2021/3/29

「更新しました」〜キース・アウト(2021.03.28)  メディア評論


文科省が学校への持ち込みを許可したスマホで、子どもたちが盗撮をすることがあるからしっかり指導しろって、オイ! 「教師の働き方改革」「時間労働の削減」はどうなってるんだ!




にほんブログ村
人気ブログランキング
1

2021/3/25

「更新しました」〜キース・アウト(2021.03.25)  メディア評論


三条市:和食中心の給食に牛乳は変だからと廃止したが、先生たちが大変だとやかましいのでまた始めることにしました。




にほんブログ村
人気ブログランキング
2

2021/3/20

「更新しました」〜キース・アウト(2001.03.20)  メディア評論


体操服の「肌着禁止」は保護者の要望で始まったとは限らないが、体育のある日は肌着も持たせろと言われてウンザリする親も少なくないと思う。





にほんブログ村
人気ブログランキング
2

2021/3/19

「鎮魂:10年目の3月11日に子どもたちに話したかったこと」〜災害と学校G(最終)  教育・学校・教師


 10年目の3・11、予定通りの原稿を上げたが、
 ほんとうは別のことを話すべきだった。
 突然思いついて書き直したが、結局、間に合わなかったこと、
 大切な人を突然失うという非現実的な現実について。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(写真:フォトAC)

【3・11前夜の逡巡】

 10年目の3・11の前夜、このブログで前の日から始めていた「災害と学校」の第二回を書き、予約投稿の手はずを整えてあとはボタンを押すだけになって、ハタと手が止まりました。

 もちろん学校防災は重大ですが、あれから10年たった3月11日に限って言えば、さらに重要な何かがある、そんなふうに思ったのです。そこで慌てて別原稿を書き始めました。
*結局その原稿は間に合わなかったのですが。

 その時、私の頭の中に浮かんでいたのは、かつて教えていた小学校高学年から中学生くらいの子どもたちです。
 私は学級担任という仕事をなくしてから20年近くになりますが、今でも大切なことを話そうとすると真っ先に思い出すのはその子たちの顔です。

「昨日から話し始めた学校防災については、続きを明日からもう一度、勉強し直そう。けれど今日は、この2021年の3月11日について言えば、私には別に話したいことがあると気づいたのです。予定と違いますがどうしても伝えたいことがある。――聞いてくれるかい?」
 そんな語り出しで始めるのです。


【大切な人を突然失うという非現実的な現実】
 10年前の3月11日については、いろんな角度からの勉強ができます。昨日も話した学校防災はもちろんですが、原発事故のことを考えて原子力発電の今後というテーマで話し合ってもいいし、あるいは新しい街づくりという話題でもいい。
 しかし今日、私が取り上げたいのはそうした社会全般のことではなく、私たちの家族と友だちといった観点からの話です。

 私たちは通常、昨日や今日があるように明日もきっとあるはずだと考えて生きています。いや、明日があるかどうかなんて、そもそも考えたりしません。あって当たり前だと思っていますから。
 しかし本当は、未来は不確実で、明日なんてこないかもしれません。今夜、突然巨大隕石が飛び込んできて地球が吹っ飛んでしまうかもしれない、今日別れた友だちが交通事故で亡くなって明日はもう会えないかもしれない、お父さん、お母さん、兄弟姉妹との最後の言葉のやり取りが、実は今夜キミたちの口にする「おやすみ」だったということになってしまうかもしれない、そういう可能性もゼロではないのです。
 10年前の3月11日、東北地方で起こったことは、ほとんどそれに近いものでした。

 朝、「行ってきます」と声をかけて「行ってらっしゃい」と返事があって、それが一生の別れで、どちらか片方あるいは両方が亡くなってしまった。つい1時間ほど前までじゃれてふざけ合っていた友だちが、気づくとこの世からいなくなって二度と会えなくなっている。生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんの腕の中から滑り落ちていく、お年寄りの夫婦が引き離されて別々の海岸に流れ着く。
 10年前の今日、東北地方ではいたるところで、ほとんど同時にそういうことが起こっていました。

