2021/7/29

「『呪われた五輪』の舌禍事件はあれでよかったのか」〜デジタル・タトゥー、誰も忘れてくれない@  政治・社会・文化


 ようやく始まったオリンピック。
 ここまでくる道のりはほんとうに大変だった。
 しかし今、落ち着いて考えるとあれでよかったのかと思うことも少なくない。
 五輪の呪いは、オリンピックが終われば解けるものなのだろうか。

という話。
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(写真:フォトAC) 

【呪われた五輪】
 思えば今回の東京オリンピックは最初からケチのつきっぱなしでした。
 オリンピック招致の言い出しっぺの都知事が石原慎太郎さん、招致決定の時は猪瀬直樹さん、次が舛添要一さん、そして今の小池百合子さん。韓国の大統領ではありませんが、現職以外はロクな終わり方をしなかったり後に厳しく非難されたりしています。
 現都知事になってからも築地問題で輸送計画が二転三転、都心で行うコンパクトな大会のはずがあちこちに分散され、ボート競技が行くかもしれないと言われた宮城県知事も散々振り回された挙句、結局、元のさや。
 早々に決まっていた新国立競技場も実際に建てようとしたら計画の2倍以上の予算がかかる、そもそも不可能な設計だとかでコンペからやり直し。エンブレムは決まった直後に作家に盗作疑惑が出てこれもやり直し。挙句の果てがコロナ事態での1年延長。

 今年に入ってからはさまざまな舌禍、過去の悪行の露見とかで、森会長を始めとしてたくさんの関係者が現場から消えていきました。「呪われた五輪」と言われるのもやむを得ないのかもしれません。


【あれで本当に良かったのか】
 それぞれの舌禍事件の際は私も呆れ、怒り、
「こんな人、オリンピックの関係者から早くいなくなあれ」
とばかりにその様子をただ見送ったのですが、今になるとあれでほんとうによかったのかという気がしないでもありません。もちろんやったことは悪いに決まっていますが、罪と罰の対応は適切だったのか、辞任・解任にまで追い込むほどのことだったのかと考え込んだりします。

 例えば森喜朗前会長の「女性がたくさんいる会議は長くなる」という発言。好ましいものではありませんが招致のころからずっとご苦労いただき、おそらくこのオリンピックを最後に第一線から手を引いて隠居生活に入るだろう人を一敗地にまみれさせ、汚辱の中で消していかなくてはならないほどの重大事案だったのかというと、そうでもないような気がしてくるのです。
「昭和のジジイ、何も分かっちゃいねぇなあ」
で、見過ごすことはできなかったのか。

 東京五輪・パラリンピックの開閉会式の企画・演出で全体の統括役を務めるはずだった佐々木宏さん。渡辺直美さんを使った「オリンピッグ」のアイデアはLINEの企画会議でも参加者からケチョンケチョンに言われたみたいですが、これも昭和のオッちゃんの話、バカにしていいことですが辞任するほどのことでもなかったのではないのか。

 もちろん開会式の音楽を担当していた小山田圭吾という人の、障害者を虐待した話はだいぶ異なります。27年前の雑誌の中で、私立の中高一貫校にいたころ自らが指示して行った虐待について実にあっけらかんと、面白おかしく話しているのです。
 中には創作部分もあるような気もするのですが、話半分だとしても犯罪です。内容を知って、胸糞が悪くなるような類のものでした。
 ただ、これに関しては27年間に幾度か問題になり、そのつど小山田氏が謝罪してきたという経緯があるようです。事情を知るインフルエンサーの中には「いったい何度謝ればいいんだ」と擁護に回る人もいましたが、その人のSNSも大炎上で謝罪に追い込まれたりしています。
 しかしこれまで小山田氏が何回謝罪したかはどうでもいいのです。オレはそれを見ていないしオレの心の中では決着がついていない、だから謝罪の上で辞任すべきだ、否、そもそも表舞台に立つべきではなかった――
 そうした世間の風に、私も同調しました。しかしそれでよかったのか?

