2021/6/30

「子どもの不思議:捨てたものまでついてくる」〜学級というルツボの扱い方B  教育・学校・教師


 子どもを伸ばそうとするとき、
 全体的に下支えをして丁寧に持ち上げるという方法がある。しかしたいへんだ。
 そうではなく、その子の一部分をつまんで引き上げると、
 予期しない力まで一緒にすうっとついてくることがあるのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

 その子のためにも、学級全体のためにも、子どもを叱らなくてはならないのに、叱ったところでなかなか良くならない――この難問に取り組む前に、ひとりの子どもの中に存在する“困りもの”についてお話しします。苦手教科というやつです。中学校なら9教科もあるのに1教科だけ、どうやっても成績の伸びてこない頑固なアレです。


【心に残る心配な子の困った状況】
 それは中学1年生で私のクラスに入学してきた“付箋つき”の女の子です。
 “付箋つき”というのは何らかの心配があって小学校の担任が別に申し送り状をつけた子のことで、古くはそうだったのでしょうが、私が現場にいたころは付箋などついているわけではなく、別封筒に2〜3枚、マル秘あつかいの書類が入っていただけでした。“札つき”と似ていますが悪い子というのではなく、特に気を使ってやりたい子、気にかけていたい子、といった感じです。

 その子の目に見える心配な行動は「抜毛」でした。一般的にはストレス性の異常行動と考えられるもので、小学校の担任は原因を母親――、特に子どもの学習成績(中でも算数の成績)を気にしすぎる母親のせいだと考えていました。確かに他の教科は平均並なのに、算数だけが中学校で言えば「1」みたいな成績なのです。
 現在は「学習障害(LD)」という概念があるので対応は楽なのですが、当時は努力で何とかなると考える人が多かったのです。

 もちろん算数も心配でしたが抜毛の方は危機的な状態で、会うと見るからに髪が薄く、頭頂部近くに皮膚病を疑いたくなるようなハゲがいくつもできていました。周囲から気持ち悪がられても不思議ありません。そこで私は4月末の家庭訪問で、その点だけは話してこようと決心して出かけたのです。
 そしてこんな話をしました。


【お母さん、1教科まるまる棄てちゃいましょう】
「ねえ、お母さん、確かに算数は気になる。すでに数学も本格的な授業に入り、けれどこの子は半分も分かっていないのかもしれない、きっとしんどいでしょうね。このまま努力を続けてもどこまで成績を伸ばせるか――どうしたって不安になりますよね。でもこんなふうに考えたらどうでしょう。
 高校入試は国語・社会・数学・理科・英語と5教科もあるのです。これ、全教科で好成績を取らないと勝てない勝負だと思います? そうじゃないですよね。
 4勝1敗だったら何の問題もない。3勝2敗でもいい勝負ができるでしょう。2勝2敗1引き分けとか1勝1敗3引き分けだとかでも、学校によってはさほど問題にならない。つまり1教科全滅でも、ほかで頑張ればどうってことないのです。

 勉強ではよく「弱点補強をしましょう」なんて言いますが、それが向いた子もいればまったく不向きな子もいるのです。
 例えば5教科で、90点、90点、60点、90点、90点みたいな子がいたとしましょう。こうした子には弱点補強がいいのです。だって90点も取っている教科、このあとどんなに頑張ったって10点しか上げられないでしょ? 100点満点ですから。でも60点の科目だとあと40点も上げる余地がある。だから頑張りがいはあるし、やっただけのことはある、ということになります。

 ところが同じ苦手教科でも60点、60点、30点、60点、60点のような場合はどうでしょう。できる科目とそうでない科目の差は同じ30点ですよ。でも100点満点で30点しか取れない科目なんて、本当にメチャクチャ分かっていない科目でしょ。さっきとは違って伸びしろが70点分なんて呑気に言っていられない状態です。これで『さあ弱点補強だ、がんばれ!』というのはあまりに酷です。例えば私たちが薬学部の3年生くらいに突然編入させられて、毎日わけの分からない薬品の話を聞かされているのと同じようなものですから。

 そこでどうです? 数学、諦めちゃいません? この子を数学者にしようなんて気持ちはないでしょ? どうしても東大に入れたいってこともありませんよね。だったら高校入試は1教科全滅だってかまわないのですから、気持ちよく学習できる教科で頑張らせましょう。特に英語なんて始まったばかりで、全員がスタート地点です。頑張りがいのあるところだと思いますよ」