 分かりますか? 分からないですよね? だったら胸に手を当ててじっと想像してみましょう。いや苦しくなったら想像するのをやめてもいいですよ。

 今朝、キミたちは家を出るとき誰に「行ってきます」と言いましたか? 家族の中で誰が「行ってらっしゃい」と答えてくれました? もしかしたら別の家族の方が先で、「行ってきます」と言って出て行った、その言葉にキミはきちんと返事をしましたか?
 その挨拶をした相手――お父さん、お母さん、あるいはお兄ちゃんお姉ちゃん、弟、妹、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、そのうちの一人あるいは数人が、今夜はもういないのです。

 学校ついて言えば、喧嘩をしたばかりでそのままになっていた友だちに、明日はもう謝ることもできないのです。本を借りっぱなしになっている友だちも、一緒に遊ぼうと約束した友だちも、もう死んでしまっている――。

 10年前の今日、東北地方を中心に何十万、何百万もの人々が味わったのは、まさにそういう可能性が現実となった姿だったのです。

クリックすると元のサイズで表示します


【一期一会】
 一期一会という言葉を聞いたことがありますか?
 元々は茶道に由来する日本のことわざで、茶会に臨む際は「この機会は、二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いである」ということを心得て、茶会に招いた主人・招かれた客、双方互いに誠意を尽くしましょうという意味です。
 友だちのA君とは明日も会えるかもしれない、けれど明日会うA君は今日のA君とは違う、明日の私も今日の私と違う、だからその瞬間その瞬間を一回限りのものとして、大切にしましょうという意味です。そんなふうに毎日をきちんと過ごしておけば、万が一、翌日A君がこの世からいなくなっても、なんとか自分を支え切ることができるでしょう。

 もちろん毎日毎日、人と会うたびに「この人とは明日は会えないかもしれない」と思いながらつき合うのはたいへんですし、「明日は死んでいるかもしれない」と思われている相手の方も気持ちのいいものではありません。

 ですからせめて家を出るとき、あるいは学校から帰ろうとするとき、本当に忘れ物はないかと振り返るのと同じように、「やり残したことはないか」「喧嘩をした仲間と仲直りはできたか」「嫌な思いをさせたままで別れる相手はいないのか」と、そんなふうに考える習慣を持つのが楽なのかもしれません。やり残したことがあったら、忘れ物を取りに戻るように戻って、謝るべき相手には謝っておき、優しい言葉をかけるべき人にはかけておくと良いでしょう。
 それが今の私たちにできる精一杯のことです。
 そしてその上で誰かを失ってしまったら――。


【私はご先祖になる】
 今回3・11に際して、特にNHKで、
「前を向いて生きていこうと思うのだけど、前向きに生きるということは亡くなった人を置いていくことだ」とか、
「悲しみを乗り越えてと言うけれど、乗り越えてしまったら死んだ人が置き去りになってしまう」
とかいった気持ちを訴える人が多くいました。私には経験がないので分からないのですが、大切な人を突然亡くすというのは10年たってもそういうことなのでしょう。

 ところが一方でこんな話も聞きました。NHKのEテレ「100分 de 名著」の中に出てきた話です。
 柳田国男という民族学者は1945年、東京大空襲のためにものすごくたくさんの人が死んでいく中で、日本人にとって死ぬとはどういうことなのか、人は死んだらどうなるのかということについて一気に書き上げました。「先祖の話」という本です。柳田さんが死について考えたというのではなく、日本人はこんなふうに考えていたようだ、と記したのです。

 それによると人が死んだあとで天国に行くとか極楽に行くとかいったことはほとんどが外国(インドや中国・ヨーロッパ)から来た話で、どうやら日本人は昔から、人は死んでも私たちのそばにいると、そんなふうに考えていたのではないかというのです。
 いつもそばにいて私たちを見守っていてくれる、視線を感じる、心の中で何となく会話している――。

