2022/4/29

「更新しました」〜キース・アウト  教育・学校・教師


スポーツ庁の有識者会議が「部活動の地域移行」を提言する。しかしこの問題、20年以上前から言われているのにうまく行かない。それどころか「地域移行」で教師たちは死の淵に立たされるのだ。そこで私が書いたミニ恐怖小説「部活動の地域移行」。

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2022/4/28

「教育現場の少人数化は集団脳を阻害する」〜隣り百姓と集団脳C  教育・学校・教師


 集団が大きければ大きいほど集団脳は働く。
 農耕は人間集団を巨大化し、集団脳をより大きく働かせた。
 さらに日本の場合には、集団脳のすべての細胞を働かせる仕組みがある。
 したがって学校の少人数化も、必ずしも良いものだとは言えないのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【農耕が集団脳を生み出した】
 NHKスペシャル▽ヒューマン・エイジ人間の時代 プロローグさらなる繁栄か破滅は、集団の大きかったホモ・サピエンスが集団脳で技術革新を繰り返し、地球の覇者となったことを示しました。しかしネアンデルタール人が家族単位で行動したのに対して、なぜホモ・サピエンスが150人を越える大集団として動いたのか、その点については説明がありません。私はそこに初期の農業のようなものを想像するのですが、これといった証拠があるわけでもないのです。

 ただもちろん世界の四大文明と呼ばれるものがすべて大河の下流域で、しかも降水量の少ない農業に向いた地域で発達したことは知っています。
 狩猟・採集を中心とする人々は基本的に「他人を出し抜くこと」が生活のスタイルとなり、誰よりも早く獲物を発見したり、動物のエサとなる草原や魚の集まる場所、実の良くなる木を知って誰にも教えないことが重要です。それに対して農耕を生業とする人々は、用水路の造営や川の氾濫からの復興のため、組織化された多くの人間が必要となります。そこから多くの人間が集められたという事情があるのかもしれません。もっとも平原を大きく移動する獲物たちと違って、川はそこまで大きく動きませんから、自然と人々が集まって来たという事情もあったのでしょう。土地があって生産が増える限り人口は増え続け、そこに集団脳の機能し始めるのです。


【知の共有としての「隣り百姓」・機能的な日本の巨大集団脳】
 「隣り百姓」というのも、集団脳の立場から考えると単なる集落における知識の拡散で、経験豊かな者の知恵をみんなで共有しようとする動きに過ぎません。手に入る智恵が目の前にあるのに、何も個々人が獲得し直す必要はないのです。そこで浮いた時間やエネルギーは次の知恵に投入されればいいのです。それは主体性や追求心とは全くかかわりのない話です。
 
 現代の日本社会は現場の意見をよく吸い上げることで知られています。末端の工員や店員も自らの発想を提案書というかたちで、いくらでも上げることができます。その意味では集団脳を機能的に働かせている社会とも言えます。
 そうした巨大集団脳がものづくりにおける日本人の丁寧さ、利用者にとって最も使い勝手の良い製品づくり、改良の巧みさ、息の長い製品開発などに繋がっています。「おもてなし」も製品の不良率の低下も、上からの指示だけで達成できるものではありません。
 それは子ども社会についても言えます。


【少人数学級は集団脳を阻害する】
 現場の教師だった経験からして、私は学級の規模についても「集団脳」の視点から考えることが大切だと思っています。というのはわずか15人のクラスの担任をしたころ、少人数学級がさっぱり良いものだと思えなかったからです。
 例えば討論の場面でひとつ優れた意見が出ても、それで繋がらずに止まってしまうのです。一クラス40人もいると優秀な子が数人いて、さらに2番手グループもありますから優れた意見に対抗する考えは必ず現れ、発言が絡み、2番手3番手も次第に全体を理解して話し合いに加わり、最後までひとことも言わない子たちも目を輝かせる――いつもそうなるわけではありませんが優れた討論の生まれる可能性がいつも見えています。
 ところが15人だと良い意見が出ても「アイツが言うことだから間違いないだろう」ということでみんなが納得して終了。まったく深まらないのです。ネアンデルタール人もかくあらん、という感じです。

 互いを良く知っていて能力の序列がはっきり見えますから、あえて戦いを挑んだりしません。つまり切磋琢磨が発動しない。アイツに任せておけばいいのですから、知の拡散・共有ということも起こりにくくなります。
 教師の目の届きやすいのも善し悪しで、授業の分からなくなった子は、自ら頑張らなくても待っていれば先生が来てくれることを知っていますだからがんばらない。しかしだからといって一クラス40人もいる環境では教師の目も届かず、必要な子に支援の手が伸びません。
 ではどうしたらよいのか――。