 小林賢太郎という人の「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」となるとさらに微妙です。23年前の漫才の一部で、
「(プロデューサの)戸田さんが、作って楽しいものもいいけど、遊んで学べるものも作れって言っただろう」
から始まり、紙を使った野球をやろうといった話に進んで、スタンドを紙で作った人間で埋めつくして・・・となって、
「おお、いいんじゃない。ちょうどこういう(手で示す)人の形に切った紙がいっぱいあるから・・・」
「ああ、あのユダヤ人大量惨殺ごっこをやろうって言ったときの、な」
「そう、そう、そう、そう、そう」
「戸田さん怒っていたよなあ、放送できるか!ってなあ」
と一瞬でてくる話です。

 森さんや佐々木さんのような「昭和のジジイ」的発想で済まされる問題ではありません。ユダヤ人虐殺問題は昭和であっても軽々しく扱ってはいけない、いや昭和だからむしろ丁寧に扱っていたことです。それが平成になったらひょこんと出てくる――あまりにも無知、そして無恥、浅はかにもほどがある話です。
 ただ、しかし23年も経ってからアメリカの反ユダヤ主義監視団体(SWC)の抗議を受け、全世界から非難されほどのことかというと、それも違う気がします。そこまでたいそうな話ではない。


【現象は続く】
 だからこうしたことについて、改めてみんなで考えてみましょうという話をしているわけではありません。すべて済んだことですし、辞任または解任された人たちが再び表舞台で活躍しようとしない限り、蒸し返されることもないことです。
 しかし小さな会合で私的にしゃべったことが突然おおやけにされ、あるいは20年も30年前のできごとが引きずり出されて、人生の最も大事な場面でより多くの人に共有され糾弾されるということは今後も続いていくだろうということ、そうした状況に私たちはもっと敏感でなくてはならないということです。

 ネット環境に関しては日本よりも先進国であるアメリカや韓国では、すでにそういう社会になっています。アメリカではたくさんの映画俳優・スター歌手が過去のいじめやおろかな発言のために糾弾され謝罪しています。韓国の女子バレーボール界では今回東京に来るはずだった双子の美人アスリートが、過去のいじめのために永久追放になっています。

 今回のオリンピックで舌禍事件が続くのは「呪われた五輪」のせいではないでしょう。選挙や任命の際の身辺調査、それに似た人物検査がネット市民によって自主的に、大量に、徹底的に行われ、掘り出されたものが瞬く間に共有される、そうした時代の到来と東京オリンピックがたまたま重なっただけなのです。

(この稿、続く)

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2021/7/28

「できないことは叱ってはならない」〜東京都感染者3000人をどうみるのか  政治・社会・文化


 新型コロナ感染者が、東京都でいよいよ3000人にも達しようとしている。
 なぜこんなことになったのか。
 野党・マスコミは正義を笠に着て、できもしないことを政府・東京都に要求する、
 その政府・東京都は、同じくできもしないことを国民・都民に要求する。
 そしてみんな、意欲を失ってしまった。

という話。
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(写真:フォトAC) 

【東京都の、感染者数3000人が目の前!】

 昨日発表の東京都の新型コロナ感染者数が、2848人で過去最大となりました。近県はもちろん大阪、福岡といった大都市を持つ府県も軒並み感染者数を増やしています。宮根誠司さんをはじめとするワイド・ショウ関係者はもう一度手のひらを返して、オリンピック即時中止を叫んだりするのでしょうか。

 一説によると昨日の急激な増加は、先週末の四連休に報告できなかった分が出てきた(だから先週の金・土曜日の発表はびっくりするほど少なかった)という話もありますが、感染拡大が収まっていないのは事実のようで、早晩、一日2000人を越す感染拡大が常態になり、やがて3000人を越えてしまうことも考えなくてはなりません。そうなると本当にオリンピックを中止してしまうのか――。

 オリンピックが面白いから中止にしないで欲しい、ということではありません。やめられる状況にないのに即時中止の世論が高まると、単純に政治不信が増大し、政府が言うことを誰も聞かなくなる、きけばいいこともきかない、もともときかない人たちに口実を与えることになる、それを恐れるのです。


【オリンピックは絶対に中止にならない】
 オリンピックがやめられないというのは、単に数字の問題です。9万人もの選手・関係者を招いておいて途中で帰すにはそれなりの名分が必要です。
 東京の感染状況は中止の理由になりそうですが、日本にとっては過去最大の感染拡大といっても、昨日の段階ですら10万人あたりの感染者数は、コロナ対策の大部分を解除してしまったイギリスで日本の15・2倍、死者数でも11・1倍です。同じく感染対策からの自由を謳歌するアメリカ合衆国は感染者数4・8倍、死者数8・3倍、この状況で東京は危ないから中止すると言っても聞き入れてもらえないでしょう。

 日本人から外国人に感染させてしまう危険も、逆に選手から日本人に関瀬させてしまうリスクも、それを管理するのは日本政府の責任であって、海外アスリートが競技をやめて帰国することで実現すべきものではありません。
 新宿でも渋谷でも、マスクもしない日本人の若者が平気で闊歩している状況で、なんでオレたちが夢を諦めて帰国せにゃならんの? そう問われては返す言葉がありません。

 したがって「日本国民がロックダウン並みの自粛をしても毎日数百人が死亡する」とか、「ワクチン接種したアスリートでもバタバタと倒れるような変異株が東京で生まれる」といった極端な状況でもない限り、オリンピックは最後までやらざるを得ません。

 だとしたらみんなで我慢して、静かに家で過ごしましょうというのが私の考え方ですが、世間は必ずしもそうなっていかないのはなぜなのでしょう?