 その存在を私たちは「ご先祖様」と呼んできました。
 私は知らなかったのですが、昔は「自分は死んだらご先祖になる」という言い方まで普通に使われていたそうです。生きているうちに計画して、死んだらご先祖様になって子や孫の傍らで守り、助ける、そういう「生きた死者」になることをいうのです。死んでからでないと、できないことがあるようなのです。

 私はこの話を聞いてとても幸せになりました。そうです。こんなに年老いた私でも、今から果たさなければならない壮大な仕事があるからです。


【キミの傍らに私がいる】
 東日本大震災のような災害や、あるいは事故や、あるいは犯罪などによって突然愛する人を亡くした人たちには、とても言える話ではありません。なぜなら私がそうではないからです。
 しかし私は、私自身に対してこんなふうに言っておきます。

 亡くなった私の父や妻の両親、親しかった妻の姉、そうした人たちは今も私たちの傍らにいて有形無形の支援をしてくれているのです。死者の世界のやり方ですので何が行われたのかは分かりませんが、行われたのは事実です。なぜなら私がそう感じているからです。

 キミたちの大切な家族や友だちはみなさんご健在ですか? それはいいことです。しかしもしいつか遠い将来、その人たちがこの世からいなくなっても、それは悲しまなくてもてもいいことなのかもしれません。その人たちがいつでもそばにいてくれるからです。

 私はキミたちの家族でも祖先でもありません。しかしこの先いつか死んだら、必ずキミたちの傍らに居ようと決心しています。教員時代にあまりにもたくさんの児童生徒を見てきましたから、全員のそばに常駐するというわけにはいきませんが、必要なら心の中で問いかけてください。そうすれば私は必ずキミたちのそばに駆け付け、死者にしかできないやり方で助けてあげます――というよりは助けてあげたいのです。それがこれからの私の生きがい、あるいは死にがいだからです。

 以上、今日は人の死と、死んだ後の世界についてお話ししました。

(この稿、終了)


《お知らせ》
 コロナ禍で休校も多かったため、今年の3学期終了は地域によってずいぶんマチマチです。しかし多くは本日(19日)までに終わるみたいです。そうでなければ新年度に間に合いません。
 子どもたちにとっては1年で最も宿題の少ない楽しい長期休業ですが、先生たちにとっては一番宿題の多い休みでもあります。引っ越しをしなくてはならない場合もあるので大変です。
 私はまったく暇ですが、いつもの通り、学校に合わせて休みを取ることにします。4月は早々5日に入学式の行われる学校もたくさんあります。ですからこのブログも新年度早々に始めることにしましょう。
 また、よろしくお願いします


にほんブログ村
人気ブログランキング
4

2021/3/18

「『万全な計画と準備』という保身術の勧め」〜災害と学校F  教育・学校・教師


 東日本大震災以来、多くの学校で避難計画の見直しが行われた。
 しかしそれは実際に動けるものとなっているだろうか?
 機器は停電でも予定通り動くのだろうか?
 そういうところまできちんとやっておくのが、真の保身術。

という話。
 クリックすると元のサイズで表示します
(写真:フォトAC)

【計画と訓練は完璧でなくてはいけない】
 2011年3月11日、石巻市立大川小学校の校庭に避難していた先生たちが、不安に思いながらも津波が来るとは全く想像していなかったというもっとも有力な証拠は、運良く難を逃れた一人を除いて全員が74人の子どもとともに亡くなってしまったことです。

