2021/6/25

「誰かデュ・バリー夫人のように――」〜声は出さなくてはいけないが、声の大きさは現実を反映しないD  教育・学校・教師


 子どもの“今”が大切なマスコミと、子どもの“将来”が大事な学校とは相いれない
 しかし相いれないからと言って放っておくと学校は押し込まれる
 現職教師に社会と戦う余裕はない
 だとしたら、誰か教師を側面から援護する仕組みをつくらないか

という話。
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(写真:フォトAC)

【医者とマスコミは学校の敵】
 敵というのは大げさですが、医師やマスコミと学校とでは、子どもに向かう姿勢に根本的な違いがあります。
 そのことに気づいたのはもう30年も前の話、ひとりの不登校の生徒について医師に相談をしていた時です。いかにしてその子を学校に戻すのか、一生懸命話をしていたら、医師がポツリとこう言ったのです。
「学校に子どもを戻すことに、何の意味があるのですか?」
 私はびっくりしました。教師でしたから教師自身が「学校に来る意味はない」と言ってしまったら自家撞着になるという面もありましたが、今の日本で、学校に行かないとしたらどんな生き方があるのか、人格形成をどこで果たせばいいのか、学力や体力や人間関係調整力をつけないまま社会に出てしまったら、どうなってしまうのか――そんなふうに考えたからです。しかし医師は私の考えに不満な様子で、
「だってこの子は、今、苦しんでいるんですよ」
 それで合点がいったのです。

 医者は“今のその子の苦しみを除去したい”、私たち教師は“将来のその子の苦しみのために備えたい”のです。
 ですから私たちは子どもの“今の苦しみ”に案外、無頓着です。かけ算九九が覚えられなくて苦しいからと言って「そんなにつらいなら2の段と5の段だけで終わりにしよう」などとは絶対に言いませんし、走り高跳びでようやく1mが跳べた子に「ようし良くやった。じゃあ次は1m5cmに挑戦しよう」とすぐに目標を上げる非道が私たちの仕事です。
 学校に行けなくて苦しいかもしれないが、学校に行かないことで将来背負わなくてはならない苦しみは何十倍も大きい、だから今を頑張ろう――そう考えるわけです。

 子どもの今の苦しみに心を寄せるという点では、マスコミも同じです。
「高校生なんだから今は髪型や髪色なんか気にしないで、とにかく勉学に励もう」
といった考え方には一応は頷いてくれますが、
「だからと言って強制は良くない」
といった方向に話は進んでしまいます。
 マスコミは他人に迷惑をかけない限り、子どもの自由は最大限認められるべきだと信じて疑いません
(勉強よりも大切なものがあるなら、高校になど行かずにそちらの道を追求すればいいと思うのですがね)


【並び立たないマスコミのふたつのメッセージ】
 児童生徒が病気にならない限り医者との対立関係はあまり生まれないのでいいのですが、マスコミという世論は放っておくといくらでも押し寄せてくるので厄介です。
 再三申し上げているように、マスコミは子どもの自由が制限されることなんか大嫌いですし、子どもが傷つくことにも黙っていられません。ですからいつも子どもの意見を尊重し、子ども中心の社会をつくろうとします。
「キミたちは今のままのキミたちでいいんだ。問題はすべて大人が解決すべきものなんだ」

 ところが同時に、保護者や社会が子どもに向ける過剰な要求も代弁し、子どもの見ていないところで後押しをしようとします。
「日本人が世界の舞台で活躍しこの競争を勝ち抜いていくためには、(中略)与えられた知識だけに頼るのではなく、ものごとの本質をつかみ、課題を設定し、自ら行動することによってその課題を解決していける人材を育成することが急がれる」(平成16年4月経団連「21世紀を生き抜く次世代育成のための提言」)
 よく聞く文言で、総合的な学習の時間創設の時も、小学校英語の実施の際にも、あるいは大学入試改革においても援用され、当然視されてきた話です。マスコミはこの文脈をさまざまな言葉に換え、新しい教育の必要性を訴えてきました。
 しかし考えてみてください。「与えられた知識だけに頼るのではなく」ですよ。ここでは知識の獲得は目標ではなく、前提なのです。学習指導要領に書かれた基礎的内容ですら定着の難しい子どもたちに、どうやったら「その上の学力」をつけられるのか。
 しかも子どもの自由は最大限に保障し、小指の先ほども傷つけてはいけないのです。


 マスメディアにとって、そしてメディアに先導された世論にとって、答えは簡単です。
「教師のさらなる研修と研鑽が期待される」
 それでいいのです。


【みんなデュ・バリー夫人のようにすればよかったのだ】
 ことがここまで進む前に、教員は叫ぶべきだったのです。フランス革命の断頭台下のデュ・バリー夫人のように、
「私を殺さないで! 日本の教育を殺さないで!」
と泣いてわめいて現状でなにが起きているのか、皆に知らせればよかったのです。ところが私が中学校の担任教諭だった30年前に遡っても、あまりにも多忙でニュースを観ている暇もありませんでした。なにが起ころうとしているのかまったく気づかなかったのです。

 あまり注意の向けられない点ですが、今の教師(30年前の私も含みます)は、新聞も読まなければ時事的な本も読みません。だからと言って不勉強なわけではなく、他に学ぶべきことが多すぎるのです。
 教育行政についても、ことが目の前に迫って来て初めて気づきます。抵抗するには遅すぎる段階になってその異常さを知り、しかし今さらできることもないのでフランスの王侯貴族ばりに、覚悟を決め、誇り高く敢然と仕事に向かっていったのです。
 それが間違いでした。


【教師と学校を援護する強力なサイトを!】
 まったく何も言わなかったわけではありません。

 私も社会科教員でしたので他の人よりは多少視野が広く、二十数年前、大病したのをきっかけに遺書代わりのサイトを立ち上げました。
 当初はたいへんな武器を手に入れた気分で意気揚々とページを重ねていったのですが、閲覧者はさっぱり伸びず、むしろじり貧状態です。そのころちょうど、数は少なかったものの、同じように学校の窮状を伝えるサイトがいくつもあったのですが、どれもこれも世の中を動かすような力にならないまま、いつしか消えてしまいました。

 文科省に「#教師のバトン」というプラットフォームを用意してもらって初めて、教師たちが叫び声をあげたというのも皮肉な話です。しかし意見を吸い上げた文科省は弥縫策にもならないお門違いの対策を示しただけで、根本的な改革は行われないまま、この“騒ぎ”も終わってしまいそうです。

 私は誰かに「#教師のバトン」の勢いを後ろ盾に、もっと影響力のあるサイトをつくっていただきたいのです。そこで行うのは一般には理解されない学校の解説と、教育問題に関するファクトチェックです。
 「みんなで手をつないで一緒にゴール」だの「スカートをまくり上げての下着検査」だのといった荒唐無稽が幅を利かせているようでは、話が始められません。
 学校は実はこんなことをしているのだ、校則実施の具体的な姿はこうだ、こういった事情があるからその校則は必要なのだ、マスメディアのこの記事はこんなふうに間違っている、学校はここまで引き受けるがこの部分はできない――。

 現役の教員は忙しすぎて、とてもではないですが、やっていられません。だから誰か、ほかの人にやっていただきたいのです。もちろん私でもいいのですが、1日の閲覧者が50人のサイトと100人のブログ、フォロワー数わずか14人のツイッター運営者ではねぇ――。

(この稿、終了)

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