【政府も都も、誰も国民を誉めなかった】
 “自粛疲れ”だとか“自粛慣れ”だとか、いろいろ言いますが、要するに“いやになっちゃった人”がたくさんいるのです。
 一生懸命に自粛したって新型コロナはなくならない、やったところで誰も誉めてくれない、からです。

 今から振り返れば、昨年の第一回緊急事態宣言下の日本はとんでもなく凄かった――渋谷スクランブル交差点を見ても浅草仲見世の様子を見ても、まるでCG動画としか思えないほどに人っ子一人いませんでした。
 それを誰が誉めたか。
 少なくとも政府・東京都が誉めたという証拠はありません。当時私は何度も「もっと国民を誉めてくれ」と書きましたからよく覚えています。

 誉める代わりに何をしたか? 政府・東京都は、初夏に再び感染が拡大し始めると、「気の緩み」という言葉を使って国民に報いたのです。これは痛いミスというよりひどい仕打ちです。
たしかに私たちは一回の緊急事態宣言でコロナ感染を撲滅することはできませんでした。しかしそれは気の緩みではない。精一杯やってあの程度が自由主義なのです。日本よりはるかに厳しいロックダウンを実施したニューヨークやロンドン、パリと比較すれば、あれがどれほどすばらしいできごとだったかは明らかです。


【できないことは叱ってはならない】

 教育の世界には、
「できないことは叱ってはならない、やらないことは叱らなければならない」
といった言い方があります。さらに言えば、
「できなくても努力したことは誉めなくてはいけない、努力せずにできたことは(あまり)誉めなくてもいい」
ということもあります。

 国民の努力の至らなさを“気の緩み”と表現した政府・東京都は間違っています。国民のやる気を大いに削いだ政府の言うことを、国民は前向きに聞くことができません。
 緊急事態宣言の効果についてはこれ以上アテにできないからには、あとは検査数をさらに増やすとか、病床を確保するとか、ワクチン接種を急ぐとか、そういった具体的対策を地道に続けるしかないでしょう。

 野党・マスコミも、できっこないオリンピックの中止や、今さらながらの「オリンピックを開催する意義の説明」だの言っていないで、もっと建設的な議論をしていくべきなす。

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2021/7/27

「競技場には魔物がいる」〜東京2020オリンピック・メモA  人生


 13歳のゴールド・メダリストが誕生した。
 競技場には魔物がいて、しばしば人の運命を好き勝手に動かすようだ。
 それが苦しいこともあれば、失敗が面白すぎる場合もある。

という話。
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(写真:フォトAC) 

【13歳の金メダリスト】

 いよいよ13歳10カ月のゴールド・メダリスト誕生だそうで、まずはおめでとうございますと言っておきましょう。メダリストは少年少女に夢を与えると言ったりしますが、13歳では身近過ぎて、世の中を舐めるような子どもが続出しても困るなあなどと余計なことを考えたりもしています。もちろん冗談です。

 他のアスリートたちが臥薪嘗胆・精励刻苦する中でようやくたどり着く高みに、おそらく楽しんで面白がっているうちにたどり着いてしまったのでしょう。西矢さんが破るまで記録を持っていた競泳の岩崎恭子さんが、ゴールのタッチパネルを叩いて顔を上げたときのびっくりしたような表情が思い出されます。
 もっともあれから30年近く過ぎた今も、岩崎さんが世間から注目され、しばしば私生活まで監視され暴かれている事実を考えると、西矢椛さんの臥薪嘗胆はこれから始まるかもしれません。
 親御さんの喜びも緊張も、ひとしおかと思います。どうかいま以上に大切にお育ていただきたいと思います。


【競技場には魔物がいる】
 岩崎恭子さんや西矢椛選手が思わぬ金メダルを獲得したように、参加者全員が爪先立ってギリギリを競うような場面では、予想だにしなかったことが次々と起こります。
 先日取り上げた三宅宏実さんの試技直後の感想は
「まさか最後にこれ?」
だったそうですが、レジェンド内村航平選手の鉄棒落下や、自ら「メダルは99・9%確実」といっていた瀬戸大也選手の予選落ちなども同じです。