 子どもの命が危ないと感じたらどんな危険も顧みないのが教員です。危機を感じながらも何もしなかったとは到底考えられません。仮にそうでない教員が混じっていたとしても、自分の身さえ守れなかったのですから津波に対する警戒感はまったくなかったと考えるのが妥当でしょう。
 災害の現場、危機の真っただ中の人間なんてそんなものです。極限的な状況で正しい判断をして正しく行動せよなどと言っても無理なのです。だから事前防災を完璧にしておけ、というのが2018年の判決の趣旨でした。

 私も避難訓練の際には、
「実際の地震や火災の際には、建物が倒れ掛かって来たり火の粉が降りかかってきたりします。その中で訓練通り避難しろと言ったってできっこないのです。怖いから声が出る、あまりの恐ろしさに腰が抜けて歩けない――。実際には訓練の70点分しかできないかもしれません。けれどだれひとりけがをさせたり死なせたりするわけにはいきません。だから避難訓練は完璧でなくてはいけないのです。
 完璧な訓練の70点分なら何とか全員を助けることができるでしょう。しかしだめな訓練の70点だと、どれだけ多くの人が死んだりけがをしたりするか想像がつきません。ですからみなさん、頑張りましょうね」

とそんな話を子どもたちにしました。

 ただしそのくせ基礎となると避難計画の方は、忙しさにかまけて勉強不足・検討不足で、とてもではありませが完璧と言えるようなものではありませんでした(と今は思います)。

 例えば(これは以前も書きましたが)児童生徒の避難が完了して人員点呼が終わると、職員の係活動というのが始まります。消火に向かう消火班だとか、重要な書類等を持ち出す搬出班とかが校舎に向かうわけです。訓練では人員点呼が終わったところで、ほとんど自動的に校長先生が指示を出します。
「全員、無事、避難完了。職員は係活動に移れ」

 これを実際の災害の場合でも行ってよいのでしょうか? 燃え盛る火の中に職員を跳び込ませて、校長先生は責任を取れるのでしょうか? 
 実際にはおそらく管理職が現場近くまで出向いて、そこで検討・判断することになると思うのですが、だったら最初から避難計画に入れて、訓練でも繰り返しやっておくべきでした。


【防災機器の危機】
 下の写真はむかし私が係をやっていた学校の緊急放送機器です。
クリックすると元のサイズで表示します
 火災の際に自動的に消防署へ信号を送る機械だとか、不審者侵入に際して直接警察と繋がって現場の音声を送る機械だとか、その時期その時期の状況によって次々と追加設置されたため何が何だか分からなくなっています。写真には写っていませんが、右の壁には非常ベルや消火栓と連動した「総合防災盤」という大きな装置もあります。

 私は係でしたので業者さんや消防署の方に教わりながら上のような掲示物をつくり、さらに機器の一つひとつの使い方も掲示物にしました。かなりシンプルなものをつくったつもりですが、そんなものが5枚も6枚も掲示されると、見て覚えようという意欲が萎えてしまいます。作った私自身が覚えきれません。
 また、東日本大震災を経て気づいたのですが、これらの機器のうち、停電でも使えるものがいくつあったのか、それさえ知らなかったのです。係の私ですら知らないのですから、他の先生方は何をかいわんやです。


【ホースで放水できない】
 先ほど紹介した職員の消火班。消火訓練といっても実際に消火器を扱ってみることはあっても消火栓からホースを引き出し、放水するところまで試してみることはありません。消防署への連絡装置や非常ベルと連動している場合が多いので事前準備が大変なのと、放水訓練のあとはホースを乾かして再び収納をするのが大変だったから、というのが主な理由かと思います。

 しかし私は優秀な係でしたので(ということにしておきましょう)、実際に放水訓練をやってみたことがあるのです。2年続けてやって3年目からはやめました。なぜかというと2年連続でホースが破裂してしまい、3年目も同じ目にあうことは明らかだったからです。子どもの前でそんなみっともないことはできません。先生はアテにならないと知らせて、いいことはないのです。

