2021/1/20

「私の趣味の履歴書:あれもこれも全部ダメ!」〜教養ある家庭に関する考察あれこれA   教育・学校・教師


 自分が趣味だと思って多少の自信をもって取り組んできたこと、
 それもじっくり考えてみるとまるで大したことがない。
 結局、人は出身階層の影響を逃れられないという
 ブルデューの理論から脱することはできないのだろうか、
という話。
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(上野の森美術館「怖い絵展」《2017年》)

【私の趣味の履歴書】
 考えてみたら絵画鑑賞が好きといっても足繁く美術館に足を運ぶようになったのはここ十数年のことです。それ以前は教職と子育てで美術館どころではなかったというのが正直なところです。
 
 18歳から30歳まで12年間も東京にいたのに、美術鑑賞だの博物館だのに足繁く通ったのは都会を離れることが決まって急に惜しくなった最後の一年間だけでした。それ以前は今でいうブラック企業の社員でしたから美術鑑賞どころではなかったのです。
 さらに遡って中高生の頃はどうだったかというと、中学校1年生の時は半年だけの美術部員でしたから興味がなかったわけではありませんが、地元の美術館ですら訪ねたのは1〜2回程度だったと思います。それも何か特別な事情があってのことだったと思います。
 大雑把に言って、29歳のときに国立博物館(だったと思う)で開催された「モネ展」に衝撃を受けて、「やはり絵画は本物を見なくては」と思ったのが、50歳近くになって余裕が出てきて花開いた、という感じです。

 読書は子どもの頃から好きでした。しかし“興味の赴くに任せて”といった読書ばかりでなく、大学生になってからは“読まねばならない”といった義務感、あるいは見栄に押されてしかたなく読み続ける読書というものも増えました。
 昨日は「『資本論』研究会」の話をしましたが、サルトルだのボーボワールだの、吉本隆明や埴谷雄高は全共闘世代の必読書でしたから、「遅れて来た青年」としては読まずにはいられなかったのです。もちろんほとんど理解できませんでしたが。
 就職してからは教育に関わる本しか読まなかった印象があります。たぶんそうだったのでしょう。

 映画も、田舎に戻ってからは上映館に行く機会が極端に少なくなりました。忙しかったこともありますが、若いころは後に肺ガンになるほどのヘビースモーカーでしたから途中退席せずに1本観終わることもできず、歳をとってからは今度は頻尿のために1本観終わらないという情けなさ。結局レンタル・ビデオ鑑賞(現在はアマゾン・プライム)をせざるを得なかったのです。
 入場を払って映画館の大画面で観るのと、家で寝っ転がってときどき停止ボタンを押してはトイレに行ったり食べ物を調達して戻って来る鑑賞が、まったく違うということは私も知っています。


【結局、大したことはなかった】
 こうして振り返ってみると、どれもほんとうに大したことはありません。
 昨日は謙遜も交えて、
「私には“これが趣味だ”と胸を張って言えるようなものはありません」
と書きましたが、今日は改めて考えると胸を張るどころの話ではないのです。
「現在の私の書籍と美術と映画に関する教養はすべて私一人が引き寄せて築いたものであり、(中略)ブルデューがいかに偉大であろうととやかく言われたくありません」
とは、よくも言ったものです。
 ブルデューの言う通り、私も学歴や出身階層の呪縛から逃れられなかったようです。

 しかしだからと言って、趣味や教養に満ちた家庭をつくってくれなかった両親を恨む気持ちはありません。昔の庶民の家なんてみんな似たり寄ったりですし、現在でも家に本らしい本の一冊もなく、土日に文化的な場所へ連れて行くこともない家庭はいくらでもあるでしょう。
 だから公立学校は文化的な行事をふんだんに行わなくてはならないのですが、その程度ではブルデューを打ち破ることはできないのかもしれません。
 自分が趣味だと思い込んでいたものですらこうですから、他の領域となるとさらにいけません。


【さらに分からないこと】
 今年も我が家は正月の定番として、テレビの「芸能人格付けチェック」を楽しみました。
 これは芸能人二人または数人を一組として、ワインや牛肉、楽器や芸術作品の良し悪しを見分けようという番組です。メンバーの誰かが間違えるたびに「一流芸能人」から「二流」「三流」「そっくりさん(の素人)」と格が下がっていき、最後は「映す価値なし」ということで画面から消えてしまいます。番組の中で「ガクト様」と様付で呼ばれる歌手のGACKTは、今年も負けなしの65連勝でした。
 
 視聴者として、ワインや肉など口に入れるものはもちろん無理ですが、芸術作品や音楽(楽器や演奏の良し悪し)は見るもの聞くものですから無意識にも一緒に考えることができます。ところが私はこれがまったくダメなのです。二者択一が基本ですからデタラメにやっても5割は当たるはずなのに、特に音楽では2〜3割の正解しか出せません。要するにまんまと騙されているのです。
 では普段、音楽はまったく聞かないかというとそうではありません。在宅が中心の今となっては日中のほとんどをBGMとしてジャズやポップス、R&Bをかけっぱなしにしています。
 若いころはクラシックもけっこう聞いていて、プロコフィエフとラフマニノフ、サティとモーツァルトが好きです。ほかにドヴォルザークとチャイコフスキー。
(もっとも取り合わせを聞いただけで、「ダメだ、コリャ。コイツなんも分かってない」ということになるのかもしれませんが)

 中学校の教員だったころ、吹奏楽部の大会直前校内演奏会が終わったあとで、同僚の理科の先生に、
「いやあ良かったですねぇ。3カ月前にはどうなることかとすごく心配したのに、なんとか形になりましたねえ」
とか言われたのですが、違いがまったく分かりませんでした。当然「格付けチェック」でもダメです。正確に言えば“違いは分かるがどちらがいいのかは全然分からない”のです。


【何もかも全部ダメ、味はもっと分からない】
 さらにもうひとつ自分を腐しておきます。それは料理です。どうやら私には味が分からないらしい。
 子どものころ母が、
「お前は何をつくっても『美味しい、美味しい』と言って食べてくれるから張り合いだと思っていたけど、どんなに手を抜いても『美味しい』っていうことが分かってからはだんだんやる気がなくなった」
と言われたことがあります。

 好き嫌いはありましたが、食べられるもので不味いと思ったことはまずありません。今では食べられないものはほとんどなくなり、何でもおいしくいただけるのは幸せだとも言えますが、“バカだから幸せ”というのも果たしてどうだろう?と考え込むこともないわけではありません。
 
 私は少しでも文化的なものに近づき、文化的な素養を身に着け、文化的な生活を送る文化的な存在であろうとしました。しかし属性からすると到達できる段階も低く、時間もかかりすぎるのかもしれません。
 人生の終盤に差し掛かった今、それを恨んだり改めてやり直そうと思ったりする気持ちもありません。ブルデューの決定論に従えば、結局、出身階層の呪縛から逃れられないのですから。
 しかしそうなると「子どもには良い環境を」とか「孟母三遷の教え」とか、あるいは子どもが小さなころからお稽古事やスポーツジムや、塾に通わせることにどういう意味があるのか、ということになりかねません。
 明日、もう一度考えることにしましょう。
(この稿、続く)


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