 外国選手に視野を広げれば、これも昨日取り上げた前回リオデジャネイロの女子柔道52kg級覇者、コソボのマイリンダ・ケルメンディ選手も、金メダル候補といわれながら初戦で敗退してしまいました。女子クレー射撃スキートの世界ランキング一位の選手は、それどころか東京に来てから新型コロナ陽性と判定されて棄権せざるをえなくなり、あるいはそもそも参加資格がなかったことを東京で知らされ、本国に戻らざるを得なくなったポーランドの競泳選手たちもいます。

 ここだけは避けたい、今だけは勘弁してくれと言いたくなる場面で、そのことは起こる――。
 日本の高校野球には「甲子園には魔物がいる」という言葉がありますが、オリンピックの会場にも、魔物が無数、徘徊しているようです。
 あとはその魔物と出会ったときの身の処し方です。

 その点で特に注目したのは内村航平選手でした。鉄棒の予選で落下した直後にネットニュースでは、本人の弁として「ふがいない」とか、鉄棒の代表枠を争って退けた後輩アスリートに「土下座して詫びたい」といったネガティブな発言が流れていましたが、翌朝の新聞を見るとこんな言葉も記録されています。
「これだけやってきてもまだ分からないこと、失敗することがあるんだなあと思うと、面白さしかない」
 前夜見た「土下座して詫びたい」といったしおらしさとは、打って変わったさばさばとした雰囲気――ある意味で清々しいといった感じさえします。


【私も知っているあの爽快さ】
 失敗したにもかかわらず体の内からあふれてくる笑い、さわやかさ、というものについて、規模は遥かに小さいながら、私にも幾度か経験があります。それは研究授業の場で起こります。

 研究授業というのは、いわば教員が協力して一つの理想的な授業を組み立て、
「どうやら普通の公立学校でも、ここまではやれそうだぞ、がんばれ」
と見本を示すようなもので、そのために教師は半年以上(足掛けで言えば数年)をかけて取り組む研究の発表会のようなものです。

 最終的には授業を見てもらって評価を受けるのですが、専門の教員ばかりのまな板に乗るわけですから、気合も半端ではありません。
 子どもたちにどういう資料を見せるのか、どういう反応がありそうか、期待する反応が出なかったら二の矢をどう討つのか、二の矢も外れたらどうするのか――。たった一時間の授業のために数十時間、時には数百時間もかけて検討し、計画案を書きます。

 その計画書を「指導案」というのですが、紙に書かれた数十倍が頭に入っていないと、実際の授業では躓いてしまいます。一種の心理の読みあいですから、私はこの「指導案づくり」がとても好きで、指導案のためならいくらでも時間が使えると思った時期もありました。

 ところがとんでもなく時間をかけ、根を詰めてつくったはずの指導案でも、生徒の信じられないひとことで軽く吹き飛んでしまうことがあるのです。“信じられない”が「論理的でない」とか「的外れ」といったことなら対処の用意もありますが、実に見事に論理的につながってたりすると、その鮮やかさに笑うしかなくなるのです。実に清々しく笑える――。
 何で、私は、その可能性に気づかなかったのか

 どんな仕事も失敗を喜べないようでは長続きしません。しかし「喜べる失敗」は中途半端な追求からは出てこないのです。
 失敗の可能性を潰して、潰して、潰して、潰して、潰した先で改めて全体を見回して「もうどこにも失敗の可能性はないと」確信し、その上で一番重要な時にいきなり現れる“魔物”――かくれんぼうで見つかったときのような、鬼ごっこで逃げ切れなかったような、あの不思議な爽快感が湧き上がってくるのはそんなときです。

 内村航平選手、何となく引退しないような気がします。


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2021/7/26

「やはりやるべきだった東京オリンピックとコソボの娘」〜東京2020オリンピック・メモ@  教育・学校・教師


 やはり2020東京オリンピックは開かれなくてはならなかった。
 5年の長きにわたってすべてを投げ込んできたアスリートのために、
 日本の底力を示すために、そして81年前の不始末を始末するためにも。
 オリンピックは多くの人々にとって、単なるスポーツ大会ではないのだ。

という話。
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【やはりやるべきだった】
 先週金曜日(23日)夜の東京オリンピック開会式を見ながら、MISIAの「君が代」が圧巻で初めてこの歌を音楽として素晴らしいと感じたとか、なんで大工さんのパフォーマンスなのだろうとか、あるいは市川海老蔵の「しばらく」、あれが分かる外国人がどれくらいいるだろうかとか(私もよくわからない)、起立しなかったのは総理・都知事だけでなく私も心の中でし遅れたとか、はたまたなんで「イマジン」なんだ? 日本にももっといい曲はいっぱいあるだろうとか、さまざまに突っ込んだり喜んだり、あるいは落胆したりして3時間50分を過ごしました。その上で思ったことは、やはり東京2020オリンピック競技大会は開かれなければならなかったということです。