 消防法の第17条3の3では、設置後10年を経過した屋内消火栓等の消防用ホースは、3年ごとに耐圧試験が義務付けられています。試験の結果、漏れ等の不具合があれば交換する必要があります(ただし新品に交換した場合はそこから10年間は耐圧試験等が免除される)。
 そこで教頭先生を通して市教委に連絡したら、教委は百も承知で「予算がなくてできません」という返事でした。 ほんとうに優秀な先生方は、こうした事情もご存知の上で実際の放水訓練をしてこなかったのかもしれません。

 もう20年近く前の話で、東日本大震災の教訓を得た現在ではずいぶん違ったものになっていることと思います。しかし仙台高裁の示した事前防災は完璧でなくてはならないという方針からすると、防災装置・機器は完全に使えるものにしておかなくてはなりません


【避難所運営計画】

 東日本大震災を経て、今になって思うことのひとつは、学校の「避難所運営計画」というのも作っておけばよかったというものです。
 私の勤務した学校は災害時の避難場所になっていましたが、避難所運営計画というのは割り当てられた市の職員数名が学校に来て開設するといった簡単なものでした。台風被害や水害の可能性を考えて、一晩だけ過ごすための避難所という前提があるようです。一週間、十日、それ以上の避難ということは念頭にありません。

 しかし東日本大震災とまではいかなくても熊本地震レベルの地震があって市内全域に数十か所もの避難所が開設されたら、とてもではありませんが市の職員だけでは回って行かないでしょう。市役所の仕事は避難所運営だけではないのですから。結局、学校避難所は学校が運営せざるを得なくなるのです。
 どうせやらされるものなら、長引く見通しがついた時から学校職員が行えば便利なのです。外部の人間に任せれば大切な部屋が押さえられてしまったり、妙な場所にトイレが設営されてしまったりして後々めんどうです。避難所の運営には最初からかかわった方が有利だということも、東日本大震災の見えざる教訓です。

 小学校なら5・6年の児童、中学生も学校に来られる子はすべてボランティアとして活用し、自宅で片づけをしている子も含めて総合的な学習の時間としてカウントすれば、授業が再開されたあとの時間のやりくりも楽になります。

 計画なんて例えば「仙台市 避難所運営マニュアル」みたいなものを参考にして人員の割り振りをしておくだけでいいのです。組織を立ち上げて軌道に乗せるといった仕事は、毎年新入生を迎えて学級づくりをしたり児童生徒会を立ち上げて運営したりしている先生たちの、最も得意とするところです。放っておいてもうまくやってくれます。


【保身の勧め】

 「保身」という言葉がいい意味でつかわれることは稀です。公務員はすぐに保身に走るといった言い方もよくされます。
 しかし逃げたり隠れたり、隠したりすることが保身にならないことは、昨日お話しした昔の神戸市須磨区の中学校長の例でも分かる通りです。

 真の保身とは自分の仕事を可能な限り完璧にしておくことです。大川小学校の校長も、市教委から避難マニュアルの見直しを指示されたときにきちんとやっておけば、褒められこそすれ、こうまで貶められることはなかったでしょう。
 私の破裂した消火ホースについても、教委に煙たがられても、教頭・校長を通してしつこく要求すべきでした。要求さえしておけば、いざ火災となって消火ホースが使えなくても市教委の責任です。何しろ学校(校長)は要求し続けていたのですから。こうしたやり口こそ真の保身と言うべきです。

 さらに市教委が根負けしてホースを新調してくれたら、実質的にも校舎と児童生徒が守られるわけですから、それこそ本質的な保身ということになります。
 真の保身・実質的保身――それらのことをもっと図々しく、現職のうちにやっておくべきでした。

(この稿、次回最終)

にほんブログ村
人気ブログランキング
3

2021/3/17

「校長のすべきこと、してはならなかったこと」〜災害と学校E  教育・学校・教師


 事故や事件はないに越したことはないが、
 起こってしまったらそこからも危機管理だ。
 優秀な監督者かどうかはここで決まる。
 ところがそこに凡庸な、あるいは凡庸未満の人がいることがある。