【すべてを包括する改善策があった――つい最近までは】
 この点で最も優れているのがチーム・ティーチング(TT)です。一人の教師が全体指導をして、もう一人が目の届きにくい部分に手を入れる、これだと集団脳は機能し、落ちこぼしもない。
 私は20年も前から少人数よりTTと言い続けてきました。しかし極端な話、学級担任が2倍になるわけですから予算も膨大。実現の可能性はほとんどありませんでした。
そして今は――全学級複数担任などありえない夢となり果ててしまったのです。
 予算ではありません。教師になってくれる人がいないからです。この国の教育は崩壊する。
(この稿、終了)

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2022/4/27

「なぜ人間は地球の覇者となりしか――つるむ者が進歩する」〜隣り百姓と集団脳B  歴史・歳時・記念日


 いよいよ人類は火星移住を目指すまでの進歩を遂げた。
 しかしなぜ、私たちだけが進歩の道を歩き続けることができたのだろう。
 ネアンデルタール人ではだめだったのか?
 そこに私たちホモ・サピエンスの特性がある。集団脳だ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【なぜ人間は地球の覇者となりしか】
 4月24日(日)のNHKスペシャル▽ヒューマン・エイジ人間の時代 プロローグさらなる繁栄か破滅かは、いよいよ人類が地球を出て、火星に向かうという壮大な物語から始まります。一通り宇宙工学の現地点を紹介した後、話題は一気に30万年遡り、人類の誕生から見直します。主題は、
「なぜ人間だけが短期間にここまで進歩できたのか」
です。

 短期間というのは地球誕生の今から45億年前、生命誕生の40億年前、そして生命が海を出て陸上に進出した4億年前と比べて、人類誕生の30万年前はほんの目の前、人類がアフリカを出て(出アフリカ)世界に広がってからの6万年間は一瞬と言っていいほどの短さだという意味です。その中で人類は地球脱出が夢でなくなるほどの進歩をとげた、人類だけがそれを果たした、なぜ私たちだけにそれができたのか、NHKスペシャルの主題はそういう問いかけです。

 ここで「人間だけが」の前に「ゾウではなく」とか「ライオンではなく」といった言葉を入れると謎が謎でなくなってしまいます。そうではなくて、主題をこんなふうに書き換えると俄然、興味がわいてくるはずです。
「ネアンデルタール人ではなく、なぜホモ・サピエンスだけが短期間にここまで進歩できたのか」


【ネアンデルタール人は進歩しない】
 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの比較研究はかなり行われてきました。そもそも知能のレベルに違いがあったのではないかという仮説もありましたが、脳の大きさはほぼ同じです。言葉を使う能力や火を起こす能力も比べましたが、大きな違いはないとみられています。そこで研究者たちが目をつけたのが道具の違いです。

 ネアンデルタール人の使っていた石器はどれも形が似ていて、狩りにも料理にも同じような道具を使っていたのに対し、ホモ・サピエンスのそれは実に多種多様で、用途に合わせて大きさも形も違っていたのです。ネアンデルタール人が25万年ものあいだほとんど同じような道具を使っていたのに対して、私たちの祖先は次々と新しいものを生み出していった。そしてこうした技術革新は今日まで休みなく続けられ、車やテレビ、火星に届くロケットなどに繋がっていくのです。
 NHKスペシャルの課題はここで一歩前進し、文言も書き改められなくてはなりません。
「なぜ私たち(ホモ・サピエンス)だけが技術革新を成し遂げられたのか?」


【つるむ者が進化する】

 ハーバード大学の人類進化生物学者、ジョセフ・ヘンリック教授はそれを集団の大きさで説明しようとします。1900年代初頭にオセアニアで行われた調査を分析すると、太平洋の島々で暮らす民族の、人口の規模と漁に使っていた道具の種類に相関関係があったからです。
 具体的に言えば、人口1100人の島では道具が13種類、3600人では24種類、17500人では55種類と、集団が大きくなるにつれて生み出す道具の種類が増えているのです。

 同じ法則がネアンデルタールとホモ・サピエンスにも当てはまるとヘンリック教授は言います。石器が変化しなかったネアンデルタールが家族単位の小集団で暮らしていたのに対し、ホモ・サピエンスは血縁を越えて150人規模の大集団を築いていたと考えられるからです。
 では集団が大きいとなにが違うのか。


【集団脳】
 とりあえず人数が多いと、中に一定の割合で新たなアイデアを思いつく人が出現します。そのアイデアは大集団に共有されて次の世代に伝えられますが、そこで技術が陳腐化するとまた新たなアイデアを思いつく人が出て、同じことが繰り返されるのです。つまり技術革新が連鎖するわけです。

 ところが集団が小さいと、とりあえず内部にアイデアを思いつく人が出現する可能性が減ります。出現したとしてもそれを共有する人間が少なすぎて普遍化しない。次の世代への伝承も難しくなり、しばしば道具は逆戻りしてしまいます。

