2006/2/13

「教師学入門」  教育・学校・教師


 よんどころない事情があって、11日の土曜日に、教師学入門という民間の講座を受けてきました。朝9時半から5時まで、受講料16,700円というビッグな講座です。
 7時間以上に渡ったその講座を1ページにまとめるのも失礼ですので詳細は書きませんが、ポイントは二つ。
 ひとつは「私メッセージ」もうひとつは「能動的な聞き方」です。

 例えば、授業中一部の児童がオシャベリをしてたとします。こうした時、児童に送るべきメッセージが「私メッセージ」です。
@相手の自尊感情を損ねないように注意しながら問題の事実を明らかにし、
Aそのことが私(教師)に与える影響を具体的に示し、
Bその結果起こる私の側の感情を率直に伝える。
 そのことによって子どもは動かされる、というのです。
 例えば、
「キミが授業中におしゃべりしているので(@)、私の授業がつまらないのかと思って(A)、先生悲しくなっちゃうよ(B)」となります。

 半信半疑でしたがいくつか演習を重ねていくうち気づいたことがあります。それは「私の側の感情を率直に伝える」と言っても「出ていってほしい」とか「いなくなってほしい」とか、あるいは一番率直な「黙っていてほしい」というのもダメで、「悲しいよ」「寂しいよ」「心配でたまらないよ」というのしか許されていないのです。考えてみれば、「感情」を語るのですから「黙ってほしい」(願望)は、最初から少し違っているのです。

「まてよ。しかし、オレは児童がおしゃべりしていてもちっとも悲しくなんかないダロ」・・・そう考え始めてフト思ったのは、もしかしたら大村はまさんなら悲しいのかもしれない、ということです。あのくらい子どもが好きで子どもを愛し、子どもの成長を願った人なら、その子のために、その子の成長が損なわれていることを悲しむに違いない、というこです。そう考えると似たような例は、身近にもいくつでも思いつきます。

 熱心な教師な「テメ〜! ふざけンな! そんなことやって許されると思ってんのか!」とか叫びながらも、あるいは一昔の前の教員がボコボコに生徒を殴りながらも、その目で送っていたメッセージは、「オレはお前がこんなになってしまって本当に切ない」「悲しい」というものだったに違いありません。子どもが動かされるのは、そうした「先生が、オレのために、個人としてオレの非行を悲しんでくれる」そういった思いです。

 もちろんそういう教員は子どもを誉める時にも「お前すばらしいよ」と言いながら、その目で「(お前の成長を見るのが嬉しいよ)」「(本当にお前の成長を見るのは楽しいよ)」という私的メッセージを送っていたはずです。

 教師学の面白くも胡散臭いところは、そうした極めて愛情深い教師が、目や表情や全身を使って自然に行うことを、何の愛情もない普通の教員でもできるようにしたところです。アメリカ生まれの教授法というものには、必ずそういったプラグマティズム(実用主義・道具主義)の胡散臭さが付きまといます。

 しかしさて、どんな研修でもまったく収穫のないものはありません。私にとって今回の講座の最大の収穫は、子どもを誉める時、その誉め言葉の中に「(お前がこんなにできるようになって、オレ嬉しいよ)」というメッセージを加えてみようと考えたことです。私たちは教員ですから、たいていの場合、子どもの成長を喜びと感じています。特に意識して授業をしくんだ場合などは、喜びもひとしおです。だったらその嬉しさを伝えないテはありません。即効性はなくとも、きっとうまくいくに違いないと思いました。


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