【捨てたはずのものがついてくる――柿と豆腐と納豆の話】
 「熟し柿は(自然に)落ちる」という言葉があります。機が熟したらなるものはなるという意味ですが、逆に言えば熟していない柿は落とそうと思ってもなかなか落ちないものです。小学校の担任の先生だって同じようなことを何度も話していたはずですが、母親の気持ちを変えることはできませんでした。しかし中学校入学という節目を迎え、中学校の教員という何か恐ろしげな人から言われると、落ちるときは落ちるのです。機は熟していました。

 母親はそれきり数学のことは一切かまわなかったようです。もちろんもともと勉強の得意な子ではありませんから、数学以外の教科が爆発的に良くなったというわけでもありません。しかし何といっても抜毛はなくなり、3年間、気持ちよく学校生活を送って無事卒業していきました。
 そして驚いたことに、諦めたはずの数学でも、他の教科や他の子たちからはずいぶん劣るものの、そこそこの成績を上げて高校入試を迎えることができたのです。そこが子どもの面白いところです。

 子どもを成長させようとするときは、豆腐を持ち上げるように手のひら全体で、底から持ち上げようとするとなかなか大変です。もちろんそれでもいいのですが力も要りますし、持ち上げる方も持ち上げられる方も危なっかしく、失敗するとグシャグシャです。
 そうではなく、子どもを引き上げるときは同じ大豆製品でも納豆のように、よく練ってから引き上げるという方法があるのです。これだと全体を持ち上げるのではなく、一部を引き上げるだけであとは付いてくるのです。上げそこなって容器に残る豆もありますが、能力や技術に取り残しのあるのは人の常ではないですか。

 勉強が片っ端ダメな子には、とりあえず1教科だけでも楽しく学べるものをつくってやります。それもダメなら部活だけでも生き生きと活躍できるよう配慮します。生き生きと楽しく学校に来てさえいれば、いつか埒が開きます。
 そしてそのことは、多様で雑多な子どもたちの集まる学級というルツボ全体についてもいえることなのです。

(この稿、続く)

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2021/6/29

「“できない子はできなくてもいい”とはならない」〜学級というルツボの扱い方A    教育・学校・教師


 できないことも個性だ、他に評価できることがあればいい――。
 それが論理の当然の帰結だが、そういうわけにはいかない。
 この国の個性とは基礎的な力に上乗せされる高い能力のことだ。
 諸外国とはその点でも、子どもを育てる環境でもまったく違っている。

という話。
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(写真:フォトAC)

【“できない子はできなくてもいい”とはならない】

 発達障害に限らず、他の子と同じような行動がとれない、ひとよりもどうしても一歩遅れる、そういう子はクラスに一定数います。算数でかけ算九九を教えてもあっという間に覚えてしまう子もいれば、習得に何週間もかかる子もいるのです。
 教科で新しい単元に入ったときですらそうなのですから、生まれながらの積み重ねである道徳性とか社会性とかで成長に差があるのは当然なのですが、その凸凹を公平・平等を基礎とする教室内でどう定着させるかは、とても難しい問題です。

 よく「子どもの個性を大切にしろ」とか「児童生徒個々の多様性を重視せよ」とか言ったりしますが、「この子は気立てがいいから算数はできなくてもいいや」とか「この子はやがてオリンピックにも行きそうな逸材だから多少我儘でも身勝手でもいい」とか、あるいは「いつもニコニコと明るいから給食がほとんど食べられなくてもいいや」といった多様性を受け入れる雰囲気は、この国にまったくありません。
 現在この国で言われている「個性」や「多様性」は、「普通の人間が期待されるすべてのことができた上で、その基礎の上に載せられる特別な才能」のことです。
 「できない」ことは個性でも多様性でも何でもありません。


【諸外国の個性教育・多様性を認める教育】
 ちなみに諸先進国はどうなっているかというと、移民で国家が成立したアメリカ合衆国はもちろん、ヨーロッパの国々も近年大量の移民を受け入れていますから、求めなくても最初から多様性に満ち溢れ、個性だらけです。