 “世代を越えて知識やアイデアを積み重ねる中で、技術が革新し行動になっていく”、大きな集団の中で生まれるその働きを、ヘンリック教授は「集団脳」と呼びます。教授は言います。
「私たち人間が次々と技術革新を生み出せるのは、個々人が賢いわけでも一握りの偉大な天才のおかげでもありません。何世代にもわたって技術が累積するからこそ、高度な技術革新が生れるのです」

 番組の紹介だけで長くなってしまいました。
 “少人数では進歩に翳りがみられる”といった現象は、10人未満の学級担任をしたときにも感じることですが、その話も改めてしましょう。
 今は隣り百姓と集団脳の問題です。これについては明日も考えていきたいと思います。

(この稿、続く)
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2022/4/26

「隣り百姓の何が悪い!」〜隣り百姓と集団脳A  教育・学校・教師


 「隣り百姓」という言葉の使われ方が分からないところがある。
 しかし私の中では圧倒的に前向きなものである。
 「隣り百姓」が日本経済の推進力で、
 「隣り百姓」が日本文化の基礎をつくった。

という話。
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(写真:フォトAC)

【隣り百姓の何が悪い!】
 「隣り百姓」という言葉を使いながら、けれど私にはそのニュアンスがよくわかっていないところがあります。
 例えばネット上で、
「隣り百姓という言葉が日本人全体の特性を表現する言葉としても、つまり日本人は人真似ばかりして個性がない、独創性がないと卑下するさいにもそれが使われていた」
などという文に出会うと、ちょっとした違和感に目まいのする感じになるのです。
 もしかしたらそれは「百姓」が差別語として使われていた時代の名残で、「百姓」と聞いただけで下に見ようとする人たちの傾斜のかかった見方なのかもしれません。

 私などは祖先が百姓だったこともあって、そのしぶとさ、したたかさ、あるいはその勤勉さ・実直さ・健全性などに敬意を表し、自分もかくありたいと思ってきましたから「隣り百姓」と聞いても、むしろ前向きな思考しかできないのです。
 例えば隣が洗濯機を買った、冷蔵庫を買った、テレビを入れた、自家用車を買った、だからウチも、とい隣り百姓根性は高度成長期の原動力でした。

 子どもの教育についても、お隣がピアノ教室に入れた、バレエを習わせている、スイミングはどうだ? リトルリーグとサッカーとどちらがいいんだ? おっとバイオリンという手もある卓球もある、しかし何もやらせないという選択肢はない――そういった浅ましいような追求力は、隣り百姓の伝統があってこそのことだと思うのです。
 おかげでピアノやバイオリンあるいはバレエなどの国際コンクールで、日本人は入賞者の常連となっていますし、水泳や卓球、野球などでは世界で戦える選手が目白押しです。しかもすごいのはそうした習い事をさせている親たちの大半が、本気で子どもたちをプロの演奏家や国際的アスリートに育てようと思っていないということです。
 ただ「みんな何かをやらせているから」「ひとつくらい何かやらせておいた方がいいと思ったから」といった没個性的な、非主体的な動機から始めているのです。


【実のところ、社会が求めているのは個性や創造性ではない】
 教育の世界ではよく、
「これからの時代は知識だけではダメだ。個性や独創性、多様性こそ大事だ」
とか、
「ただ人と同じようなことをやっていてはだめだ。人とは違った豊かな発想性こそ大切だ」
とか、あるいは、
「先生の言うことを、ただハイハイとやっているようではだめだ。学校にはない、教科書では学べないことにこそ、真の価値がある」
とか言われたりしますが、これらも必ずしも「隣り百姓」を否定したものではありません。

 一見、個性や独創性、他人と違った思考などを重視しているように見えますが、それは、
「知識が十分にあって、基本的に人と同じことができ、先生の言うことを何でもハイハイと実現してしまうような優秀な人間が、その状況に甘んじているようでは困る」
と言っているだけで、
「知識が十分でなく、しばしば周囲に合わせられず、先生の言うことの半分も実現できない普通の子」
のことなどまったく考えていないのです。
 国語でも数学でも体育でも、「先生の言うことを、言われる通りにハイハイと」できる子なんて、一学年にひとり、いるかいないかの逸材でしょ?

 社会は、あちこち欠けた部分も多いがある一面において決定的な才能をもった偉大な天才(モーツアルトやエジソン、スティーブ・ジョブズのような人)が、たくさん出てくるように望んでいるわけではなく、“普通に気持ちよく働ける人”が前提なのです。


【「隣り百姓」に価値がある】

 だから個性だの独創性だの言わず、隣りを見て真似をしながら過ごしなさいというわけではありません。「隣り百姓」には隣り百姓なりの価値があり、おそらくそれは日本人に合っていて、その価値を見直すところから始めると、日本人なりの、あるいは日本人ならではの、個性や創造性、多様性や発想性が見えてくるのではないかと思うのです。
 そのヒントとなるのが「集団脳」です。
(この稿、続く)
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