という話。
クリックすると元のサイズで表示します
(大川小学校校舎《2019年9月撮影》)

【神戸児童連続殺傷事件の二人の校長】
 1997年に神戸市須磨区で起こったいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」では、加害者の在籍した中学校と被害者の在籍した小学校のそれぞれの校長が、対照的な姿を見せました。
 被害者の体の一部が放置された中学校の校長は、その日の朝から徹底したマスコミ拒否の姿勢を貫いたのです。

 まず、学校にかかってくる電話の一切に職員が出ることを禁止します。そのためマスメディアばかりか教育委員会・保護者とのやり取りもできなくなります。生徒や職員に緘口令を敷くのは当然としても、校長自らも一切語ることなく、自宅を避けて夫人の実家やホテルに寝泊まりするという有様です。当然メディアは面白くない。

 特に犯人少年が逮捕されたあとは、犯行声明に学校に対する恨みつらみが書かれていたり、警察でも「体罰があった」「学校に来るなと言われた」などと供述したため、学校に対する追及はいっそう厳しくなりました。
 あまりの追及に遅まきながらの記者会見を開くのですが、そこでの対応も木を鼻でくくったような受けごたえで、怒ったマスメコミは、誰が聞いたって明らかな「仮定の問題には答えられません」をわざと「家庭の問題」と聞き違えたことにして、翌日から「学校は体罰を家庭の問題に置き換えた」などと攻勢をかけたのです。

 事件から半年もたって校門が造りなおされると、その前で笑う校長の姿を遠くから望遠で撮影し、「事件の余韻の残る中でも校長、高笑い」。さらには卒業式の夜、校長がストリップを見に行ったところをまんまと撮影して掲載。
 おかげでこの校長は定年退職直前に処分を受け、再就職の口もふいにしてしまいまました。もっとも後に『校長は見た! 酒鬼薔薇事件の「深層」』などといった下品なタイトル(家政婦は見たの剽窃)の本を出版したりしていますから、同情する気にもなれませんが――。

 一方、被害者の在籍していた小学校の女性校長は見事でした。
 犯人逮捕の翌朝、記者が取材に訪れて、
「事件が解決しましたね。今、どんなお気持ちですか」
とマイクを向けると、
「解決? 何が解決したというんですか? J君(被害者)は帰って来ないじゃないですか」
と逆に詰め寄るのです。それが演技だとは思いません。本気でそう感じることのできる教師はいくらでもいます。
 私はそういった性質ではありませんから、
「まだ犯人が近くにいるのではないかと子どもたちも緊張の毎日を続けてきましたから、やはり捕まってほっとします」
などと当たり前のことを答えて、何の印象も残さず終わるはずです。


【校長のすべきこと、してはならないこと】
 事件や事故は起こさないに越したことはありません。しかし起こってしまったら、事後処理はそれ自体が重大な危機管理です。
 2011年3月11日以降の大川小学校について言えば、学校の(校長と九死に一生を得た教務主任しか残っていませんから二人の)、最重要で最終的な目標は、
「遺族にいかに寄り添い、その心を慰めるか」
でなくてはならなかったはずです。

 そのためにはまず、行方不明の子を一刻も早く見つけ出して親元に返さなくてはなりません。自ら探しに行くのは当然として、3月11日以降の市・市教委は多忙を極め、大川小学校にも目を向けられないでいますから、その目を強引にこちらに向けさせ、ひとりでも多くの人員を派遣してもらって捜索に尽くす、そこから始めなくてはならなかったのです。