 例えばフランスはサッカーも強ければオリンピックのメダル数でも日本をはるかに凌いでいますが、よく見ると肌の黒い選手ばかりで、“こんなスーパーマンばかりをため込んで、卑怯じゃないか」と言いたくなるほどです。しかし当然、移住して来たばかりで会話もおぼつかないフランス人もたくさんいます。ですから学校も「同い年なら同学年」というわけにはいきません。
 そこで、
 2009年のOECDの調査では15歳生徒のうち初等教育で17.8%、前期中等教育で23.5%の生徒が留年したことがある(Wikipedia)
ということになります。

 さらにそこに伝統的な制度が絡むと教育の多様化はさらに進み、例えばドイツだと10歳での成績で、エリートコース、普通コース、職人コースといった感じで進路がわかれてしまいます。イギリスでも11歳くらいになると私立学校(イートン校などのパブリック・スクールへの道)へ進む子どもが出てきます。基本的にオックスフォードやケンブリッジに進み、将来はヨーロッパの支配階級に属する子どもたちです。

 かつて学力世界一で名を馳せたフィンランドの留年は、15歳生徒のうち初等教育で2.4%、前期中等教育で0.5%の生徒が留年したことがある(これもWikipedia)と少な目ですが、この国には「就学猶予」という素敵な制度があって、義務教育年齢に達しても十分学校の学習に堪え得ないと考えると、一年間就学を遅らせ、勉強のできる態勢をつくってから小学校にあがることになります。
「親たちは我が子に不安を感じると、進んでこの制度を利用します」
というのはマスコミから得た情報なのでマユツバですが、これを利用した方が幸せな子がたくさんいることは、日本の小学一年生を見ると十分に想像できるところです。

 近いところでは韓国が日本と同じ6−3−3制度を取っていますが、優秀な子は1年早く(5歳で)就学できる制度があるそうです。

 しかし日本では義務教育における飛び級・落第など、口に出すことさえはばかられます。勉強ができてもできなくても、人間的に育っていてもいなくても、6歳になると就学し、9年の義務教育期間を終えると自動的に卒業させられます。

 その違いを簡単にまとめると、諸外国では多様多種な学校のさまざまな学年に子どもを振り分け、それぞれの教室には同一性の高い子どもを集めて教育するのに対して、日本では学力も意欲も目標もバラバラで多様な子を、小学校または中学校という単一の学校の同質な教室に入れて、同じように教育しようとしているのです。
 だから難しいのです。


【答えは、いらなくなったころに出てくる】
 私は小中学校の学級担任をしている間じゅう頑固な平等主義者でしたから、クラスの中に大きく遅れた子どもがいることに特に苦しみました。その子を何とかしてやりたいという気持ち、その子が何とかならないと学級が危ういという気持ち、そして私がどんなに頑張ってもその子が頑張らないとどうにもならないという現実――その狭間で、打つ手に窮して悩んでいたのです。

 難問の答えは、ときどき使えなくなったころに現れたりします。
 答えを見つけたのは、学級担任を離れ管理職となってからのことでした。

(この稿、続く)

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2021/6/28

「叱ってはいけないと思いながら叱らずにはいられない」〜学級というルツボの扱い方@  教育・学校・教師


 新年度が始まって3カ月。
 新任の教師たちもある程度慣れてきて、その異常な働き方が一過性ではなく、
 延々と続く苦難の道かもしれないと思い始めている。
 とりあえず目の前の子どもをきちんとさせられない、授業が始められない、

という話。
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(写真:フォトAC)

【若き教師たちの嘆きと自己嫌悪】
 最近、ツイッター上で新人の先生たちのツイートを読むことが多くなっています。長くこの世界にいる人たちと違って、学校のどこが変で、何に悲鳴を上げたらいいのか、この人たちの言葉を聞いているととても良く分かるのです。
 もちろん、“おい、おい、それは違うよ”と言いたくなる部分も少なくないのですが、すでに引退した年寄りですので、己の分をわきまえてできるだけ出しゃばらないよう、読むだけにしています。
 しかしみんな苦しくしんどそうです。

・ この時期、学級が何かざわざわするのはどこもなんですかね?いや私が無能なだけか。
あー行きたくないなあ。
・ 授業は遅れてます!成績関係もまだ何もしてません!年間指導計画もよく見てませんでした!すみませんでした!
・ 子どもが学校来てからさようならまで余裕がある時間なんて1分たりともないのに、「授業の合間とか使ってクラス全員、一人一人教育相談してね。」とか、できるわけないが??