 ひとつには先日も書いた通り、この日をめざしてすべてを投げ打ってきたアスリートたちがいるということ。その人たちを支えたいということ。
 もうひとつはこんなコロナ禍の中で、それでもオリンピックを開ける国は、自由主義国では日本しかないだろう、その力を示したいということ。日本は命を懸けて約束を守る国だと世界に知らしめたいということ(この場合の「命」は比ゆ的な意味)。
 そして三つ目には、日本はすでに1940年に東京オリンピックを返上した前科を持っていること。だから二度と繰り返すことはできないということ。しかも81年前は日本が起こした日中戦争が原因でした。

 そのために国民の命を危険に曝していいのかと言われると言葉に迷うのですが、例えば女子ウェイトリフティングで記録なしに終わった三宅宏実選手、この人が精魂を傾けた競技人生の最後の5年間を、何も試さずに終えさせてしまうのはあまりにも忍びないというのが、私の率直な思いです。

 なすべきはオリンピックを中止することではなく、この大イベントを何とかやり遂げるために国民が一致団結して協力することだと思ってきました。
 オリンピックの即時中止を求めてバッハ会長の歓迎会の際に迎賓館前で、開会式のでは国立競技場の前で、「日本人の命とオリンピック、どちらが大事なんだ」と叫んでいた人たちも、新宿や渋谷の繁華街で朝までアルコールを振舞っている店を探し、客に向かって「日本人の命とオマエの一杯の酒、どちらが大事なんだ」と叫べばよかったのだと思ったりもしました。


【コソボの娘】
 実際の競技について、私が最初に得た情報は女子ソフトボールチームの初戦勝利でした。続いてなでしこチームのかろうじての同点引き分け。そして最初に心動かされたのは女子柔道48s級の渡名喜選手の銀メダルです。
 実は48s級の決勝が始まって、渡名喜選手が元気よく飛び出してくるところまではテレビで見ていたのです。ところが、そのけなげな顔を見た瞬間に、私は臆病者ですので見られなくなってチャンネルを変えてしまったのです。それからしばらくして戻したら負けていました。
 谷亮子さんが言っていましたが、金メダルと銅メダルは「(決勝や三位決定戦で)勝ってもらうメダル」、銀メダルは「最後の試合に負けてもらうメダル」なのです。格としては銀メダルが上なのに、受け取る気持ちは複雑だと言います。
“渡名喜選手、ずっと努力してきたのに可哀そうだな”と胸を詰まらせたのですが、優勝した相手選手の名前と出身国を見たら気持ちがぐらつきました。コソボの選手だったからです。

 さほど有名な国ではありませんが南東ヨーロッパのバルカン半島内陸にある、人口180万人ほどの小国で、Wikipediaには、
ユーゴスラビア解体の過程でコソボ紛争を経て独立したが、コソボを自国領土の一部とみなすセルビア及びその友好国からは独立を承認されていない
と説明されています。

 旧ユーゴスラビアの成立と解体についてはいつかきちんと勉強しようと思いながら今日までできずに来てしまっていますが、チトーが統治し、国家として成り立っていた時期のユーゴスラビアを学んでいる時点ですでに、のちのことを知る私は胸が苦しくなって先に行けなくなってしまいます。解体の過程で発生した戦争は互いに(一民族を丸々地上から消してしまう)民族浄化の様相を見せ始め、西ヨーロッパ諸国も「行きつくところまで行かないと収まらない」と匙を投げるまで至ったからです。

 その中で最も小さな国のひとつであるコソボから、ゴールド・メダリストが出たのは実は今回が初めてではありません。前回リオデジャネイロ大会の女子柔道52kg級でマイリンダ・ケルメンディ選手が優勝しています。今回の東京にも来て昨日2回戦(マイリンダにとっては初戦)敗退でしたが、彼女が柔道を通して実現したいのは、常に国際社会で忘れられがちなコソボに光を当てることだと言うのです。
 彼女たちにとって、オリンピックというのはそういう場なのです。

 今回、渡名喜選手の負けた相手はディストリア・クラスニチという世界ランキング1位の選手でしたから、まずは順当な勝利ということも言えますが、それでも、コソボという小国から柔道を通じて世界に発信し続ける人たちのことを考えると、私は深い感慨に至るのです。

(この稿、続く)

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