2021/6/8

「教師たちの地獄」〜附属池田小学校事件の20年@  教育・学校・教師


 大阪教育大附属池田小学校の事件から今日で20年。
 かつての同級生たちは27歳〜28歳となった。
 子どもを亡くされた保護者たちの悲しみは今も深いだろう。
 そして当時現場にいた教師たちは、今もおそらく地獄を生きている。

という話。
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(写真:NHK)

【教師たちの地獄】
 先月17日から始まったNHK朝の連続ドラマ「おかえりモネ」の舞台は気仙沼大島です。ドラマの中では「亀島」という名前で呼ばれています。ただ、15歳のときに東日本大震災した主人公は高校卒業と同時に亀島を離れ、現在は登米(とめ)市の山林組合で働いています。「サイボーグ009」で有名な石ノ森章太郎さんの出身地です。
 その登米市で主人公が北上川を見る場面があったのですが、北上川と聞いただけで、齢を食って涙腺の緩くなった私は涙の湧き上がるのを抑えるのに苦労しました。

 北上川はかつて登米からほぼ真っ直ぐに南に向い、石巻で仙台湾へと注いでいたのを、度重なる洪水から石巻を守るために登米市内で分流させ、本流を東の追波(おっぱ)湾に流したのです。1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)までのことです。
 その新しい北上川の河口から4kmほど内陸に戻ったところに、東日本大震災の津波で被災した大川小学校があります。地区に津波被害の伝承がなかったのも、明治時代まで近くに大河がなかったからで、だからぎりぎり最期の瞬間まで、地域住民にも教職員にも高台へ避難するという選択肢はなかったのです。

 それでも津波はきた。
 私が「北上川」という名前ひとつで涙が溢れそうになるのは、亡くなった10名の先生たちの最後の無念を、十二分に理解できるからです。本当に悔しく切なく、その思いだけを抱えて死んでいったことが、自分のことのように分かるのです。

 ただ、語弊を恐れずに言えば亡くなった人たちはそれでいいのです。命で責任をとりましたから。大川小学校の被災では現場にいた教職員のうち、教務主任だった50代の教師一人が生き残ってしまいました。
 その人は震災からほどなく心を病み、たった一人の生き証人であるにもかかわらず、今日まできちんとした説明をしていません。生き地獄なのでしょうね。
 そして東日本大震災ではないのですが、同様の生き地獄を味わい続けている教師たちが、大阪にも数多くいるのです。


【附属池田小学校事件から20年】
 今日は大阪教育大学附属池田小学校事件から20年目の祈念の日です。

 犯人の宅間守については昨日も申し上げた通り、あまりにも特異な人物でそこから学べるなにものもありません。もちろん、
「犯罪性のものすごく強い児童が、間違った養育しかできない保護者によって育てられている場合、社会はどのようにかかわることができるか」
といった課題を設定することも可能です。
 しかし最後 まで反省も詫びもなく、“できれば三か月、遅くとも半年以内に死刑を執行してほしい”と言ったあげく、ほぼ言い分に近い1年余りで執行されて満願成就のようになってしまった宅間には、憎しみが強すぎてまともに向かい合う気になれないのです。
 ただしそれ以外の人々については、心寄せる立場から、この20年間についてひとりひとり話を聞いてみたい気持ちがあります。

 あの日、現場にいて惨状を目の当たりにした子どもたちは、当時1〜2年生でしたから今年27〜28歳になります。その子たちが20年をどう生きてきたか。7歳8歳では自分が何を背負ったのかもわからないでしょうから、葛藤はずっと後になって起こったはずです。

 事件で子どもを亡くされた遺族の方々――。
 大人にとって20年はあっという間ですから、今もなお、お子さんたちはあの時の年齢のまま、家族の中で生き続けていることでしょう。私も人の親ですから子どもを亡くされた親御さんたちの気持ちも、少しぐらいはわからないでもありません。孫のハーヴは今月6歳になるので、7〜8歳の子どもがどんな様子なのかもあらかた想像がつきます。だからむしろ、かける言葉がみつかりません。

 私くらいの齢になると、自覚できる罪も、知らないうちにやってしまった悪もたくさんありますから、自分が事故や事件に遭っても何かの因縁と諦めることもできます。しかし7歳〜8歳では死に値する罪なんて犯しているはずがないのです。ほんとうに理不尽な死です。それを受け入れることは、20年経っても難しいことでしょう。

 そして今、もっとも話を聞いてみたいのが、あの日あの時、現場にいて児童と一緒に被害を受けた教師たちの20年です。


【あまりにも多かった教員たちの過誤】
 この件で刑事あるいは民事事件として責任を負わされた教員は一人もいません。しかし事件を未然に防いだり、被害を最小にとどめることのできた教員が、最低3人はいました。これについては10年ほど前に一度書いていますが(*)が、ひとりは事件発生直前に、教室に向かう宅間守とすれ違った男性教諭です。
 軽く会釈をしても返さない宅間守をさして怪しみもせずやり過ごしてしまったことで、のちに強く道義的責任を問われます。その担任のクラスが最初に襲われて5人が殺害されたことを考えると、やはり責任は重い。死者8人のうちの5人ですから、ほとんどが最初の教室で殺されたことになります。凶行の最後の場面で、副高校とともに最後に宅間を取り押さえたのもこの教師でした。

 二人目は2番目に襲われた隣のクラスの担任で、宅間守が侵入して子どもを刺すのを見ると、児童に適切な指示も与えないまま職員室に走って110番した女性教諭です。
 この教諭はそのまま電話に縛られてしまい(というのは、警察は一度かかってきた電話を容易に離さず、詳細に事情を聴こうとした)、結局、近くで聞いていた別の職員が、現場を確認して校内放送を入れて避難を呼びかけるとともに副校長に連絡しました(救急車の手配は警察から)。

 3人目は最初の男性教諭とともに宅間を取り押さえた副校長。取り押さえた場所は宅間が襲った4番目の教室だったにもかかわらず、そこが唯一の犯行現場だと誤認してまい、ために他の教室で20分近く放置された子どもが出てしまいました。8人の児童の全員が失血死だったことを考えると、いち早い事実確認と対応が求められたにも関わらず、それができませんでした。
 3番目の教室で、血を流し続ける子どもを腕に抱き、「なぜ誰も助けに来ないんだ」と泣きながら怒っていた男性教諭も、事件の全体像を見誤っていました。

 総じてほとんどの職員が目の前のできごとに心を奪われていて、全校に知らせなくてはならない、他のクラスを早く避難させなければいけない、犯人を追わなくてはいけない、何が起こったか把握しなくてはならないといったことに全く思い至らなかったのです。

2010/5/26 池田小事件のこと

(この稿、続く)

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