 何を言っても通り一遍になりそうで一言もありません。そう思いながら呼んでいったら、次のような文に出会いました

 発達障害の子を叱りすぎてしまった
 授業中タブレットで友達を撮影していたので取り上げてしまった
 それに拗ねて掃除をサボったのでさらに叱ってしまった。

 何度言っても理解できない
 周りの事が考えられない
 そういう子なんだって分かってるのに
 なんとかしようと叱りすぎてしまった


 とてもよくわかる話です。
 発達障害があろうとなかろうと、いや、あればこそ、少しでも周囲と調和できるよい子に育って欲しい、ひとから嫌われたりいじめられたりしない程度に、周囲のことを考え、常識を身につけて成長してほしい、そう考えると居ても立ってもいられないのです。このまま社会に出してはあまりにも忍びない。
 そうした気持ちにウソはないのですが、よくよく考えるとそれとは別の、大人の事情というか、教師の事情がないわけでもありません。


【エコヒイキと誤解されてはいけない】
 そのひとつは、その子の不正あるいは我儘と見える言動を放置すると、他の子どもたちから“エコヒイイキ”と見られかねないという問題です。
 学校で児童生徒と教師がほぼ完全に一致できる最大の価値は「公平・平等」です。小学生くらいだと“自分がエコヒイキされるのはかまわないが他の子が大事にするのは許せない”といった感じ、中学生だと自分も例外にしません。
「先生、オレ浮いちゃうから、そういうことやめてくれない?」

 どんな学校でも一番嫌われ蔑まれるのが「エコヒイキをする先生」で、教室内でそう感じる子が多数派になってしまうと、指導は何もできなくなってしまいます。いじめでさえ教師のエコヒイキ問題にすり替えられてしまいます。ですからなかなか言うことをきいてくれない子どもをどう扱うかは、担任にとって大問題なのです。

 先のツイッターの内容の場合、当該の児童は発達障害ですからどうやったって簡単にうまく行きません。保護者から障害を明らかにしていいという許可があれば、ある程度簡単です。
「発達障害なのでみんなと同じことができない」は、「アレルギーがあるから牛乳が飲めない」「喘息があるのでマラソン練習に参加できない」と同じように、子どもの了解を得るのは簡単です。しかし病名や障害名が出せないとなると、状況はとたんに難しくなります。


【それがクラスの基準になる】
 みんなに合わせることのできない子どもを放置できないもうひとつの理由は、その子の言動がクラスの基準になる恐れがあるからです。少なくともそんな気がする。

 授業中に立ち歩いて他の子のノートを覗き歩く子を放置してしまうと、授業中に勝手に鉛筆を削りに行ったりゴミ捨てに行ったりする子を止められなくなります。前者は理由もなくたち歩くのに、後者にはそれなりの理由があるのです。
 用事もないのに立ち歩く子を放置して、用事のある子を叱ることはできません。仕方がないのでその子たちも放置すると、授業中に立ち歩くことはこのクラスに許可された特権となってしまいます。 ならないかもしれませんが、なった場合に元に戻すことはとんでもなく大変で、試してみる気になれません。

 そこで、実際にその子をコントロールできないことは分かっていても、一応、放置する意思のないことを示すためだけに、大声で叱っておく必要が生れます。
「先生も困っているんだよ、あの子には。いくら言ってもだめだからこんなふうになっているだけで、決して許しているわけじゃないんだからね」
と、口にはしませんが態度で示すわけです。

 ただそのことが当該の子を悪者あつかいにし、孤立させ、やがてはいじめの対象にまでしてしまうかもしれないということ――教師はわかっているのですがどうにもうまく行きません。そして自己嫌悪に陥ったりする。
 これをどう取り扱ったらいいのでしょう?

(この稿、続く)

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2021/6/26

「更新しました」〜キース・アウト  教育・学校・教師


教員採用試験:
採用倍率が下がったからといって教員の質を心配にする必要はないが、
日本中のあちこちで「担任のいない学級」が生れることは問題だ。

kieth-out.hatenablog.jp



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