居酒屋店主の美しさが際立って記事にする気になったのですが、だからと言って300%店主が間違っているというつもりもありません。ほんとうにぎりぎりのところまで追いつめられていたのかもしれないからです。
 明日は死ぬしかないというぎりぎりのところまで行って酒類の提供に踏み切った――それなのに自分が許せなくて「客の入りは300%、儲かってます」と悪ぶっているのかもしれません。
 またデュ・バリー夫人の場合のように誰かが大声で叫ばなければ、コロナ禍における飲食業の窮状が私たちや政府に届かなかったかもしれないとも思います。

 しかしそう思う一方で、私の心の中では、
「だけどたくさんの居酒屋が酒を出さない状況に耐えているじゃないか。国や都の要請に従わず、やむなく酒類の提供や深夜営業に踏み切った飲食業者は、ほんとうにギリギリのところまで頑張ったのだろうか」
という疑いが消えないのです。

 私は商売の経験がありませんし、ましてや居酒屋営業の中身など想像だにつきません。ですから軽々に発言してはいけないと思うのですが、声を上げている人々の中にも、もう少し頑張れる人、頑張るべき人はいたように思うのです。
 このことは多くの場合、ハラスメント問題や学校問題についても言えることです。

(この稿、続く)



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