 ところが校長は、本人の弁によると11日、震災当日の午後5時には大川小学校付近まで戻って来ていた(あの道路事情の悪い中、50kmの道のりをわずか2時間で戻って来た)のに、なんと六日後、17日になるまで一度も被災した学校に行っていないのです。それも前日、苛立った保護者の一人が避難所の連絡用ボードに「校長先生も一度学校にいらしてください」と書いたのを見てからのことで、翌日マスコミ関係者と一緒に訪れると、校舎の写真を撮り、学校の金庫を確認して帰ってしまったと言います。
 重機もなく、また遺体の傷つくのを恐れて、保護者たちは手でがれきや泥をかき分けているというのに、です。
 また、それ以前のことと思いますが、ある遺族は避難所で、「いまから捜索に行かれるのですか?」と校長に訊ねられて「はい」と答えると「行ってらっしゃい」と見送られたと言います。
 教育員会に初めて被害状況を報告に行ったのはその前日で、教委はそこでようやく大川小学校に大きな被害が出ていることを知るのです。


【生き残った者に責任がある】
 ただ一人生き残った教務主任の教諭は、大川小学校の裏山を越えたところにある自動車整備工場の母屋でひと晩泊めてもらったあと、その足で自宅に帰ってしまい、以後、3月25日に校長とともにいきなり教育委員会を訪問して事情聴取を受けるまで、どこにいたのか全く分かっていません。

 その証言も、山に倒木があって登れなかったとか、子どもたちが校庭にいる間に津波が来たとか事実と合わないことも多く、避難の列の最後尾という一番助かりにくいところにいたはずなのに波は被ったものの山に打ち上げられ助かったと言い、しかし一泊した自動車整備工場の社長夫人は、教務主任が濡れもせず泥もかぶらず家に来た(だから和室に上げた)という強い記憶を主張しています。

 教務主任はその後こころを病んで4月6日の第一回保護者説明会に顔を出したきり、医者に守られ、以後10年たった現在でも、誰も話を聞けない状態のままです。
 だから教務主任は(あるいは校長も)、あの数週間あるいは数カ月、茫然自失として正常な判断・行動ができずにいたという解釈も成り立つのかもしれません。それにしてもなすべきことが多々ありました。
(私は二人が震災後初めて落ち合った15日から教委の聴取を受けるまでの10日間に、さまざまに打ち合わせをしたのではないかと疑っています。それが教務主任の証言の不整合の理由だと思うのです)

 校長はまだ捜索の続いている3月30日に、間借りしていた小学校で大川小学校の登校式を行います。その様子はマスコミを通して全国に流され、「友だちは少なくなりましたが、笑顔いっぱいの学校をつくろう」という言葉は、遺族の精神を逆なでします。

 学校の再開は急がなくてはなりませんが、“登校式”などという誰も考えたことのない式を思いつき、しかもマスコミまで招いて行うという無神経は、その後の遺族と学校・市教委の関係に決定的にヒビを入れます。
 本来なら学校事故のあった校長には市教委の主事が二人も三人もついてアドバイスするのですが、当時の石巻ではそれどころではなかったという事情も災いしました。



【計画はなく、地域の支援もなく、運もなく】
 結果的に、大川小学校の悲劇が裁判になったことは良かったと私は思っています。これによって全国の学校の避難計画はより具体的なものになりましたし、亡くなった子たちの死にも意味が与えられたように思うからです。
 しかし一般論として、保護者と学校の問題が裁判に持ち込まれるのは好ましいことではありません。

 「こころ」はその人の生まれと育ちによって決まりますから、すべての人が四半世紀前の神戸市須磨区の女性校長のような美しいこころを持てるわけではありません。しかしそれがあるかのように「振舞う」ことはできるでしょうし、できなくてはなりません。
 保身ということではなく、学校を代表して児童生徒・保護者や家族を癒せるのは、校長を置いて他にないからです。

 震災当時の石巻市立大川小学校には完成された避難計画がなく、地域の助言も割れてしまいました。そしてこれほど凡庸未満の校長の下で被災したという点で、本当に運にない学校だったという気もしているのです。
(この稿、続く)


にほんブログ村
人気ブログランキング
2



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